mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

意味が通じればいいのだろうか

 夏のこくご講座で、助詞の「と」と「でも」をめぐり楽しい議論が交わされたことは、8月30日のdiaryに書きました。

 その後、こくご講座の世話人でもある千葉さんは、小学校の国語教科書のなかで助詞がどのように使われているのかを調べ、その内容を文章にまとめ退職教職員の方々でつくる会の会報「おーい!」に載せました。
 その中で述べられていることは、夏のこくご講座がめざした「 文法から広がる読みの世界!」に通じるもの。ということで、ご本人に許可をいただき、diaryに転載させてもらうことにしました。何気なく使っている「助詞」ですが奥が深~いです。ぜひ、お読みください。(キヨ)
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  くっつき(助詞)の「へ」と「に」のはたらき

 教育文化研究センター主催の今年の「こくご講座」の第1回目は「文法から広がる読みの世界」というテーマの学習会でした。齋藤章夫さんが「一つの花」を題材に、文法に着目すると読みがどのように深まるかを提案してくれました。コロナ禍もあって少人数でしたが、校内の研修会では語られることのない学びあいができたのではないかと思います。

 大野晋著『日本語の教室』(岩波新書)は、日本語の文法やことばの意味をこんな見方で解き明かすのかと大変おもしろく読んだ本です。冒頭にこんな話が書かれています。
《ある日勤め先から東急の電車に乗って帰る途中、私は阿川弘之さんと乗り合わせました。・・・・・・・話を交わしていると、「僕は今日は朝から『東京へ行く』とするか、『東京に行く』とするかで、ずっと迷っていたんですよ」とのこと。確かに「へ」と「に」は同じように使うことがあります。私は以前「へ」と「に」の使い方の違いを調べてみたことがありました。そこで私は知っていることをかいつまんで言葉にしました。》

 そう述べて、大野さんは「万葉集」の和歌で使用されている例をあげて古来「へ」と「に」がどう使われていたか、その違いを述べています。

 具体的な例は著書で見てもらうことにして、結論からいうとこういうことです。
  「球を庭へ投げる」というと、「球を庭の方へ向かってなげる」こと。
  「球を庭に投げる」といえば、「球が庭に落ちて着く場所が庭」ということ。

 どちらも「へ」といっても「に」といっても通じることは通じるのですが、
  ・移動・移行の方向のときは「へ」
  ・動作の帰着をきちんと示したいときには「に」

として使い分けると聞き手も事態をはっきりと受け取ることができるというのです。

 これは文学作品の読みを深める場合にもあてはめて考えられると思いました。そこで、現在使用されている国語の教科書(東京書籍)のなかから、文学作品の文章における「へ」と「に」の使われ方について見てみました。

「うち帰る」と「家帰る」の例

「おらので わりいが、こらえて くだされ。」
じいさまは、自分の つぎはぎの 手ぬぐいをとると、いちばん しまいの じぞうさまに かぶせました。
「これで ええ、これで ええ。」
そこで、やっと 安心して、うち 帰りました。   
                     (「かさこじぞう」国語2下) 

 「うちに」の「に」は帰着点。じいさまの帰り着いたところが「うち」です。ばあさまの待つわが家を心に思いながら帰路に着いたことが想像できます。
同じ「帰る」の動作をあつかいながら、「へ」が使われているのが次の文章です。

「ぼく、もう  帰らなくちゃ、がまくん。しなくちゃ いけないことが あるんだ。」
かえるくんは、大いそぎで  帰りました。  (「お手紙」国語2下)

 かえるくんが、急に「家へ 帰らなくちゃ」と言い出したのは、一度もお手紙をもらったことのない友だちのがまくんのために、いい計画を思いついたからです。かえるくんは、大急ぎでわが家へもどり、えんぴつと紙を見つけて「がまがえるくんへ」と手紙を書き、知り合いのかたつむりくんにがまくんの家のゆうびんうけに入れてくれるようにたのみました。
 この「家へ帰る」の「へ」は、移動の方向です。家に帰るのが目的ではなく、がまくんへ手紙を書くために戻ったのです。「に」ではなく「へ」を使用することで、いい計画を思いついて我が家に向かうかえるくんの意気込みが伝わってきます。

「火のなか飛びこむ」と「海飛びこむ」の例

「中に子どもがいるぞ。たすけろ。」
と、だれかがどなった。
「だめだ。中へは、もう入れやしない。」
それを聞いたライオンのじんざは、ぱっと火のなかとびこんだ。

                  (「サーカスのライオン」国語3上)

