mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

八島正秋さんのこと(その4)

 八島さんの後を継いで組合専従になった私は、学校をすっかり離れてしまうことに未練が出て、会議などのない日を選んで週1回、朝1時間、原籍校のMさんのクラスで授業をさせてもらい、それから書記局に行った。もちろん、私の勝手であった。学校には遊びに行く形で行ったのだが、それを聞き知った校長から「休職者に授業をさせることは・・・」とMさんが言われたというので、1学期で止めることにした。それを、八島さんに話すと、「じゃ、オレの教室でやればいい」ということで、2学期から年度の終わりまで週1回、4年生の子どもたちと一緒した。その時の教室の温かい雰囲気は今までの私の教室にないものだった。週1時間だが、その1時間の間に何気なくかもしだされる教室の雰囲気は「教師八島」のつくりだしたものであることはまちがいなく、私の学びの場になり、現場にもどってからの私への目標を大きくふくらませてもらった。 

 さて、専従期間を入れて向山小学校在籍が10年になった八島さんは、「面積の授業」の翌年の1977年、荒町小学校に転任した。私はその前年、専従期間の3年が終わり原籍校にもどっていた。現場を離れた3年間だったが、私もまた、たくさんの方との出会いに大きな刺激を受け、新たな自分を再出発させていた。

 荒町に行った八島さんと会う機会は減ったが、八島さんの仕事はすさまじかった。『八島正秋の仕事』の中に記されている資料「八島正秋論稿目録」によると、算数・数学関係書に発表しただけの実践報告だけで10数本あり、その他にいろんな会に提出した実践報告も数多い。その中からいくつかあげてみる。「教室から『a×0t』をどうしていますか」(数学教室)、「私のした2つの授業」(明治図書)、「確かな教材解釈こそ」(現代教育科学)、「かけ算の導入『重要教材指導案集』」(現代教育科学)、「『理解力、思考力がないと思っていた子』をとらえ直した実践」(授業実践)、「小数の授業がうまくいきました」(わかる授業)などなど。

 これらの過労からだろうか、荒町4年目の3月、体調を崩して入院。短期の自宅療養もあったが、81年6月、南小泉の東北逓信病院に再入院することになった。
 私はほぼ毎日曜、病院を訪ねた。八島さんは喜んでくれた(と思う)。二人の “ 教育バカ ” は、病室であることを忘れて、毎回教育の話ばかり繰り返した。林竹二批判が目的でなかったかと思われる「現代教育科学」の話をしたときなどは、ベッドに寝ている自分を忘れたかのように八島さんは激怒し、私は大いにあわてたこともあった。

 病状はしだいに進んでいることは私の目にもわかるようになった。それでも、行けば、変わることなく教育の話に終始した。ただ、1度だけだったが、私の前で突然看護室にコールし、「注射を打ってくれ!」と言ったことがある。「まだ3時間経っていないでしょう」と断れると、「バカヤロウ!」と叫ぶのだった。よほど我慢できなかったのだ。
 私は行くたびに、「今までの疲れがたまったんだから、ゆっくり休めば治るよ」と繰り返す。そのたびに、八島さんは素直に「うん」と返事をしつづけた。
 しかし、死後、奥さんの話によると、病室の片づけをしていたとき、枕もとのケースの下に紙片があり、12月末の日付けで、家族にあてた別れの言葉が書いてあったというのだ。聞いて私は驚いた。八島さんが亡くなったのは3月26日。その直前まで私は「大丈夫、直る。」と言い、八島さんは「うん」と言いつづけていたのだから・・・。

 1982年3月26日の夜、サークルから帰ると、「八島さんが亡くなった」という連絡が入っていた。あわててすぐ、病院に向かった。何度声をかけても八島さんはもう返事をしなかった。なんと、まだ50才だったのだ。あまりに早すぎた!
 奥さんから、「葬儀委員長は春日に頼めと言われたので、どうぞよろしく」と言われた。「荒町小が考えるのではないか」と言っても、本人の希望だからぜひやってくれと。それ以上何も言えず、「やります」と言っていったん家に帰った。
 翌朝、荒町小に行った。学校では私の推測のように打ち合わせを済ませていた。わけを話して了解を得、その足で寺に行き、種々打ち合わせをした。聞き知った民教連の仲間たちがかけつけてきて、私は名ばかりで、多くの仲間の力で八島さんとお別れをすることができた。 

「教育文化」誌は、同年の6月号で「故八島正秋先生追悼特集」を組んだ。そのなかに高橋金三郎先生が「八島正秋と実践検討会」と題する一文を寄せておられる。先生は、以下のようなことを述べている。 

(略)どんな場合でも八島は実践者としての立場を棄てなかったが、教文部長としても執行委員としても献身的に行動したらしい。けれどもこの三者はそれぞれ別個の才能、別個の神経、別個の努力を必要とするものである。八島にそんな才能、神経があったとは思われない。人の数倍も努力して結局はからだをぼろぼろにした、としか私には思われない。(中略)八島正秋は誠実な実践家だったが、ろくに記録も出さず本も書かなかった。彼の実践の本物であったことをみんなにどうやって伝えたらよいだろう。

