mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより200 キンコウカ

  夏の高山湿原に輝く金色の星  秋は黄金の草紅葉

 真昼の太陽を受けて、高山の湿原が一面に黄金色の広がるキンコウカの花。花を愛した作家の田中澄江さんは、この花を著書の『花の百名山』において福島県の田代山(たしろやま)を代表する花として紹介しています。

 会津の田島に用が出来たとき、近くに上る山はありませんかと聞いて、田代山を教えられた。平家の落人が住みついたという土呂部や栗山の北西に、帝釈山と連なって聳え、檜枝岐川と鬼怒川の源流の分水嶺になっている。(略)
 この日が私にははじめてのキンコウカとのであいであった。ニワゼキショウに似た細い葉の形も端正に、七、八センチほどの花柄の頭部に、びっしりと総状の花をつけている。
 見わたす限りの黄の花房が空にひしめく姿には生命の躍動感が溢れ、何かほっとした思いに、右に会津駒、左に日光連山の紫の山影を見ながら、まん中の木道を歩いていった。                     
                   (田中澄江『花の百名山』文春文庫)


キンコウカの花(栗駒山  名残ヶ原)

 キンコウカは、キンコウカ科キンコウカ属の多年草。北海道から本州の中部地方以北の主に高山やそれに近い湿原に群生し、県内では、南蔵王、船形山、栗駒山などの湿原に見られます。
 7月〜8月の夏にかけて花を咲かせ、太陽の光を浴びて黄金色に光り輝くように見えることからキンコウカ(金光花)と名付けられました。

 私が初めてキンコウカと出会ったのは、栗駒山の名残ヶ原の湿原でした。
 名残ヶ原は、栗駒山の須川コースの登山道の最初に通過する湿原で、須川温泉登山口から歩いて約15分ほどの地にあります。
 7月中旬、整備された木道の両脇にキンコウカの黄色い小花が一面に咲き誇り、周囲を明るく照らしていました。


栗駒山登山道の名残ヶ原湿原


湿原に咲くキンコウカの群落

 それから何度かこの地をたずねて、季節ごとに姿を変えるキンコウカを眺めてきました。
 5月下旬、湿原の雪解けが終わるころになると、キンコウカの芽吹きが一斉に始まります。地中からは、ハナショウブに似た平たい剣状の葉が、重なり合うようにして顔を出します。
 7月上旬になると、扇状に広がった根生葉のちょうど中央から、細くまっすぐな花茎が1本、空に向かってすっと伸びてきます。その先端には、小さな緑色のつぼみが稲穂のように並び、穂の形をつくっているのが見られます。
 花は7月中旬から咲き始めます。花序の下から上へと、穂の先端に向かって順番に咲き進んでいきます。

 
  先端の緑色のつぼみ     咲き始めに見られるつぼみと花のグラデーション

 キンコウカが自生する高山の湿原は、風が強く気温も低いため、平地よりも昆虫の活動が制限されやすい過酷な環境にあります。
 それでも、花が咲く季節になると、湿原は一面が黄色に染まるほどの大群落となり、その明るさが遠くを飛ぶ昆虫たちの目を引き寄せます。


小さな花は穂状になって密集し、群落をつくり昆虫たちの目を引きつけます。

 キンコウカの花は、星の形に平らに開いています。一般的な花のように、ガク片と花びらがはっきり分かれているわけではなく、外側の3枚がガク片、内側の3枚が花びらに相当します。
 しかし、どれも同じ黄色い形をしているため、6枚の花びら(花被片)がそろっているように見えます。

 
  キンコウカの花の形  橙色は葯      雄しべ 花糸の細毛 中央に雌しべ

 雄しべは6本。先端のオレンジ色の葯(花粉の袋)が、黄色い花びらとのあいだに美しい対比をつくっています。葯を支える花糸(かし)には、黄色い細かな縮れ毛がブラシのようにびっしりと密生していました。
 雌しべは、花の中心に1本、すっと立っています。 根本の子房は3つの部屋に分かれており、これがのちに槍の先がふくらむ形をした実へと成長していきます。

 写真を撮っていると、ハナアブの仲間のヒラタアブが飛んできて、雄しべの先にとまり、葯の花粉をなめ始めました。


飛んできたホソヒラタアブ。花粉をなめています。

 福島県・尾瀬における学術調査や生態系観察調査によると、キンコウカによく訪れるのは、ハナアブ科の昆虫たちでした。そのほか、ハナバチや甲虫の仲間など湿原に生息する小さな昆虫たちが広く集まってくることが観察されています。

 ところで、キンコウカの花は蜜を持っていません。尾瀬のような高層湿原は栄養分が乏しく寒冷な環境で、蜜を生産するには、植物にとって貴重なエネルギーを大量に消費することになります。それを避けて、キンコウカは、蜜をつくらず、花粉のみを主食とする昆虫だけを呼び寄せるうまいしかけをしているというのです。

(キンコウカは)昆虫をちょっとだます花だ。この花には蜜がなく、花粉を運ぶマルハナバチやハナアブへの報酬は花粉だけ。花粉は昆虫にとって蛋白質に富んだ貴重な食品だが、蜜とは違ってその再生産はできない。花は花粉がなくなっても昆虫には来てもらいたいので、雄しべに花粉のような肌触りの、金色の細かい毛を沢山生やして「花粉がまだあるよ」と昆虫をだます。
     (尾瀬のミニ観察~第2回~キンコウカ 田中 肇)

 雄しべの花糸に密生するブラシのような縮れ毛が、そんな役割をしていたとは驚きでした。たしかに、花粉を出し終えても、縮れ毛は残り続けていました。

 
   花粉がなくなっても黄色い縮れ毛は残り、花粉に見せかけ昆虫を呼ぶしくみ

 キンコウカは基本的に、他家受粉によって健康な種子をつくろうとしています。しかし、高山の夏は天候が崩れやすく、昆虫がまったく飛ばなくなる日もあります。そんな最悪の事態に備えて、キンコウカは自家受粉を行うことも知られています。

 花が咲き終わると、キンコウカは一気に秋の準備へと移行していきます。
 花びら(花被片)は散らずに、鮮やかな黄色から緑色へと変化し、そのまま残ります。受粉を終えると、花被片は上向きに立ち上がり、口をすぼめるようにして中央の実(子房)を包み込んでいきます。

 
   実(子房)を包む花びら         紅葉しても残る花びら

 9月から10月にかけて山に秋が訪れると、群生していたキンコウカの細長い葉が一斉に色づき始めます。緑色だった葉は、鮮やかなオレンジ色や赤褐色へと美しく紅葉し、湿原全体を燃えるような黄金色に染め上げます。
 その光景は、秋の湿原を彩る草紅葉の主役といえるほどの華やかさを帯びています。


湿原を黄金色に染めるキンコウカの黄葉

 紅葉したキンコウカの花の後には、ふくらんだ槍の先のような実ができていました。実が熟して乾燥すると、割れて中から種子が顔を出します。
 キンコウカの種子は非常に小さく、種子の両端に糸状の長いしっぽがついているのが大きな特徴です。これが翼のようになって、高山の強い風に乗り遠くまで飛ばされ、生息域を広げることができます。

