mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

ドイツ留学日記1992年(35)

10月20日(火) 晴れたり曇ったり
〈秋の天気について〉
 Vergaser(キャブレター)が届いていたので、午前中に車を修理工場に出す。車の調子はようやく平常に戻ったが、高速から急停止するとそのままエンジンがすとんと落ちる癖が今度は出てきた。やれやれ。すぐ再始動できるので問題はないが、交差点でエンジンを始動させるというのは格好がよくない。修理工場に問い合わせると、部品を変えたのでしばらくは仕方がなく、そのうちによくなると言う。プラグの掃除をいつもきちんとすることが一番大事だと諭された。なるほど。中古車ならぬ「古古車」は日ごろの手入れが一番たいせつなのである。世話のやける車と巡り合ったものだが、それでもよく走ってくれるので、愛着もわいてきた。残り1ヵ月はせっせと手をかけて上機嫌に走ってもらおう。

 ヨーロッパの秋は天候が不順なことが多い。ケルンでは9月に入ると急に涼しくなり、コートが手放せなくなった。朝晴れていても、たちまち暗い雲に覆われて気温が急降下することもある。曇天の日や風のある日は初冬の感じが漂う。冷たい風に追い立てられるかのように木の葉が歩道に舞い上がり、街の風景は急速に冬景色へと衣替えしていく。秋には咲く花もほとんどなく、木々は裸の枝ばかりとなって、寒々とした風情に一変する。

 この時期は、北海に低気圧が居座って、ヨーロッパ大陸をめがけて次々と波状に寒気を送りこむ。天気図を見ると、たいていイギリスの近辺に低気圧が居すわり、そこを中心に雲の塊がビスケー湾から上陸し、フランス、ドイツ、東ヨーロッパへと、時計と逆周りに周回している様子がよくわかる。気象上はもう長い冬の到来である。移ろいやすい秋の空は北ヨーロッパの名物でさえあって、そんななかで日本の秋を経験したことのある人は、口をきわめて日本の秋空の青さのすばらしさ、紅葉の美しさをほめたたえる。北欧の人たちは自らのメランコリックな気質を秋から冬にかけての曇天のせいだと思っているのかもしれない。春は秋とは対照的にすばらしい好天が続いた。天候は安定し、陽は長く、街も野山も色とりどりの花で満ち溢れていた。3月から7月まで花の途絶えることはなかった。春の陽と秋の陰、ヨーロッパを旅行するなら春に限る。

10月21日(水) 晴れたり曇ったり、一時雨
〈バロック音楽について〉
 本屋さんたちとケルナー・フィルハーモニーにバロック音楽を聴きに行った。ブリュッヘンF.Brüggen指揮の「18世紀オーケストラ」である。曲目はラモー、バッハなどで、まずまずの演奏だったが、2階最前列の席のよい席だったが、身長のためか前の手すりがちょうど舞台を遮り、背中を伸ばしたり、手すりの下から舞台を覗いたりしなければならなかった。どうしてこんなに手すりが高いのだろう。

 これまでケルンではほとんど演奏会を聴きに行かなかった。バロック音楽の愛好家を自認しているのに、ケルンで演奏会に行かないのは自分自身でも意外だったが、おそらくこれという情報をキャッチしなかったのと、週末旅行に忙しくて演奏会にまで行くゆとりがなかったからであろう。当初、ムジカ・アンティカ・ケルンの演奏が聴けるものと楽しみにしていたのだが、ついに案内を目にしなかった。

 最近の私の音楽関心はほとんどバッハ一人に絞られているが、バッハへの思い入れはドイツに来ていっそう強まった。バッハこそはドイツ・プロテスタンティズムをそのまま音楽にしたようなものだと思う。バッハの中にはドイツ的精神とプロテスタンティズム精神とがもっとも純化された形で息づいている。音楽は人間精神の自己表現である。音楽はもっともよく人間精神に肉迫し、それを形に表す。音響として響いているのは作曲家自身の心の形である。ベートーヴェンの曲からは彼の精神が響いて来、ワーグナーの曲からは彼の事大主義的な精神状態が芬々と漂ってくる。19世紀のロマン派音楽を好むものは、この時代のロマン主義的精神状況をよしとしているのである。バッハにおいてドイツ・プロテスタンティズムはその最高の自己表現を得た。とすれば、私のバッハ愛好はドイツ・プロテスタンティズム愛好、18世紀ドイツ愛好なのかもしれないと、半ば本気で思えてくる。少なくともバッハとは精神状態の波長がよく合うのである。

