9月22日(火) 晴れ
〈難民問題について〉
春の間、国内問題では旧DDRのStasi(秘密警察)問題に大きな関心が向けられていたが、夏以降にわかにAsylrecht(難民救済法)の問題がクローズアップされてきた。ルーマニアなど政治的危機にある国からの難民を政府が積極的に受け入れようとし、各地に難民受け入れのための居住地を確保しようとしたことに対し、地域の住民が猛反対したことに端を発する。厄介なことに、この問題はドイツの抱える根本問題——ドイツに居住しようとする外国人や異民族をどう考えるかという問題をどうやら誘発した模様で、これが今日のドイツの抱える諸問題と絡まって、大きな政治的争点になりかねない状況である。
ドイツには多くの外国人居住者がいる。トルコ人だけで約150万人、その他イラン、ギリシア、ユーゴ、東欧、イタリア、アフリカ諸国からの居住者も多い。彼らがドイツ社会の底辺の大きな部分を支えていることは明らかである。そこに4年前の東独からの大量流入、そして今回の東欧難民の問題が加算された観がある。難民受け入れに多くの国民が反対していることは一見以外に見えるが、現在、増大し深刻化している失業問題、住宅問題がバネになっていることは明らかだ。社会がゆったりとした許容力を持っているときは、ドイツでならこういう 問題は起きなかったかもしれない。中世以来、ドイツには「ユダヤ人問題」の歴史と悲劇がある。難民救済法の問題がかつての「ユダヤ人問題」を彷彿させるように思うのは私だけだろうか。
あるDOMの祭壇の横に分厚い自由帳が置かれていて、この難民救済法について意見を述べるように呼びかけていた。ページを繰ってみると、「私たちの平和な暮らしを乱さないでほしい」とか「人間は自分の民族の故郷で暮らしてこそ幸せなのだ」といった言葉が多く見られる。言いたい事は理解できるが、この問題でのドイツ人の屈折した心境がうかがえる。
日本は難民や外国人労働者に対して門戸を閉ざしている。先進資本主義諸国の中で外国人の姿がこんなに少ない国は日本だけである。ベトナム難民の時も門戸は開かれなかった。私には国境越えた人間の出入りには、日本は半鎖国の状態にあるように思われる(最近は留学生の姿が少しばかり見かけられるようになったが)。東欧難民を日本が積極的に受け入れることはありえないのだろうか。
9月23日(水) 晴れ
今日は秋分、ヨーロッパでは今日から冬時間に戻る。夜が急に早くやってきた感じだ。日本との時差は8時間となる。
ネオ・ナチNeo Naziに対する国民の反感は大変強い。 ドイツ国民はこぞって彼らに対して鋭い目を光らせている、と言っても過言ではない。過去に対する苦々しく苦しい思いと、歴史的な責任感が彼らの心に強く訴えているのであろう。街中のいたるところにNAZIS RAUS !(ナチは出てゆけ!)の落書きが見られる。今のドイツでは極右の台頭は容易ではないと私は楽観している。しかし、ネオ・ナチが急速に頭角を現したのも事実である。失業問題が深刻な間はネオ・ナチのような動きは常に頭をもたげるであろう。このような動きに対して、今後ドイツ人がどのように対応してゆくかは、1つの大きな歴史的試金石になるであろう。
9月24日(木) 晴れ
〈国政について〉
他国にいると日本の旧態然とした政治構造がいっそうよく見えてくる。この間、自衛隊の海外派兵問題が最大の争点であったが、国民の政治的関心は一体どのくらい高いのだろうか。国民の間での政治的議論は成熟しているだろうか。自民党の無謀な強硬政策とたえず発生する汚職腐敗の発覚によって、万年、日本の政治は空転を続けていると私には思えてならない。日本には政治は不在で、経済だけが進展しているように思える。
ドイツで見聞する政治的議論と国民生活の基準にたいする自覚を目の当たりにすると、政治とは何かについて深く考えさせられる。戦後半世紀近く経って、日本はまったく無策なままで社会を築いてきたと言わざるを得ないであろう。その結果、経済水準はヨーロッパ各国をも凌ぐものとなったが、国土の乱開発と国民の精神的荒廃は惨憺たる状況になったと言わざるを得ない。今の日本は世界に誇れる国だとはとても思えない。商品と国民総生産だけが世界のトップ水準を行くようでは、遠からず化けの皮がはがれざるをえないと私には思われる。
