mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

林先生とのこと(その2)

 北海道で体調を崩し東北大学付属病院に入院された先生は2カ月で復調、翌年(1977年)1月末からの沖縄久茂地小での「開国」の授業に予定通り出かけるとのことだった。
 お話を伺いながら、私も1月後半に沖縄で行われる日教組全国教研集会に参加することをお話しすると、先生は、集会の閉会行事に予定されている沖縄の作家・大城さんの講演を聴きたいと思っていたと言う。
 閉会行事の日、大城さんの話を一緒に聴いてお会いすると、既に沖縄での資料探しをしておられた先生は、「開国に関する新しい資料を見つけたので、前よりは少し授業がうまくできそうです」と話された。その時のうれしそうな顔は、今も私にはっきりと残っている。授業が前よりうまくいきそうだと、あんなに喜ぶ教員の顔を目にしたことが私にはない。
 その後、先生は、湊川・尼崎・南葛飾などでの授業がつづき、その報告書も書かれている。直接お話も伺った。
 宮城では、東北6県で構成される民間教育団体協議会鳴子集会で講演をお願いしたり、教職員組合主催の「夏の学校」(県内の5・6年生を公募し4泊5日の模擬学校)で先生に授業をお願いしたりと、ずいぶん先生に頼りつづけた。
 
 ある時、先生との話し合いのなかで、フッと「もう授業はやめる」と言われたことがあった。内心驚いたが、なぜですかとお聞きすることはしなかった。
 その日の先生の話の多くは、須賀川養護学校のことで、須賀川で聞いた話、見た事実を聞かせていただいた。著書にも書いておられるが、教務主任の安藤先生は、五重苦の障害者の勝弘君を毎日訪ね、勝弘君のか細い手を自分のほほにつけ、安藤先生が自分の手を勝弘君のほおにつけて、身を乗り出してベッドに覆いかぶさるようにして「勝弘君、安藤先生だよ」と言う。そういうことを毎日、繰り返した。そして、なんと3か月目に、ほんとうに天使がほほ笑むような笑みを勝弘君が浮かべたという。林先生は、安藤先生の勝弘君とのかかわりあいの中に、教育の原点があるような気がしてならないと思ったと言う。この事実が、先生をして(もう授業行脚を止めよう)と思わせたのではないかと私は思った。先生と田中正造が一緒になったとも思った。

 事実、70年代末からの先生の動きを年譜で見ると、猛烈な執筆活動と講演が目立つ。その執筆講演の内容は、これまでの授業で考えつづけた教育とは何かがその根底になっているように思う。それは、なんと「内申書裁判に関しての意見書」を「現在の学校教育への根元的な批判を通して、この裁判のもつ深い意義について述べてみたいと思います」として東京高等裁判第1民事部に提出することまでしている。この意見書のコピーを先生からいただき、今も手元にあるが、B4版で69ページにおよぶものである。この中で先生はつぎのようなことを述べている。

~~私は、授業は学問追及と同じものと考えています。問題のきびしい追及によって、子どもの内面にある厳しさを引き出すと、子どもは問題と厳しく対決する楽しさを知ります。教育的に意味のある厳しさというものは、外からワクをはめることによっては成り立ちません。まず教師の自己に対する厳しさがなければだめなのです。ところが、それが奇妙に教師に欠けているのです。外から縛る強制によっては教育はできません。~~

 「授業は止めた」と言いながら、教育を問いつづけた “ 田中正造 ” にとって、中学で起きた内申書裁判をも黙視できなかったのであろう。

 時はやや前後するが、私は、「授業は止めた」という先生に、「2年間一緒に暮らし卒業する子どもたちにぜひ授業をしてください。子どもたちへの私の最後のプレゼントにしたいのです」と、先生が困ることを承知でお願いした。1981年の年明け早々だった。
 先生は、「プレゼントですか、できないとは言えませんね」と笑いながら受けてくださった。
 年度末なので、とくに多忙になる学校行事などを考え、受けていただけた場合は、午後授業のない水曜日の、しかも行事が入っていない2月25日と考えていた。先生も「その日でよい」と言ってくださった。
 時間がそれほどあるわけではないので、翌日、すぐ校長に林先生に授業をしていただく計画を話すと、校長は「一応、市教委に話をしてから正式に返事をする」とのこと。
結果は「教員免許をもっていない人に授業というのはダメだ」と言われたと言う。私は、「どうして仙台市はダメなのか。林先生は全国各地でこれまで300以上の教室で授業をし、その報告になる著書も何冊も書かれているんですよ。他所と仙台市はどうして違うのかを聞いてほしい」と言った。温厚なN校長を困らせたくなかったが、私にとっては「はい、わかりました」と引き下がるわけにはいかなかった。
 そう言いつつ、同時に、最悪の場合を想定する必要もありそうに思い、すぐ、近くのN公民館の借用手続きをとった。

