mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風29(葦のそよぎ・泳ぐ快楽)

 少し間が空いてしまった。7月23日の朝日新聞「耕論」は、「水泳授業は不要不急か」と題し、「泳ぎを学ぶ機会は義務教育に必須なのか、泳がなくてもいいのか」と問いかけ、3人の識者がこれに応えた。そのなかの一人は、長く宮城の中学校で体育を教え、現在は和光大学で教える制野俊弘さんだ。今も様々な機会で私たちの取り組みに参加し力を貸してくれている。
 3人の文章を読みながら、清さんにも泳ぎについて書かれた興味深い文章があることを思い出した。このテーマを考える一つの新たな見方を付け加えてくれると思ったので、以下にその文章を掲載する。(キヨ)
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 軽く息を吸い込むや、膝をおって身を投げるようにして深々と体を水中に沈める。あたかも足をさらわれ溺れかかるような身振りで、水にむしろ体をからめとらせるような具合に。が、その一刹那両足は力をこめてプールの壁を蹴る。たちまち体は証明する。それがたんに身振りだったということを。全身に水の圧力を感じながら、しかし体はみずからのリズムを確実に刻みだす。そのリズムのうちでむしろ体は水を自分の下に抱きかかえる。

 泳ぎを覚えたので、泳ぐ自信をつけ始めた子供は、くりかえし水に潜ることを好むものだ。そこには一種の演技的な情熱がある。溺れる身振りをじぶんに与え、ついでそこから脱出してみせるという。そこには何度でも確認し、味わいたくなる快楽がひそんでいる。

 隣町のスイミングプールに通い出してから一年になる。この持続性はぼくとしては実に画期的なことである。なにしろ、ぼくはまず生まれてこのかたスポーツ音痴であり続けてきたし、またおよそ「習い事」の類にかけては常に三日坊主であったからだ。にもかかわらず、この持続性がぼくに可能になっているとすれば、そこにぼくがある快楽を見出しているからに違いないのだ。

 この「快楽」という言葉、これなぞもこれまでぼくにとっては「『わが辞書』にあり」とは言いかねた言葉であった。ぼくは自分を決して禁欲主義者とは思ったことはないが、「快楽」という言葉を自由自在に扱えるほどに解放された人間であったわけでは、もちろんなかった。そして今も、ない。が、この言葉をできれば〈濫用〉してみたいという欲求を感じだしているという点が、ぼくの生き方において、少し今までと違ってきている点だ。世界とぼくが(あるいは人間が)取り結ぶ関係を、その関係に宿されている「快楽」という観点から根掘り葉掘りできたらと、そんなふうに考えるようになってきた。

 泳ぐことに固有に宿っている快楽とはなにか、こうぼくは問題を立ててみる。ほかのスポーツなり、遊技と画然と違っているのは、あたりまえのことだが、泳ぎは水中という人間にとっては全くの別の世界のなかでおこなわれる遊戯だ、という点だ。そして、「全く別な世界」というのは、端的にいって、水中は本来的には人間がそこで生きることができない世界だということである。

 あらゆる遊戯が、あるいはあらゆる快楽がそうであるように、泳ぐ快楽は身体の享受と結びついている。いいかえればフォルムの獲得と。泳法の修得において、くりかえしぼくたちは熟達者によってぼくたちの身体のフォルムの歪みなりぎこちなさを指摘され、地上の日常においては忘れていた身体の別な運動の可能性に目覚めさせられ、状況と相呼応しうる身体の屈伸性の回復へと導かれる。またそのなかで、呼吸と身体の運動がいかに有機的なリズムを形作っているかについて再認識させられる。確かにこの点で、身体は一つの与えられた目的(例えば泳ぐという)のために手段として組織される。が、実はそこには目的―手段関係の一種の逆転が潜んでいる。与えられた目的は目的ではなく、かえって身体の自己享受を導き出すための一つの仕掛け・手段となるという逆転がそこにはある。身体の遊戯性が成立するのはこの逆転のうちにである。

 とはいえ、泳ぐ快楽はそうした遊戯一般に共通する快楽に決して括られてしまわない、ある独自な質をもつ。なぜなら、泳ぐことはさっきいった意味で人間にとっては異世界での行為となるからだ。

 この点でぼくはこう感じる。根本的にいって、泳ぐことを通してひとが戯れるその相手とは、「死」ではないかと。なぜなら、水中の「異世界」性は「死」に直結しているところにこそ成立しているからだ。泳ぐ快楽は、泳ぎを覚え始めた頃に自分を襲った死の恐怖の遠い記憶とどこかでつながっている。「泳ぎ切る」という感覚は、目標をやりとげるという点では「走り切る」とか「登り切る」という感覚と同じようでいて、実は異なり、常にそこに「泳ぎ切る」ことがなければ確実に「死」がそこに待ち構えているという感情を影のようにともなっているものではないか。薄明の、物みな形あるものはゆらめき、たちまち不透明な水の奥行きのなかにその形を没してゆく、その水中という世界をゆく快楽には、「死」のなかに紛れ込もうとする快楽や、あるいはそうして誘惑と戯れながら自分の身体の力を、つまり生を、自己享受するといった快楽が潜んではいないか。

 こう考えてくると、ぼくには、プールは、この泳ぐという快楽のなかに潜む「死」との戯れという要素をその遊戯性においていわば純粋化するというはたらきを秘めている、と思えてくる。というのも、プールという存在は、そこでひとは溺れ死ぬことの危険を絶対的に免れているという了解を基礎にして成り立っているからだ。だから、ひとはプールで安んじて泳ぐことができるのだが、その限り「死」との間に成立する遊戯性は希薄化しているように見えて、まさにそうした了解があるからこそ、遊戯性は遊戯性として純粋化されているようにも思えるのだ。