 
  出典:Jacob Sturm, Deutschlands Flora in      熟した実(上) と種子が飛んだ後の実(下)
  Abbildungen, 1796(Wikimedia Commons)

 上の左の図は、ヨーロッパのキンコウカ( Narthecium ossifragum )描いた古典的な「ドイツの植物図譜」の一部です。日本のキンコウカ(N. asiaticum)と非常によく似た外見を持つ近縁種なので、花や葉、実の姿だけでなく、種子の形を理解するうえでとても参考になります。

 風によって運ばれた種子は、湿原の水ゴケの上などに着地し、長い冬、雪の下で過ごしたあと、春に発芽して新しい株になります。
 一方、キンコウカは地下に頑丈な根茎を持っています。この地下茎が毎年少しずつ横へと枝分かれしながら伸び、そこから新しい芽を出し、クローンで仲間を増やしていきます。湿原でキンコウカが黄色いじゅうたんのような大群落を作っているのは、この地下茎の繁殖力の強さによるものでしょう。


地下の根茎で仲間を増やし、湿原に大群落を形成しています。

 田中澄江さんは、最初に取り上げた文章に次のように続けています。

 敗れた会津びとの中に、平家の落人の中に、きっとこの山に登りついて、この黄金いろの花の群れに、生きる望みをかきたてられたものがいたにちがいないと思う。戦いのむごさも忘れ、戦いの傷あとのうずきもいやされ、この黄の花の群れの中に身を埋めて、ひろいひろい空を眺めやる。自然がこんなにも美しいなら、もうちょっと、もうちょっと、生きていてみよう。そんなつぶやきを心にくりかえしながら。
                   (田中澄江『花の百名山』文春文庫)

 悠久の大自然のなかでは、勝者も敗者も一瞬の命です。
 人間の思惑とは関わりなく、脅威にもなり優しい恵みともなるのが、自然の営みですが、その自然が、時おり、私たちに見せてくれる、心をふるわせるような美しさは、人間同士の争いがいかに愚かでつまらないものであるかを、無言のうちに語っているように思うのです。(千)

◇昨年7月の「季節のたより」紹介の草花と樹木

麦わら帽子の会 朗読会『あの日を語り継ぐ』のお知らせ

 ~1945年 ヒロシマ・ナガサキ、そして2011年フクシマ を~

 「麦わら帽子の会」のみなさんは、毎年この時期にヒロシマ・ナガサキ、そして福島の原発事故をテーマに、詩や短歌などの朗読会を通じて「あの日を語り継ぐ」取り組みを行ってきました。1991年から始められたこの朗読会は、今年で34回目になるそうです。

  日 時:2026年8月1日(土)14 時 開演(開場13時30~)
  場 所:日本バプテスト仙台基督教会 礼拝堂  
            (地下鉄:北四番丁駅 北2出口を出てすぐ)  入場は無料

 今回のプログラムは、谷川俊太郎の「死んだ男の残したものは」のプロローグで始まり、「Ⅰ.ヒロシマ」、「Ⅱ.ナガサキ」、「Ⅲ.原発 フクシマ」、そして終わりのエピローグは、えのゆずるさんの「二世のわが子へ」の3部構成となっています(詳細は、チラシを参照)。

 チラシに名前の載っている《構成》のはやかわひさしさんは、当研究センターの運営委員を98年度から2006年度までしていただき、センターの活動を支えてくださいました。
 また「センターつうしん」(123号)掲載の栗山規矩さん「原爆瓦と読み聞かせ」を読まれた事務局の佐藤さんから連絡があり、今回は会場に栗山さんが作られた「掘り出し現場」セットとともに、原爆瓦とレンガも展示されることになりました。
 センターの仕事の魅力は、取り組みを通じて様々な方々との出会いやつながりができることです。みなさん、ぜひご参加ください。

 あの日を語り継ぐことをとおして、これからの未来を紡ぎましょう。

 

山形にレッツ・ゴー!【木村草太の憲法講座】のお知らせ

 太田先生の学習会に、山形から毎月欠かさず足を運ばれていたSさんですが、最近は地元での活動が忙しいらしく、センターの講演や学習会には来られなくなっていました。そのSさんから、先日しばらくぶりに電話がありました。

 話によると今は、下記チラシの『木村草太の憲法講座』の取り組みをされているとのこと。電話口からは、「多くの人に参加してほしい」というSさんの講座への熱い思いが伝わってきます。講座は全4回です。
 第1回の「憲法の歴史」は5月10日に行われてすでに終了していますが、2回からはこれからの開催となります。

 日本国憲法が公布されてから80年を迎える今年、憲法を考える緊急企画を開催します。
憲法の基礎知識から憲法を通して考える社会の諸問題、改憲論議の焦点など、各メディアでコメンテーターとして活躍中の憲法学者・木村草太さんに全4回にわたって講義いただきます。戦後民主主義の原点をいま見つめ直す講座です。(チラシより)

 山形に行くのは遠いからと二の足を踏まず、ぜひ思い切って参加してみてはいかがでしょう。2回から4回までの日程・テーマなどは、以下の通りです。

 【会 場】東ソーアリーナ山形市蔵王松ヶ丘2‐1-3)
 【聴講料】各回2,000円  4枚つづりは7,000円

 ・第2回(8月2日/日)「人権について」
 ・第3回(11月8日/日)「判例を読んでみる」
 ・第4回(27年1月17日/日)「政治と法の仕組みを考える」
   (各回とも14時開演、13時30分開場) 

 【チケットの申し込み・問い合わせ:東ソーアリーナ】 
  ℡  023-689-1166
(受付時間10時~19時)
  Fax 023-689‐1167 メール: chihitsudo@gen.or.jp

     

読書メモ 14

 下記は、岩波のPR誌『図書』2013年5月号に作家の赤川次郎さんが書いたものからの抜き書きである。

~~墓からは、忘れかけていた「幽霊」が這い出て来る。文部省が作った「教科書でない教科書」〈心のノート〉である。
 私は〈心のノート〉を批判する小説「教室の正義」を書いた。「心まで国に支配させてはならない」という思いは変わらない。
 いじめや体罰の問題が起こると、「道徳を授業でしっかり教えろ」という声が起こる。あべこべである。「道徳」が教えられるものだという考えこそが、いじめや体罰を生むのだ。
 子どもたちに「道徳」を教えたければ、原発を地震大国に作り続けて来た誤りを認め、故郷を追われた人々に詫びて、原発のない国を大人たちが命をかけて実現し、将来の子どもたちに放射能被害が出ないようにあらゆる手を打つ。――その大人の行動を見て、子どもたちは本当の「道徳」を知るだろう。~~

 ここで取り上げられている『心のノート』のその後の学校を私は知らない。私の在職中、「道徳」の時間が特設されるときは少しザワツイタ記憶があるが、時間表には「道徳」がすぐ座り込んだ。その後、この「道徳」のテキスト(?)まで作られたというわけだ。
 それに対しての赤川さんは「『道徳』が教えられるものだという考えこそが、いじめや体罰を生むのだ」と言っている。こんなことを繰り返している学校は、何事もありませんと、その姿を見せており、これからも「教育」における「道徳」に限らず、同様のことが繰り返されていくのだろう(困ったものだ)と私まで頭をかかえる。
 赤川さんの書く以前に、井上ひさしさんが、『にほん語観察ノート』(中央公論社 2002年)を書き、井上さん独特の観察(?)記録を残している。
 その中に、かつてのイギリスの首相チャーチルのことばを取り上げ、井上流コメントを付している。