内政において重要なことは、第1に、地方分権である。中央集権ではいかなる場合にもよい社会は形成されない。各都市、各地方が自らの手で社会と環境を築いていくようでなければ、日本は紋切り型の社会になる。今の日本には東京とその縮小版の都市があるだけで、しかも後世に残せるようなものは何一つ築かれていない。右へならえの社会は必ず粗悪になると私には思える。
第2に優秀な政治家の所在である。国民が納得できるほどの見識と思考力、そして教養を持った政治家が日本にははたしているだろうか。政治家はつねに国民の前に出て、その資質を曝け出すべきである。 政党間の対立はその説得力と啓発力によって争われるべきである。この点で今の政治家諸君は何かを履き違えているだけでなく、基本的な資質が問われるであろう。政治家が粗悪なのは結局国民の責任である。われわれが自らの社会環境と生活のあり方について、それがいかにあるべきかという反省と判断力を持たない限りよい政治家は生まれない。
したがって第3に、国民が自らの生活を見つめるまなざしを向上させることが必要である。それはわれわれの自己反省と自己探求の問題だと言ってよい。しかもそれはたんなる政治意識の向上だけではなく、むしろ文化的意識と国際的感覚の向上の問題である。国家は他の国に追従するようであっては向上しない。個人もまた誰にも劣らない自らの生活を築かなければ、真に自立することはできない。そしてこの自立は内心の不羈と文化的豊かさによってのみ可能となるのである。私は政治は文化に従属すべきだと考えている。
9月25日(金) 晴れ
〈ベルリン旅行1〉
ベルリンBerlinに行く。本屋禎子さんから、ベルリン自由大学Freie Universität Berlinがすばらしいので見に来ないかと誘われたのを機会に、予定を少し早めてのベルリン旅行である。アウトバーン2号線をひた走りに走って昼過ぎにベルリンに着く(約550km)。インターの出口を間違えて都心シャルロッテンブルクに入ってしまった。自由大学は西ベルリンの南部、都心から約10kmの所にある。都心を抜けて大学に向かう道を探すのが一苦労だった。何度も道を聞いて、それでも迷いに迷ったあげくようやく大学のあるダーレムDahlemへ。大学に入ってからがまた一苦労である。大学とはいっても、広大な地域に大学の建物と一般の建物とが入り混じって1つの中規模の都市を形成しており、何本もの通りが複雑に交叉している。緑が深く、なおのこと目標の教育学部図書館がわからない。道を聞いても知らない人が多く、間違った場所を教えられたりもした。予定よりも大幅に遅れたころ、地下鉄入口の横断歩道でたまたま巡り合い、学内を案内してもらう。 距離があるから車で回る。本部棟、メンザ、附属図書館、理学部、哲学科など。本部棟以外にそれほど大きな建物はないが、あちこちに点在しており、とても歩いて回れる距離ではない。いったい日本の大学の何十倍の広さがあるのだろう。街路の多くは美しい並木路で、もう葉は色づき、落葉が道路を飾り、足元で乾いた音を立てて風に流されている。哲学科の建物はモダンアートの小美術館といった感じの、奇妙な形をした独立棟であった。
9月26日(土) 晴れ
〈ベルリン旅行2〉
大学構内にダーレム美術館Dahlem Gallerie(国立博物館の一部で、中世から18世紀までの絵画部門を受け持つ)がある。ドイツにおける最も重要な美術館の1つであり、世界の美術館の中でも屈指のものである。落ち着いた宮殿を思わせるような壮大な建物の中に、水準の高い作品が豊富に展示されている。主要な画家の作品が1室ごとにまとめられているので鑑賞に便利である。レンブラント、デューラー、ホルバイン、クラナッハのコレクションが充実している。その他にも、ジオット、ファン・エイク、リッピ、ボッティジェリ、ラファエロ、ティチアーノ、ウェイデン、ブリューゲル、ベラスケス、プーサン、ルーベンス、ファン・ダイク、ハルス、ルイスダールなど、美術画集を繰るように名作があっけないほど簡単に次々と目の前に現れた。 採光、絵の見やすさ、落ち着いた雰囲気、休憩ソファーなど美術館としての配慮も理想的である。