 老いぼれて気力を失っていたじんざを励ましてくれた男の子のアパートが火事になりました。じんざは、おりをぶちこわして、アフリカの草原を走ったときのようにすばやくかけつけ、そのまま「火のなかへ」飛びこみます。もし「火の中に」としたら、そこは帰着するところ、焼身自殺ともとられかねないでしょう。じんざは少年を助けるために火の中へ向かったのです。
「へ」は移動する方向を示しながら、文脈によっては、何らかの目的や行動のために移動していると読み深めることもできそうです。
 同じ「飛びこむ」の動作で「に」が使われているのが次の文章です。

 いかりを下ろし、飛びこんだ。はだに水の感しょくがここちよい。海中に棒になって差しこんだ光が、波の動きにつれ、かがやきながら交差する。耳には何も聞こえなかったが、太一はそう大な音楽を聞いているような気分になった。とうとう父の海にやってきたのだ。   (「海のいのち」国語6年)

 太一にとっての海は、おとうと一緒に住んできた海。与吉じいさの弟子になり、一人前の漁師になった海。太七はいつも海と一つでした。当然、飛びこむ海は、単なる「移動の方向」を示す「海へ」ではなく、動作の帰着するところの海。つまりいつも太七を抱くように受け止めてくれるその「海に」飛びこんだのです。太七を海は、美しく、優しく、そう大な音楽を奏でるように迎えてくれました。「とうとう父の海にやってきたのだ。」の「海に」も同じおもいがこめられ、「父の海に」となると、やがて父を破った瀬の主との出会いを予感させます。

 たかが「へ」と「に」じゃないか、意味が通じればいいじゃないかと言われればそうですが、万葉人などの私たちの祖先は、聞き手に事態をはっきりとうけとってもらうために「へ」と「に」を使い分け、他者に向き合う姿勢もことばにこめられ、今に伝えられてきています。
 「へ」にするか「に」にするか、助詞一つに朝から頭を悩ませ、適切な表現に精神を傾けているのが作家と呼ばれる人たちです。すぐれた作品は、こうした作家によって選び抜かれたことばででできています。教師のしごとは、授業をとおしてそれらのことばをこどもたちに伝え、こどもたちのものにしていくことのように思います。(千)   

きみは、福島を見たか? 被災地応援視察ツアー紹介

 9月末発行予定の『センターつうしん108号』の校正が大詰めを迎えています。108号のテーマは『子どもたちと平和を考える』。それに関わって教育実践を2つ取り上げました。共通に語られているのは「他人ごと」ではなく、「自分ごと」として平和や戦争について考えるということ。それは11年経った東日本大震災についても言えること。

 その点で、地道な取り組みをされているのが、宮城県職員組合中央支部のみなさんです。毎年震災の被災地を訪れるツアーを実施し、地域の人に話を聞いたりボランティア活動をされたりしています。なかでも感心させられるのは福島を、その取り組みの一つとしてきちんと位置づけていることです。
 同じ被災地でも福島は、ご存知のように地震津波だけでなく原発事故がありました。その被害と苦悩は宮城とは大きく異なります。福島の被害と現状、そして人々の思いを知り、ともにするためには、まずは福島に行って・見て・聞いて、交流することが大切だと思います。

 今年も10月8日(土)に、被災地応援視察ツアー(福島編)を実施するとのこと。内容の詳細を知りたい方・参加したいという方は、主催の宮城県職員組合中央支部までお問い合わせ下さい。よろしくお願いします。
   中央支部(☎022-272-5611 ✉ chuo@mtu.or.jp) 

   

おすすめ映画『ブータン 山の教室』 

  ~ 子どもの笑顔という希望 ~

 

 定年延長が間近に迫ってきた。どうやら私は、64歳が定年らしい。ただでさえ厳しい労働条件、労働環境に晒され「60歳まで働けるのか」というのに・・・。さらに「学力向上」、「タブレットドリル」、「コロナ禍による子どもや保護者とつながる困難」などが押し寄せ、あるべき教育が日々遠ざかっていく。「いつまでこの仕事を続けられるだろうか?」と自問自答する日々が多くなる。