 かつてのいわく、「英語公用語論」を知って最初に浮かんだ感想は、英国首相チャーチルの逸事です。古い話で恐縮ですが、フランス語ドイツ語イタリア語がわかっていたのに、彼は国際会議には必ず通訳をつけた。決して相手の言葉で話そうとしなかった。なぜか。その理由は彼はのちにこう語っています。「私は英国の利益を代表している。それなのに、たとえばフランス語を知っているからといって、フランス語で話しはじめると、とたんに自分の脳が偽フランス人のようになり、フランスの政治文化や価値観に自分を合わせてしまう。英国の利益を主張するときは、やはり英語で考え、英語で言い、通訳に逐語訳をしてもらうしかない」と。

 これについて、井上さんは、次のように言っている。
「ここに在るのは、『ひとつの言語はひとつの世界観である』という覚悟です。あるいは、『ことばは伝達の道具であるが、それは以前にそのことばを使う人たちの文化である』という知恵でしょうか。日本語が日本人の文化をつくっています。(中略)この基本をなくしてしまうと、何もかもなくしてしまいはしないかということなのですが」と。

 赤川さんと井上さんを結び付けた私の読みは。端的に言えば、私たちが大事にしなければならないのは、『心のノート』なるものよりも大事にしなければならないのは、『道徳』教育のために『心のノート』などと騒ぐのではなくて、確かな日本語の力をつけることだ、と読みました。ましてや、「道徳」のために、『心のノート』なるものを作るなどの類は、「教育」を、どんなに軽く考えているかの証じゃないかと。( 春 )

ドイツ留学日記1992年(32)

9月22日(火) 晴れ
〈難民問題について〉
 春の間、国内問題では旧DDRのStasi(秘密警察)問題に大きな関心が向けられていたが、夏以降にわかにAsylrecht(難民救済法)の問題がクローズアップされてきた。ルーマニアなど政治的危機にある国からの難民を政府が積極的に受け入れようとし、各地に難民受け入れのための居住地を確保しようとしたことに対し、地域の住民が猛反対したことに端を発する。厄介なことに、この問題はドイツの抱える根本問題——ドイツに居住しようとする外国人や異民族をどう考えるかという問題をどうやら誘発した模様で、これが今日のドイツの抱える諸問題と絡まって、大きな政治的争点になりかねない状況である。

 ドイツには多くの外国人居住者がいる。トルコ人だけで約150万人、その他イラン、ギリシア、ユーゴ、東欧、イタリア、アフリカ諸国からの居住者も多い。彼らがドイツ社会の底辺の大きな部分を支えていることは明らかである。そこに4年前の東独からの大量流入、そして今回の東欧難民の問題が加算された観がある。難民受け入れに多くの国民が反対していることは一見以外に見えるが、現在、増大し深刻化している失業問題、住宅問題がバネになっていることは明らかだ。社会がゆったりとした許容力を持っているときは、ドイツでならこういう 問題は起きなかったかもしれない。中世以来、ドイツには「ユダヤ人問題」の歴史と悲劇がある。難民救済法の問題がかつての「ユダヤ人問題」を彷彿させるように思うのは私だけだろうか。

 あるDOMの祭壇の横に分厚い自由帳が置かれていて、この難民救済法について意見を述べるように呼びかけていた。ページを繰ってみると、「私たちの平和な暮らしを乱さないでほしい」とか「人間は自分の民族の故郷で暮らしてこそ幸せなのだ」といった言葉が多く見られる。言いたい事は理解できるが、この問題でのドイツ人の屈折した心境がうかがえる。

 日本は難民や外国人労働者に対して門戸を閉ざしている。先進資本主義諸国の中で外国人の姿がこんなに少ない国は日本だけである。ベトナム難民の時も門戸は開かれなかった。私には国境越えた人間の出入りには、日本は半鎖国の状態にあるように思われる(最近は留学生の姿が少しばかり見かけられるようになったが)。東欧難民を日本が積極的に受け入れることはありえないのだろうか。

9月23日(水) 晴れ
 今日は秋分、ヨーロッパでは今日から冬時間に戻る。夜が急に早くやってきた感じだ。日本との時差は8時間となる。

 ネオ・ナチNeo Naziに対する国民の反感は大変強い。 ドイツ国民はこぞって彼らに対して鋭い目を光らせている、と言っても過言ではない。過去に対する苦々しく苦しい思いと、歴史的な責任感が彼らの心に強く訴えているのであろう。街中のいたるところにNAZIS RAUS !(ナチは出てゆけ!)の落書きが見られる。今のドイツでは極右の台頭は容易ではないと私は楽観している。しかし、ネオ・ナチが急速に頭角を現したのも事実である。失業問題が深刻な間はネオ・ナチのような動きは常に頭をもたげるであろう。このような動きに対して、今後ドイツ人がどのように対応してゆくかは、1つの大きな歴史的試金石になるであろう。

9月24日(木) 晴れ
〈国政について〉
 他国にいると日本の旧態然とした政治構造がいっそうよく見えてくる。この間、自衛隊の海外派兵問題が最大の争点であったが、国民の政治的関心は一体どのくらい高いのだろうか。国民の間での政治的議論は成熟しているだろうか。自民党の無謀な強硬政策とたえず発生する汚職腐敗の発覚によって、万年、日本の政治は空転を続けていると私には思えてならない。日本には政治は不在で、経済だけが進展しているように思える。

 ドイツで見聞する政治的議論と国民生活の基準にたいする自覚を目の当たりにすると、政治とは何かについて深く考えさせられる。戦後半世紀近く経って、日本はまったく無策なままで社会を築いてきたと言わざるを得ないであろう。その結果、経済水準はヨーロッパ各国をも凌ぐものとなったが、国土の乱開発と国民の精神的荒廃は惨憺たる状況になったと言わざるを得ない。今の日本は世界に誇れる国だとはとても思えない。商品と国民総生産だけが世界のトップ水準を行くようでは、遠からず化けの皮がはがれざるをえないと私には思われる。

 内政において重要なことは、第1に、地方分権である。中央集権ではいかなる場合にもよい社会は形成されない。各都市、各地方が自らの手で社会と環境を築いていくようでなければ、日本は紋切り型の社会になる。今の日本には東京とその縮小版の都市があるだけで、しかも後世に残せるようなものは何一つ築かれていない。右へならえの社会は必ず粗悪になると私には思える。

 第2に優秀な政治家の所在である。国民が納得できるほどの見識と思考力、そして教養を持った政治家が日本にははたしているだろうか。政治家はつねに国民の前に出て、その資質を曝け出すべきである。 政党間の対立はその説得力と啓発力によって争われるべきである。この点で今の政治家諸君は何かを履き違えているだけでなく、基本的な資質が問われるであろう。政治家が粗悪なのは結局国民の責任である。われわれが自らの社会環境と生活のあり方について、それがいかにあるべきかという反省と判断力を持たない限りよい政治家は生まれない。