 死の恐怖があり、また死への誘惑があり、そしてまたその恐怖からの解放や克服の経験があり、常にそうした誘惑にさらされながら生を続行する不安定感がある。そうした人間の根本的な経験の一種の象徴的な具体的行為として「泳ぐ」ことがある。

 こういう問題の観点から都市のスイミングプールの存在を、そこにひそめられている快楽の構造を考察することはできぬものであろうか。川と海が、泳ぐことの快楽を享受しうる場としては壊滅するに応じて、「都市」にはスイミングプールが隆盛となった。この享受場の転移は、泳ぐ快楽の構造に更なる変化をもたらさなかったのかどうか。ぼくの「泳ぐ快楽」についての探究はようやくそのとば口にさしかかったところであるようだ。(清眞人)

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季節のたより57 クズ

 旺盛な生命力 秋の七草 根は葛粉や漢方薬

 夏の盛りになると野や山に勢いよく生い茂るクズの葉が目につきます。
 クズは「葛」と書きます。これは中国での漢字をあてたもの。クズの名は、日本がまだ大和国と呼ばれた時代に、奈良県の国栖(くず)地方の人が葛粉(くずこ)を全国に売り歩いていたのが由来といわれています。クズは古くから日本に自生していて、私たちが今見ている光景は、昔も変わりなく見られたのでしょう。
 万葉の歌人山上憶良は、その生い茂る葉のかげに咲く花をとりあげて、秋の七草の一つに数えて詠んでいます。

 秋の野に咲きたる花を指(および)折り かき数ふれば七種(ななくさ)の花
 萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝顔の花
                      (万葉集 1537・1538 巻八)

 クズの花は赤紫色の色合いが美しく、ワインに似た香りもするので、古人にも心惹かれる花だったようです。

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  赤紫色の花びらに中央が黄色のクズの花。甘い香りはワインのようです。

 クズは、マメ科クズ属の多年生のつる植物です。他の植物と比べて、その旺盛な生命力には驚かされます。
 クズは春の終わりころに遅れて生長を始めますが、他の植物が生長してまきつく相手ができるのを待っているようです。先端のつるを伸ばし、首をまわすように風にゆらして相手を探し、つるの先が他のものにふれると急いでまきつきます。それからは、一気につるを伸ばし、急速に葉を広げて、覆いかぶさるようにして、光を独り占めしていきます。
 晴れた日に、つるの先の2か所を選びリボンを結んで調べてみると、1日に20cmから30cmも伸びています。大きな株の四方八方に伸びたつるをつなぎ合わせると1kmにもなるということ。その生長ぶりは他の植物をはるかに圧倒して速いのです。

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   まきつく相手を探すクズ    いつの間にか、光を独り占めしてしまいます。

 クズはどうしてそんなに早く生長できるのでしょうか。
 クズはつる植物なので、自分の体を支える太くて丈夫な幹は必要ありません。そのエネルギーをぜんぶつるを伸ばすために使えます。
 地下には前年にたっぷり栄養を蓄えた太い根があるので、その栄養を使って生長します。それに、クズはマメ科特有の根粒菌と共生しているので、固定した窒素を使って栄養不足の土地でも生長できます。
 さらに、クズはつるを伸ばしながら、どんどん広い葉を広げて盛んに光合成し、生長しながら栄養を作り出しています。そのクズの葉は夏の盛りは効率が悪いので、葉を上に立てて閉じて昼寝をし、夜は水分の逃げ出すのを防ぐため、葉を下に垂らして眠り、よけいなエネルギーを使わないようにしています。
 驚くほど巧みに準備されたクズの生長戦略です。これでは、覆いかぶされた植物は太刀打ちできないでしょう。まったくの災難ですが、そのまま、光を奪われて、枯れてしまうこともあるのです。

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    朝 3枚の葉が開いています。      暑い日、一枚の葉は立って休眠中です。

 クズの花は、大きな葉に隠れがちですが、暑い日差しから葉に守られているのでしょう。甘い香りが漂い、隠れていても赤紫色の花びらと中央の黄色が目立つので、多くの虫たちがやってきて受粉を助けてくれます。

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花穂は下から上へ咲きのぼっていきます。  花はマメ科特有の蝶形花です。

 開花後には、マメ科特有の果実であるサヤの中に種子が入った豆果(とうか)ができます。10月頃に探すと、サヤは褐色なので、枯葉にまぎれて目立ちませんが、注意して見ると、小さな鯉のぼりのようについています。一本の軸についている豆果は10~20房位。一つのサヤには、種子が10個ほど入っています。サヤは乾燥するとはじけて、種子を遠くへとばします。クズは太い根でも、種子でも仲間をふやすことのできる繁殖力の強い植物です。

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    花の後にできる豆果      茶色になった豆果      サヤの中の豆(種子)

 クズは古くから私たちの生活に欠かせない有用な植物でした。
 こどもの頃、おなかをこわしたときなど、母が作ってくれたのが葛湯です。葛湯は、クズの根からとれる葛粉でつくります。葛粉を水にとかし、お湯を注ぎ、お砂糖も少し入れて、おなかに優しい味が大好きでした。
 葛粉は、秋から冬にかけて掘り起こされたクズの根をつぶして、水のなかでもみだし、さらして、こしたものです。葛粉は、くずきり、くず餅、くず桜などの和菓子の材料にもなりました。
 クズの根からとれる葛粉はわずかで、その精製にかなりの手間がかかることから、今使われている葛粉はサツマイモなどのデンプンも加えられています。混じり気のない葛粉100%のものは本葛(ほんくず)と呼び、高級和菓子に使われています。
 また、風邪をひいたときによく飲まされたのが葛根湯です。葛根湯は漢方薬で、クズの根からつくられた生薬「葛根」が入っています。
 そのほかに、クズのつるの繊維は、くず布として、昔は庶民の衣料の材料になり、ふすま紙やかべ紙としても使われました。
 クズの葉はこどもの頃に飼っていたウサギの餌でした。クズはマメ科植物なので葉に良質のタンパク質を含んでいます。農家では、早朝にクズの葉を大量に刈り取って牛や馬の飼料にしていたことを覚えています。