 その後、校長からは、「市教委から当日の指導案を提出してもらい、それを見て決める」と言われたと話があった。私はその場で「林先生に授業案を書いてください。それを読んで諾否を決めるそうですなど、そんな無礼なことはとてもできない」と校長との話を切った。話をしながら、校長をこれ以上困らせたくないし、進展は無理かもしれない。何よりも時間がないと考え、公民館でやろうと決めた。
 林先生には簡単に経過をお話し、公民館に場所を移してになることの了解を得た。
 家庭には、「2月25日(水)午後2時から、場所を公民館に移して林先生に授業をしていただくこと」「林先生の紹介」「その日の放課後のことになるわけなので、その時間子どもたちを私に貸していただきたい」「まとめて連れていきたいので、参加が無理な場合は連絡をしてほしい」ことなどを伝えた。 
 また、内心の悔しさもあり、市の教育長と各教育委員へも当日のご案内を郵送した。

 当日、子どもたちは全員参加した。多くの親も集まった。事前の先生との話し合いで、せっかくの機会だから、子どもたち個々の写真を全員撮ってもらっておき、後日見せたらどうだろうとの林先生の提案で、カメラマンの小野さんに頼み、ひとりももれなく写してもらえた。
 子どもたちは翌日感想を書いた。参加したたくさんの親も後日、感想を寄せてくれた。以下はそのなかのSさんの感想である。

 永年、大学生を相手にしてこられた元学長の林先生が、小学生を相手に授業をしてくださる、と聞いたとき、恐縮に存じながらも、どんな内容で、どんな言葉を使って子どもたちに授業をなさるんだろう。しかも、教室をやむなく公民館に移し、春日先生が年次休暇をとってまで実現させようとするプレゼントは、いったいどのようなものなのかと、胸のときめく想いで、興味津々出かけて行きました。
 「こんにちは、わたし林です。今日は、人間って何だろう、人間について考えてみましょう。」という授業の入り方に、まず驚きました。
 哲学的な内容を、子どもたちに45分間だけの授業で、どのようにまとめるだろうか、と思っていたら、私の方が授業参観をしているというよりは、いつしか、授業を受けている立場になっていました。次元が低いといわれればそれまでですが、マジックにでもかけられたように、まじめに考えなければならないような雰囲気をつくっていく。
 特にハッタリをきかすでもなく、声高にお話しなさるでもなく、終始笑顔を絶やすことなく、やさしく静かに問いかけてくる。
 答が活発にはね返らなくても、穏やかな笑顔で待っていらっしゃる。途中でなげ出さないで、考える時間を十分与えているように思いました。
 先日、ある中学校のPTAから、非行問題に関するアンケート用紙が配られました。その中に「今、マスコミをにぎわしている中学校の非行問題をどう思うか」「中学校の非行問題の現状を打開するための対策を具体的に書いてください」というような内容のものでした。
 人間が人間として生きていく最低の基本的な義務教育ですら、十分に学びとることもできず、受験生活に追われ、中学校を卒業していく生徒が多い昨今、義務教育とはいったいどういうものなのだろう。親として、子どもをどう導いていかなければならないのかなど、考えさせられていた矢先の林先生の授業参観でした。
 親として反省することが多々ありました。相手を信頼して語りかける、語りかける時の心の穏やかさ、そして、待つことの大切さなどを強く感じました。
 小学校卒業を目の前にして、中学校への希望と不安の入り乱れた落ち着かない日々を過ごしている時に、「人間としてどう生きて行かなければならないか」という最後の締めくくりで、とても充実したものを感じました。
 気ぜわしく、渇いた心に潤いを与えられ、気持ちの整理ができた思いのする一時でした。

 短期間にいろいろなことがあり、先生にもいろいろご迷惑をおかけしてしまったが、たくさんの親からまで、このような感想をもらい、私自身はやや疲労を感じながらも、それを超える “ やってよかった ” という充足感を得て終えることができた。ーつづくー( 春 ) 

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「成人の日」は過ぎたけど・・・

 今年の成人式は、コロナウイルスで中止や延期、あるいはオンラインや感染防止の対策を講じての実施など様々だったようだ。晴着やはかま、スーツに身を包んだ若者たちの姿を見ながら、自分たちの頃に比べると、ずいぶん派手になって一大イベントだなと思ったりする。どうしてそうなってきたのだろう。日本が平和で豊かになる一方で、少子化が進むなか息子・娘が成人になることへの(親としての)喜びと、それにかけられる経済的余裕がそれなりにあるからだろうか。