 したがって第3に、国民が自らの生活を見つめるまなざしを向上させることが必要である。それはわれわれの自己反省と自己探求の問題だと言ってよい。しかもそれはたんなる政治意識の向上だけではなく、むしろ文化的意識と国際的感覚の向上の問題である。国家は他の国に追従するようであっては向上しない。個人もまた誰にも劣らない自らの生活を築かなければ、真に自立することはできない。そしてこの自立は内心の不羈と文化的豊かさによってのみ可能となるのである。私は政治は文化に従属すべきだと考えている。

9月25日(金) 晴れ
〈ベルリン旅行1〉
 ベルリンBerlinに行く。本屋禎子さんから、ベルリン自由大学Freie Universität Berlinがすばらしいので見に来ないかと誘われたのを機会に、予定を少し早めてのベルリン旅行である。アウトバーン2号線をひた走りに走って昼過ぎにベルリンに着く(約550km)。インターの出口を間違えて都心シャルロッテンブルクに入ってしまった。自由大学は西ベルリンの南部、都心から約10kmの所にある。都心を抜けて大学に向かう道を探すのが一苦労だった。何度も道を聞いて、それでも迷いに迷ったあげくようやく大学のあるダーレムDahlemへ。大学に入ってからがまた一苦労である。大学とはいっても、広大な地域に大学の建物と一般の建物とが入り混じって1つの中規模の都市を形成しており、何本もの通りが複雑に交叉している。緑が深く、なおのこと目標の教育学部図書館がわからない。道を聞いても知らない人が多く、間違った場所を教えられたりもした。予定よりも大幅に遅れたころ、地下鉄入口の横断歩道でたまたま巡り合い、学内を案内してもらう。 距離があるから車で回る。本部棟、メンザ、附属図書館、理学部、哲学科など。本部棟以外にそれほど大きな建物はないが、あちこちに点在しており、とても歩いて回れる距離ではない。いったい日本の大学の何十倍の広さがあるのだろう。街路の多くは美しい並木路で、もう葉は色づき、落葉が道路を飾り、足元で乾いた音を立てて風に流されている。哲学科の建物はモダンアートの小美術館といった感じの、奇妙な形をした独立棟であった。

9月26日(土) 晴れ
〈ベルリン旅行2〉
 大学構内にダーレム美術館Dahlem Gallerie(国立博物館の一部で、中世から18世紀までの絵画部門を受け持つ)がある。ドイツにおける最も重要な美術館の1つであり、世界の美術館の中でも屈指のものである。落ち着いた宮殿を思わせるような壮大な建物の中に、水準の高い作品が豊富に展示されている。主要な画家の作品が1室ごとにまとめられているので鑑賞に便利である。レンブラント、デューラー、ホルバイン、クラナッハのコレクションが充実している。その他にも、ジオット、ファン・エイク、リッピ、ボッティジェリ、ラファエロ、ティチアーノ、ウェイデン、ブリューゲル、ベラスケス、プーサン、ルーベンス、ファン・ダイク、ハルス、ルイスダールなど、美術画集を繰るように名作があっけないほど簡単に次々と目の前に現れた。 採光、絵の見やすさ、落ち着いた雰囲気、休憩ソファーなど美術館としての配慮も理想的である。

 午後、再び彼女と待ち合わせてベルリン市内を見物に行く。ツォー駅Hbf. Zooを中心とする繁華街は大変な車と人の混雑だ。一刻も早く抜け出したいが渋滞がひどい。

 シャルロッテンブルク宮殿Palast Scharlottenburgは駅の西北、都心部の端にある。両側に長いウィングを持つオーソドックスな宮殿だ。延々と続くすっきりとした長い屋根が美しい。宮殿の北側は庭園になっており、ゆっくり歩くと1時間はかかる。すばらしい構図の庭園だが、歩道にブロックが敷かれていたり、奥の方の手入れが行き届かず雑草が伸びているのが残念だ。

 私にとって西ベルリンはそれほど魅力ある都市ではない。近代的な大通りは日本の大都会を思い出させる。繁華街を通り抜け、ティアガルテンの静かな大通り(「6月17日通り」という名前である)に入るとほっとする。まっすぐの大通りの突き当たりに現れたブランデンブルク門がみるみる大きくなり、ほどなく着いた。ブランデンブルク門Brandenburger Tor! ここでの1990年10月3日の映像は世界中の人々の心に焼きついて残っている。今日の世界において、これほど象徴的な建造物はないであろう。今は閑散としている広場の大地からは群衆のどよめきが伝わってくるかのようだ。門そのものは思ったほど大きくもなく個性的でもない。この門は芸術の対象というより、むしろ「歴史の門」だ。ソビエト型社会主義の実験が崩壊したことを示す「記念碑」として長く歴史に記しとどめられることであろう。門の両側の「壁」跡にはすでに新しい道路が造られようとしている。40年の分断を経てベルリンは再び1つのベルリンに戻っただけだということをこの門は語っているのかもしれない。

 門から東側のウンター・デン・リンデン通りUnter den Linden Str.に入るとベルリンの風景は一変する。旧ベルリン、そして3年前まではDDRの政府区域として権力の中枢であった所である。ドイツの中心点であった地である(近い将来、政府機構が順次ここに移されてくると聞いている)。ウンター・デン・リンデンの両側には歴史的な建造物がずらりと並び、ドイツの他のどの都市をも寄せつけない風格と威信、そして「中央的なもの」を感じさせる。大通りの南側にアカデミー広場Platz der Akademieがある。広場の両側にはフランス・ドーム、劇場、ドイツ・ドームの3つの建物、反対側にはオペラハウスと博物館があり、見事な建築群を形造っている。しかしどの建物も閉じられ、あるいは深い眠りの底にある。南側に垣間見えるホテルの建物の華やかさが、今は空虚になった「栄光の場」に捧げられた花のように見える。広場で写真を撮ろうとしていると、散歩中の老人が近寄ってきて、「君はこの広場を知っているか。ヨーロッパで一番美しい広場だ。しかし今は何もかも壊れてしまった」と少々興奮した面持ちで話しかけてきたのが印象的だった。

 フンボルト大学と旧図書館は通りの北側にある。この大学は1810年の創設で比較的新しいが、フィヒテが初代学長となり、ヘーゲルが1831年に倒れるまで学長を勤めた大学である。文字通りドイツの中枢大学として、プロイセン国家の手厚い庇護の下にアカデミー世界に君臨してきた大学である。H型の大きな建物だが、土曜日なので、マルクスが学び、アインシュタインが教鞭をとった、内部の教室には立ち入ることができなかった。

 運河の橋を渡るとマルクス・エンゲルス広場に出る。広大なアスファルトの広場はDDR時代には政治的行事が繰り広げられた所である。広場の東側は共和国宮殿Palast der Republik、DDRの議会が置かれていた建物である。その名とは似つかぬ総ガラス張りの長大な近代建築であるが、今は大量のアスベストが使われていたために立ち入り禁止となっている。南側はDDR政府、西側は旧外務省とDDRの中枢機構が取り巻いている。ここもまた今は廃墟Ruineの空虚さが漂う広場である。