 ウサギの餌にするため、いつもクズの葉採りに出かけたところは、道ぞいの日あたりのいい場所で、林や森との境界になっている藪地でした。その藪は緑の布を広げたようにクズに覆われていて、いくらでも手にはいりました。ついでに藪の中に生えているクワの実や、アケビキイチゴの実を採ってよく食べたものです。

 藪地はクワ、モミジイチゴ、ウツギ、ノイバラのような低木と、アケビヤマブドウヤマノイモなどのつる植物が混然と生えていて、森や林のまわりをとり囲んでいます。藪を構成している植物群は、ちょうど森林がマントを着ているようなのでマント群落といいます。そのマント群落の中心になっているのが、クズでした。

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    クズが主役のマント群落。森や林のまわりをとり囲むように生えています。

 藪をかきわけ、一歩森林の中に入ると、からりとしています。土はやわらかく、水分をふくんで、暑い夏でも涼しくひんやりしています。
 マント群落があることで、森の中は急激な乾燥や温度変化をまぬがれ、安定した環境が維持され、森林が守られています。森林に育つ樹木、そこに住む動物たち、光をあまり必要としない植物や土の中の微生物たちなど、多くの生きものたちの生存が守られています。
 自然界では、台風による大水や雪崩など絶えず起きています。そんなとき、マント群落の植物たちは、栄養分豊かな土壌の流失を防いだり、裸地になった森林の周辺をおおって、破壊された植生を回復したりする役割もしています。

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    マント群落で花を咲かせるクズ。花や葉に多くの虫たちが集まります。

 日本のクズの旺盛な繁殖力を知り、興味をもって、緑化植物として導入したのが、アメリカの政府です。
 1930年代に、ルーズベルト大統領のニューディール政策によるテネシー河のダム工事の際に、土砂の流出を防いで緑化するために大量のクズが堤防に植えられました。クズは見事にその期待に答えたのですが、その後、その強い繁殖力でたちまちアメリカの大地に広がり、今では「ジャパニーズグリーンモンスター」と呼ばれて、「侵略的外来種」に指定され、駆逐すべき帰化植物にされてしまいました。アメリカにはクズの天敵になるものがいなかったのです。

 日本には、古来よりクズの天敵となるような、虫や動物、病気などが様々に存在していました。これらの天敵が、食物連鎖の過程でクズを食べて淘汰していました。それだけでなく、人々はクズの葉を牛馬の飼料にし、太い根を掘り起こしては葛粉をとったり漢方薬の材料にしたり、クズつるの繊維は衣服に利用するなどしていたのです。
 日本ではクズを取り巻く自然環境と、人々がクズを暮らしに利用してきた長い歴史が、アメリカのような爆発的なクズの繁殖を抑制し、他の植物とのバランスを保っていたのです。
 一つの種は単独で生きているわけではなく、その種が生存する自然環境や動植物のとのつながりの中にあるということ。生態系を無視した種の移入がどんな結果になるのかをアメリカに渡ったクズは教えてくれています。

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     広い葉は、花を守る日傘の役割    葉の緑に、鮮やかに映える花の色

 日本では、かつては里山や森林は人の生きるための大切な場として、絶えず手入れされ管理されていました。あまりに繁殖しすぎたつる植物のつるは、人の手によって刈り払われ、他の草木を守っていました。
 日本は国土面積の67%を森林が占める森林大国ですが、供給されている木材の8割は外国からの輸入に頼り、今は、多くの森林は放置されたままです。野山の植物を利用する人の暮らしもなくなり、里山も荒れています。これまで保たれてきた自然環境のバランスがくずれ、クズの繁殖も広がっています。
 驚異の生命力と繁殖力をもつクズと、私たちがどう向き合っていくか、近い将来、試されるときが来るようです。(千)

季節のたより56 マツヨイグサ

 夕暮れに咲き出す花  目の前で見られる開花の瞬間

 夕暮れが訪れると一斉に咲き出す黄色い花を見かけるようになりました。この花を見ると幼い頃の遠い記憶が浮かんできます。
 夕暮れ、私は黄色い花が一面に咲く野原に立っていました。花のつぼみを眺めていたら、そのつぼみが少し膨らみ始めて、目の前でみるみるきれいな花になったのです。魔法を見ているようでした。あれが現実だったのか、それとも夢を見ていたのか、おぼろげな記憶で自信がありませんが、そのときの花が、マツヨイグサ、正確にはメマツヨイグサの花だということは、後になってから分かりました。

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      夕暮れになると咲き出すメマツユイグサの花

 マツヨイグサは南米原産の一年草で、江戸時代に園芸品種として入ってきたときに「待宵草」と名づけられました。「待宵」とは「中秋の名月」の前日、旧暦8月14日の宵のことですが、待宵草は夏の花なので、日暮れて間もない頃の「宵」を待つように咲き出す花ということでその名がつけられました。名づけた人は花の生態をよく観察していたようです。
 明治になると、マツヨイグサより花の大きいオオマツヨイグサが、鑑賞用として導入されます。その後にメマツヨイグサコマツヨイグサ帰化植物としてやってきて、それぞれが野生化して、河原や砂浜、鉄道路線沿い、耕作をやめた田畑のような場所に広がっていきました。