 今回紹介する『ブータン 山の教室』は、そんな疲れた心を癒してくれる。“ 国民総幸福の国 ”、“ 世界で最も幸せな国 ” と言われるブータンの中でも、最僻地となるルナナ村が舞台だ。人口56人,標高は4800m。富士山よりも高い。学校は、豪雪のため春から秋までの季節開校。電気もトイレットペーパーもなし。驚いたことに出演者の多くは、ルナナ村の村人だ。
 クラス委員を務めるペム・ザム(写真の少女)もその通りで、「車」も「映画」も知らない。さらに、家庭に恵まれず祖母と二人暮らし。その設定まで映画と同じだ。そんな学校に赴任するのは、お決まりのやる気のない先生で、純粋な子どもたちに触れていく中で、教師のやりがいに目覚めていく。この映画の凄いところは、ペム・ザムの純真すぎる眼差しと笑顔だ。目指すべきは、子どもが笑顔になれる幸せを、教師としてお手伝いすることと励まされる。この夏、また観た。
 あるべき教育を引き寄せるために、もう少し頑張りますか。
                         (翔家ぱんだ
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 映画好きの友人、翔家ぱんださんからおすすめ映画の便りが届きました。前のDiaryで紹介した『映画の本棚』の佐藤博さんも、『ブータン山の教室』を紹介しています。実は『映画の本棚』の表紙に描かれている少女は、上記写真の少女です。
 二人がおすすめする映画です。すでに映画館での上映は終了しているが、DVDその他レンタルなどで観ることはできます。
 ぜひ秋の夜長にご覧になってはいかがでしょうか。(キヨ)

(追伸)さて、では問題です。『映画の本棚』の表紙に描かれている二人乗りのバイクの絵は、何の映画からのものかわかりますか? わかった方は、下部コメントからでもお答ください。

    

『映画の本棚』~ 観てから読むか 読んでから観るか ~

 近島さんの『花と木沓』(9月9日のdiary)と一緒に紹介しようと思っていた、もう一冊を紹介します。

 本のタイトルは『映画の本棚』(同時代社)、著者は佐藤博さんです。元中学校教師で、現在は教育科学研究会(教科研)の常任委員として、教科研の運営や毎月発行する月刊誌『教育』の編集などに携わっています。しばらく前になりますが、宮城の先生方の学習会に講師として来られたこともあります。

 『映画の本棚』は、佐藤さんが教師時代から『教育』に連載してきた映画紹介を一部加筆修正し一冊にまとめたものです。研究センターに集う『教育』読者のなかには佐藤さんの映画紹介を楽しみにしている方が大勢います。私もその一人で、『教育』を手に取ると、まずページをめくるのが佐藤さんのページです。

   

 本書は、2004年から2022年にかけて『教育』誌上で紹介した95本の映画が取り上げられています。本書の特色は、①読めば、誰もがその映画を見たくなること。②教師として人として、日々の生活をおくるなかでの出来事や感じてきたこと、想ってきたことが、その映画の魅力とともに語られること。つまり佐藤博さんという人の息づかいやたたずまいが見えてきます。
 ですから本書は、映画評であるとともに佐藤博さんのエッセーでもあるという、まさに “ 一粒で二度おいしい ” 内容になっています。

 佐藤さんは「おわりに」で、映画について、そして映画と自分について、次のように語っています。

 映画も学校と似ている。文化と触れあい、誰かと出会い、世界が広がり、新しい自分が生まれる。佐野洋子は子どもだった季節に「私は気づかずに人を愛するレッスンをしていた」という(『子どもの季節-恋愛論序説』河出書房新社/2019年)。私たちは学校でも映画館でも同じレッスンを繰り返してきたのかもしれない。だから佐藤忠男は「映画館が学校だった」という(『映画館が学校だった-私の青春期』講談社文庫/1985年)。
 学校で出会ったさまざまな友だちが自分を映す鏡であってくれたように、スクリーンで見つめた数えきれない登場人物たちは自分を照らし、生きる問いを与えてくれた。

 ぜひみなさんも『映画の本棚』を手に取り新たな映画との出会い、世界との出会い、そして自分との出会いをしてみませんか。(キヨ)

【紹介されている映画たち】
さよなら、クロ』『八月のクリスマス』『グッバイ、レーニン!』『スクール・オブ・ロック』『父と暮せば』『誰も知らない』『モーターサイクル・ダイアリーズ』『パッチギ!』『ALWAYS 三丁目の夕日』『『県庁の星』『恋するトマト』『フラガール』『秒速五センチメートル』『シッコ』『ONCE ダブリンの街角で』『君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956』『最高の人生の見つけ方』『12人の怒れる男』『スラムドッグ$ミリオネア』『ディア・ドクター』『幸せはシャンソニア劇場から』『沈まぬ太陽』『武士の家計簿』『マイ・バック・ページ』『コクリコ坂から』『ヘルプ 心がつなぐストーリー』『いわさきちひろ 27歳の旅立ち』『桐島、部活やめるってよ』『さなぎ 学校に行きたくない』『ハンナ・アーレント』『あの頃、君を追いかけた』『かぐや姫の物語』『小さいおうち』『世界の果ての通学路』『6才のボクが、大人になるまで。』『アゲイン 28年目の甲子園』『サンドラの週末』『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』『家族はつらいよ』『エルネスト』『ガンジスに還る』『新聞記者』『エセルとアーネスト ふたりの物語』『テルアビブ・オン・ファイア』『イーディ、83歳 はじめての山登り』『家族を想うとき』『ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ』『ブータン 山の教室』『アウシュヴィッツ・レポート』『キネマの神様』『茲山魚譜 チャサンオボ』『ローラとふたりの兄』ほか