 しばらく前に「大人になるってどういうこと」を書いたが、成人≒大人になることに関わって何か書かれたものはないだろうか?と改めて本棚を眺めてみた。見つけたのは谷川俊太郎さんの「成人の日に」。
 2000年から導入されたハッピーマンデー制度に伴って今年の「成人の日」は終わっていますが、それ以前は確か1月15日だったはず。それでいけば今日がまさに「成人の日」ということで、谷川さんの詩を紹介します。

  成人の日に

 人間とは常に人間になりつつある存在だ
 かつて教えられたその言葉が
 しこりのように胸の奥に残っている
 成人とは人に成ること もしそうなら
 私たちはみな日々成人の日を生きている
 完全な人間はどこにもいない
 人間とは何かを知りつくしている者もいない
 だからみな問いかけるのだ
 人間とはいったい何かを
 そしてみな答えているのだ その問いに
 毎日のささやかな行動で

 人は人を傷つける 人は人を慰める
 人は人を怖れ 人は人を求める
 子どもとおとなの区別がどこにあるのか
 子どもは生まれ出たそのときから小さなおとな
 おとなは一生大きな子ども

 どんな美しい記念の晴着も
 どんな華やかなお祝いの花束も
 それだけではきみをおとなにはしてくれない
 他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
 自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ
 でき上ったどんな権威にもしばられず
 流れ動く多数の意見に惑わされず
 とらわれぬ子どもの魂で
 いまあるものを組み直しつくりかえる
 それこそがおとなの始まり
 永遠に終わらないおとなへの出発点
 人間が人間になりつづけるための
 苦しみと喜びの方法論だ

  (『魂のいちばんおいしいところ』より)

 詩は、人間になるとはどういうことかを成人を迎える若者たちだけでなく、私たちみんなに問いかけています。(キヨ)

コンピューター VS 人間   ~静かな正月に想う~

    今回の正月は、息子・娘一家がコロナを考え、帰ってこないことになり、久しぶりの静かな正月を過ごすことになりました。そんなこともあり、年末に本屋へいき、数冊の本を買い込んできました。その中の一冊に、科学雑誌 Newton1月号があります。表紙に書かれた「コロナ時代の心理学」という文字に惹かれたのでした。先日、やっと読み終わったのですが、その中で面白いと思ったのは、コロナとは全く関係のない、「奥深い『数独』の世界」というコーナーでした。

 「数独」あるいは「ナンプレ」といえば、おそらくほとんどの人が一度はチャレンジしたであろうパズルの一種です。かく言う私も「ナンプレ」が好きで、雑誌や新聞に載っているのを見つけたら鉛筆をとり出します。現役の頃は、宿題や自習の時に、魔方陣と共に「ナンプレ」を子どもたちに与えて解かせたりしてました。

 Newton誌によると、1979年にアメリカの雑誌で「ナンバープレイス」としてまさに数独と同じパズルが掲載されたそうなのですが、まったく人気が出ず、すぐに姿を消したのだそうです。そして1984年になって、日本のパズル誌がそれを見つけ、「数字は独身に限る(数独)」として載せたところ大反響で、今や「sudoku」として世界に広まっているというのです。

 そして何より興味深かったのは、2013年に当時、東京大学に在籍していた渡辺宙志博士がつくった「コンピュータを使ってつくった世界一難しい問題」です。コンピュータが通常用いるバックトラッキング法。つまり「可能な組み合わせをしらみつぶしに調べる」方法で解くと数万回もの計算が必要な問題であり、人間に解けるわけがないと考えられたのです。ところがこの問題、解いてみたら呆気なく解けることが分かったというのです。
 ちなみに数独の組み合わせの数は、66垓7090京3752兆0210億7293万6960通り、つまり22桁あることが、スーパーコンピューターで計算されたそうです。

 数独ナンプレ)では、一つの完成形に対して、どの数字をどこに配置しておくか、つまり初期配置によって、複数個の問題をつくることができます。いいかえれば初期配置が異なっていても、最終的に同じ解にたどり着く問題は複数個あるということなのです。このような初期配置まで考慮して数独の問題の総数を算出することは、現在のところかなり困難だと書かれていました。ちなみに「解が必ず一つに定まるときの初期配置の数字の最小個数」は、17個というのが現在の研究到達なのだそうです。

 では何故、「コンピュータを使ってつくった世界一難しい問題」を人間は簡単に解くことができたのか。
 人間はコンピューターのようにしらみつぶしに解を探索したりせず、ブロックや列に着目しながら空いているマスを埋めていく。不要な計算はしない。つまり、コンピューターで解くと計算量が必要な問題が、人間にとっては難しいとは限らないというのです。
 コンピュータと人間とは違うのです。ですから本当に世界一の難問をつくるには、人間の思考をアルゴリズムに落とす必要があって、これは今のところできませんし、かなり難しいと書いてありました。
 人間とコンピュータは違うからこそコンピュータの利用価値があるのであって、コンピュータと競争したり、これに敗けることを恐れたりするのは間違っているということが、ここからもわかりました。 