 これらのマツヨイグサの花の仲間は、アカバネマツヨイグサ属に分類されます。マツヨイグサという場合、この中の一種の名前なのですが、一般的には、夕暮れに開花し黄色い花を咲かせるマツヨイグサ属の総称としても使われます。

 オオマツヨイグサマツヨイグサは、かつては日本のいたるところでその花を見ることができました。近年、農薬がその一因といわれていますが、急速にその数を減らしています。花の小さいコマツヨイグサは、海岸や浜辺で見られます。最も適応能力の高いのがメマツヨイグサです。空地や野原、都市近郊などの道路沿いなどに咲いているのは、メマツヨイグサの花です。

 メマツヨイグサの「メ」は、メヒジバ、メヤブマオなどの「メ」(雌)と同じで、オオマツヨイグサより花が小さいので、そう呼ばれます。
 メマツヨイグサのなかで、花びらと花びらの間に隙間が見られる花をアレチマツヨイグサと呼んでいましたが、二つは遺伝的に同じ種類とされ、最近の植物図鑑ではアレチマツヨイグサは、メマツヨイグサの別名とされています。

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  一息に咲こうとしているつぼみ     夜の闇にうかびあがる花

 マツヨイグサの名が広く知られるようになったのは、明治末期から昭和にかけて、哀愁漂う美人画で人気を博した竹久夢二の、「宵待草」の歌の力が大きいでしょう。

 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな
                             竹久夢二

 この詩は 1913年(大正2年)に夢二の詩集「どんたく」に発表され、多忠亮(おおのただすけ)が作曲。その楽譜が出版されると、「宵待草」はまたたく間に全国に広がり愛唱されていったといいます。
 宵待草は当時よく見られたオオマツヨイグサのことですが、夢二はマツヨイグサ(待宵草)を、ヨイマチグサ(宵待草)としています。これは夢二の誤記という人もいますが、夕暮れどきに鮮やかな黄色い花を開き、翌朝にはしぼんでしまう一夜の花に、恋しい人を待ちわびる思いを重ねて、「宵待草」と表現するのも悪くありません。ただし、図鑑では出てこない「和名」なので、注意は必要ですが。

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 田んぼのあぜ道のメマツヨイグサ。曇りの日は昼過ぎまで咲いているようです。

 自然界の多くの花たちが日中に花を咲かせているのに、マツヨイグサの仲間はあえて夜に咲くという変わった生き方を選択しました。夜は競争相手の花は少なくなるので、夜に活動する虫たちを独り占めして呼び寄せようとしているのでしょう。

 マツヨイグサの花は、1m近くなる茎に20~40個ほどの花をつけ、下から順番に咲いていきます。夕方に咲いた花は一夜かぎりで、朝にはしぼんでしまいます。そのために、花が開いているわずか数時間の間に、虫に花粉を運んでもらう工夫をしています。
 黄色い花は暗い中でも鮮やかに浮かび上がるので、虫たちのめじるしになります。視界がわるくても花の匂いを遠くまで届かせて、虫たちを誘います。その効果があって、マツヨイグサやオオマツヨイグサの花には大型のスズメガの仲間がやってくることが観察されています。

 メマツヨイグサの花を観察してみると、ヤガ(夜蛾)やハナバチの仲間がよくやってきます。ハナバチが蜜を吸って花から離れようとするとき、おもしろいことが起きました。おしべから出る黄色い花粉がねばって、糸引き納豆のようにハチに絡みつくのです。花粉どうしがネバネバした粘着糸でつながっていて、もがけばもがくほどハチの口や頭にくっつき、ハナバチは花粉まみれです。ハナバチはそのまま次の花へ飛んでいきました。これは、1度にたくさんの花粉を確実に運んでもらおうとする花のしかけです。
 花のめしべも先端が4つに長く裂けた大型船の錨のような形で突き出ていて、広い範囲で大量の花粉を受け取りやすいようにしています。

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 先端に突き出しているのはめしべの先    花粉まみれになったハナバチ

 メマツヨイグサの花が受粉を終えるとしぼんで、 1日2日たつとぽとりと落ちてしまいます。花のあとに円筒形の果実が一つできます。その果実が熟すと、先端が裂けて、ちょうどバナナの皮をむいたように開きます。強い風で揺られるなどすると、中に入っていた多数の種子が飛び出すようになっています。

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  受粉を終えた花      青い果実       先が開く熟した果実

 飛び出した種子は、翌年に芽生えて、葉を円形に広げてロゼットの姿でその冬を越します。冬の寒さで葉も赤くなるので、上からみると花のような形に見えます。冬の寒さで古い葉は枯れてロゼットも小さくなりますが、3月頃から勢いを増し、新しい葉を次々と出します。茎も立ち上がり、長くのびて初夏に花を咲かせる準備をするのです。

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   冬越しのロゼットの姿       春から茎が長く伸びて、初夏に開花

 マツヨイグサの仲間は、通称「月見草」とも呼ばれるのは、黄色い花が満月の色を連想させるからでしょう。その名を有名にしたのは、太宰治の短編「富嶽百景」にある “ 富士には、月見草がよく似合う ” の一節です。
 この作品は、都会で荒んだ生活を送っていた「私」が、富士のふもとにある御坂峠の茶屋に滞在して様々な人と出会い、人の温かさや善意・好意に触れながら再生していく「私」の、その心を、そびえる富士の姿の表情に象徴させて描いています。
 「月見草」の一節は、バスの中で居合わせたお婆さんとの場面に出てきます。