今は昔、こんな校長さんたちがいた ~ オレは幸せ者11 ~

 オレの教職年数は、組合専従3年間があったので、実質35年間。その間、ご一緒しお世話になった校長さんは13人。そのうち、今振り返って、どうしたわけか、記憶に残る話し合いのない方がお二人いる。お二人ともご一緒したのは1年ずつだったからかもしれないが・・・。それにしても、何十年も経っているからとはいえ、話し合った記憶がないというのは、別室にいる学校長だからとはいえ、職員のひとりとして自分を内心失礼だったと思うし、自分自身として今になるも寂しい感じはぬぐえない。

 初任時すぐA校長に言われた「①時間を守る。②出勤したらすぐ出勤簿に捺印する。③机上には物を置かない。」は今でも忘れない。しかし、どうしたわけか、②と③は転勤後すぐ瓦解、他の同僚よりもひどくなった。 
 A校長は、学校のすぐ前に下宿していた。「月曜の朝のバスでも間に合うでしょうに、どうして前日の日曜に戻られるんですか」と聞くと、「カスガクン、バスが予定通り走るとは限らないじゃないか。もしものことがあったらどうするかね」と言われた。また、『コウモリ校長』と言われるほど、コウモリを身から離すことがなかった。このことについても尋ねたことがあった。すると、「雨はいつ降ってくるかわからないじゃないかカスガクン。そうだろう」と言うのだった。当時まだ折りたたみ傘はなかった。痩せぎすな体で、チョビ髭をくっつけていた。腕にこうもりをぶら下げて歩く姿にチャップリンを重ねたことがあった。

 初任の小学校3年後に中学校に異動し、10年目ぐらいにM小学校に赴任した。後述するが、私は異動について、ごねたのは1度だけ。

 M小に転任後、飲み会などで何度か、「だまされてお前を採ってしまった」とB校長に何度か言われたことがある。自分のことなのにオレは面白く思い、「校長さん、どんなことを言われたの?」と聞くと、その度に、いかにも悔しそうに「そんなことはいい!」と言うのだった。その相手の校長が、先に「話をした記憶の残っていない2人の校長」のうちのひとりであるC校長であり、(B校長ではかなわないだろうなあ)と思うと同時に、オレの転任希望をかなえるために、生のオレを話したのでは希望をかなえることができないと思ってのダマシだったのだろうと考えると、オレのどこが異動に危ういキズなのか自分ではよくわからないが、オレのためにウソをついたC校長も責められないし、また、正直に悔やしい気持ちをオレに繰り返し吐き出すB校長を(正直な方なんだなあ・・・)と思うのだった。

 どうしたわけか他にも似たようなことがあるが、それはもうやめて、ここからは、仕事を本気で話し合い、いろいろ教えられたことが今もたくさんのことが残っているお二人、K校長とS校長とのことを述べる。
 
 K校長とは、中学で5年半、ご一緒した。オレを採ってくれたY校長が3年目の秋、急逝。その後を継いだのがK 校長。Y校長とは3年という約束だったので、その年度末、異動希望を出した。するとK校長は「何か転任しなければならない理由があるのか。オレが途中で来てその年に出ていかれると、なんかオレの問題にみられそうだ。特に理由がないなら、もう少しいてくれ。」と言われ、そのまま、同一校満杯と聞いていた都合8年いさせてもらった。

 この中学時代は、50代が校長、40代が教頭、あとは30代と20代が半々という職員構成で活気がありオレは楽しかった。何をやるにも、みんな(もちろん校長・教頭も入り)でワーワーとしゃべり合い決まっていった。だから、いったん決まれば、みな懸命に取り組んだ。生徒にもそれは伝わっていたと思う。
 K校長は、行事版に書かれた自分の出張の欄を時々「それは出かけないから消してくれ。もし補欠があればオレが行く」と言うのだった。そうそう、ある年、福島で日教組主催の全国教育研究集会があった。この頃は、毎年、1万人をはるかに超える集会だった。開催地が隣ということで、1日だけでいいから参加したいと7人の希望者が出た。係のオレがK校長にそのことを言うと、「そのような人数、補欠は大丈夫か」と言う。「やってみます」と言い、教科ごとで穴埋めをやってみたが、どうしても2コマ埋まらない。そのまま校長に見せて「この穴を校長先生にふさいでいただくと、全員の希望がかないます」というと、「オレが2時間行くのだな、いいだろう」と決着がついたことがあった。