午後、再び彼女と待ち合わせてベルリン市内を見物に行く。ツォー駅Hbf. Zooを中心とする繁華街は大変な車と人の混雑だ。一刻も早く抜け出したいが渋滞がひどい。
シャルロッテンブルク宮殿Palast Scharlottenburgは駅の西北、都心部の端にある。両側に長いウィングを持つオーソドックスな宮殿だ。延々と続くすっきりとした長い屋根が美しい。宮殿の北側は庭園になっており、ゆっくり歩くと1時間はかかる。すばらしい構図の庭園だが、歩道にブロックが敷かれていたり、奥の方の手入れが行き届かず雑草が伸びているのが残念だ。
私にとって西ベルリンはそれほど魅力ある都市ではない。近代的な大通りは日本の大都会を思い出させる。繁華街を通り抜け、ティアガルテンの静かな大通り(「6月17日通り」という名前である)に入るとほっとする。まっすぐの大通りの突き当たりに現れたブランデンブルク門がみるみる大きくなり、ほどなく着いた。ブランデンブルク門Brandenburger Tor! ここでの1990年10月3日の映像は世界中の人々の心に焼きついて残っている。今日の世界において、これほど象徴的な建造物はないであろう。今は閑散としている広場の大地からは群衆のどよめきが伝わってくるかのようだ。門そのものは思ったほど大きくもなく個性的でもない。この門は芸術の対象というより、むしろ「歴史の門」だ。ソビエト型社会主義の実験が崩壊したことを示す「記念碑」として長く歴史に記しとどめられることであろう。門の両側の「壁」跡にはすでに新しい道路が造られようとしている。40年の分断を経てベルリンは再び1つのベルリンに戻っただけだということをこの門は語っているのかもしれない。
門から東側のウンター・デン・リンデン通りUnter den Linden Str.に入るとベルリンの風景は一変する。旧ベルリン、そして3年前まではDDRの政府区域として権力の中枢であった所である。ドイツの中心点であった地である(近い将来、政府機構が順次ここに移されてくると聞いている)。ウンター・デン・リンデンの両側には歴史的な建造物がずらりと並び、ドイツの他のどの都市をも寄せつけない風格と威信、そして「中央的なもの」を感じさせる。大通りの南側にアカデミー広場Platz der Akademieがある。広場の両側にはフランス・ドーム、劇場、ドイツ・ドームの3つの建物、反対側にはオペラハウスと博物館があり、見事な建築群を形造っている。しかしどの建物も閉じられ、あるいは深い眠りの底にある。南側に垣間見えるホテルの建物の華やかさが、今は空虚になった「栄光の場」に捧げられた花のように見える。広場で写真を撮ろうとしていると、散歩中の老人が近寄ってきて、「君はこの広場を知っているか。ヨーロッパで一番美しい広場だ。しかし今は何もかも壊れてしまった」と少々興奮した面持ちで話しかけてきたのが印象的だった。
フンボルト大学と旧図書館は通りの北側にある。この大学は1810年の創設で比較的新しいが、フィヒテが初代学長となり、ヘーゲルが1831年に倒れるまで学長を勤めた大学である。文字通りドイツの中枢大学として、プロイセン国家の手厚い庇護の下にアカデミー世界に君臨してきた大学である。H型の大きな建物だが、土曜日なので、マルクスが学び、アインシュタインが教鞭をとった、内部の教室には立ち入ることができなかった。
運河の橋を渡るとマルクス・エンゲルス広場に出る。広大なアスファルトの広場はDDR時代には政治的行事が繰り広げられた所である。広場の東側は共和国宮殿Palast der Republik、DDRの議会が置かれていた建物である。その名とは似つかぬ総ガラス張りの長大な近代建築であるが、今は大量のアスベストが使われていたために立ち入り禁止となっている。南側はDDR政府、西側は旧外務省とDDRの中枢機構が取り巻いている。ここもまた今は廃墟Ruineの空虚さが漂う広場である。