 老婆も何かしら、私に安心していたところがあつたのだろう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
 そう言って、細い指でもって、路傍の一か所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
 三七七八メートル富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。
             (太宰治富嶽百景 走れメロス」・岩波文庫

 微塵もゆるがず、すっくと立って、あたかも「富士山」と対峙しているかのように咲いている月見草に共鳴した「私」は、月見草の種を両の手のひらにいっぱいとって来て、茶店の背戸に播いて、茶屋の娘さんに、「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ。」と語ります。月見草は静かに再生していく「私」の心の象徴です。

 このとき「私」が見た「月見草」の花は「黄金色」の「花弁」なので、マツヨイグサの仲間です。しかも富士と相対峙しているとなれば、ふさわしいのはオオマツヨイグサでしょう。実際に、当時太宰が訪れた御坂峠周辺にはオオマツヨイグサがよく咲いていたそうです。

 本当のツキミソウ(月見草)は、メキシコ原産の白い花を咲かせる花です。江戸時代に鑑賞用として渡来し、夕方の咲き始めは白色で、翌朝のしぼむ頃には薄い桃色に染まります。日本の土地には馴染まず、野生化することもなかったので野外で見ることはできません。
 一方、同じく異国からやってきた黄色い花は、「待宵草」や「宵待草」、「月見草」という名で呼ばれることで、ずっと昔からあった花のように日本の自然に馴染んで、 日本の夏の風景を彩る花の一つになっています。

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    帰化植物ですが、今はすっかり日本の風景に馴染んでいます。

 ところで、私が幼い頃に目の前で見たマツヨイグサの開花の瞬間は、夢ではありませんでした。
 「マツヨイグサは、夕暮れになると一斉に咲き出す。パラボラアンテナのように折りたたまれた花を、肉眼でもわかるスピードで連続写真のように開くのだ。」とありました。(稲垣栄洋「身近な雑草の愉快な生き方」・ちくま文庫
 実際の開花の瞬間を撮影した動画も見つけました。オオマツヨイグサやメマツヨイグサは、10秒ほどから1分以内に開花しているのです。撮影したキャンプ場で、一緒に見たこどもたちからは、開花の瞬間に拍手が沸き起こったそうです。

 その開花の瞬間を確かめたくて、つぼみのついたメマツヨイグサを切ってきてバケツに入れ、毎度夕暮れに眺めています。でも、まだその瞬間に出会うことができないでいます。夜遅くにはいつの間にか咲いているのですが、野外と屋内の環境の違いや、その日の天候や気温も微妙に関係しているのかもしれません。
 マツヨイグサの仲間は、初夏から秋にかけて長い期間花を咲かせるので、しばらくは夕暮れにつぼみをながめて散歩してみることにします。
 自然のいのちの営みの神秘さを目で見て感じる感動は、知識や映像などでは決して得ることのできないものですから。(千) mkbkc.hatenablog.com

「雨にも負けず」と「黒い雨」と「教科書改ざん」

 他界した親父が私のノートをみて議論になったことがある。それは宮澤賢治の「雨ニモマケズ」をノートに書き写していた5年生の時のことである。

 雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル/一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/・・・・

 模写したノートを仕事から帰ってきた親父がのぞき、「玄米四合でなく玄米三合と書いてた教科書がある」と話してくれたことから始まった。終戦後の教科書では「三合」となっていたというのだ。そのときは、「えー、そうなんだ」と何の疑問を持たずに過ごしてきた。
 そのことを思いださせてくれたのは、教員になってからだ。それは作曲家の林光さんと、井伏鱒二の「黒い雨」との出会いだ。

 夏休みに開催された自主編成講座が福島で開催された1984年、講師の林光さんが宮澤賢治のこの詩を取り上げ、戦後一時改ざんされていたことを話してくれた。
 もう一つは、それと前後して、広島原爆のことを調べていたとき、井伏の「黒い雨」の中で、戦時中の出来事という設定で国家が国定教科書を作る際に、玄米四合を三合に書き換えたエピソードを含めて、「国家がそんな改ざんをすれば、いずれ子供たちは国の発言を信用しなくなる」と批判する女性と、「そのような流言蜚語は罪である」と咎める「その筋の人」を登場させていたのだ。
 『改ざん』という言葉が、ここ2,3年の中で頻繁に話題になるたび、この「雨ニモマケズ」と「黒い雨」を思い出すのだった。

 「雨ニモマケズ」の改ざんの経緯を調べると、太平洋戦争終戦直後の1947年(昭和22年)の文部省の国定教科書に当作品が掲載されている。「日本の食糧事情から贅沢と思われる」という理由からGHQの統制下にあった民間情報教育局 (CIE) の係官は一度掲載を却下したものの、その後「玄米四合」を「玄米三合」に変更することを条件として許可したとされている。国定教科書は賢治の遺族の了解をもって、三合に変更されたという。
 ついでながら、もう少し調べてみると、米飯が少なくなってきた現代日本人にとって四合は多すぎると思われる。しかし、戦前までの日本の労働者はわずかな副食物で大量の米飯を摂取する食習慣であった。ちなみに1873年の徴兵令では「白米六合」を食わせることになっていたという。しかし脚気の大量発生から改められたのだが、当時の日本陸軍の食事規定では一回の食事につき主食として3食とも麦飯2合、副食として朝食は汁物(味噌汁・澄まし汁など)と漬物、昼食および夕食は肉や魚を含んだ少量のおかず一品と漬物である。