 また、当時、3年生は、放課後2時間の全員補習があった。オレが何回目かの3年担任のとき、学年で話し合って、6時間の授業の充実を工夫して、2時間の補習はしないことを提案することに決めた。主任がなかなかの方だった。K校長に話すと、「大丈夫なのか(進学のこと)、もし失敗すると、オレは街の中を歩けないな」と言う。「それは我々も同じです」と言い、補習をやめることにした。校長はすぐに、「これまでやってきたことをやめるのだから、3年父兄への説明会を9つの町内会でオレが歩いてもつ」と言う。オレは、学区内に住んでいたので「私も出ます」と言った。遠くから通っていた主任には無理しないように言ったが、学年主任もほとんど参加した。入試の結果は問題ゼロだった。

 在籍8年になり転任希望を出した。出張から帰ってきたK校長に「F小に決まったので、明日身体検査に行くように」と言われた。オレは驚いた。すぐに「せっかくですが、そこには行きたくありません。しかも、その地以外の地を希望したはずです」と言った。
 どうしても嫌なところで仕事をしたくないが、切り抜ける案も浮かばない。翌日は「風邪」ということで学校を休んだ。雪の日だった。ひとり炬燵で本読みをしていたところに、雪の中をK校長が現れ「仮病だろう」と言う。「そうです」と返事をした。今、その後についての記憶はない。異動については何も話さなかったと思う。直後から、その件についていろんな方と会いつづけたが、私は拒否しつづけた。
 異動発表が近づいたある日、今まで何も言わなかったK校長が「異動というのは芋づる式につながっているんだ」とポツンと言った。オレは、(そうだ、オレの後に来る人、その後の人と、もう決まっているんだ)と初めて気がついた。あわてた。そこで、「私の気ままのために迷惑をかけたくありません。私のあとがまは必ず出るでしょう。その方が海から出ても山から出ても私がそこに行きます」と言った。あとがまはすぐに決まった。気ままほうだいのオレの、人生最大の気ままだったろう。K校長には本当によく我慢をしてもらった。今も感謝している。

 次にS校長とのことを少し述べる。S校長とは2年間だけのご一緒だった。同一校勤務年限が満杯になったからだ。
 私は学級だよりを2日に1回の割で発行し、職員室では「読みたい」と言われた同僚には読んでもらっていた。S校長からは、赴任1か月後ぐらいに「私にも読ませてほしい」と言われた。その後、時々、「今日の放課後、あなた、時間とれないか」と言われ、校長室に行くと、S校長はオレの学級だよりのファイルを机の引き出しから持ち出してくる。どの便りにも赤線が何カ所にも引いてあり、余白にはメモ書きがある。それをもとにしてしばらく話し合う。もちろん、便りだけについての話し合いで終わらない。オレにとっては、S校長は「便り」の一番の読み手であり、便りをつくるための応援者であったと言えるように思った。

 ある朝、打ち合わせの会で、市の特別活動研究部の担当者から、「児童会の役員選挙をやめようと部会で話し合った」という報告があった。それについて、児童会担当のオレは、「子どもの自治活動を部会が各学校の児童会の運営を決めるのはおかしい」とオレが言い、議論になった。S校長は、「そのような大事なことを朝の打ち合わせで決められるものではない。きちんと時間をとって話し合うべきだ」と言い、後日、臨時の職員会で話し合い、従来通りということになった。

 次の勤務校の時、河北新報の友人からの話で、夕刊の小さいコラム欄に週1回で2か月、書きつづけたことがあった。その拙文について、S校長からは何度か感想のお手紙をいただいた。たいへん恐縮しながら、コラム文に終わらない大きな激励になった。

 K校長とS校長は、なんと、ともに退職後の仕事を半ばにして急逝されたことを後で知った。種々のご迷惑をおかけし、たくさんの教えを受けながら、直接お礼を申し上げることができなかったことを今になるも悔しく思う。( 春 )