広場を南に抜けるとニコライ聖堂Nikolei Kir.のある旧市街地に出る。ニコライ聖堂は15世紀に建てられたベルリンで最古の美しい教会であり、 柔らかいレンガの感触が味わえるファサード、鋭い2つの尖塔、深い傾斜の大屋根が美しい。周りには古い町並みが残っていて、カフェやレストランがわれわれの足を引き止めようとする。旧市庁舎Rotes Rathausの人目を引く赤い石造の建物、ネプチューンの噴水、マリーエン教会、そして東ベルリンの名物であったテレビ塔を見ながら、「博物館の島」へと足を向ける。ここには旧博物館Alter Museum、新博物館Neuer M.、ナショナル・ギャラリーなどが集まっている。中でも圧巻なのがペルガモン博物館Pelgamon M.である。ペルガモンは小アジアにあるローマ期の植民都市であるが、その遺跡がそっくり原型のままで再現されていることで知られている。怪物のように巨大な建物に入ると、正面のホールにペルガモン神殿がそびえており、われわれを見下している。ギリシャ風神殿の華麗さがよく伝わってくる。しかし私には隣のホールに置かれていたバビロンのイシュタール門Ischtar-Tor Babylonの方が印象的であった。各展示室を急ぎ足で見て回ると足がくたくたになるほどだ。カフェで休み、ポツダムに向かった時はもう暗くなりかけていた。
9月27日(日) 晴れ
〈ベルリン旅行3〉
ポツダムはベルリンの西南約30kmのところにある。ベルリンの衛星都市であり、奥の院のような町である。東と南は湖がとりまき、反対側は森と丘陵が迫っていて、静かなリゾート地を思い出させるような環境だ。旧市街地は広い歩行者道路が1kmあまり続き、両側には白、ピンク、クリーム色を基調にした美しい家々が延々並んでいる。通りの突き当たりにはニコライ聖堂の丸い塔が人目を引き、オランダ街区の華やかな建物が並んでいる。いくつもの城門が旧市街地を取り囲んでいる。都市観光の題材が揃っていて、理想的な保養都市であるが、少し閑散とした雰囲気が漂い、建物や道路の破損、工事ラッシュは今の東部ドイツでは仕方のないことだ。
サンスーシ宮殿Schloß Sanssouciはドイツ第一の宮殿であり、ヴェルサイユ宮殿に対抗して造られた華麗きわまりない別天地(Sanssouciは憂いなしの意味)である。入り口のオベリスクから新宮殿までまっすぐに続く道は約2.5kmあり、市街地全体と同じ位の広さの庭園が見渡すかぎり続く。入り口近くの池のほとりには回廊を持つ霊廟があり、水面に影を落として絵のような効果を醸し出している。北側の庭園の坂を登りきると、絵画殿Bilder Gallerieがある。フリードリヒ2世が1755年に建てたドイツ最古の「美術館」であり、国王所有の絵画(ルーベンス、ファン・ダイク、ティントレットなど)の鑑賞場である。美しい庭園と大理石のテラスに囲まれた優雅な宮廷建築であり、内部は1つの長い画廊Gallerieになっている。床の大理石装飾と天井装飾がとくに美しく、私としては絵画よりこちらのほうに気が惹かれる。
旧宮殿はサンスーシのシンボルであり、その個性的な姿は写真などで広く親しまれている。宮殿の前には耳目を驚かせる「ぶどう栽培庭園Weinwerk」がある。中央には真珠貝を型どったと思われる階段が6つ連なり、その両側には広いテラスが6段の翼を広げている。6段のテラス壁にはぶどうとイチジクが交互に植えられている。そしてぶどうを寒さから守るために両開きの温室用ガラス窓が壁に取り付けられている。この840枚のグリーンのガラス窓が宮殿装飾のための主な道具立てなのである。フリードリヒ2世が、北ドイツの気候を考えて直接に発案して、造らせたという。10数メートルに吹き上げる噴水ごしに見るぶどう庭園、そして丘の上に見える宮殿の光景はほとんど信じがたいほどである。ぶどう畑のようにも見え、城壁のようにも見え、現代建築のようにも見える。 美しくもあり、奇抜でもあり、エレガントであり、一歩間違えればグロテスクでもあるこのぶどう畑を両側に見ながら、真珠貝の石段を登ってゆく感興はなんとも名状しがたく、いかにもフリードリヒ2世の庭園という感じがする。宮殿もまたそのエレガントさで知られる。ロココ様式のファサード、とくに柱の人物彫刻は私の目にはエレガントというより華美過剰、憂いなしというより喜びの興奮と見え、少々の美的圧迫を感じなくもない。正面中央にゆるやかに張り出した円形ホールとドーム屋根が美しい。その中央にはSANS SOUCIの黄金の文字が輝いている。建物の反対側も装飾に満ちており、円形の回廊Kolonadeに囲まれたテラスからは、向こうの丘の上に鑑賞用に造られた廃屋Ruineが見渡せるようになっている。