 シュッツやバッハ、ヘンデルなどの曲を指してバロック音楽と呼ぶことに、私はつねづね疑問を感じている。音楽史的にこの時代(17、18世紀)の音楽を「バロック音楽」という用語で一まとめにすることは適切でないであろう。むしろ「18世紀音楽」とか「ドイツ前期古典音楽」と読んだ方がよいと思われる。

 私はドイツ音楽はバッハとモーツァルトとの間に断絶があると考えている。音の性質が急変するのである。モーツァルト以降のいわゆるクラシック音楽は、フランス革命とその反動の時代、ドイツの国家統一と産業化の時代へと流れていく19世紀の歴史の流れと正確に対応しているように思われる。古典派からロマン派へ、そして事大主義と民族主義の音楽へ、という変遷は、それぞれの時代の形に不思議なまでに一致している。音楽はあらゆる芸術のなかでもっともよく国民精神と時代精神とを映し出す鏡である。ドイツ音楽はドイツ精神の自己表現だと思う。私はベートーヴェンからドイツ・ロマン派、そして19世紀後半の国民楽派へという音楽の流れは、ドイツや西欧世界の歴史的変遷の流れによく対応しており、その全体が「ドイツ19世紀音楽」という呼び名で言い表すことができると考えている。

 バッハまでの音楽とモーツァルト以降の音楽は、それぞれにドイツの18世紀と19世紀の精神を代表しているのである。18世紀の末に文化的・精神的な断絶が生じたこと(フランス革命)、ドイツでは18世紀末から19世紀の初め3分の1の時代に最も大きな精神的高揚があったこと、この歴史的軌跡が音楽と、そして哲学にそのまま映し出されている。私のバッハ回帰は、私自身の精神的なものへの愛好が19世紀から18世紀に遡ったからだと考えている。

10月22日(木) 曇り
〈ウィーン紀行1〉
 本屋さん親子をフランクフルト空港まで送る。気候にはあまり恵まれなかったが、多くのドイツの思い出を持って飛行機に乗り込まれたことであろう。これまでいく人もの日本からの来客があり、この空港にも迎え送りのために毎月のように訪れている。 それぞれの人がドイツという世界に強い印象を刻印されて、たくさんの思い出を詰め込んで帰っていった。この次、この空港に来る時は私がドイツを離れる番である。屋上に上がり、冷たい風に吹かれながら、広い空港を眺める。フランクフルトの南の空には空港に着陸しようとする飛行機が一直線に並んでおり、次々と降下してくる。

 夕方にフランクフルトを発ち、混雑するアウトバーンを南下して、オーストリア・ウィーンへの旅に向かう。 オーデンの森林地帯を抜け、約200km走った所でエアランゲンErlangenの街に着いた。エアランゲンはニュルンベルクNürnbergの少し北にある小さな大学都市であるが、多くの科学者を輩出し、ドイツ史のなかでも重要な役割を果たしてきた都市である。夜の街に立ち寄ったので、街路の様子がよくわからない。一方通行に妨げられて大学のキャンパスもAlt Stadt(旧市街地)もわからない。むしろ典型的なドイツの小都市の佇まいだ。戦前のままの、やや哀愁を帯びた街並みが狭い道路の両側に続いている。教会と広場のある街の中心地らしいところに大きなスーパー・マーケットがあった。夜の8時を過ぎてもまだ営業しており、駐車場は出入りする車でごった返していた。閉店時刻の厳格なドイツでも夜の営業はありがたいのであろう(木曜日のみ、夜8時半まで営業する店がドイツ各地にある)。とにかく大変な混雑である。食料品などを買い込み、結局買い物をしただけでエアランゲンを離れた。

 さらに170km、南東方向に走って、レーゲンスブルクRegensburgへ向かった。長く憧れていた南ドイツのこの街に着いたときはもう11時過ぎであった。レーゲンスブルクはドナウ川河畔の、中世の面影を残した美しい教会都市であり、ドイツの情緒がよく残された街である。ケルンからは国内でもっとも遠く離れた都市の一つであり、約600km離れている。ウィーン方面に旅行するときに立ち寄ろうとかねてから考えていたのである。旧市街地入り口のドナウ川沿いの駐車場に運よく車を駐めることができた。しばらくドナウ川の風にあたり、夜の街の佇まいを眺めて、寝袋にもぐりこんだ。アウディは全席を倒せばフラットになるので、いつも寝袋を積んでいるのである。