 金三郎先生は、実践家としての八島さんの最高の理解者であったと私は思っていた。ゆえに、八島さんへの期待は大きかった。八島さんが多くの実践記録を書いていることも知っていながら「ろくに実践も出さずに~」と言っている。これからにますます大きな期待をもたれていた先生はそう言わずにはおれない悔しさがあったのだと私は思った。現役生活を10年も残して仕事にピリオドを打つことになってしまい、だれにもかかりようのない金三郎先生はそういうよりほかなかったのだ。もちろん、口には出すことはなかったが、八島さん自身がもっとも悔しかったはずだが。

 そして、「彼の実践の本物であったことをみんなにどうやって伝えたらよいだろう」と先生に言われると、何もしなかった、できなかったひとりとして私はただただ首を垂れるほかない。ー おわりー( 春 )

八島正秋さんのこと(その3)

 八島さんの後任についての話し合いで、私の名があがった。八島さんまで進めてきた宮城の教文運動を継承し進めることを誰かがやらなければならないことを考えれば、(オレには荷が重すぎる)と言うこともできず、私は立候補することを決意した。それでも、これまでは傍からヤイヤイ言ってきただけなのに、その仕事の任を果たせるか、その場に置かれた時を思うと内心の葛藤は容易ではなかったのだが・・・。

 決意を固めたのは、現場に戻るとはいえ、(これからも常に八島さんが支えてくれる)との思いがあったからだ。
 現場に戻った八島さんは、「教育文化」誌120号のあとがきに次のようなことを書いている。 

 ~~「いったい八島さんは何をしたんだや? 国民教育研究所の設立もだめだったし・・・」と辛らつに語った男がいます。A記者です。たしかに芳賀直義さんの「実践検討会」、菊池鮮さんの「教育文化」というふうにみてくると、(何の形もなかったなあ)と思います。
 ただ、うんと個人的なことを言えば、教文部長になる前の私と、教文部長を3年間勤めさせてもらった後の今の私とでは、個人としてはうんと成長させてもらったと思っています。
 そのひとつに、「人間をかぎりなく大切にする教育」ってどんなことか・・・ということが理屈でなく、体でわかったような気がするのです。もっとも、それはこれから実証されるのだと思いますが、その実践を書き綴って「教育文化」に送りたいと思っています。そんな形の「教文部長の実績」というようなものもあるのではないか・・・と、今はA記者に、こう答えておくより仕方がありません。(中略)
 仙台市立向山小学校。そこが私の原籍校です。ここに復帰し、4年3組36人の担任教師になりました。私の「教文活動」は今後ここを主舞台としながら、これまでと同じように続けていきます。3年間のご支援ありがとうございました。

 *注「教育文化」の編集会議にだけでなく、教文部には、若い新聞記者たちが取材目的ではなく
  雑談を楽しみによく出入りした。A記者もそのなかのひとりである。(春日)

 前回、八島さんの公開授業を「長期継続方式実践検討会と言われた」と書いたが、その一環として、現場にもどった年の7月に、さっそく、実践検討会「角と角度」(4年生)の授業を提案した。

 現場に復帰してまだ3か月後しか経っていない。授業にかける執念には驚くほかない。本人にそのつもりはなくても、前述のA記者への答えの始まりとも言えるだろう。
 そして、2年後の1976年、公開の実践検討会「面積の指導」(4年生)に取り組んだ。
 その「面積の指導」の意義と授業について、数学者の野沢茂さんは、『八島正秋の仕事』(すばる教育双書)のなかで次のように述べている。

 長方形の面積を求める公式 “ たて×横 ” をどのようにして導くのかは、算数教育の永年の課題になっている。
 「単位面積の正方形が、長方形にどれだけ敷きつめることができるか」と考えて “ たて×よこ ” の式を得ようとすると、1㎠の正方形がたて(よこ)に4列だから(1㎠×3)×4=12㎠ということになる。この方法は従来から採られてきた方法である。
 しかし、この方法でとりあえずは長方形の面積を求めることはできるが、その後の発展を考えるに入れるといくつかの難点が出てくる。たとえば、面積の単位は面積独自の単位ではなく㎠と長さの単位を使って表される。このことを明らかにするには、単位面積の正方形の個数では説明することは困難になる。どうしても、長さ・面積2量の関係を取り上げる必要が出てくる。
 八島さんの “ 面積 ” の授業は、こうした課題に対してのひとつの解答として示されたものである。(中略)

  長方形の面積をたて×よこの複比例として捉える指導は、八島さんの実例から数年たって、数教協の研究実践活動が、複比例に及ぶようになった時点で幾つかの実践が公にされている。八島さんのこの授業は成功とは言えないが、先駆的な試みで幾多の教訓を残してくれた授業である。