    人工知能(AI)と人間では、もう一つ、昨年8月に行なわれた将棋のタイトル戦のひとつ「王位戦」の七番勝負で、藤井颯太が「受け師」の異名を持ち、守備のうまさにかけては随一のベテラン木村一基王位に挑んだ三連勝のあとの最終戦。あと1勝で王位を獲得するという一番を思い出します。
 その戦いでは藤井が指した封じ手が話題になりました。普通、封じ手は無難な手であることが多いのですが、藤井がさした一手は盤上で最も戦力の高い飛車を、価値の低い銀と刺し違えてしまう、常識はずれの手だったからです。

 実は、藤井の封じ手は全く予想されていなかったわけではありません。人間の常識では選びづらいその一手を、最善手としてあげていたのは、この勝負を生中継していた動画配信サービスが開発した「SHOGI AI」でした。人工知能が導き出した一手を、人間・藤井颯太が短時間で見つけ出したのです。人間まだまだすてたものではありません。<仁>

季節のたより67 ヤブコウジ

  緑の葉に鮮やかな赤い実 お正月の縁起物にも

 読んではつまらないが、声に出すとおもしろくなるのが、この話。

「・・・あらまあ、金ちゃん、すまなかったねえ、じゃあ、なにかい。うちのじゅげむじゅげむ、五劫(ごこう)のすりきれ、海砂利(かいじゃり)水魚(すいぎょ)の水行末(すいぎょうまつ)、雲来末(うんらいまつ)、風来末(ふうらいまつ)、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポパイポシューリンガンシューリンガングーリンダイグーリンダイポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が、おまえの頭にこぶをこしらえたって。まあ、とんでもない子じゃないか。ちょいと、おまえさん。うちのじゅげむ じゅげむ 五劫のすりきれ・・・」

 ご存じ古典落語寿限無」の有名な一節です。おめでたくて長いこどもの名前のなかほどに出てくるのが、「・・やぶらこうじのぶらこうじ・・」。これが、厳しい寒さの中、山林の地表に青々と茂り、赤い実をつけて、生命力の強さを見せている「ヤブコウジ(藪柑子)」です。

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  冬に生命力の豊かさを感じさせるヤブコウジ。「(や)ぶらこうじ」は
  ぶら下がる様子か。

 ヤブコウジは、サクラソウヤブコウジ属の常緑の小低木で、里山のスギ林や海岸林、奥山のブナ林の林床など、かなり広い範囲に分布しています。
 いつもの青葉山や治山の森の尾根道を歩くと、モミの木の根元などに群落をつくっていて、今の季節は、雪の下から赤い実をのぞかせています。
 ヤブコウジの名の由来もこの赤い実からきています。コウジ(柑子)とは、ミカンより小型の果実で、晩秋に熟すと赤味をおびた黄色になる柑子蜜柑(こうじみかん)のこと。ヤブコウジ は、実や葉がこの柑子に似て、山地の藪に生えることからと名づけられたものです。

 ヤブコウジは、大きく育って高さが10㎝から20㎝程度。小さな幹の直径も1㎝あるかどうか、その先に車輪状の葉をつけます。低木というよりは草本に近い印象で、土中に細い地下茎を長く伸ばし、所々で地上に茎を出し、直射日光のあたらない湿り気のある場所で仲間を増やしています。密に群生し、群落をつくることが多く、日かげや寒さにも強いので、森林の地表を広く覆い、他の低木とともに、地面の乾燥や崩壊を防ぐ役目もしています。

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車輪状の葉の下につく赤い実       群生するヤブコウジ

 ヤブコウジの若葉が美しく萌えているのに出会ったのは5月でした。
 森を歩いて足元に目をやると、深緑色の葉の上に、黄緑色の若葉が光っていました。この若葉はしだいに緑を濃くしていきます。十分に光合成が行われるようになると、これまで働いてきたもとの葉は、その役目を終えてひっそり落葉していきます。ヤブコウジは1年中、緑の葉をつけているように見えますが、新葉と入れ替わるように元の葉が落葉しているので、年中緑の葉があるように見えるのです。

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     5月。森の地面は、ヤブコウジの萌える若葉で覆われます。