 そしてもう一方の『黒い雨』だが、今日(7月29日)の午後、うれしいニュースが届いた。黒い雨を浴びた人たちが被爆者と認めるよう訴訟をおこしていたのだが、広島地裁がこの訴えを認めたという。大きな前進だ。広島原爆投下から、もうすぐ75年になる。

 改ざんといえば、過去のことだけではない。現安倍政権には、森友学園をめぐる財務省の公文書改ざん問題がある。近畿財務局の赤木俊夫さんが自死したのは改ざんに加担させられたからだなどとして、赤木さんの妻雅子さんが国と佐川元同省理財局長に損害賠償を求めた訴訟が続いている。こちらも速やかに罪を認めて欲しいものだ。
 連想ゲームのように3つのことが思い起こされ、推敲もせず書き留めた次第である。<仁>

夜空に瞬く、❝すばる❞ のように(下)

 すばる教育研究所の動きはエネルギッシュで、とても、退職教師の趣味などというものではなかった。
 開設の翌年の1978年11月5日に、第2回の総会と研究発表会にあわせて、「国語教育研究」の復刻刊行記念のつどいをもつ。「国語教育研究」は、菊地譲主宰の「国語教育研究会」発行の機関誌で、1932年(昭和7年)に創刊号が出ている。創刊号の「宣言」文は菊地譲が書いている。

・・・見よ!「教育国語教育」2月号における“宮城県国語教育人展望”を。また、そこに登場する幾十の学校を。さらにまた百を越える真摯熱烈なる研究家を。(このかげに更に更に知られざる多くの研究家を思い)。かかる全国的潮流と呼応し、鬱勃たるわが県下の研究機運に動かされ、先輩の鞭撻、友人の激励を満身に浴びつつ、県下三百校の熱烈なる支持の下に、その生ける記録、忠実なる発表機関として、ここにわが「国語教育研究」は生誕した。・・・

 このとき、主宰・菊地は、宮城県女子師範学校小学校本科正教員、38歳。1937年(昭和12年)に、栗原郡姫松小学校長になり、翌年の1938年に、時局が「国語教育研究」の刊行継続を許さず、23号をもって休刊になる。
 この23冊と、菊地譲さんを語る別冊「北方の父」をまとめたものが、復刻「国語教育研究」(きた出版)である。刊行記念のつどいの案内は、大村栄・宮崎典男・菊地新の連名で出された。
 私がいただいた案内状には、次のような大村先生の添え書きがあった。

道太先生のお宅に伺って何度か話し合いを繰り返す間に、この復刻計画が芽生えたのでしたね。あれから3年越しになりますか。静かにこみあげてくる感激があります。これをみんなで、どう読破し、どう消化するか。そんなゼミが生まれてくれたらと願っています。

 ここで、この添え書きのなかにある「道太先生のお宅に伺って」について簡単に説明しておく。
 私が、1974年に教組の専従になったとき、担当の教文部に、組合史編集のための資料収集嘱託として佐々木正先生がおられた。佐々木先生のお名前は、戦前の広瀬小学校の綴方教育の公開授業のことなどで存じていたが、お会いするのは初めてだった。週1~2回の非常勤なのだったが、私には思わぬ楽しみの時間になった。しばらく経って、佐々木先生に「道太先生のお話を伺える時間をつくってください」とお願いした。二人は無二の友ということを知っていたからだ。

 鈴木道太によると、鉄窓拘禁の身となったある日、違う独房に佐々木正のいることを知る。二人は秘かな文のやりとりをつづけるのだが、ある日、次のような詩が届き、「ジーンとしびれるような感傷をあたえられた」と書いている。

灰色ノ壁ニ向ッテ坐ル/私ノ尊敬スル/渡辺崋山高野長英モ/アルイハ吉田松陰モ/一度ハカカル生活ヲ送ッタノダト/マタ/大洋ヲトビコエル鳥ハ/海岸ニ翼ヲ休メルトカ/私モコノ検束ヲ/自分ノ身体ヲ休メ 心ヲ鍛エテイルノダト/ミズカラヲ慰メテ生キテユク/幾月/幾年/コノ検束ガ続コウトモ/私ハアセルマイ/私は悲シムマイ/私は嘆クマイ/ココヲ出タソノ日ニコソ/ココニ送ッタ空白ノ頁ヲ/隙間モナク埋メルタメニ/力ノカギリ働クノダト/心ニ深ク決意ヲカタメ/今日モ/灰色ノ壁ニ向ッテ坐ロウ

 温厚な佐々木先生が、このような詩を秘かに届けたのだから、「東北の機関車」と言われた道太先生も驚くはずだ。

 間おかず、「鈴木が『いい』と言っていた」という返事を佐々木先生からいただいた。それを大村先生に知らせると「私も参加する」と言い、宮崎・菊地のお二人も加わり、佐々木先生と合わせて5人で、文化町の道太先生宅を4回訪ねたことを指している。 
 その時の聴き取りの録音を作文サークルの太田貞子さんが起こし、大村先生に見ていただき、後日刊行した「第4次カマラード」に「あのころを語る」というタイトルで連載した。

 「国語教育研究」復刊後も「すばる教育研究所」に休みはなかった。3年目には「すばる双書」の1号「教育の荒野にいどむ」が発刊され、この年の第3回総会は、主題を「教師のしごとと力量」とした研究発表・討議・講演の内容だった。大村先生の手書き、B5版4ページの案内で、最後は、以下の文で閉められていた。