10月23日(金) 曇り時々晴れ
〈ウィーン紀行2〉
 朝のドナウ川河畔はピリッとした空気が冷たく、晩秋を思わせる雲模様の空からは今にも霧雨が降ってきそうだ。ドナウの水面はゆったりとしていて、人が歩くほどの速さで滔々と流れている。広い川幅の中をいくつもの流れが譲りあわずに線を描いて流域をつくっている。

 旧市街にはDOMを始め、いくつもの教会が南ドイツらしい個性的なスカイラインを描いて林立している。DOMは12世紀の初期ゴシック様式の建物である。その美しい塔は街のどこからも見え、街のシンボル的存在である。午前中いっぱいをかけて旧市街を歩き周る。淡いピンク、水色、そして黄土色の壁の家々は明るく、軽いメランコリーを湛えている。屋根は赤茶色、南ドイツ・バイエルンの他の諸都市と同じような建物であるが、伸びやかさと静かなのどかさを感じさせるのは思い入れのせいか、あるいはドナウ川の大らかさのせいか。街角を曲がるたびに目の前に広がる家々の姿は本当に美しく、音楽的である。建物に厚く絡まっている蔦の葉が真っ赤に紅葉し、秋の深まりを奏でている。濁りを感じさせない澄みきった街をあてもなく右へ左へと歩き周る。足も疲れてきたのに、歩き足りるということはない。車に戻ってきたときに、ちょうど12時の鐘の音が街中に響きわたった。

 レーゲンスブルクからほどない距離のところにパッサウPassauがある。パッサウはドイツ・オーストリア国境の街であり、ドナウ川中流の中洲に築かれた町である。対岸から眺める街の風景は川面に浮かぶ蜃気楼のようで絵画的だ。パッサウにも古いDOMがある。DOMのある街景色は本当に美しい。DOMの外観は少々ごちゃごちゃしていなくもないが、堂内はあっと驚くほどの天井絵画と装飾で、まるで宮殿のようである。フレスコ画の華やかさの代わりに窓のステンドグラスは無色で、よくつり合っている。入り口にここは教会であって博物館ではないとわざわざ書かれていたが、この華やかさは宗教的ではなく、美術館の方がよく似合う。

 パッサウからはドナウ川沿いの田舎道を走って国境を越える。深い谷底のドナウの流れ、牧草地や森林のつづら折れの道、小さく優雅な村々、登りきった丘の広々とした見晴らし、まったく心ときめく光景が続く。一日に何台も車が通らないと思われる国境では、10分ほどもパスポートやトランクの荷物を調べられた。夕闇の迫るころリンツLinzの市街地に着いた。駅、新DOM、旧DOM、広場、そしてドナウ河畔と夜のリンツを散策した。今日は三つの街を実によく歩いたものだ。

10月24日(土) 晴れ
〈ウィーン紀行3〉
 丘陵地隊の森の中を走るアウトバーンが下り坂にさしかかると、眼下にウィーンの街が広がってきた。森を抜け、次第に街の風景が広がり、やがて市街地に入る。市の中心Zentrumへの案内表示にしたがって車を走らせること約30分、突如右手にヴェルデベーレ宮殿が姿を表し、目的地に着いたことがわかった。ほどなくオペラ座に到着、地下駐車場に車を入れる。

 オペラ座はウィーンのシンボルであり、ウィーン観光の起点である。ほぼ方形の、あまりにも堂々とした建物である。いかにも典型的な19世紀建造物だと思う。その威圧的な姿は、ウィーンが音楽の都であることを誇っているようにも見える。ベートーベンの「フィデリオ」でこけら落としをしたということだから、もう200年近く経っている。朝のオペラ座周辺は閑散としており、観光客の群れが次々と通り過ぎて行くのみである。オペラ座はリング・シュトラーセRing Straße(環状大通り)に面している。 リング・シュトラーセの内側がウィーン旧市街地である。