 ヤブコウジの花は、7月から8月頃に見られます。花は小さく、葉のかげに、ひっそりと下向きに咲くので、山道を歩いていてもほとんど気がつきません。
 たまたま崖の上に生えていたヤブコウジの花を見つけ、それからは、花の季節が来ると、かがんで葉の下をのぞくようにしています。
 つぼみは前年にできた葉の腋に複数つけます。開いた花は、直径が5~8mmほど。5つの花びらが基部で1つになっている合弁花で、白あるいは淡いピンク色を帯びて美しく、その花びらには、小さなそばかすのような紫色の斑紋が見られます。花の中心に雌しべ、その周りを取り囲むとがった形をした葯(雄しべ)が5つ。
 ヤブコウジの学名は「 Ardisia japonica」で、種小名のjaponicaは「日本産の」を意味し、属名Ardisia はギリシャ語で「矢または槍の先端」を意味する「Ardis」(アルディス)からつけられたとされています。(「植物の世界」:6-28.朝日新聞社

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  つぼみの形     つぼみ・開いた花・散った花も     突き出してるのが雌しべ

 葉の下に隠れたこんな目立たない花に、花粉を運ぶどんな虫がやってくるのか、気になるのですが、見たことがありません。アザミウマ類がくるという報告が一部にあるだけで、観察記録も見られません。でも、確かに受粉して赤い実をつけているので、花粉の媒介者がいることは間違いないことです。

 受粉が終った花の花びらは、ポトンと落ちて、その後にかわいい実ができます。この実が赤くなるのは、晩秋の頃。濃い緑の葉かげに、5mmほどの球形で艶々した赤い実が顔をのぞかせます。

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 受粉終え  落下する花    最初の実は  緑色      熟し始めた  赤い実

 赤い実ができる頃、常緑樹であるはずのヤブコウジの葉が、紅葉しているのをよく見かけました。赤い実と紅葉の組み合わせも美しいと思ったのですが、紅葉している葉は、直射日光や寒風にさらされて弱っている兆候のようにも感じました。紅葉の葉は、環境がよくなって緑の葉にもどるのもあれば、そのまま落葉してしまうのもあるようです。

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 直射日光のつよい所で  紅葉が見られます。     紅葉と赤い実のコラボ

 赤い実は冬になるにしたがって、つややかさを増し、深緑色の葉とのコントラストも美しくなるので、昔から、縁起物として、お正月の蓬莱台の上に飾られたり、冬の花材となって、慶事やお祝い事に用いられたりしてきました。
 その歴史は古く、ヤブコウジはヤマタチバナ(山橘)という古名で、「万葉集」(759)や「源氏物語・浮舟」(1010)にも登場します。
 万葉集の編者で歌人でもあった大伴家持が、師走に降る雪を見ての一首。

  この雪の 消残る時に いざ行かな 山橘の  実の照るも見む
                    (万葉集・巻19・4226)

 この雪が消え残っている中に、さあ出かけよう、そして山の橘が輝いているのを眺めようじゃないか(折口信夫・「口訳万葉集」)
 寒い雪の中でも照り輝く実を見たいという、声の弾みが朗らかに伝わってきます。当時の人々にとって、ヤブコウジの実は、大変な魅力的なものであったのでしょう。

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         古人の心をときめかせた雪に照り輝く赤い実

 文献によれば、江戸時代に、ヤブコウジは園芸品として扱われ、特に盆栽が異常な人気で、高値で取引されていたようです。明治になると、ヤブコウジは、新潟に端を発して、全国的に投機の対象とされ、売買が過熱。園芸家だけでなく一般市民も巻き込み、他県にも波及し、本元の新潟県では倒産者や家財を傾ける者も出るしまつ。とうとう新潟県知事が「紫金牛取締規則」(明治31年・1898年)を発令して販売を禁じています(紫金牛はヤブコウジの生薬名)。投機の対象は、山に生える緑の葉のものではなく、葉に模様(斑)が入る変わり物ではあったのですが。

 ヤブコウジと同じように、江戸時代に取引されていたのが、カラタチバナでした。カラタチバナは、百両ほどで取引されたので、「百両金」と呼ばれました。それを契機に、百両金よりも縁起のよい木として「仙寥(せんりょう)」の木に「千両」の字が当てられ、さらにこれより縁起のよい木として「アカギ」と呼ばれていた木がマンリョウ(万両)として登場してきます。赤い実をつける植物ということで、ヤブコウジに「十両」、アリドオシに「一両」の字が当てられました。
 これらの植物は、本来の名前があっても、江戸時代の貨幣単位のついた名で呼ばれ、とうとう、「億両(おくりょう)」(ミヤマシキミ)まで登場してきたのでした。

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 ミヤマシキミ(億両)    アカギ(万両)     センリョウ(千両)

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 カラタチバナ(百両)   ヤブコウジ十両)   ツルアリドオシ(一両)

 これらの植物は、それぞれの生活史を持ち、互いに比較することのできない独自の美しさがあります。本来の名前は、その植物の特性や個性を語るものでしょう。それが、値踏みされて「○両」と名づけられると、浮かんでくるのはその美しさや特性ではなく「小判」のイメージ。縁起のよさを売り物に、赤い実をつける植物をより多く売らんとする魂胆だけが見えてきます。
 万葉の時代に見られたヤブコウジの実の美しさに感動する感性や草木たちを愛でる素朴な思いは、近代になるにつれ、金儲けという資本の論理によって、しだいに歪められていったことをうかがわせるものです。