 ここに翔ぼうとしない教師たちがいる。地面にへばりつくように一歩一歩を確かめて進んでいる教師の歩みがある。子どもらの、一人を、それぞれの生活に根づかせて、生き生きと豊かに伸ばそうとする、あたたかで きめの細かい心づかいがある。そのためには、これまでのあかづいた古いしきたりから、いつでも、毎日でも、いさぎよく脱皮しようとする大胆で一途な向こう見ずさもある。しかし、なによりも、本当の教育を求めての 気の遠くなるような道ぶしんに、きのうも、きょうも、そしてあしたも、ひと鍬ひと鍬、力をふるってやまない たくましさがある。

 いろんな場を使って、大村先生は、わたしたち現職教師へのメッセージを発しつづけた。

 「すばる教育研究所」は、機関誌「教育すばる」の発行、年1回の合宿研究会、そして「すばる双書」の刊行がつづいた。これら「すばる」の動きはわたしたちにとっては、その都度大いなる励ましを受けた。
 「すばる」は、このような活動と並行して、宮崎先生の手で、第1期・第2期「カマラード」の復刻作業にとりくんでいた。謄写版刷りで薄くなってしまった文字を書き写すというたいへんな作業に宮崎先生が取り組み、2000年8月、復刻「カマラード」は刊行にこぎつけた。「カマラード」については別の機会にゆずる

 一方、大村先生が取り組みたいと願いつづけたのが、復刻「国語教育研究」をテキストした研究会であった。その会が動き出したのが1996年8月。月例で「すばる土曜会」と名づけた。会場は大村先生宅。先生は、毎回資料を用意して待っていてくださった。しかし、参加者は少なく、(もったいない会)といつも私は思った。

 大村先生には、大きな仕事が残っていた。それは「大正自由教育」の執筆だった。「養賢堂からの出発」の刊行を祝う会で、先生は「次にぜひ書きたいのは『大正自由教育』」と話された。いつから始まるのだろうと私は気になっていたが、それを許す時間を先生に与えなかった。あまりに忙しかったのだ。先生の疲労を感じ、あわてて私は、「事務局と『教育すばる』の発行は私がやりますから、先生は『大正自由教育』にとりかかってください」とお願いした。
 先生は私の願いを聞いてくださり、「教育すばる」31号(1998年3月)に「『大正自由教育』の流れ」が、第1回のタイトルを「流るる水のさやけきほとり」としてスタートした。私は非常にうれしく、繰り返し読んだ。
 しかし、連載は第6回(1999年5月発行36号)「流れをさかのぼると」を掲載した直後体調を崩して、以後「『大正自由教育』の流れ」はつづくことはなかった。(なぜもっと早くにお願いしなかったのか・・)と大いに悔やんだが遅かった。その後私たちの前にふたたび元気な姿をみせることなく、2001年5月25日、召天された。

 「教育すばる」46号(2002年2月)は、「大村榮所長 追悼号」になり、機関誌「教育すばる」もまた、「すばる」を語り、大村先生を偲ぶ会員総会での話し合いの結果、休刊を決めた。
 大村先生あっての「すばる教育研究所」であり、機関誌「教育すばる」であったのだ。いや、それだけではない。たくさんの刊行物も、さまざまな研究会も・・・。( 春 )

電通の罠にはまらない『新しい生活様式』を

 コロナ騒動の中で理解困難なことがあまりにも多く、嫌気がさしているこの頃。とりわけこの国が推進している政策のあまりにものお粗末さには、怒りを越え、開いた口がふさがらない日々が続いている。

 いつ届くのか、やっと届いたと思ったら異物が混入していたと話題になったアベノマスクからはじまり、国民1人に10万円の「特別定額給付金」、つぎにいわゆる「持続化給付金」問題がある。個人に100万・法人に200万を給付するとした経済産業省の政策である。さらに最近は「GoTo トラベル」そして「GoToイート」だという。前者は観光庁が、そして後者は農林水産省が予算化したものだ。まさにコロナ対策予算を各省庁がぶんどり合戦を行った結果の政策である。
 その中から、今日書きたいのは「持続化給付金」と、その業務受付先をめぐる『電通』の存在である。

 新型コロナウイルスの問題で収入が減った中小企業などに最大200万円を払う持続化給付金。対象の事業者は約200万、予算総額は1次補正予算で2兆円超の巨大事業だ。経済産業省は事業の手続き業務を民間に丸ごと委託することにした。これは仕方のないことだろう。厚労省の役人ができる作業量ではないのだから。問題なのは、事業者の公募を前に、経産省の担当者が複数回接触していたのがサービスデザイン推進協議会や電通の関係者だったこと。そしてこの協議会は電通が中心となり立ち上げ、設立から経産省の事業を10件以上受注していたというのである。

 さらに電通は749億円で協議会から再委託された業務を、別の子会社5社へ645億円で外注していた。電通本体の主な利益になるのが「一般管理費」。経産省の規定で、外注費645億円の10%、約64億円が計上できる。そこに電通本体が担う広報費や人件費計36億円の10%も加算できる。合わせると約68億円に上る。ここから家賃や光熱費などの支出、消費税分などを引いて余ったお金が電通本体のもうけになる。こんな仕掛けがあったというのだ。いわゆる「中抜け」の仕組みだ。

 さて、その『電通』とは、最近では海外の広告会社を積極的に傘下に加えることにより規模を拡大し、広告代理店グループとして世界で5本の指に入る規模となっている。
 政府・自民党の広告やキャッチコピーをはじめ、様々な大規模のイベントの企画・宣伝の総本山といえる企業である。総理夫人の元勤務先でもあった。数年前には東大卒の新人社員が過労自死したことからブラック企業といわれたことも記憶に新しい。
 この『電通』に「戦略十訓」というものがある。