 オペラ座から歩行者専用の大通りを歩いてシュテファン教会Stephan Kircheへ向かう。ウィーンの瞳とも心臓ともへそとも言われる壮麗な建物であり、街を締めくくる中心点のような存在である。ケルンのDOMほどには大きくはないが、周囲を睥睨するかのように堂々とそびえており、鋭く高い二つの塔を従えている。 大きな一枚屋根が特徴であり、瓦の派手なモザイク模様が大変印象的である。あまりにも有名な建物であるが、私にはバランスの悪さと過剰装飾が感じられ、数あるDOMの中で最高クラスに属するとは思いかねる。内部も予想したほど個性的ではない。二つの塔はまったく非対称だ。西塔は途中で造るのやめたような中途半端な形であり、東塔はきらびやかな石組みがあまりにも強烈である。東塔は建物からはみ出して建てられている(私の知るかぎりでは他に例がない)。東塔に登ってウィーンの街を眺める。足元に広がる壮大なブルグ宮殿Hofburgが圧倒的だ。宮殿とリング・シュトラーセの外側にはどこまでも街が広がっており、それが次第に森の緑の中に吸い込まれていく。シェーンブルン宮殿Schönburnnはどのあたりで、ウィーンの森はどこまで広がっているのだろう。ベートーベンが遺書を書いたハイリゲンシュタットはどこだろう、ドナウ川はどちらの方向に消えていくのだろう。何もかも定かに確かめることを忘れ、ただ呆然と四方の街並みを眺めるばかりだった。

 教会の横には馬車乗り場があり、たくさんの二頭立ての馬車が並んで乗客を待っていた。馬車はクラシックな本格的な造りのものである。この馬車の蹄の音が街中のいたるところで耳に入ってくる。シュテファン教会から市の目抜き通りのコールマルクトKohlmarktを通ってブルク宮殿へと行く。途中にもベスト塔やいくつもの教会、有名ショップなど見るべきところが多くあり、広い通りは観光客であふれかえっている。きらびやかな雰囲気が街を覆い、観光客の表情は嬉々とした喜びで輝いている。

 ブルク宮殿はハプスブルク家の居城であり、神聖ローマ帝国の本拠地であったところだ。フランツ・ヨゼフ1世やマリア・テレジアの時代に宮廷文化は頂点に達し、ウィーンの街は華麗な文化と芸術の中心地となったのである。とにかく巨大な宮殿にあきれかえる。建物からは巨大化しすぎて自らを滅ぼした宿命すら感じられるほどだ。部屋数は2500室を越えると言われている。いまはその中に図書館、いくつかの博物館、教会、ホール、スペイン騎馬館などが入っている。宮殿をざっと一周りしてみる。延々と続く石の壁、彫像の置かれた屋根、中庭をとりまく数え切れない窓、列柱やテラス、何もかもがかつては宮廷の権威を象徴するものであったのだろう。教会は「崇高の文化」を、宮廷は「華麗の文化」を築き上げたが、どちらも人間の盲目的な衝動につき動かされたのであろう。人間の持つ力が一点の権威に吸収されて溢れ出たものがこれらの文化である。現代はもはやこのような文化を産み出すことはない。現代社会はこれらの身分制社会の文化を歴史の彼方に葬り去ったが、今日の有り余る力は一体何に結晶しているのだろう。高層ビルや高速道路がそれだとしたら、現代文化はかつての王朝文化よりもはるかに非文化的であるように思われる。

 宮殿内部と王立図書館を見学する。図書館もまた信じがたいほどに華やかなホールであり、見事な書棚が2階建てになって周囲の壁に並んでいる。世界で一番美しい図書館だといわれるが、「美しすぎ」て違和感を感じてしまう。

 リング・シュトラーセは19世紀に市の城壁跡を取り壊して建設されたウィーン旧市街の周回道路である。リングに沿って大規模な都市改造計画が実行され、壮大な建物が次々と建設された。オペラハウス、国会議事堂、マリア・テレジア広場とその両側の博物館(自然史博物館、美術史美術館)、市庁舎、ブルク劇場、ウィーン大学の六つの建物が王宮を取り囲むようにして並んでいる。それぞれの建物はよく考えて設計されており、堂々とした落ち着きを湛えているが、無用の誇大さを感じさせず、ウィーンの都市景観を大変な迫力で飾り上げている。19世紀末文化の大輪の花であろう。往時は耳目を驚かせる華やかさであったろうが、今は周りの緑の中に溶け込んでウィーンの歴史的遺産としてしっとりとした佇まいのなかにある。