 古典落語の「寿限無」が作られたのも江戸時代でした。
 長屋の八っつぁんが、わが子につけるめでたい名前がほしいと、和尚に聞いて書いてもらったのが、「寿限無」から「長介」までの12個の名前。森羅万象、数あるめでたい事物のなかから、唯一具体的な名であげられたのが、「やぶらこうじのぶらこうじ」という植物です。それも、当時評判の「千両」でも「万両」でもなく、「十両」である「ヤブコウジ」の名が、そのままです。春に若葉を生じ、夏に花開き、秋に実を結び、冬に雪をしのぶ、生命力あふれる植物だからというのが、和尚の講釈。
 八っつぁんは、どれを欠いても後悔するからと、全部の名をつけてしまうわけですが、金持ちでも出世でもなく、ただひたすらわが子の長寿を願って、長い名をつけ呼んでいるところに、庶民のまっとうな親バカぶりが感じられて、なんとも爽やかな気持ちになるのです。(千)

◇昨年1月の「季節のたより」紹介の草花

林先生とのこと(その1)

 大学時代、私は、林竹二先生の教育哲学「ソクラテス」の講義を早々と脱落してしまった。田中正造関係の本からだったろうか入学時から林先生の時間を楽しみにしていたのだが、ただその時間に顔を出すだけでソクラテスに近づくどころかどんどん遠のいていき、ついて行けなくなったのだ。ふりかえると、「学ぶこととは何か」が私にまったくなかったことによる。教育実習で中3のY子から「それでも先生になるのですか!」という抗議の手紙を突きつけられたのも、そこを見事に見抜かれたのかもしれない。
 その時、Y子の手紙を「ソクラテス脱落」に結びつけて私は考えることはなかったが、現場での仕事をつづけるなかで、Y子の手紙は、ことあるたびに私を叱咤し、「ソクラテス」を思い出させた。

 ソクラテスの脱落者でありながら、先生の動きについての関心は薄れなかった。林先生が遠く沖縄の小学校でまで授業をするようになったことなどまでも・・・。
 県教組教育文化部担当専従になっての2年目の1975年、学長を6月で任期満了になることを知り、秋の教育研究集会の記念講演を電話でお願いした。すると先生からは、「電話で返事はできない。あなたと直接会って話を聞き、そのうえで決めましょう。場所は授業分析センターで」とのことで、直接お会いすることになった。もちろんソクラテス以来だ。

 お会いしてどんなことを話したかの記憶は薄らいだ。ただ、先生は話のなかで、「去年の講演はM先生のようですが、M先生と私はずいぶん違うように思うのだが・・・」と言われ、(先生は、私たちの研究集会を調べたんだ)と思いドキッとしたことと、私は「教師・親の集まる場で授業を考え合いたい。そのために先生のお考えになる授業についてのお話をぜひお聞きしたい」と繰り返し述べたことは今も頭に残る。
 先生はその場で快諾してくださり、私は気が楽になり、しばらく雑談。当日の演題も話し合いの最後に「授業の可能性」と決まった。

 研究集会は10月31日から3日間、古川市民会館で全体集会、引き続き場を鳴子温泉に移して各分科会をもった。
 後日発行の宮教組新聞号外は集会を特集、その1面には「集会参加者は父母の参加を含めて総数約900名」。林先生の講演については「感銘を与えた記念講演」という見出しで要旨を紹介し、最後に参加者のひとりの感想「“子どもの表情の美しさ” と “きびしく授業を組織したときのみ質の良い集中が生まれる”、この二つのことが頭にやきついてはなれない。講演を聞きながら学級の子どもの表情がちらついてはなれなかった。私の学級にもあんな子はいたのではないかと。(後略)」で締めくくられていた。
 後日、『教育文化』(宮教組機関誌)を林先生の講演特集として組むことを編集会議に提案。林先生にお願いをし、すぐ快諾を得た。そのとき、先生の方から「講演で使った授業の中の子どもの写真も入れましょう」と言っていただいた。出来上がったのが「教育文化  第136号 特集  林竹二  授業の可能性」。

 刷り上がった『教育文化』を北山のお宅にお届けすると、先生はたいへん喜んでくださり、なんと、「今後講演依頼があれば、前もってこの『136号』を読んでおいてもらうことを依頼を受ける条件にしましょう」とまで言ってもらえたのだ(*当時「教育文化」の誌代は150円)。さっそくそれは先生のお考えのように運ばれ、その後、先生から「〇〇に◇◇冊送るように」という電話が何度も入り、「136号」はあわてて増刷という、『教育文化』にとって後にも先にもないことが起こった。
 そんなこともあり、先生ともしだいに『教育文化』のことに限らず、電話でいろいろな話をするようになっていった。

