春の始まりを象徴 古代より親しまれてきた花や実
「梅初月」(うめはつづき)ということばがあります。梅の花が咲き始める頃という旧暦12月の月の和名の一つです。旧暦カレンダーをみると、2022年は、新暦の2月1日が旧暦の正月(1月1日)にあたっていました。ちょうど今は「梅初月」のさなかですが、大寒を過ぎたばかりでまだまだ寒い日が続いています。
旧暦12月を「梅初月」と呼ぶ月名には、次の月である「初春月」(はつはるつき)(旧暦1月)をひたすら待ち望む昔の人々の思いが込められているようです。
梅は、好文木、木の花、春告草、花の兄など多くの異称で呼ばれてきました。
寒い日に、うっかり咲いてしまった一輪のうめの花の話があります。
うめの花とてんとうむし 工藤直子
春の、はじめの、はなしです。
山のてっぺんから、満月がかおをだして「はっくしょん」と、くしゃみをしました。
こんやは、とてもさむいのです。
ふもとの村のうめのえだでも、だれかが、「くしょん」と、くしゃみをしています。
だれかな?
うめの花です。
きのう、あんまりあたたかだったので、ほろほろっと、たったひとつ、しろいうめの花がさいたのです。
すると、もうひとつ、
「くしょん」と、くしゃみがきこえました。
みると、うめの花のすぐそばで、てんとうむしがふるえています。
あかいえりまきをしているのですけど、ぷるぷる、ぷるぷる、なきそうです。
・・・・・・・・・ (工藤直子作「おいで、もんしろ蝶」理論社より)
春が来たと勘違いした一輪のうめの花と一匹のてんとうむしは、お互いにあわてんぼうどうし。気が合って、寒い夜、身を寄せ合って温かく過ごします。よく朝はいい天気、一輪と一匹はすっかり友だちになり、また会う約束をして別れます。うめの花のなかには、てんとうむしがおいていった赤いマフラーが、ぽつりとひとつ。・・・・・・
以前小学校の2学年の国語の教科書にとりあげられていた童話です。「ほろほろっと、・・・うめの花がさいたのです。」とか「ぷるぷる、ぷるぷる、なきそうです。」とかの表現が情景にふさわしく、朗読していると優しい気持ちになってきます。
教科書からは消えてしまいましたが、こどもたちと一緒に読んでみたいお話です。
この話に出てくるような気の早い梅の花はいないかと、公園を探してみましたが、この寒さです。さすがにあわてんぼうの花はいませんでした。ふくらみ始めたつぼみは氷に閉じ込められてじっと耐えていました。
つぼみ(花芽) ふくらみ始めて、氷に閉じ込められたつぼみ
ウメはバラ科サクラ属の落葉高木です。原産地は中国で、日本に渡来したのは奈良時代頃といわれていました。ところが、国立歴史民俗博物館のデータベースによると、ウメの種は、縄文時代終わりごろの遺跡から出土しはじめ、弥生時代や古墳時代には全国的に広がっているといいます。(奈良文化研究所ブログ・梅のはなし)
縄文・弥生遺跡に見られる梅がどんな形で日本に渡来してきたのかは不明ですが、梅は奈良時代以前から、食用や薬用として日本にもたらされ、その後、花の美しさからしだいに鑑賞用としてながめるようになっていったと考えられます。
奈良時代の「万葉集」には梅の花を詠んだ歌が119首あり、奈良時代は「花」といえば、梅の花のことを指していました。
「わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の流れくるかも」(万葉集 巻3 451)と詠んだのは、万葉歌人の大伴旅人です。(私の庭に梅の花が散っている。あたかも天から雪が流れ来るかのようだ。)と、散る梅を雪に例えて詠んでいます。この梅は白梅で、万葉集に詠まれている梅はすべて白梅と考えられています。
万葉集に詠まれた梅の歌をみると、梅と雪、鶯、柳、月などの組み合わせで詠まれたものが多いのです。これは当時の中国の漢詩文の影響なのでしょう。
白梅は、飛鳥、奈良時代に中国を訪れた遣隋使や遣唐使たちによって日本にもたらされたものと考えられます。梅の渡来は中国の文学をともない、当時の貴族の暮らしに花をながめ、味わう心を啓発していきました。そこから生まれた文化は今日の私たちの精神に深く受け継がれてきているように思います。
万葉歌に詠まれた白梅 慎ましさと気品を感じさせる花