 夕方6時半にオペラ座に行く。当日券の発売開始の時刻である。すでに100人近くの人が並んでおり、列の後尾に立つ。ところが、売り場のカーテンが開くと同時に"Ausverkauft !(売り切れ!)"の呼び声。一瞬、唖然とし、ついでやっぱりと思い直し、オペラ座を出る。並んでいた人のなかにはあきめきれずに佇んでいる人もいる。オペラは毎晩のように上演されているが、今日は週末のために満席なのだという。その足で夜のウィーン散歩に出かける。旧市街を斜めに抜けて郵便貯金会館へ。この建物は世紀末建築の代表の一つであり、現代建築のきっかけをつくったものだとされている。しかしなんという陳腐な建物! 若干の装飾を除けば今では何の変哲もない普通のビルにすぎない。壁面にはふんだんにアルミの鋲が打ち込まれている。何のために? 当時は銀よりも高価だったというから新規な輝きを誇ったのかもしれないが、私には郵便貯金で貯め込んだコインが壁に貼り付けてあるように見える。19世紀は建築物からその美的精神的な意味をはぎ取ってしまったのであろうか。本来、建物空間とは心が住むためのものであったが、その近代化と巨大化によって身体の機能のための空間、さらに事務空間に変質してしまったのである。

 夜の市民公園を散策する。リングに沿って広がる市民の憩いの森で、ここにはシューベルト、ブルックナー、シュトラウスの像があり、夏には毎晩ワルツWiener Warzのコンサートが催される。モーツァルトの像はブルク宮殿の前庭にある。像の前の芝生は大きなトーン記号の花壇になっていて楽しい。ベートーヴェンの像は楽友会館ホール(ウィーン・フィルの本拠地)の公園にある。ホールの音響は世界一の評価とか。日程に余裕があればぜひ行きたかったところだ。楽友会館の近くにウィーン分離派の画家たちが活躍した分離派会館Secessionがある。小さな建物だが、ウィーン世紀末芸術のシンボル的存在である。屋根の上に金色球形の飾りがあり、そのために「玉ねぎホール」とあだ名されている。ここにはクリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」がある。地下の壁面には例の見慣れた絵が修復されて壁いっぱいに描かれていた。しかしこのフレスコ画は見れば見るほど魅力が消えていき、いただけない。画集で見た「フリーズ」の方がまだましである。たいした絵ではないと判断した次第。

10月25日(日) 雨、降ったり止んだり
〈ウィーン紀行4〉
 シェーンブルン宮殿へ。ハプスブルク王朝の栄華の頂点を象徴するものとして知られ、世界でもっとも美しい宮殿の一つに挙げられる。早朝の落ち着いた雰囲気がまだ漂っている宮殿正面に立つ。あいにくの小雨の中、人影もまばらだ。少し煙るように見える宮殿は、両翼に延々たる付属の建物を拡げて悠然と建っていた。部屋数は全部で1400以上あるという。ため息の出るような広さだ。マリア・テレジアによって夏の宮殿として建てられたものだが、その名はウィーンの華やかさをこの上なく高めてきたのである。

 ガイド付きで内部の各部屋を見学する。1時間ほどで歴史に知られた部屋を見て回る。シェーンブルンの魅力はむしろその広大な庭園にある。とくに幾何学的な刈り込みの美しさはよく知られている。丘に登るつづら道、丘のテラスから眺めるウィーンの街の見晴し、森の中の遊歩道、リスの戯れ、まっすぐな並木道、植物園、動物園など。歩き周ると約3時間はかかるだろう。宮廷庭園の教科書ともいうべき模範ぶりと整形ぶりに圧倒される。ヨーロッパ庭園の素晴らしさと一面性をよく伝えて余すところがない。

 午後からはヴェルデベーレ宮殿へ。丘の上には新宮殿、下には旧宮殿があり、いずれも今は美術館になっている。新宮殿は改装工事中であるが、ウィーン世紀末美術の展示で知られている。クリムト、エゴン・シーレ、ココシュカなどの作品がそれぞれ10数点ずつ展示されているが、それほど多くない。庭園、旧宮殿を散策して小休止。降り始めた雨のなかウィーンを離れ、南へと向かうアウトバーンに入る。

 途中から西へと向かう一般道に入り、ザルツブルクへと向かう。国道ではあるが細い田舎道で、走る車も少ない。のどかな田園風景が次第に丘陵風景に変わって行き、チロルの風情が色濃くなってくる。真新しいアウトバーンに出たかと思えば、再び山の中の険しい道に変わり、道は激しい登り下りを繰り返して少しずつ標高を上げていく。 途中から夕闇が深くなり、その上霧が漂い始めた。道の両側には積雪が見られるようになり、ついには15cmもの雪の中を走るようになった。曲がりくねり上下する道を走り続けて、ザルツブルクSalzburgに着いたのが夜の8時過ぎ。チロル地方の風景を堪能したが、深い山中に入ると山の様子は日本とも差して変わらない。