 八島さんの後を継いだ私は、まず、八島教文部長時から繰り返し話し合ってきていた「学校を考える」場を教文活動のひとつとして位置づけ、運動方針の中に「学校研究会をつくり、わたしたちにとっての学校像を明らかにし、民主的な『学校づくり』のために寄与します」の文言を入れ、「学校研究会」月例会をスタートさせた。
 数か月間、座長を八島さんにやってもらい、参加者による「学校」についての自由な話し合いをつづけ、その後、月ごとの主題を決めた。、「10月 校内校務分掌と校内研究組織」「11月 職員会の現状とあるべき姿」「12月 校長の任務」「1月 学校適正規模」「2月 PTA」「3月 学校行事」と、これが初年度後半のテーマだった。
 学校研究会とは関係ないことと思われるかもしれないが、いつまでも頭から離れることのない話がある。それは、いろいろお世話になったK校長が、フランスへ視察に行ったおり、「『あなたは何人の子どもの学校の校長ですか』と聞かれ、『子どもは700人です』と答えると、『それほどの人数をよくやれますね。私は、子ども全員の名前を覚えられる数でないと無理です』と言われ、恥ずかしかったなあ。」という話なのだ。それだけ?の話なのだが、学校を考えるうえで私にとっては妙に忘れ得ない話の一つであり、私のなかでは、校長だけの問題だけではなく、この「学校研究会」ではもちろん、仕事を考える時必ずと言えるほど浮かんでくる話だった。

 この学校研究会が発展(?)して、翌年、短期のミニ学校をつくり、学校のあるべき姿に挑戦してみようということで、短期の「夏の学校」を設置することになった。
 4年生・5年生、各30名と各教科担当教師を公募、4泊5日の合宿。すべてをオープンにして実施した。事務局は八島さんとSさんと私の3人が当たった。八島さんには教頭役をもお願いした。ほぼ時期を同じくして5年間つづけた。そこで得られたもの、得られなかったものが多々あるが、ここではその実際の報告は省略する。
 一言だけ添えておけば、5日間で「学校」を考え、そこから何らかの答を出すということはそもそも無理な話だったが、公募により集めた子どもたちによる限られた時間、そしてすべてオープンということで、各教科担任の力の入れようは並みでなく、集団で授業・子どもを考えるには大きな場になったのではなかったかと今でも思う。ーつづくー( 春 )

季節のたより73 ニリンソウ

  里山の林床を白く染める 野生のアネモネ

 里山の風景を残す田園地帯の小学校に転勤になったときのことでした。
 3年生を担任した新学期、家庭訪問で地図をたよりにこどもたちの家を訪ねました。近道をするつもりで道に迷い、雑木林の林道に入って偶然見つけたのが、ニリンソウの群生地でした。ニリンソウの白い花が、林床を真っ白に染めるように咲いていたのです。

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           雑木林の林床に群生するニリンソウ

 翌日、クラスのこどもたちにこの話をしたら、誰もその群生地のことを知りません。自然に囲まれた土地で育ったこどもたちですが、野山をかけめぐる遊びはすでに消えていたようです。放課後、希望者を誘って群生地を探検しました。次の年は雑木林周辺を春の遠足の目的地にして、半日野山を駆けめぐって遊んだあと、春風にゆれるニリンソウの群落につつまれてお弁当を食べたのでした。

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北海道から九州までの山地周辺に分布。    花期は4~5月頃、林床を白く染める。

 ニリンソウは、キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草です。早春の落葉樹の林床で、いち早く芽を出し葉を広げ、花を開いて実をむすび、林床が木々の緑でおおわれるまでに姿を消してしまいます。それで、カタクリキクザキイチゲなどと同じ、スプリング・エフェメラル(春の妖精)と呼ばれています。

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  ニリンソウは、初夏が訪れる前に開花、結実を行い、地上から姿を消していきます。

 ニリンソウは、学名が(Anemone flaccida)となっていて、日本に自生する小型のアネモネです。Anemone(アネモネ)は語源の anemos に由来し、ギリシャ語の「風」を意味します。ニリンソウの英名も「Soft windflower」(柔らかな風の花)」と呼ばれます。群生するニリンソウの花が風にゆれると、とても優雅、そのイメージで命名されたものでしょう。
 和名のニリンソウ二輪草)は、二輪ずつ花をつけるのでニリンソウ。同じキンポウゲ科に一輪の花をつけるイチリンソウがあるので、これに対してつけられたものです。いたって単純で分かりやすい命名なので、花は知らなくても名前だけは知っているという人も多いようです。

 ところで、このニリンソウですが、いつも二輪の花をつけるとは限らないようです。探してみると、三輪の花がありました。一輪や四輪もあるというので、探してみたのですが、これは見つかりませんでした。

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   花とつぼみの二輪の花    開花している二輪の花     三輪の花のニリンソウ