平安時代に入ると、梅は白梅だけでなく、紅梅の種類も渡来しました。枕草子に「木の花は、濃きも薄きも紅梅」(第34段)とあり、源氏物語にも「紅梅」の巻があって、当時の宮廷や貴族たちの間では、あでやかな紅梅が好まれるようになっていったことがわかります。和歌の題材も花の色だけでなく、匂いや香りも歌に詠まれていきました。
学問の神様といわれる菅原道真は、九州の太宰府へ左遷されることになり、わが屋敷の庭の梅の木になごりをおしみ、「東風(こち)吹かば におひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(春になり東の風が吹いたなら、その香りを私のもとに届けておくれ。梅の花よ。主人がいないからといって、春を忘れないでおくれ)と詠んで都を離れました。すると、梅の片枝が1夜にして道真の行く九州に飛び移り根づいたと「古今著聞集」などに伝えています。
道真と梅との絆を伝える「飛梅伝説」は、道真の生涯と死後の学問の神として信仰される話と結びつき、後世の人々の梅にたいする思いを深めています。
花ひらいた紅梅 優美さ、艶やかさを感じさせる花
梅(ウメ)という呼び名は、漢音の梅「mui」または「mei」から転化したもの、又は、梅を原料とした漢方薬の烏梅(ウメイ)が転訛したものなどといわれます。
奈良時代の『万葉集』の和歌では、「ウメ」と呼ばれ、平安時代以降は「ムメ」とも呼ばれていました。今は「ウメ」といい、「ムメ」は古語とされています。
ウメの学名は「Prunus mume Sieb.et Zucc.」ですが、名づけた人は、Sieb.et Zucc。これはドイツ人のシーボルトと、一緒に日本の植物研究をした植物学者ツッカリーニの略称です。種小名のmumeは古語そのままのムメです。
奈良、平安時代に花を楽しむために広がった梅は、江戸時代頃から渡来種のほかに多くの品種の育成、改良が行われました。現在では300種以上の品種があるといわれています。
梅の花は寒さのなかをゆっくりと咲いていきます。つぼみから、そっとひらいて三分咲き、五分咲き、一輪一輪開いて、そして満開へと、それぞれの過程の美しさを、時間をかけて味わうことができます。
つぼみから開き始めた花の姿。この時期に花もよく匂います。
梅は花だけでなく、古代から梅の実にさまざまな効能のあることが知られていました。青梅を薫製にしたものが烏梅(ウメイ)で、中国で漢方薬に用いられていたものが、日本にも伝わり、今も使用されています。
奈良時代には白梅の実は、すでに柿・桃・梨・杏などと同様に自然の果実を加工した生菓子として食べられていました。鎌倉時代末期の最も古い料理書「世俗立要集」には、「梅干ハ僧家ノ肴」とあって、梅干しはお坊さんの酒のさかなになったという記録もあります。江戸時代には、各藩が非常食として梅干しを作ることを奨励したため、梅林が全国で見られるようになりました。
梅の実は、梅干し、梅漬け、梅酢、梅酒、梅肉エキスなどと、先祖の知恵と工夫で加工され、民間伝承薬として、体にいい食べ物として、長く庶民に親しまれる存在となっています。
梅の実 熟すと黄金色になっていきます。
梅は梅染めという染色にも利用されてきました。梅染めの材料は、梅の花ではなく紅梅の樹皮や根です。これらを煎じた汁で染める技法は、室町時代から行われていて、加賀(石川県の金沢)の加賀友禅の源流にもなっていました。現在も、梅の枝や根を材料に媒染法を用いて、各地でいろいろな色が染められています。
日本には固有の伝統的な色の名前が数多くあります。小豆色、菫色、藍色、朱鷺色、鶯色など、それらの名前には、身近にある草木や生きものの名が使われ、その色の名前を聞くと、不思議とイメージが浮かんできます。「梅」も伝統的な色の名前に使われていました。色の美しさの微妙な違いを見分け、楽しんできた、祖先の繊細な感性を、これらの名前から感じることができるのです。
「梅」のことばが使われている伝統な色の名前
こうしてみると、梅は、もともと日本には自生していない樹木でしたが、中国から渡来したあとは、日本の風土に深く馴染んで、人々の暮らしと文化を彩ってきた花のように思います。
梅一輪 一輪ほどの 暖かさ 服部嵐雪
花びらが一輪また一輪と咲くにつれて、少しずつ暖かさが増していきます。梅のつぼみがほころぶのをながめ、春の訪れを待つ楽しみもいいものです。
自然はゆっくりですが、確かなめぐりを繰り返してきました。その誠実な営みに私たちは心をなごませ、明日に生きる力をもらうのです。(千)
◇昨年1月の「季節のたより」紹介の草花