 広場を南に抜けるとニコライ聖堂Nikolei Kir.のある旧市街地に出る。ニコライ聖堂は15世紀に建てられたベルリンで最古の美しい教会であり、 柔らかいレンガの感触が味わえるファサード、鋭い2つの尖塔、深い傾斜の大屋根が美しい。周りには古い町並みが残っていて、カフェやレストランがわれわれの足を引き止めようとする。旧市庁舎Rotes Rathausの人目を引く赤い石造の建物、ネプチューンの噴水、マリーエン教会、そして東ベルリンの名物であったテレビ塔を見ながら、「博物館の島」へと足を向ける。ここには旧博物館Alter Museum、新博物館Neuer M.、ナショナル・ギャラリーなどが集まっている。中でも圧巻なのがペルガモン博物館Pelgamon M.である。ペルガモンは小アジアにあるローマ期の植民都市であるが、その遺跡がそっくり原型のままで再現されていることで知られている。怪物のように巨大な建物に入ると、正面のホールにペルガモン神殿がそびえており、われわれを見下している。ギリシャ風神殿の華麗さがよく伝わってくる。しかし私には隣のホールに置かれていたバビロンのイシュタール門Ischtar-Tor Babylonの方が印象的であった。各展示室を急ぎ足で見て回ると足がくたくたになるほどだ。カフェで休み、ポツダムに向かった時はもう暗くなりかけていた。

9月27日(日) 晴れ
〈ベルリン旅行3〉
 ポツダムはベルリンの西南約30kmのところにある。ベルリンの衛星都市であり、奥の院のような町である。東と南は湖がとりまき、反対側は森と丘陵が迫っていて、静かなリゾート地を思い出させるような環境だ。旧市街地は広い歩行者道路が1kmあまり続き、両側には白、ピンク、クリーム色を基調にした美しい家々が延々並んでいる。通りの突き当たりにはニコライ聖堂の丸い塔が人目を引き、オランダ街区の華やかな建物が並んでいる。いくつもの城門が旧市街地を取り囲んでいる。都市観光の題材が揃っていて、理想的な保養都市であるが、少し閑散とした雰囲気が漂い、建物や道路の破損、工事ラッシュは今の東部ドイツでは仕方のないことだ。

 サンスーシ宮殿Schloß Sanssouciはドイツ第一の宮殿であり、ヴェルサイユ宮殿に対抗して造られた華麗きわまりない別天地(Sanssouciは憂いなしの意味)である。入り口のオベリスクから新宮殿までまっすぐに続く道は約2.5kmあり、市街地全体と同じ位の広さの庭園が見渡すかぎり続く。入り口近くの池のほとりには回廊を持つ霊廟があり、水面に影を落として絵のような効果を醸し出している。北側の庭園の坂を登りきると、絵画殿Bilder Gallerieがある。フリードリヒ2世が1755年に建てたドイツ最古の「美術館」であり、国王所有の絵画(ルーベンス、ファン・ダイク、ティントレットなど)の鑑賞場である。美しい庭園と大理石のテラスに囲まれた優雅な宮廷建築であり、内部は1つの長い画廊Gallerieになっている。床の大理石装飾と天井装飾がとくに美しく、私としては絵画よりこちらのほうに気が惹かれる。

 旧宮殿はサンスーシのシンボルであり、その個性的な姿は写真などで広く親しまれている。宮殿の前には耳目を驚かせる「ぶどう栽培庭園Weinwerk」がある。中央には真珠貝を型どったと思われる階段が6つ連なり、その両側には広いテラスが6段の翼を広げている。6段のテラス壁にはぶどうとイチジクが交互に植えられている。そしてぶどうを寒さから守るために両開きの温室用ガラス窓が壁に取り付けられている。この840枚のグリーンのガラス窓が宮殿装飾のための主な道具立てなのである。フリードリヒ2世が、北ドイツの気候を考えて直接に発案して、造らせたという。10数メートルに吹き上げる噴水ごしに見るぶどう庭園、そして丘の上に見える宮殿の光景はほとんど信じがたいほどである。ぶどう畑のようにも見え、城壁のようにも見え、現代建築のようにも見える。 美しくもあり、奇抜でもあり、エレガントであり、一歩間違えればグロテスクでもあるこのぶどう畑を両側に見ながら、真珠貝の石段を登ってゆく感興はなんとも名状しがたく、いかにもフリードリヒ2世の庭園という感じがする。宮殿もまたそのエレガントさで知られる。ロココ様式のファサード、とくに柱の人物彫刻は私の目にはエレガントというより華美過剰、憂いなしというより喜びの興奮と見え、少々の美的圧迫を感じなくもない。正面中央にゆるやかに張り出した円形ホールとドーム屋根が美しい。その中央にはSANS SOUCIの黄金の文字が輝いている。建物の反対側も装飾に満ちており、円形の回廊Kolonadeに囲まれたテラスからは、向こうの丘の上に鑑賞用に造られた廃屋Ruineが見渡せるようになっている。

 旧宮殿から新宮殿までは歩いて30分かかる。途中には新宝物殿、新オランゲリー、ベルヴェデーレなどの建物や植物園などがあるが、時間がないため省略。新宮殿は小規模の旧宮殿とは対照的な壮大華麗な大宮殿である。旧宮殿より20年後の1765年にフリードリヒ2世が建てた宮殿である。225mの長さの建物には483の彫像が取り付けられてあり、200の部屋があるという。ドイツ語のriesig(巨大な)、pracht(華美な)という語感がそのまま具現されている建物だ。前方には広い円形の幾何学模様の庭園、背後には石だたみの広場と2つの付属宮殿がある。建物は内部が修復工事中のために入れない。内部見学の代わりに館内のカフェでコーヒーとケーキを楽しんだ。

 ツェツィーリエン宮殿Cecilienhofはポツダムの街を挟んで反対側の湖畔にある。今世紀の初めに建てられた宮殿で、周りは深い森に囲まれ、湖の方向には芝生が広がっている。信じがたいほどの美しい建造物である。自然石と木組みで造られた建物は周りの森に溶け込むように黒褐色に統一されている。2つの中庭、1つの塔、複雑な屋根組みを持ち、屋根には陶器でできた工芸煙突が何本も立っており、目を楽しませてくれる。庭園も意匠に満ちている。植え込みはさまざまな鳥の形に刈り込まれ、壁を這う蔦が何百年も経た古城の雰囲気を醸し出している。建物や庭園はスコットランドの貴族の館の様式がとり入れられているという。

 ポツダム会議が開かれたのはこの宮殿である。大戦終結の会議が森の中のこの宮殿で行われたことはなかなか興味深い。トルーマン、スターリン、チャーチルの3人が並んだ例の写真は、ここの中庭や会議室で撮られたものである。会談と調印が行われた間、3国の執務室はそのままの形で保存され、公開されている。執務室に当てられた各部屋は木の素朴さと味わいを活かして調度されており、魅きつけられるような奥ゆかしさを感じさせる。窓からは湖が見渡せ、およそ会談のために望みうる最高のロケーションという感じである。他の部屋と2階の全体はホテルとレストランになっている。