 ニリンソウが二輪か三輪の花をつけたとしても、これらの花が同時に咲くことはありません。1つめの花が咲き出したときに、2つめや3つめの花は、花柄も伸びていないつぼみで、1つめの花柄の根元にひっそりついています。花が咲き出すまでに1週間ほどの時間差があるようです。
 上の写真(左)は、1つめの花が見ごろで、2つめがほころび始めています。中の写真は2つの花が開き、後から咲いた花の花柄が短くなっています。右の写真が、三輪の花をつけているニリンソウです。一つめは花の終わりごろ、2つめの花が見ごろで、3つめの花がほころび始めの状態です。

 写真(左)を見ると、白い花が紅色を帯びています。じつはニリンソウの花の花びらのように見えるものは、花びらではなくガク片なのです。ニリンソウのガク片は紅色を帯びることがあり、咲いている花の先をほんのり紅色に染めているのもあります。ガク片は本来花びらを支える役目をしているのですが、ニリンソウの花びらは退化していて、昆虫たちを呼び寄せる役目は、すべてガク片が引き受けているようです。

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 ガク片が紅色を帯びたニリンソウ     花の先が紅色に染めています。

 ところで、ニリンソウは、なぜ時間差をつけて花を咲かせるのでしょうか。一度にたくさん花を咲かせた方が、花粉を運んでくれる昆虫たちを惹きつけ、昆虫たちも花から花へと飛び回れるので、受粉の可能性も高くなるはずです。
 でも、万が一気象の変化やその他の条件で昆虫がまったく訪れないことが起きたなら、群生しているすべての花が受粉できずに種子を残せなくなるでしょう。
 ニリンソウは地下茎をのばし栄養繁殖で増えますが、栄養繁殖ではクローンなので環境の変化にもろいのです。他家受粉で種子をつくり、様々な環境に適応できるような丈夫な子孫を残すことが、この地上で生き残るために必要なのです。
 時間差をつけて花を咲かせれば、もし1つ目の花が受粉できなくても、2つ目の花が咲く頃に、事態が改善しているかもしれません。それがダメでも、数は少ないけれど3つ目の花が控えています。ニリンソウの時間差をつけた開花は、起こりうる環境変化に対応し、最悪の事態を避ける備えのための知恵なのでしょう。

 群生するニリンソウを写真に撮っていたら、ニリンソウの花びら(ガク片)の数に違いがあるような気がしました。数えてみると6枚や7枚のもあります。すっかり5枚と思い込んでいたのですが、後で調べると、5枚、6枚がふつうで、まれに4枚や9枚以上のものも見つかるのだそうです。

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  群生するニリンソウ。花びら(ガク片)の数の違うものも混じっています。

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 花びら(ガク片)が5枚   花びら(ガク片)が6枚  花びら(ガク片)が7枚

 アバウトなのは、ガク片の数だけではありませんでした。真ん中に黄色に見えるのが雄しべ、そのまわりにある先端の白いものが雄しべですが、図鑑には「雄しべは多数あり、雌しべも多数」とあります。多数とは決まっていないということです。

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 中心の黄色が雌しべ     外側に飛び出す雄しべ   受粉のあとにできる果実

 いくつかの花のなかの雌しべと雄しべの数を数えてみました。雌しべが7~10個ほどで、雄しべは30個から50個ほどです。花によって、数にかなり幅があることがわかりました。

 花の役目は、花粉を運んでくれる昆虫を呼び寄せ、受粉を確実に行うことです。その役割を果たせるなら、花びら役のガク片が何枚であろうと、雌しべや雄しべの数が何個あろうとこだわらないということなのでしょう。
 ニリンソウは、花の開花に時間差をつける慎重さを備えながら、一方ではガク片や雌しべ、雄しべの数は、かなりアバウトのまま。ニリンソウの花の一つひとつが個性を持って咲いているように見えてくるから不思議です。

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 ニリンソウの群生は雑木林の林床だけでなく、小川ぞいにも多く見られます。

 ニリンソウが一斉に咲き始める頃、それに呼応するようにアイコ、シドケなどの山菜が次から次へと生えてきます。もちろん、ニリンソウも食べられるので、山菜採りの方には馴染みのある山菜です。ところが厄介なのは、ニリンソウは同じキンポウゲ科で日本最大級の有毒植物であるトリカブトの葉によく似ていることです。ニリンソウトリカブトは、似た環境に生育し混生しているので見分けが難しく、誤食した中毒例も報告されています。山菜採りは山菜にくわしい人と一緒に行動すべきでしょう。
 山菜が好きなのは、人間だけではありません。二リンソウの群生地でニホンカモシカに出会いました。食事の最中だったようです。じっと不思議そうにこちらを見ていましたが、警戒したのか崖を駆け上っていきました。
 里山の自然は、人と野生動物とがともに利用している場所でもあるようです。

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   野生動物たちの恵みにもなっています。    姿を見せたニホンカモシカ