 翌年の1976年5月、『林竹二・授業の中の子どもたち』が小学館から出版され、贈っていただいた。先生はその「あとがき」を次のように書き始めている。

 私は1971年2月に、福島県郡山市の山間部にある小規模校白岩小学校で、6年生を相手にして、はじめて「人間について」の授業をしたが、それがきっかけになって、それから5年の間に、200回余りの授業をすることになった。授業の都度、私は子どもたちに感想を書いてもらうことにしているので、私の手元にある子どもの感想は、膨大な分量になる。私はその感想を通じて、子どものもつ感受性の鋭さ、ゆたかさ、ふかさにくりかえして驚かされている。子どもが贈ってくれる感想の尽きない新鮮さにはげまされるのでなかったら、授業がしらずしらず200回を越えるようなことは、到底ありえなかったであろう。(後略)

 先生が子どもの感想文を、「子どものもつ感受性の鋭さ、ゆたかさ、ふかさ、新鮮さ」と受け止めていることに、私は少なからず衝撃を受けた。子どもの側に立てば、感想文をそれほど苦労はせず思いのままに書いたはずだが、それを、このように読んでもらえる喜びの大きさははかりしれないだろうと思ったのだ。この「授業の中の子どもたち」は、子どもたちが林先生と向き合う姿を、小野成視さんが写真で子どもたちの心の内を見せてくれた。

 同年7月、林先生の永年の田中正造研究が『田中正造の生涯』としてまとめられ講談社から出版、毎日出版文化賞を受賞された。
 私は本を贈っていただき、「日向康さんたちが出版を祝ってくれるというので、あなたもおいでになりませんか」と先生から直接お誘いまで受け、当日、ほとんど知らない方々のなかに体を硬くして座りつづけていたことを思い出す。
 先生は、その著書の「まえがき」を次のように始めている。

 1962年に、「思想の科学」が、没後50年を記念して、田中正造を特集したときには、田中正造は一般にはほとんど忘れられた人であったが、今日では彼はひどく有名な人物にされてしまった。だが、それは公害問題がかまびすしくなったおかげで、けっして田中正造がよく知られるようになったわけではない。田中正造は今日でも知られざる人である。田中正造は、小説家や劇作家には好個の題材であるのに、その研究者は乏しい。これはどうしたことであろうか。
 14年前に、私ははじめて田中正造に関する論文を書いたが、完結できなかった。その後、島田宗三氏とその『余禄』に出会って、勇気づけられ、もう一度田中正造にいどむ気を起こして本著の執筆を思い立ったが、それから9年の歳月が経過してしまった。(後略) 

 その後間もない頃でなかったかと思うが、先生が講演先の北海道で体調を崩され、東北大の附属病院に入院されていることを知り、病室を訪ねたことがあった。先生は思ったよりもお元気で起きておられ、ニコニコと迎えていただいた。枕もとには、青色の小さい黒板が置いてあり、そこに目をやると、気づいた先生が笑顔のままで「授業のために字を書く練習をしているんです」と話されたのには少なからず驚いた。
 翌年の初めに、沖縄久茂地小学校での「開国」の授業が予定されていたことも、病室に黒板をもちこんだ理由のひとつであったろう。先生は2カ月程度で退院できた。ーつづくー( 春 )  

免許更新2題

 今年の初仕事?は、車の運転免許更新となった。昨年秋、高齢者講習を受け、年明けの5日、運転免許センターに赴き、新しい免許証を入手してきた。これからは3年ごとに更新が求められる。今回、車から手を引くことも少なからず考えた。というのも高齢者による交通事故多発のニュースが人ごととは思えなくなったからだ。そしてSDGsの一つ、いわゆる二酸化炭素削減の世界的目標もその一つになる。

 しかし、その一方で、介護している母が通院を必要とする時の交通手段に自家用車は手放せない。それ以外でも自家用車に代わる交通手段である公共交通機関の問題が残った。居住地を走るバスの不便さだ。1時間に1本しか回ってこない。研究センターに行くのも、せめて1時間に2、3本あれば、そんなに悩まずにすんだ。さらにもう一つの心配は、年末に、日頃、買い物で利用するスーパーが撤退するかもしれないという話を耳にしたからだ。地元のスーパーはとうの昔になくなり、今は隣りの団地のYスーパーが唯一の店舗になっている。それが撤退するとなれば、やはり車はまだ手放せない。悩ましい問題である。