旧宮殿から新宮殿までは歩いて30分かかる。途中には新宝物殿、新オランゲリー、ベルヴェデーレなどの建物や植物園などがあるが、時間がないため省略。新宮殿は小規模の旧宮殿とは対照的な壮大華麗な大宮殿である。旧宮殿より20年後の1765年にフリードリヒ2世が建てた宮殿である。225mの長さの建物には483の彫像が取り付けられてあり、200の部屋があるという。ドイツ語のriesig(巨大な)、pracht(華美な)という語感がそのまま具現されている建物だ。前方には広い円形の幾何学模様の庭園、背後には石だたみの広場と2つの付属宮殿がある。建物は内部が修復工事中のために入れない。内部見学の代わりに館内のカフェでコーヒーとケーキを楽しんだ。
ツェツィーリエン宮殿Cecilienhofはポツダムの街を挟んで反対側の湖畔にある。今世紀の初めに建てられた宮殿で、周りは深い森に囲まれ、湖の方向には芝生が広がっている。信じがたいほどの美しい建造物である。自然石と木組みで造られた建物は周りの森に溶け込むように黒褐色に統一されている。2つの中庭、1つの塔、複雑な屋根組みを持ち、屋根には陶器でできた工芸煙突が何本も立っており、目を楽しませてくれる。庭園も意匠に満ちている。植え込みはさまざまな鳥の形に刈り込まれ、壁を這う蔦が何百年も経た古城の雰囲気を醸し出している。建物や庭園はスコットランドの貴族の館の様式がとり入れられているという。
ポツダム会議が開かれたのはこの宮殿である。大戦終結の会議が森の中のこの宮殿で行われたことはなかなか興味深い。トルーマン、スターリン、チャーチルの3人が並んだ例の写真は、ここの中庭や会議室で撮られたものである。会談と調印が行われた間、3国の執務室はそのままの形で保存され、公開されている。執務室に当てられた各部屋は木の素朴さと味わいを活かして調度されており、魅きつけられるような奥ゆかしさを感じさせる。窓からは湖が見渡せ、およそ会談のために望みうる最高のロケーションという感じである。他の部屋と2階の全体はホテルとレストランになっている。
9月28日(月) 晴れ
〈ベルリン旅行4〉
ブランデンブルクBrandenburgはベルリンの西方60kmほどの地にある小都市である。この町には14世紀のDOMがあるが、あいにく大修復工事中で、建物はそっくりやぐらとシートで覆われている。市街地の家々も破損が激しい。いつの日かDOMも街並みも美しく生まれ変わることであろうが、東ドイツの町々は今はまだ苦難の時代を通過中である。
マグデブルクMagdburgはエルベ川に開けた大きな都市である。広い平原に市街地が茫々と拡がり、とらえどころのない感じだ。大通りが街を十字に走り、北側は繁華街、南側は旧市街地に分かれている。13世紀から16世紀にかけて建てられたDOMはドイツ・ゴシック様式をよく残すカテドラルとして重要なものである。広い広場と都会的な建物に囲まれたこの中世の建物は思ったよりずんぐりとした形であり、重々しそうに沈んでいた。これも北ドイツのメランコリーかもしれない。
ツェレCelleはニーダー・ザクセン州の小都市である。南のローテンブルクなどの中世都市に匹敵する古い町並が保存されていることでよく知られている。旧市街のほとんどは木組みFachwerkの家であり、それらは北ドイツの昔の姿をよくとどめていると言われる。多くの家々は16、17世紀に建てられたものである。街全体が誇らしく気高く見えるほどの美しさであり、300年以上前の姿そのままである。中世の世界に飛び込んだ錯覚を覚えるほどだ。このような美しい街が保存されていることがドイツの最高の財産の1つだということがうなずける。ツェレからはまっすぐにケルンへ。1300kmの旅行であった。
9月29日(火) 晴れ
〈都市の自己主張について〉