 カタクリニリンソウなどの、スプリング・エフェメラルともいわれる早春植物たちは、奥山よりも里山に多く見られます。背丈の低い植物は、林床が暗くなるような奥山では生育できないからです。
 里山の雑木林は、薪炭や堆肥、山菜を得るため、人が自然に手を加えることで、早春植物をはじめ、多様な植物を育んできていました。
 ところが、高度経済成長期を通して、化石燃料、石油製品が生活に入り込むようになると、里山は手入れされずに荒れていきます。樹木が繁茂し、林床に光が当たらなくなれば、早春植物も育つことができません。里山に広く見られたニリンソウもその数を減らしています。地域によっては絶滅危惧種に指定されています。

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      里山にこの光景が見られるのは、いつまででしょうか。

 人の暮らしが自然から遠ざかると、里山の生態系がくずれていくだけではありません。昔から自然を相手に暮らしてきた人々の知恵や技が消えていきます。自然の恵みを受けて人は生きてきたという考え方も消えていくでしょう。
 ニリンソウは絶滅に向ってその数を減らしながら、人の自然との向き合い方について、無言の問いかけをしているようです。(千)

◆昨年4月「季節のたより」紹介の草花

千さんの訴えが、国を動かす⁉

 桜の咲くのが、早くなってますね。私が大学に入ったころは、入学した4月中ごろから下旬にかけて、新歓行事やサークルで先輩たちに連れられて花見に行った記憶が・・・。

 今年は昨年同様3月28日の開花で、平年より14日も早かったそうです。さらに満開はこれまでで最も早かった昨年よりも3日早く、平年より16日早い観測だったとか。気象台が観測を始めて以来、一番早い満開宣言になるらしいです。

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         3月31日・撮影            4月2日・撮影 

 写真は、台原森林公園にある佐藤忠良さん作「緑の風」を背後から撮ったもの。撮った時間や角度が多少違うし、そもそも比較しようと撮ったわけではありませんが、2日違うだけで自然がみせる世界はこんなにも華やいで、いのちのにぎわいに満ちてくるものなのですね。私のなかの自然も、うきうき躍動してくるわけがわかるような気がしてきます。

 ところで、千さんの訴えが国の方針を動かし変えた!というのは言いすぎかもしれませんが、朗報です。
 千さんが【季節のたより・特別編1】で書いた「気象庁の『生物季節観測』の縮小・廃止」ですが、専門家や市民から廃止を惜しむ声が相次ぐなかで、気象庁環境省は方針を転換し「対象から外れた種目を継続して観測する体制を作るため、新たに試行調査を始める」(詳しくは、毎日新聞デジタル版「生物季節観測、惜しむ声相次ぎ一転継続へ 市民参加調査も模索」)としたようです。新たな体制づくりの試行調査での継続ですから、ゆくゆくどうなるか心配ですが、まずはひと安心です。

 毎日新聞の記事によれば「市民参加による観測も検討」とあります。『センターつうしん102号』の「実践への招待」では、加藤幸男さんが「『はしりもの・かわりだね』のすすめ」を書かれています。学校での子どもたちの学習と連動した大きなプロジェクトに発展するかもなどと、勝手に楽しい妄想が湧いてきたりもします。

 新年度を迎えて元気にスタートダッシュといきたいところですが、県独自の緊急事態宣言に加え、新たに4月5日か5月5日まで「まん延防止等重点措置」が適応実施されることになりました。センターの活動も、引き続きいろいろ制限しながらの取り組みとなりそうです。みなさんにはご迷惑をかけることがあると思いますが、今年度もよろしくお願いいたします。(キヨ)

季節のたより・特別編(2)

  読んでびっくり! こんな 「指導書」 があったのか
  教師用としてつくられた『自然の観察』(昭和16年:文部省著作・発行

 前回の特別編の「こどもたちの季節感が失われていく」を『センターつうしん』101号で読んで下さった大沼敏幸先生から丁寧な感想をいただいた。そのなかに、戦前(昭和16年)に文部省が著作、発行した教師用『自然の観察』についての紹介があった。

 調べると、文部省著作、発行の教師用『自然の観察』は、戦前の国民学校初等科の1年生から3年生までの理科の教師用「指導書」として使用されたもの。終戦後の昭和21年(1946年)に、CIE(民間教育情報局)の指令で焼却処分され、実物はほとんど残らず、長い間、知る人ぞ知る本だったようだ。
 その後、復刊を望む声があがり、昭和50年(1975年)に広島大出版研究会、昭和57年(1982年)にほるぶ出版より復刻版が出版され、平成21年(2009年)には、関係者の努力で、教師用『自然の観察』(巻1~ 巻5)を1冊にまとめ、文章も当用漢字、現代仮名づかいに改められて、新たに『復刊・自然の観察』として農文協から発行されていた。

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昭和16年・文部省発行『自然の観察』(巻1~巻5)  農文協『復刊・自然の観察』