9月28日(月) 晴れ
〈ベルリン旅行4〉
 ブランデンブルクBrandenburgはベルリンの西方60kmほどの地にある小都市である。この町には14世紀のDOMがあるが、あいにく大修復工事中で、建物はそっくりやぐらとシートで覆われている。市街地の家々も破損が激しい。いつの日かDOMも街並みも美しく生まれ変わることであろうが、東ドイツの町々は今はまだ苦難の時代を通過中である。
 マグデブルクMagdburgはエルベ川に開けた大きな都市である。広い平原に市街地が茫々と拡がり、とらえどころのない感じだ。大通りが街を十字に走り、北側は繁華街、南側は旧市街地に分かれている。13世紀から16世紀にかけて建てられたDOMはドイツ・ゴシック様式をよく残すカテドラルとして重要なものである。広い広場と都会的な建物に囲まれたこの中世の建物は思ったよりずんぐりとした形であり、重々しそうに沈んでいた。これも北ドイツのメランコリーかもしれない。

 ツェレCelleはニーダー・ザクセン州の小都市である。南のローテンブルクなどの中世都市に匹敵する古い町並が保存されていることでよく知られている。旧市街のほとんどは木組みFachwerkの家であり、それらは北ドイツの昔の姿をよくとどめていると言われる。多くの家々は16、17世紀に建てられたものである。街全体が誇らしく気高く見えるほどの美しさであり、300年以上前の姿そのままである。中世の世界に飛び込んだ錯覚を覚えるほどだ。このような美しい街が保存されていることがドイツの最高の財産の1つだということがうなずける。ツェレからはまっすぐにケルンへ。1300kmの旅行であった。

9月29日(火) 晴れ
〈都市の自己主張について〉
 都市とは何か。大勢の市民たちの生活の場であると答えるのが正しいのか。否。生活の場であるのみならず、生活そのものを産み出す有機体でもあることをこの答えは忘れている。都市はたんなる面積でもなければ、建造物や施設でもない。住民の総数でもない。都市はむしろ生活の全集合、あるいは集合的生活の1つの全体である。あえて言えば、都市は生物に似ている。1つの成長し変化する生命体として譬えることができる。それぞれの都市はそれぞれの歴史を持つ。都市とは長い時間をかけて形成されてきたその現在の姿である。生命を持ち、歴史を持つものは同時に個性をも持つ。1つの都市は他のあらゆる都市にない個性的な姿を有しているはずであるし、独特でなければならない。

 ところが現代の都市は没個性化の方向を歩んでいる。生活様式が一様化し、建造物や都市景観はひたすら画一化の方向を歩んでいる。日本ではこの画一化、没個性化は甚だしく進んでいる。多くの、あるいはすべての都市がリトル東京の方向を目ざし、全国どこに行っても同じような建物、生活様式しか見出すことができない。そして東京は確かに個性的ではあるが、「個性的」な怪物であって、過去のすべてを破壊しながら自己膨張していく魔性の生命体である。

 私はドイツに来て、ドイツ人たちがそれぞれのところで頑固に自分たちの生活の好みを貫き、他の都市と張り合って独自性を発揮しようとしているのを見て安心している。見本となるべき中心がなく、都市間に個性の競い合いがあることは敬服に値する。もちろん、ドイツにも全国チェーンの大資本がどこの都市にも顔を出していて、街を著しく非個性的にしている。とくに大都市や近代的なショッピング街では個性の看板は掲げられないであろう。ドイツでは小さな町ほど面白い。というのは小さな町、古い町がそれぞれに個性を主張しているからである。小さなものに個性があり、大きなものにはなく、古いものに個性があり、新しいものに個性がないということは、ドイツに限らず現代社会のもっとも悩ましい問題の1つなのである。

 都市とは作り上げるものである。築き上げられ変化していく都市の姿には、市民の生活の形が映し出されているはずである。そして私たちは本来文化的であること、美的であることを切望しているはずである。文化に対する愛好心と欲望は信じがたいほど強いのである。「文化的で幸福な生活」は人間的であることの原点である。そしてその文化を享受する場は何よりも都市においでである。都市においてもっとも重要なことは、都市は美しくなければならず、文化的でなければならないという点である。残念ながら、日本の多くの都市はこの点で失格である。見て楽しみを感じ、滞在して文化的な高揚感を覚えるような都市はきわめて少ない。戦後無秩序に作り上げられてしまった都市は、もはやすべてがコストの壁の前に置かれて、個性の創造は望むべくもない。それでも都市計画が多くの都市にあるが、文化的であることを第一に考え、個性を主張し、数百年後の鑑賞に耐えることまで考えられているとはとても思えない。都心部は歩行者専用ゾーンにすべきだと思うし、街は緑地と水辺で包囲すべきだと思う。そして鑑賞して楽しめるような建造物がふえていけば、都市での生活ははるかに美的になるだろう。

 日本の都市に旧市街地や古い町並みが残っていれば、その都市は文化の芳香を誇ることができ、歴史的で個性的な都市となることができるであろう。ところが日本の都市は絶えず古いものを一掃し、新品の規格品で模様替えされている。日本では美的で文化的な都市創造は夢物語だと言わざるをえないのだろうか。さらによくないことは、都市建設は官公庁と大企業のやる仕事だと考えられ、市民と民間の関心が低いということである。私たちは、自らが生きる大地と環境とが不二のものであることが人間の生活にとってどれほど大切なものかを見直さなければならないだろう。

9月30日(水) 曇り
 難民救済法Asylrechtの問題では不正確な記述をしたので訂正しておく。端は今年になって東欧からの不法入国者が急増し、40万人をすでに越えたことにある。ルーマニア、ハンガリー、ポーランドなどからが多いらしい。彼らは旅券を持たないで、ドイツをめがけてやってくる。彼らは難民として認められると、ドイツ憲法によって庇護され、6年間の給付を受けることができる。すべての原因はベルリンの壁崩壊である。東欧諸国はいまだ政治的不安定にありながら、出国の制限が解かれたのでこのような流民(難民)が激増したとのことである。   (太田直道)

 

正さん『九州の山』歩き旅 8

 ~ 雲仙普賢岳をあるく ~

【9日目】4月25日(土)曇のち晴れ18℃

             (山と渓谷社『九州の山』より)   は通行禁止(4/25現在)

◇ およその行程
 お宿8:15 ➡ 仁田峠9:35 ➡ ロープウェイ利用 妙見岳駅着9:50 ➡ 国見岳10:30 ➡
   普賢岳11:40 ➡ 妙見岳駅13:20 ➡ ロープウェイで仁田峠 ➡ お宿着15:40

◇ なぜここ?
1990年11月。普賢岳が噴火し翌年6月大規模な火砕流が発生した。
その凄まじさはニュース映像によって、今でも脳裏に焼き付いている。
その山に入れるなら行ってみたいと思った。
それにもう1つ、うろ覚えだがこの辺をバイクで走ったような気がするからだ。

◇ 仁田峠へ出発

 

池の原園地の遊歩道をのんびりあるく。
過ぎると山道になった。

 

この石ころは噴石なんだろうか。
ばらばらと降ってきたらどうしようもないな。

 