 タイトルにあるもう一つの免許更新といえば、第1次安倍政権が法改定し、2009年度から導入した教員免許更新制度がある。教員免許状の有効期間で、10年ごとに免許状更新講習(大学等が開設)を30時間以上受講し、試験に合格しないと失職する制度。この制度で過去10年、どれだけの現役の教員が苦しんできたか。講習を受けるため、教室をあけたり、貴重な長期休みを削ったり、さらには受講のための交通費や宿泊費も自腹とあっては、たまったものではなかったに違いない。そして何よりも何故このような更新が必要なのか納得がいかない。医者や看護師には医療機器がどんどん進化しても免許更新は求められない。なぜ教員だけにと考えるのは当然だ。

 この更新制に対し、文部科学省中央教育審議会で廃止意見が続出しているという。当然のことだ。中教審は今年1月14日の初等中等教育分科会で、「令和の日本型学校教育」の答申案を確定するらしい。その『中間まとめ』は「教育委員会が実施する研修との重複などの負担感が課題」「より包括的な検証を進める」など、更新制の改廃に言及している。

 というのも、昨年10月15日の中教審教員養成部会で、岐阜県教委の義務教育総括監は「更新制が学校の教育活動に役立っているか」という設問への「否定的回答が県内市町村教委で7割強、高校・特別支援学校で7割弱に上る調査結果」等を提示し、「更新制の負担は大。法定研修の充実などと合わせて、更新制の廃止を検討できる」と発言したことが報じられていた。京都府の教育長も「更新講習の受講が目的化されていないか」と述べ、「都道府県・市町村が実施する資質向上施策(研修等)との互換措置の検討」を提起した。

 同じく10月28日・29日の中教審特別部会のヒアリングでも、更新制に対し保護者や教職員組合から、「ぜひ早急に検討に入り、廃止してもらいたい。重ね重ね廃止を切望します」「教員の多忙感を増大させていることは明白。直ちに廃止を」などである。
 それに加えて、今、教員のなり手が減少しているという。10年ごとに講習を義務づけられるのでは、たまったものではないと考えても不思議ではない。

 そもそも、長年、中学校などで無免許の教科を担当させてきたり、小学校でも無免許で英語を教えさせてきたことを、どう総括しているのだろう。

 更新講習には憲法に則り子どもに寄り添う講義をする大学教授がいる反面 、学習指導要領や校長命令への服従を説く教育行政からの  “ 天下り教授 ”  もいるというのでは話にもならない。悩むことなく即廃止すべき問題だ。 <仁>

今年の「はじまり」

 今年の元日は、雪の一日で始まりました。朝から雪がずっと降るのは久しぶりのような気がします。台原森林公園佐藤忠良さんの「緑の風」詣でにでかけたいところですが、しんしんと降り続ける雪に諦めました。家で一日ゆっくり過ごすことに。
 外は雪が降っているためでしょう、昼過ぎでもほとんど人は出ていません。それでも近くのコンビニに買い物に出かけてみると、そこには思いがけず多くの買い物客で賑わっていてびっくり。店長さんから「明けましておめでとうございます」と声をかけられて、何となくお正月気分になりました。

 打ってかわって2日は朝日が昇り、その陽ざしが積もった雪に反射して、この世界をくっきり明るく照らしました。空気は凛として冷えきっていますが、陽気にも誘われて、元日に行くことのできなかった台原森林公園の『緑の風』にあいさつに行ってきました。
 今年は、冬の学習会がないので明日から仕事始めになります。コロナ禍で不自由な状況はしばらく続きそうですが、その時々の状況に一喜一憂せず、できることをたゆまず取り組んでいきたいと思います。みなさん、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。(キヨ)

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1月2日の『緑の風』

  はじまり

 畠があり川があり
 また畠があり森などもあって
 ついには地平線がある

 背中をのばして地平を見つめ
 地平の奥の雲を見つめ
 雲の向こうの青さを見つめ
 青さのなかの見えない星を見つめ・・・・・
 おお 目が痛くなるのだが
 何もないあそこから
 何かがはじまっているようだ

 光が駆けぬけた!
 風が追いぬいた!
 ・・・・・・・・・
 空はいま
 いまのいま 突きぬけた!

 忘れたいことがあり
 忘れたくないことがあり
 判りたいことがあり
 判りたくないことがあり・・・・・
 でも しかし・・・・・
 だが しかし・・・・・
 そんなことどもは まるで
 どうでもいいようなふうに

 ごうごうと 地球はまわりつづけ・・・・・
 あらゆる生き物の鼓動をのせて
 ごうごうと地球はまわりつづけ・・・・・

 目まいしたわたしの前に
 相変わらず畠があり川がある

 光が また駆けぬけた!
 風が また追い抜いた!
 ・・・・・・・・・
 空はいま
 いまのいま 突きぬけた!

 何もないあそこから
 確かに何かが始まっているようだ

 (工藤直子さん『てつがくのライオン』より)