都市とは何か。大勢の市民たちの生活の場であると答えるのが正しいのか。否。生活の場であるのみならず、生活そのものを産み出す有機体でもあることをこの答えは忘れている。都市はたんなる面積でもなければ、建造物や施設でもない。住民の総数でもない。都市はむしろ生活の全集合、あるいは集合的生活の1つの全体である。あえて言えば、都市は生物に似ている。1つの成長し変化する生命体として譬えることができる。それぞれの都市はそれぞれの歴史を持つ。都市とは長い時間をかけて形成されてきたその現在の姿である。生命を持ち、歴史を持つものは同時に個性をも持つ。1つの都市は他のあらゆる都市にない個性的な姿を有しているはずであるし、独特でなければならない。
ところが現代の都市は没個性化の方向を歩んでいる。生活様式が一様化し、建造物や都市景観はひたすら画一化の方向を歩んでいる。日本ではこの画一化、没個性化は甚だしく進んでいる。多くの、あるいはすべての都市がリトル東京の方向を目ざし、全国どこに行っても同じような建物、生活様式しか見出すことができない。そして東京は確かに個性的ではあるが、「個性的」な怪物であって、過去のすべてを破壊しながら自己膨張していく魔性の生命体である。
私はドイツに来て、ドイツ人たちがそれぞれのところで頑固に自分たちの生活の好みを貫き、他の都市と張り合って独自性を発揮しようとしているのを見て安心している。見本となるべき中心がなく、都市間に個性の競い合いがあることは敬服に値する。もちろん、ドイツにも全国チェーンの大資本がどこの都市にも顔を出していて、街を著しく非個性的にしている。とくに大都市や近代的なショッピング街では個性の看板は掲げられないであろう。ドイツでは小さな町ほど面白い。というのは小さな町、古い町がそれぞれに個性を主張しているからである。小さなものに個性があり、大きなものにはなく、古いものに個性があり、新しいものに個性がないということは、ドイツに限らず現代社会のもっとも悩ましい問題の1つなのである。
都市とは作り上げるものである。築き上げられ変化していく都市の姿には、市民の生活の形が映し出されているはずである。そして私たちは本来文化的であること、美的であることを切望しているはずである。文化に対する愛好心と欲望は信じがたいほど強いのである。「文化的で幸福な生活」は人間的であることの原点である。そしてその文化を享受する場は何よりも都市においでである。都市においてもっとも重要なことは、都市は美しくなければならず、文化的でなければならないという点である。残念ながら、日本の多くの都市はこの点で失格である。見て楽しみを感じ、滞在して文化的な高揚感を覚えるような都市はきわめて少ない。戦後無秩序に作り上げられてしまった都市は、もはやすべてがコストの壁の前に置かれて、個性の創造は望むべくもない。それでも都市計画が多くの都市にあるが、文化的であることを第一に考え、個性を主張し、数百年後の鑑賞に耐えることまで考えられているとはとても思えない。都心部は歩行者専用ゾーンにすべきだと思うし、街は緑地と水辺で包囲すべきだと思う。そして鑑賞して楽しめるような建造物がふえていけば、都市での生活ははるかに美的になるだろう。
日本の都市に旧市街地や古い町並みが残っていれば、その都市は文化の芳香を誇ることができ、歴史的で個性的な都市となることができるであろう。ところが日本の都市は絶えず古いものを一掃し、新品の規格品で模様替えされている。日本では美的で文化的な都市創造は夢物語だと言わざるをえないのだろうか。さらによくないことは、都市建設は官公庁と大企業のやる仕事だと考えられ、市民と民間の関心が低いということである。私たちは、自らが生きる大地と環境とが不二のものであることが人間の生活にとってどれほど大切なものかを見直さなければならないだろう。
9月30日(水) 曇り
難民救済法Asylrechtの問題では不正確な記述をしたので訂正しておく。端は今年になって東欧からの不法入国者が急増し、40万人をすでに越えたことにある。ルーマニア、ハンガリー、ポーランドなどからが多いらしい。彼らは旅券を持たないで、ドイツをめがけてやってくる。彼らは難民として認められると、ドイツ憲法によって庇護され、6年間の給付を受けることができる。すべての原因はベルリンの壁崩壊である。東欧諸国はいまだ政治的不安定にありながら、出国の制限が解かれたのでこのような流民(難民)が激増したとのことである。 (太田直道)