仁田峠には広い駐車場があり、車が結構止まっていた。
ロープウェイありがたやと、すぐに乗った。

◇ まずは国見岳
妙見岳駅で降り、さていよいよ登りかと思いきや、快適な稜線歩きだった。
天気も良くなりつつあり、気分は最高。
やがて国見岳が見えてきた。

 

写真だとさほどの傾斜に見えないが、
遠目からだと、絶壁のように感じた。
小さく見える人間が、へばり着くようにして登っていた。
ややややと思った。

実際取り付いてみると、そんなに苦労はなかった。
鎖が何箇所かあり、足場を確かめながらゆっくり登った。
ただ、怖いと思ったのは木々の中の急登ではなく、
丸裸の岩なので体が完全に空に出ているところ。
あ~やだやだ。
前を登っていた女性は、足がかりの少ない岩のところで
引き返していた。
それは正解だと思った。
そういう判断ができることが大事だ。
おれたちはクライマーじゃない。
連れの方は、さっさと上に行ってしまった。
あららら。

 

国見岳頂上から。
普賢岳が正面にある。
噴煙が出ている。
生きてるなあ。
どの辺まで登れるんだろう。
近くにいた人と話していたら、「あれは普賢岳じゃなくて、平成新山ですよ。
普賢岳は手前の平らに見えるやつです。」とのこと。
あれま。そうだったか。
噴火口めがけて登ろうとしていたなんて大馬鹿だ。

◇ つぎは普賢岳
さっきの岩場を降りる。
さらに紅葉茶屋まで下る。

 

ここから30分ほども登れば頂上だ。
今回の旅のゴール。
ひーはーしながら行こう。

平成新山はごつごつしていた。
こちらの普賢岳より124m高い。
こんなものを一気に作り上げるエネルギー。
驚くばかりだ。
地球はとんでもねえ。

 

南側に見える細長いのは天草だろうか。
ゆっくり眺めていこう。

◇ 火砕流跡を見なければ
お宿のある温泉街は全く被災していないようだった。
火砕流はどの方向を下ったのだろう。
それが見える展望台が、ロープウェイの少し上。
そこを目指してもどろう。
そんなことを考えながら紅葉茶屋に下った。

間もなく鞍部だなと思ったとき、
目を疑った。
下から異国の若い女性が急に現れた。
タンクトップに超短いホットパンツ。
はじめは、裸かと思った。
ペットボトル1本持参。
ここはどこ?
原宿?新宿?
混乱しながらも、「ハ~イ」なんて挨拶した。
その娘はにこにこしながら登って行った。
裸足ではなかったよな。
でも、靴でもなかったような気がした。

まあ、「つわもの」はどこにでもいるけど、
まさかここで出会うとは。
あぶなく滑落するところだった。
とにかく、怪我なく帰れよな。

気を取り直して、国見別れに登り返した。

◇ 展望台

右下に流れた後が確認できた。

南東方向に下り、その先に集落が見える。
山肌がえぐられているので、ん?と思った。
火砕流は高温の火山灰じゃなかったっけ?
そうではなかった。
高熱の火山岩の塊と火山灰、軽石などが高温のガスとともに
土石流のように流れ下る。
とんでもないものが集落を呑み込んだんだ。
改めて、地球のすごさにふるえがきた。

◇ 池の原園地へ

 

稜線で咲いていたミヤマキリシマ。

 

池の原園地には群落がある。
満開になるにはもう少し先のようだ。
案内板によると、
九州の火山性高山帯にのみ自生するツツジ科の植物。
九州の山々を代表する花。
ここ普賢岳もミヤマキリシマの花で彩られるという。
ふ~む。
栄養などない火山性高山帯か。
逞しいやつだなあ。

◇ お宿にて
着くとすぐ温泉に浸かった。
たまらん。最高。
浮かんできたのは、平尾台で出会った方々からの言葉。
「その4つの山の選択はとてもすばらしい。」
その意味が、じんわりと分かる。
阿蘇山と普賢岳。
同じ活火山でも雰囲気は全く違っていた。
どの山もはっきりした個性があり、あるくことで感じることができた。
出会いも含め、面白かったの一言だ。

◇ 帰るのも修行だ(翌4月26日) 

雲仙をバスで出たのが9:30。
新幹線を乗り継ぎ、地下鉄、バスを使って帰宅。
時計は22:00。約12時間座りっぱなし。
修行以外の何物でもなかった。
帰りぐらい飛行機でもいいかと反省。

次回は、九州南部の山。
どんな旅になるにせよ、人様に迷惑をかけない準備は必須。
それに山岳保険も高いのに入っとこうかな。

《どうしても確かめたかったこと》
大昔、バイクで九州を走った。
雲仙も走ったような気がしていた。
茶色くなったツーリング記録を引っ張り出した。
やっぱりだった。
諫早から島原半島南の口之津に行くために、
雲仙有料道路(現在は公道)を走ったことが判明。
しかも、今回乗ったロープウェイのある仁田峠で休憩している。
そうだったか。

そして、いつ通ったのかが問題だ。
1990年8月。
普賢岳の噴火は1990年11月。
わずか3か月後だ。
普賢岳のニュースが今でも鮮明なのは、
内容もさながら、驚きの大きさのせいなのだ。
のんびりと休憩して眺めたあの山だ!

普賢岳を選択した背景には、このうすぼんやりした記憶が
あったからだと納得した。

季節のたより199 マルバダケブキ

  夏の林床を彩る黄金色の花  鹿が食べずに大群落に

 青葉山へと続く治山の森の山道で、マルバダケブキの花が咲いていました。
 葉をしげらせたイヌブナやモミ、ケヤキの木漏れ日がかすかにゆれる林床で、ぽつぽつと、黄金色の灯をともすように咲いています。


林床に咲くマルバダケブキの花

 マルバダケブキは、キク科メタカラコウ属の多年草です。フキ(蕗)の葉に似た丸く大きい葉をつけるので、フキの名がありますが、フキの仲間ではありません。 
 山の高い所に生えることからダケ(岳)がついてダケブキ(岳蕗)と呼ばれ、本州(中部地方以北)から東北地方の高山帯・亜高山帯に自生しています。

 八ヶ岳に山小屋を構えた作家の梨木香歩さんが、自然に囲まれた山小屋の日々の明け暮れを記録したエッセイのなかに、こんな一節があります。

 その地域だけによく見られる植物、というのは土着の神様たちのようなものだと思う。東京で私の住む地域に圧倒的に多いのはヤブミョウガだし、八ケ岳では、マルバダケブキ。そういうものが木陰で群生を作り、その上に木漏れ日がさしているのをみると、深く荘厳な気持になる。  
             (梨木香歩『小さな神のいるところ』毎日新聞出版)

 マルバダケブキは、本来、高山に自生する植物で、蔵王連峰、船形山、泉ヶ岳などの湿った木陰や草地に自生していますが、仙台市の青葉山付近でもあちこちに群生が見られます。暗い森で木漏れ日の下で咲く群落に出合うと、梨木さんの文章を思い出します。


群生するマルバダケブキ

 マルバダケブキの早春の芽吹きは比較的早く始まります。
 落ち葉の間から、マルバダケブキの芽が静かに顔を出すと、春の季節が動き始めたのを感じます。
 赤褐色の芽は、光を受けて緑の葉へと変わり、フキの葉に似た葉を大きく広げ、株立ちの群落を形成していきます。