  ①もっと使わせろ
  ②捨てさせろ
  ③無駄使いさせろ
  ④季節を忘れさせろ
  ⑤贈り物をさせろ
  ⑥組み合わせで買わせろ
  ⑦きっかけを投じろ
  ⑧流行遅れにさせろ
  ⑨気安く買わせろ
  ⑩混乱をつくり出せ

 残念なことだが、胸に手をあてて考えると、この戦略十訓を知る10年ほど前まで、私自身、この戦略にどっぷりと飲み込まれてきたことに気づかされたのである。そしてその後も、少なからずこの戦略にまんまと乗せられ消費してきたものもある。

 ついでながら、『電通』には「鬼十則」という社員の行動規範があった。前述した新人女性社員の過労自殺を受け、2017年度よりようやく社員手帳から記述を削除すると発表されたものだ。 そこには次のように記されていたのである。

・仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない。
・仕事とは、先手先手と働き掛けていくことで、受け身でやるものではない。
・大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
・難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。
・取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは……。
・周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地の
 ひらきができる。
・計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力
 と希望が生まれる。
・自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すら
 がない
・頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サービス
 とはそのようなものだ。
・摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練に
 なる。

 話を「戦略十訓」に戻そう。厚生労働省は、このコロナ対応のため『新しい生活様式』なるものを打ち出している。お節介も甚だしいのであるが、せめて『戦略十訓』に引きずり込まれないような『新しい生活』に踏み出すことからはじめたらいかがだろうか。

 この原稿をダイアリーにアップしようとしてたところに、7月22日、ニュースが飛び込んできた。『電通』は当面、通産省の新規事業を受託しないことにするという。前述のような癒着への批判に判断したようだ。世論の力はまだ健在ということか。
 そうであっても「戦略十訓」の罠には、これからも引っかからないようにすることは、いうまでもない。<仁>

夜空に瞬く、❝すばる❞ のように(上)

 雨が降りつづく。無理に家に閉じ込められた気分でぼんやりとしている時間が多くなると、しぜんに過ぎた日のこと、お世話になった方々とのいろんな場が浮かんでくる。 
 立ち上がって、書棚から「養賢堂からの出発」を取り出す。大村榮先生が1986年に「ぎょうせい社」から出された本だ。
 裏表紙裏に、河北新報2001年6月5日の切り抜き「残照」が貼ってあった。「元小学校長、すばる教育研究所長 大村栄さん(87) 2001年5月25日死去」とある。その中に、以下のような部分がある。

・・・73年3月、仙台市木町通小の校長で定年を迎え、「宮城県教育百年史」の編集主任に推された。この仕事を通じて、晩年の研究テーマ「大正自由教育」と向かい合う。
 「日本で真の自由教育があったのは、大正時代のある時期だけ。大正自由教育がなぜ生まれたのか。突き詰 めると、今の教育を考えるうえで大切な問題に突き当たるような気がする」。大村さんはそう語っていた。
 98年3月発行の「教育すばる」第41号から、「『大正自由教育』の流れ」の連載を開始した。第45号に5本目の論文を掲載した99年5月、体力の限界を悟る。・・・

 大村先生にはたいへんお世話になった。76年は私の宮城県職員組合専従の3年目。任期最後の年であった。宮城県職員組合協議会で話し合って、宮教協として「宮城県国民教育研究所」を設立することにし、それぞれの組合大会で提案することにした。

 私たちの大会の直前に大村先生にお会いしたおり、研究所設立の提案をする話をすると、先生はたいへん喜んでくださった。
 しかし、大会では「時期尚早」という理由で否決されてしまった。他の4つの組合は可決されていたのに。今振り返ると、若い私の不勉強が、大会代議員に研究所設立に希望のイメージをもってもらうことができなかったのだろうと思う。
 直後に大村先生に大会の結果を報告すると、先生は、「じゃあ、私たちで、民間の教育研究所をつくりましょう」と言うのだった。先生は、百年史編纂の仕事の終わりにさしかかって忙殺されていた時期だったのに、少しも迷うことのない言い方だった。

 そして、翌年の9月、大村先生宅の門柱に、菊地新先生の筆による「すばる教育研究所」の看板が掲げられ、機関誌「教育すばる」創刊号も発行された。
 所の会議は大村先生宅で定期的にもたれ、メンバーは、大村所長の他に、宮崎典男・菊地新・鈴木市郎・村田幸造さんたち。それに、印刷関係を一手に担う北村秀雄さん(きた出版初代社長)がいつも入っていた。現職の私は会議の末席にたまに座らせていただくことがあり、大きな勉強の場になった。

 「教育すばる」創刊号の表表紙裏には、「すばる出発」として、次のようなことが書いてある。

・・・わたくしたちは、こうした現状に深い憂いを感じつづけてきた。子どもたちを、とめどもなく広がる教育の荒廃から救い出すために、今やじっとしてはおれない気持ちである。たとえ、小さくともおたがいの経験と知恵とを持ちよって、新しい解決の道を切り開くことはできないものだろうか。
 しかも、その努力を一時的な試みにとどめることなく、持続的な交流を通して、まず自分たちを相互に成長させ充実させることから出発させたい・・・・・・
 わたくしたちが、このたび小さな研究所をつくり、ささやかな機関誌を創刊するのも、こうした切実な願いからに外ならない。
 寄りそって夜空をかざり、古くから人びとに親しまれてきた和名の散開星団にちなんだ、わたくしたちの「すばる教育研究所」と、その「機関誌」とが、皆さまのご支援によって、いささかの光を放つことができたらと、心から願っている。

 いま、あらためて読むと、書き手はほとんどが現職をはなれた方々でありながら、どのページをめくっても生き生きとした文が踊っており、私などよりはるかに若々しい姿を突きつけられた感じだった。ーつづくー ( 春 )