季節のたより107 アキノノゲシ

 ケシの名でもキク科の野花、 食べられるレタスの仲間

 郊外の休耕田と思われる草むらに、他より抜きん出て立ち上がり、枝先に淡いクリーム色の花をたくさんつけた野花が咲いていました。アキノノゲシ(秋の野芥子)の花です。
 タンポポをひとまわり小さくしたような花で、小花たちはおもいおもいの方角を向いて咲き、秋のひざしがやさしく照らしていました。


     アキノノゲシは一日花。午前中に花を咲かせ、夕方に閉じてしまいます。

 アキノノゲシはキク科アキノノゲシ属の1年草~2年草の植物です。ノゲシ(野芥子)という名前は、江戸時代に渡来したケシ科ケシ属のアザミゲシという植物の葉に似ていることからつけられたといわれています。葉が似て名前にもケシがついていますが、ノゲシはキク科でアザミゲシはケシ科、分類上は別系統で同じ花の仲間ではありません。
 一般にケシという植物(ケシ科ケシ属)には多くの種類があって、春から初夏にかけて色鮮やかな美しい花を咲かせます。園芸種のヒナゲシオニゲシなどはガーデニングや切り花用として使われていますが、薬用ケシといって、麻薬成分を含むものがあり、観賞用でも法律で栽培が禁止されています。薬用ケシの花は、東京都薬用植物園や大学の植物園などでしか見ることができません。

   
    アザミゲシ         花壇を飾るヒナゲシ       オニゲシ

 ケシの名がつくキク科の植物で身近に見られるものが、春に咲くノゲシやオニノゲシ、秋に咲くアキノノゲシです。アキノノゲシは、ノゲシが別名でハルノノゲシと呼ばれることに対して、秋に花を咲かせることからつけられた名前です。

   
   ノゲシ(ハルノノゲシ)    オニノゲシ       アキノノゲシ

 アキノノゲシは東南アジアが原産で、有史以前に稲作とともに、日本にやってきた史前帰化植物といわれています。今では、日当たりの良い乾燥した道路端や野原、放棄地などに生育し、日本全土に分布しています。
 稲作とともに水田に適応した史前帰化植物には、イヌタデ季節のたより13)、イシミカワ、アキノウナギツカミなど、イネの発芽や田植えの時期と合わせて、発芽して成長し、イネが刈り取られる前に実をみのらせ散布するものが多いのですが、アキノノゲシは秋に芽生えてロゼットで越冬します。

 春になると最初は背丈もあまり高くならず、他の植物に混じって成長しますが、開花時期が来るとしだいに背丈が伸びて、花のころは1.5mから2m 近くになることもあります。大きくなる直前に草刈りなどが行われると、背丈は短くなりますが、それでも花を咲かせます。

 
    花期になると、2m近くも高くのびます。       刈られても咲く花

 葉は細長く、20㎝ほどの長さで互生しています。上の葉と下の葉の形が異なっていて、下方の葉は、鋸の歯のような切れ込みがまばらに張り出しているのが特徴です。上部の葉は滑らかで切れ込みはありません。葉全体に切れ込みのないものをホソバアキノノゲシと呼び分けているようですが、アキノノゲシと混生していることが多く、個体変異も大きいので、見分けるには迷います。

 
     下部の葉は、大きく切れ込みます。    上部の葉は、切れ込みなく細い。

 アキノノゲシの花期は「秋の」とつくように9月から10月頃までです。直立した茎の先に花を咲かせますが、大きな個体は、茎の上部でよく枝分かれしていて、それぞれの茎の先に花をつけています。
 アキノノゲシの花は、タンポポと同じ舌状花だけの花の集まりです。多数の舌状花の花びらが、外側に丸く一つの花の花びらのように囲んでいます。1つひとつの舌状花のなかに雄しべと雌しべがあります。

   
  花は舌状花の集まり    花に訪れるミツバチ    蜜を吸うモンシロチョウ

 アキノノゲシの花は、平らなテーブルのようになっています。昆虫たちには止まりやすい花で、甲虫、チョウ、ハナアブなど様々な昆虫たちが集まっているのが見られます。

 花の受粉のしかたは少し変わっていて、雄しべの花粉を雌しべ経由で、昆虫に渡しているのだそうです。

「開花するとまもなく、雌しべが毛に花粉をつけて雄しべの筒から出てくる。そして先端を徐々にY形に裂いて、隠れていた柱頭を見せる。花にやってきた昆虫は、雌しべの外側で花粉をもらい、つけてきた花粉は内側の柱頭にわたすのである。
 時間がたつにつれて花柱はさらに右と左に大きく巻いていき、やがて柱頭の先端が花粉をつけた自分の外側の部分に触れる。これで実際にタネができるかどうかまだ確認されていないが、アキノノゲシは1日しか命のない花だ。昆虫がこない場合にそなえ、同花受粉でも実をむすぶのかもしれない。」
               (田中肇・平野隆久著「花の顔」山と渓谷社