  紹介していただくまで、私はこの本についてはまったく知らなかった。
 『復刊・自然の観察』(平成21年・農文協発行)を読むと、「指導書」と感じさせない文章で、つい読み進めてしまう。例えば、昆虫を教材にした学習で、「バッタとり」に出かけるとき、目的地の野原まで歩く「途中の指導」を、次のような文章で書き出している。

 野道に出て、まず気のつくことは大空の様子である。日の光はやわらぎ、空はようやく秋らしく澄んできて、野山を歩くのが気持ちのよい季節になった。頭の上にはたくさんのアカトンボが入り乱れて飛んでいる。ツバメが電線に行儀よく並んでとまっていたり、鳴きながら高く低く飛び交わしたりしている。稲田には黄ばんだ穂が垂れ始めて、時にスズメがパッと飛び立ち、その羽の音に驚かされることもある。どこからか、キイキイというモズのかん高い声がひびいてくる。道端に咲くうす紫のノギクの花や赤いタデの花など、児童の親しみやすい秋草も美しく咲いている。これらに注意を促し、初秋の特徴を感じさせる。(「自然の観察」第一巻15課「バッタとり」)

 目の前に野道の情景が広がってくるようだ。季節ごとの草花、虫、鳥、動物などをとりあげた他の「課」の「指導」も、このような文章で自然へ誘うのだ。
 教師が子どもに「教える」ということについて、次のような文章もある。

 5月の特徴を感得させようとして、「野山の有り様は、4月に見たときと、どこが違っていますか。」というような指導をすることは控えたほうがよい。まず、教師自らこういう環境に身をおいて、季節の特徴を感じたり知ったりすることに、この上もない喜びを感じ、児童に先んじて自然より直接学ぶ態度をとるならば、児童も5月の野山を、そのまま素直にみるようになるであろう。(「自然の観察」第1巻 第8課 草花とり)

 レイチェル・カーソンのことばが思いうかんだ。その言葉と共鳴している。
 カーソンの『センス・オブ・ワンダー』では、情緒や感受性は知識を育くむ土壌だから、子どもは「知る」ことより「感じる」ことがはるかに重要。子どもの感性を新鮮に保つために、自然への感動を分かち合ってくれる大人が少なくともひとりそばにいる必要があると語っている。
 『復刊・自然の観察』の本の帯には、「レイチェル・カーソンに先立つこと約20年、奇跡のように生まれた日本のセンス・オブ・ワンダー」とあった。

 表紙カバー裏折りには、この本の特徴を伝える数行の文がある。
 「『自然の観察に教科書は不要。強いてつくれば教師は教科書で指導して、子どもを野外に連れ出すことをしなくなる』という趣旨から、教師用書のみを作成」と書かれていた。
 「自然の観察」に教科書はなく、“自然そのもの”を教科書に、子どもが直接自然に親しみ、自然から学ぶことをめざして、この「教師用書」は作られたのだ。
 指導のための「総説」には、「教師用書」の指導例は、あくまでも参考で、「地方によって教材を適当に取捨し、補充し、あるいは順序を変更して」学校独自のカリキュラム編成をしなければならないとしている。(「教師用・取り扱いの注意事項」)
 学習指導についても、今ある教科書の知識はやがて古くなるのだから、「既成の学問を前提とした知識・技能を教えこむことを避け、・・・(ものごとの)真実の姿をつかもうとする精神を涵養する」と書かれていた。(「理科指導上の注意事項」)
 この本を読んでいると、今日進められている教育が、戦前の教育より進んでいるのか、それともはるかに後退しているのか、どちらなのかと考えこんでしまう。

 この本が発行された昭和16年(1941年)は、国じゅうが戦時体制に向かい、日本が真珠湾を攻撃、一気に太平洋戦争に突入していった年である。この本も、その時代の影響は感じられるが、その内容に軍国主義、道徳主義精神の涵養に自然を利用する発想はない。ひたすら子どもが自然に親しみ、自ら学んで、自然のことわりを感じられることをめざすものになっている。
 なぜ、国のために命を捧げよと教えた時代に、このような本が生まれたのか、歴史のなかのどんな偶然、必然の要因があったのか、その解明はこれからのようだ。

 先日のサークルの例会で、この本の内容の一部をみんなで読んだ。文章の良さについて共通して語られた。現場教師のYさんが、この文章が気にいったと話してくれたのは、ページの欄外のメモのような文章だった。

 教師は多忙であるが、安全上から下見はかかせない。下見が自分の楽しみとして
 とらえられる教師になりたい。(第一課・「校庭の庭」)

「下見が自分の楽しみ」は、教材研究にも通じる。Yさんのいい感覚が欄外の文章に目をとめさせたと思うし、その感覚を引き出すことばが、欄外に書かれていたのだとも思う。
 教師用指導書『自然の観察』には、片隅の文章にも、自然と子どもと教育への深い洞察があり、それがことばの力となって伝わってくるようだ。
 とにかく、この本は読んでびっくり、こんな「指導書」があったのかと、目を見開かされる体験をさせてくれること、まちがいない。(千)