      芽吹き      緑の葉に変化      フキの葉に似ている


早春の林床に緑の若葉が目につきます。

 やがて、大きく広がる葉の中心から太く頑丈な花茎が立ち上がり、その花茎が30〜50 cmほどに伸びた頃、先端に複数の小さなつぼみが集まってつきます。
 つぼみはふくらみを増し、十分にふくらむと、先端がわずかに裂けて、折りたたまれていた山吹色の花びらが、中からちらりと顔をのぞかせます。

 
     立ち上がる花茎      ふくらむつぼみ    顔をのぞかせる花びら

 花びらが外側へ向かって開き始め、やがて大きく開くと、花全体が木漏れ日のなかにふわりと浮かび上がってきます。

 
       開き初めの花             光の中に浮かび上がる花

 マルバダケブキの花は、見た目には1つの大きな黄色い花のように見えますが、キク科らしく多数の小花が集まった頭状花です。この頭状花は、舌状花と筒状花という2種類の小花で構成されています。
 花のまわりを囲む花びらのように見える部分が舌状花です。
 舌状花は雄しべをもたず雌しべだけをもつ雌性花で、大きく目立ち、昆虫を呼び寄せる役割を担っています。
 中央に密集する小花が筒状花で、こちらは雄しべと雌しべを備えた両性花です。
 マルバダケブキは、キク科の中でも変異が比較的多い種で、生育環境によって舌状花と筒状花の数に大きな差が見られます。多くの観察例では、舌状花が10〜12枚前後、筒状花が150個前後あるようです。

 
      全開した花              後ろから見た花

 筒状花の雄しべと雌しべは、キク科特有のおもしろい構造をしています。
 開花が始まると、まず5本の雄しべの葯が合着してできた「雄しべの筒」が現れます。雄しべの筒の内側には、放出された花粉が内向きに詰まっていて、その花粉を筒の底から1本の雌しべの花柱が、煙突掃除のブラシのようにぐんぐんと突き上げて、一気に外へ押し出します。
 このとき、雌しべの柱頭はまだ固く閉じているため自家受粉は起こりません。
 突き出された花粉は、蜜を求めて訪れた昆虫の体に付着し、他の花へ運ばれていきます。


    雄しべが姿を現す       雌しべに押され出てくる花粉    花粉を運ぶハナアブの仲間

 花粉を出し終えると、今度は、これまで未成熟だった雌しべの柱頭がゆるくカールしながら二つに割れて、受粉可能な状態へと成熟していきます。
 成熟すると柱頭は粘りやすい液を出し、別の花から運んできた昆虫の花粉をキャッチし、無事に他家受粉が成立します。
 マルバダケブキは、同じキク科のタマブキ(季節のたより183)の、花の構造と受粉のしくみがそっくりです。


    伸びる雌しべ      二つに割れカールする柱頭    成熟した雌しべ

 花は受粉を終えると、花全体が茶色くなってしぼんでいきます。一方で、花の中心にあった子房は育ち始め、小さな実が少しずつふくらんでいきます。
 実の中ではタネが乾きながら成長を続け、やがて、タネの先についている綿毛のような冠毛が開き、風に乗るための準備を始めます。
 花の頭がすっかり乾いて冠毛が広がると、タネは簡単に外れやすくなり、風に運ばれて新天地をめざして飛んでいきます。


   枯れる花びら     綿毛(冠毛)ができる   開いた綿毛と黒い種子

 マルバダケブキは、種子が落ちた先の生育環境が適していれば、そこで芽を出し、新しい株が育ちます。また、地面の下には太い地下茎がのびていて、その先から新しい芽が出ることで、同じ場所のまわりに少しずつ仲間を増やしていきます。
 こうしたしくみによって、マルバダケブキは湿り気のある山地や林のふちなどにまとまって生え、群れをつくりながら分布を広げていきます。


地下茎でも仲間を増やす

 植物は、草食動物や昆虫に食べられないように、とげや硬い葉で近づくのを防ぎ、さらに苦みや毒の成分を作って不快な思いや害を与えることで、もう一度食べられるのを防いでいます。

 マルバダケブキは、植物全体にアルカロイド類の天然の有毒成分を含んでいます。そのため、ニホンジカはこの植物をとても嫌い、ほかの植物が少なくなってもマルバダケブキだけはほとんど食べません。そのニホンジカが、現在、急速にその数を増やしています。

 ニホンジカの最大の天敵はオオカミでした。そのオオカミが感染症による個体減少と明治政府の制度的な駆除によって、国内で絶滅してしまいます。
 そのためニホンジカは、頭数を抑える自然の仕組みがなくなり、個体数が爆発的に増加します。さらに近年の地球温暖化によって冬場の餌が確保され、子鹿などの死亡率が低下して、その生息域は寒冷地・多雪地帯へと広がっています。

 かつて宮城県のニホンジカは「牡鹿半島と金華山だけ」に孤立して生息していると言われていました。現在はその境界線を越えて、生息域が県沿岸北部から、大崎地方などの県内陸部へと拡大しています。
 このまま生息域の拡大が続けば、将来は現在のクマと同じように、住宅地に姿を現すようになることも、そう遠くないかもしれません。

 こうした変化は山の自然に大きな影響を与えています。ニホンジカによって、いたるところで高山植物が食べ尽くされ、シカが嫌うマルバダケブキだけが残るようになっています。
 マルバダケブキが大きな葉で地面をおおってしまうと、ほかの植物のタネは光を受けられず、芽を出せなくなります。本来はたくさんの種類の花が咲く場所が、単純で偏った景色に変わってしまいます。

 こうなると、マルバダケブキが悪者のように見えてきますが、多くの花が消えてしまうと、そこに住む昆虫たちも生きていけなくなります。そのときの貴重な蜜源となっているのが、マルバダケブキの群落です。
 結果として、マルバダケブキがその地域の生態系をなんとか支えているという現象が起きています。


マルバダケブキの花は、昆虫たちの貴重な蜜源

 地球に生命が誕生してから40億年、生き物たちは直接・間接につながり合い、大きな「いのちの輪」をつくってきました。しかし、人間は、その循環の輪を、人間中心の社会や経済発展による環境破壊や気候変動によって分断してきました。
 自然はバランスを崩したとき、自ら回復しようとする力をもっていますが、人間の活動が自然の持つ回復力の限界を超えると、自然はもはや元の姿に戻れなくなります。生態系の崩壊は、すでに人類の存続そのものを揺るがす段階に達しているように思われます。

 人間には、未来を想像し、そのために現在の行動を選び取る能力があります。これは、生態系の一員として私たちに与えられた特別な力といえるでしょう。
 自然から求められていることは、自然を破壊しコントロールすることではなく、自然の持つ力を信頼し、その回復に力を尽くすこと。そして、社会の仕組みを自然と調和させ、経済や日々の暮らしのあり方を根本から見つめ直すことです。
 多様な命が息づく豊かな地球であってほしい。そのために、生態系のなかの人間にしか担えない役割は何なのか、深く考えずにはいられません。(千)

◇昨年7月の「季節のたより」紹介の草花と樹木