 これも自家受粉を避けるための花のしくみなのでしょう。実際に開いた花を観察してみると、それぞれの段階と思われる雌しべの姿を見ることができました。

   
雌しべが花粉をつけて雄し   雌しべがY字に裂けて柱  雌しべが深く裂け、柱頭が
べの筒から出ています。    頭に他花の花粉がつきます。自分の花粉に触れてます。

 アキノノゲシの花が終わるとタンポポのような白い綿毛を持った実がたくさんできます。この実は痩果(そうか)といって、果皮が薄く、種子とくっつき一体化した果実で、黒色で平たく、先が細く短いくちばし状になった先に綿毛がついています。綿毛は半球形状に整然と並んでいて、風を受けるとパラシュートのように実を遠くへ運び、分布を広げていきます。
 実を結んだ株は、そのまま枯れていのちを終えますが、 秋に開花できなかった若い株は越冬し 翌年に開花して結実します。

   
 綿毛になったアキノノゲシ   半球形状の綿毛の姿  風を待ち飛び立つ準備

『花おりおり』(湯浅浩史・文 朝日新聞社)の「アキノノゲシ」を見ると、「レタスと同属で食べられる。フィリピンのパタン諸島では、畑に侵入した株をとらずに残し、野菜に。」とありました。レタスを調べて見ると、レタスはキク科アキノノゲシ属でした。アキノノゲシはレタスの仲間でした。

 アキノノゲシの学名をみると、「Lactuca indica」。ラテン語のLactuca は乳の意味です。茎を切ると乳白色の液が出てきます。乳白色の液は同じキク科のタンポポノゲシの茎を切っても、レタスの切り口からも出てきます。赤褐色に変色するのは、病気や腐っているわけでなく、この液に含まれているポリフェノールが酸化したものだそうです。乳白色の液をなめてみるととても苦く、これは害虫から身を守るためのものと考えられます。
 種小名のIndicaは「インドの」という意味です。Indian Lettuce (インディアン・レタス)といえば、アキノノゲシの英名です。その名の通り、インドや中国などの一部の地域でも栽培もされ、野菜として食べられていたということです。

 人間環境大学のフェ-スブックに、環境科学科教員の横家将納さんが、「インディアン・レタス(アキノノゲシ)を食べてみました(ソテー編))」というタイトルでアキノノゲシを栽培し、料理して食べた記録が書かれていました。その一部を紹介します。

「移植してから2か月、大きな株は高さ30cm以上になりました。その間、病害虫の防除、潅水(水やり)などは全く行いませんでした。つまり移植しただけです。野草だけあって、無肥料でもあっという間に成長しました。病害虫にも強く、ほとんど食害されたり、枯れたりはしていませんでした。栽培という観点からすれば極めて手間のかからない植物です。株が上へ伸びてきたのは花をつける準備です。葉を食べるつもりなら、薹立ち(とうだち:花をつけるために茎が伸び、硬くなること)してしまうと不味くなってしまうので、そろそろ食べてみることにしました。(略)まず、先端にある柔らかい若葉を生のまま食べてみました。苦いと思いきや、苦味やえぐ味はほとんどありませんでした。むしろ味が薄く、風味を楽しむには物足りなさを感じたほどです。食感についてはレタスのようなシャキシャキ感はなく、硬くなった、味の無いシソの葉を噛んでいるようでした。生でも食べられているようですが、私は生で食べることはあまりおススメしません。
 次に少し硬くなった葉の部分を使い、(妻に)ソテーを作ってもらいました。生の葉を3分ほど湯通しし、シイタケと一緒にオリーブオイルで軽く炒め、バター、塩、しょうゆで味付けして完成です。こちらには若葉とは違い少々苦味を感じましたが、山菜のような心地よい、ほのかな苦味で、大人好みの味でした。(略)アキノノゲシはインドや中国の一部地域では日常的に栽培されているだけあって、ごく普通においしく食べることのできる野草でした。」(人間環境大学Facebook