『春の教育講座』中止・延期のお知らせ

  ~ コロナは、やっぱり手ごわいぞ!~

 このDiaryで「2021春の教育講座・案内 ~ 今年はやります!~」とお知らせしたのが、3月22日。その日の宮城の感染者数は42人。前日21日の112人に比べればずいぶん減って、これで落ち着いてくれ!るかな?と思ったところが、そこからぐぐっと感染者がさらに増えて3月24日には171人。

 教職員組合のみなさんも、この1年余りの経験を踏まえていろいろ感染防止の対策を考えてきていましたが、この感染者の増加状況ではやはり開催は無理と判断したとのことです。
 「春の教育講座」は、次の仙台支部講座以外は中止・延期です。

 ★オンライン開催(事前申込)
  4月3日(土)13:00~15:00

  特別支援教育講座」
  講師  植木田潤さん
宮城教育大学

  【参加申し込み】こちら からどうぞ。

八島正秋さんのこと(その2)

 「教育文化」誌88号の裏表紙に、算数実践検討会の案内が載っている。
 その要旨は、「八島さんの長期継続方式実践検討会を開く。第1回は70数名の参加者だった。日時は、1970年9月26日 午後1時30分から。場所は向山小学校。授業内容は2年生の2桁のたし算。助言者は遠山啓さん」。
 9月は県教組役員への立候補は決まっていたと思うが、それとは関係なく、自分の仕事に位置づけている「長期継続方式実践検討会」を予定通りすすめたということになる。
 「八島正秋という人間は?」という問いに答えるとすれば、これがその一つの答えになろう。残念ながら私には、この検討会の記憶はない。おそらく不参加だったのだ。私が八島さんと同じ立場だったら、教師である自分のためになる最高の場であることは頭でわかっていても、立候補を口実に、検討会の厳しい授業者の立場から逃げたに違いない。

 私より長い付き合いのあった、国語サークルの門真隆さんが、追悼集「八島正秋のしごと」のなかで、次のようなことを書いている。
 「『八島さんと民教研』と言うと、私の頭にはいつも同じ光景がうかんでくる。冬の学習会の後のことらしい。その中で八島さんは古ぼけた座卓にむかってすわっている。その前には受付名簿や、箱に入った紙幣や硬貨がある。八島さんと民教研のかかわりは、そういうことだけでないのは自明のことだが、なぜこのことばかりがしつこくうかんでくるのか。食券つくりから受付までやったことも思い出す。八島さんは民教研の面倒でわずらわしい部分をも担ってくれていた。そういうことがうまかったとはとても思えない彼が。そんなことをしても八島さんは出つづけた。~~」と。
 八島さんは、このような姿を民教研に関わる場だけでなく、いろんな場で亡くなるまで見せつづけた。

 教文部担当専従になった八島さんは、その担当のひとつになる「教育文化」誌の巻頭言になる「主張」を多く書きつづけたが、その最初の号が95号(71年4月20日発行)で、「自己主張をこそ」のタイトルで書いている。それが以下の文になる。
 「9年間、子どもが学校にお世話になったけど、それまで、ご自分の意見を述べられた担任にお会いしたことがありません。どの先生も、判で押したように、『学校としては~~』とか、『教科書では~~』という言い方しかなさらないんです。わたしたちは、もっと先生ご自身がどう考えていらっしゃるのかをお聞きしたいのです。~~」
 これは、教研集会に参加した母親の発言である。一母親の発言ではあったが、多くの父母を代表した、教師への批判でもある。私はこれを「あなた方は、口を開けば自主的・創造的な子どもを育てるとか、子どもには自分の思ったこと考えたことを言いなさいとか言っているけど、当の教師が少しも自主性がないのではないか」と言っているように聞いた。
 残念ながら、この問題は認めなければなるまい。

 どこの学校でも、学年内は歩調をそろえてとか、学年統一してとかいうことが、なんの疑いもなしに言われている。しかも、それが、管理職者から言われるだけでなく、進歩的だと言われる教師からさえ聞かれる。
 統一というコトバは美しい。歩調をそろえてというコトバもひびきがいい。(中略)
 教育の自由は、学問の自由、研究の自由によって支えられるべきことは明らかである。してみれば、性急な統一は避けなければならない。まして教育は、多数意見に従うべきだなどというすじあいのものではない。そこではむしろ、頑固とも思えるほどの自己主張がなければならぬ。そして、それを互いに保障しあうところに、ほんとうの統一が生まれる。
 そのとき、はじめて、さきの母親の批判に応えることが可能なのではあるまいか。

 この第1回の「主張」につづいて、「はみだしっ子」「いいわけをしない教師に私はなりたい」「小さな実践をつづけよう」・・・と、主に、教室・子ども・授業を取り上げた「主張」がつづいた。これもまた八島さんだからこその内容で今でも少しも古くなっていない。しかも、書くだけでなく、その広がりのために県内を駆けずり回った。
 その「主張」のなかには、「異常ではないか」というものもあった。それは、
 「宮城県子どもを守る会が主催して、算数の教育講座を開いたら、100名を越す母親たちが集まった。そして、二日間も続けて熱心に勉強していった。しかも、第2回目の講座を企画したら、たちまち100名を越す参加者が集まった。(中略)母親たちが、ほんとうに今の学校教育を信頼できるならば、実は企画は完全に失敗するはずだ。この企画が図にあたったという事実のなかに、今の教育現実の異常さがあるのではないか。」というものだ。書き始めと終わりだけだが、何が「異常ではないか」と言っているかはおわかりいただけるだろう。八島さんの活動は学校外にもおよんでいたのである。

 八島さんが教文担当になった年だったと思うが、「吉田六太郎さんが今年退職なそうだ。それで、岩手の冬の学習会は、六太郎さんが校長をしている盛岡のT小学校を会場にもつという。六太郎さんへの挨拶に行こう」と誘われ、冬の盛岡に八島さん運転で行ったことがある。たしか冬休みの長かった岩手の冬の学習会は、宮城の終わった後だったのだ。
 東北民教研に途中から参加した私には、吉田六太郎さんは既に岩手民教連を代表する顔であった。ちなみに、東北民教研30年史を開くと、第2回水沢集会の報告に事務局として顔を出し、吉田六太郎名で、「講師決定」という次の短い文が載っている。

 内山完造(国際)松丸志摩三(農村)丸岡秀子(婦人)に交渉。松丸さんはおくさんが亡くなり、会は弔電をおくる。平塚行蔵・後藤俊一・ナガイショウゾウ、地図をたよりに東方学会に行き、松岡解子先生の快諾を得、石垣綾子さん宅に向う。ここでは主人の玄関払いにあい、くたびれた体と心をはげまし、雑木林のある耕地を通って斎藤秋男先生宅(練馬区石神井)を探しあて快諾。お茶・菓子の接待を受け歓談。講師決定。万事ととのったと喜び、水沢に帰る。

 水沢集会は1953年。講師依頼のため、東京の自宅を訪ねて頼んであるいたのだ。この短い吉田報告を読むことだけでも、当時は会をつくるのにこんな苦労を重ねてつくりあげていったことが、遅れて参加した私にも響いてくる。それを知っている八島さんは、退職する自校を会場にもつ吉田六太郎さんに直接挨拶したかったのだ。
 吉田さんはたいへん喜んでくれた。その姿を目にしながら、一緒に来てよかったと私も思った。
 帰りは夜になっており、冬の岩手路は宮城のそれとは大きく違っていた。途中から、タイヤのチェーンが切れたらしく車をたたくような音がし出した。「チェーンが切れたんでないか」と言うと、八島さんは「大丈夫だ!」と繰り返し、背を丸くしてそのまま運転をつづけた。私は黙った。そして、喜んで何度も「ありがとう」と言った吉田さんの姿を浮かべていた。築館を過ぎたころから、道路の様子も緊張をほぐしてくれた。

 ついでに、八島さんと2人で冬の学習会会場を探し歩いた情けない思い出を書きおく。
 宮城の冬の学習会への参加も私は途中からの参加者であり、確かではないが、第10回(1966年)ごろからではないかと思う。会場はいつも白萩荘(現在のホテル白萩)だったように思う。記録でみると、1泊2日で、会費300円・宿泊費1000円。これも私には記憶は定かではなく、改装のためだったろうと思うが使用できなくなり、14回から会場は、新しくできたばかりの松島大観荘に移した。初めは宿泊費1300円と安かったが、16回は1500円、17回(1972年)は2000円となり、「大観荘はダメだ。これでは参加者は減っていく。安いところはないか」という声が高まった。
 その声を受けて、八島さんから「安い宿泊場所を探しに行こう」と声がかかった。
それからが大変だった。何しろ安くなければならない。さんざん考えた末に、「自動車練習所の赤門の宿泊施設は安い」ということで、赤門に行った。たしかに安い。でも、見せてもらうと、すべて個室で2段ベッド。話し合いなどできる部屋はない。
諦めて帰ろうとすると、(カモを逃がしては)と思ったか、オーナーが「今は使っていないが、西花苑に宿泊施設があり、すぐ稼働できる。広間もあるしすべて畳の部屋だ。使用していないので、3食1800円でいい」という。2人は1800円に素直に喜んだ。
 案内して見せてもらい、即「西花苑」に決めた。
 しかし、どうだ。そうそううまくいくものではない。当日、夜になって電源が止まった。ヤシの木が2~3本立つ大きな風呂をのぞくと、「寒くて上がれない!」と騒いでいる仲間がいる。そちこちの部屋は、「雪が吹き込んでいる」と座布団までつかって布団にもぐっている。翌日、寒さを我慢しての半日。解散するときには、「少しぐらい宿泊費が高くなってもいい」と参加者は口をそろえて言う。
 かくして、冬の学習会は翌年からまた大観荘にもどった。ーつづくー( 春 )