 
     放射状に並ぶ花びら。美しい花の造形。       野に咲く花束

 横家さんの文章を読んでいたら、有川浩さんの『植物図鑑』を思い出しました。
 図鑑コーナーに配置されそうなタイトルのこの本は、若い人たちの人気のライトノベル。物語は著者自らも過去最強に恥ずかしいとあとがきで語る超甘いラブストーリーですが、作中に次々と登場する道草(野草)料理は、みんな美味しそうに思えて食べたくなるものばかり。文庫本(幻冬舎文庫)の解説で池上冬樹氏は「道端にはえている植物をこんなに美味そうに書ける作家など過去にいたろうか。何でもない簡単なレシピのようでいて一工夫があり、真似して作りたくなるし、何よりも味わいたくなる。」と書いています。
『植物図鑑』には、アキノノゲシは登場しませんが、登場する植物は33種、そのうち17種は美味しそうに食べられていて、代表的なレシピものっているので、関心のなかった若い人たちが道草料理を試してみるきっかけになっているようです。


  花期に高く伸びるのは、種子を風にのせて遠くまで運ぶためなのでしょう。

 野菜はもともと自然のなかに生えている野草でした。人は野草のなかから食料になるものとならないものを見分け、長い時間をかけて野菜として育ててきました。私たちの祖先は、他の生きものがそうであるように現代の私たちが想像できないような生き残りのための察知能力を働かせていたと思われます。
 今は、道の駅などに並ぶ地元産や伝統野菜などを除いて、全国どこに行っても季節を問わず、同じ県産のかたちのそろった野菜が流通しています。野菜をとおして、自然とのつながりや季節感を感じることはなくなりました。
 野に生える野草や山菜をつんで食べてみると、旬の味を思い出し、季節を感じます。野生で育った鮮度のよい素材の味や触感を味わうことの快さは、何か特別のものです。祖先から受け継がれて私たちのなかに眠る自然の生きものとしての感性や生きぬくための力が蘇ってくるのかもしれません。(千)

◇昨年9月の「季節のたより」紹介の草花

『花と木沓』、物静かな北国からの風のたより

 画家・小野千世さんの幻の絵日記を書籍化!

 先のdiaryで、東京にお住まいのUさんが「NHKアカデミア」のことを教えてくれたことを書きました。今回は、研究センターで出会ったみなさんから届いた「す・て・き・な・お知らせ」を紹介します。

 一つは、7月9日のdiary「『diary』で広がる人との出会い、世界との出合い」で紹介させていただいた近島哲男さんが、『花と木沓(サボ)』というタイトルの本を自費出版されました。『花と木沓』は、近島さんが印刷の仕事で悩んでいたときに出会った至光社武市八十雄さんから紹介された小野千世さんの絵日記がもとになっています。
 絵本作家の小野千世さんが16歳のときに体調を崩し学校に行けなくなり、修道院で療養した2月~12月までの日々が描かれ、綴られています。

    
    出版社:幻冬舎メディアコンサルティング (1,430円) 

 本を手にしてすぐ感じたのは、印刷の仕事をされていた近島さんならではの本づくりに対するこだわりと誠実さです。ページの地の色や文字の色、文字の組み方や配置、表紙カバーを外すと本体にも素敵な絵と背表紙部分にきれいな飾り、外した表紙カバーをひっくり返すと、そこにも一面の絵。しかも「2011.3.11  Ciyo Ono」と記されています。本全体が一つのコスモス、小宇宙です。
 また魅力的な絵とともに、色が本のなかで生きていることを感じます。小野千世さんの原画のよさあってのことですが、その原画のよさを近島さんがより引き出しているのだと思いました。描かれている絵をみているだけで、充分この本を手元に置くことの幸せを感じます。

 近島さんのことばかり力説してしまいましたが、小野千世さんの原画と文章あっての小宇宙です。修道院での療養生活は単調で不自由なはずです。そんな日々の暮らしのなかにも必ずあるささやかな喜びや気づきを16歳のちよちゃんがユーモアあふれる文章と絵で私たちに静かに語りかけ、今という時代に生きづらさを感じる多くの人たちにそっと寄り添ってくれます。

 最後のページには「春待つこころ」と題して、今の千世さんからの言葉がそっと置かれています。

春は、うそをつかない

どんなに、のろくても、必ず来ます。

春は、裏切りません どんなに遠くても、信じて待ちましょう

でもね あんまり冬が永いと、時々、モウダメカ・・・・・・と

思ってしまいますよね

気をとりなおして、春のサインを探しましょ。

春は意外な所にサインを出してくれるの

サインを見つけるのが上手な人になって、

楽しく辛抱を続ければ、必ずやって来るのが

春です。 

 自費出版の書籍ですが、一般書店やオンライン書店からも注文購入できます。
 ぜひ手に取っていただければと思います。

 もう一つ「す・て・き・な・お知らせ」をする予定でいましたが、ちょっと今は紹介する時間が取れません。それはまたの機会にしたいと思います。(キヨ)