 ザルツブルクもまた山の中の都市である。街の背後には断崖が迫り、その上には威圧的な要塞がライトアップを受けて浮かび上がっている。街を二分する川の流れは美しく、速く、清らかである。断崖と川に縁取りされた街は、雨の夜のため人影もなく、幻想的で、このような山中にあることが信じられない位だ。明かりに浮かぶ建物は美しく、メルヘンのようである。DOM、大学教会、市庁舎、警察署、コンサートホールなどのある旧市街地は他のどの都市でも感じることのできない緊迫感を漂わせている。大地の裂け目から忽然と街が湧き出したという感じさえする。

 モーツァルトの生誕地にふさわしい街の雰囲気だ。美しい店が並ぶ通りの真ん中にモーツァルトの生家Geburtshausがあった。明かるい黄土色の、彼の曲を彷彿とさせるような佇まいだ。古い家が川沿いの狭い土地に肩を寄せ合うようにびっしりと建ち並び、美しく保存されていて、200年前にタイムスリップしたかのような見事なアルト・シュタットの世界を作り出している。ザルツブルクは「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった街でもある。確かに世界でもっとも音楽的な響きのする都市の一つかもしれない。対岸には小さな宮殿があり、美しい庭園が広がる。夜のザルツブルクは山間の冷気のなかで、静かに安らう幻想の街であった。夜の街を行く青年の顔は確かにモーツァルトに似ていた。

10月26日(月) 曇りのち晴れ
〈ウィーン紀行4〉
 今日の夜、石畑さんが来宅する予定である。夕方までにケルンに戻らなければならない。距離があるのでまっすぐにアウトバーンに入り、ミュンヘンへと向かう。バイエルン地方の風景も何度も訪れたので、親しいものとなった。すっきりとした景色が少し「乱れて」、交通量も増えてくるとミュンヘンはもう近い。しかし街に接近しても、日本の大都市の郊外のように開発の手が伸びて緑が失われていくというようなことはなく、まったくのどかな農村風景が保たれている。ところがミュンヘンの周回道路に入ると交通が俄然混雑し、ついには緑の平原の中で大渋滞に巻き込まれてしまった。これがドイツのもうひとつの姿なのだ。家もほとんど見られない牧草地の中のアウトバーンを果てしない車の列が埋め尽くしている。思わぬ時間を消費して周回道路をようやく脱出、ふたたびのどかになったアウトバーンをウルムUlmへと走る。

 ウルムもまたドイツではぜひ訪れておきたい街の一つであった。デカルトが11月の寒い一日を炉端で過ごし「Cogito ergo sum」を発見したのは、従軍でこの街の近郊に来ていた時であった。ウルムのDOMの塔は石造建築としては世界で1番高い(163m)。ケルンの塔は3番目(157m)である。街に車を止めるとまっすぐにDOMに向かった。ドイツ的なゴシック建築で堂々としているが、やや造りが単純素朴という印象を受ける。建物はいかにも古みを帯びているという感じで、石の破損が気になる。塔はケルンのように圧倒的な石の洪水という感じではなく、細く鋭角的で、天に向かって突き刺さるように伸びている。螺旋階段は狭くて急である。足元の明かり窓にはガラスもネットもなく、真下の町の屋根が本当に自分の足の延長線の先に見える。ほっそりとした塔を支える石組みは見事である。細い石を鉄骨のように組み合わせ、中心線に力が集中するように工夫してある。とくに尖端部の石組みは骨格構造そのものであり、その幾何学的な組み合わせは感動を誘うほどである。これだけの細さでよく倒れないものだと感心する。塔の上で冷たい風に吹かれ、ウルムの街と周りの緑をしばらく眺めて、車に戻る。時間がないので街の散策は省略。

 今回の旅行の帰路にはテュービンゲンTubingenにもよる予定であった。とくにテュービンゲンはゆっくりと訪問したかったが、しかしそれも不可能となった。テュービンゲン大学はドイツ屈指の大学であり、、シェリング、ヘーゲル、ヘルダーリンたちが学んだことでも知られる。テュービンゲンは一日ゆっくりと来なくてはならないと思っていたが、先送りしすぎた。今回立ち寄らなければ滞在中にやってくることはもう不可能だろう。アウトバーンから小一時間も南に向かえばテュービンゲンの街に着くことはわかっているが、着いてもゆっくりと見て周る時間がない。いつの日かゆったりと滞在しに来よう。そう思い直してテュービンゲンをかすめ、シュトットガルトの市街地を疾走して、一路ケルンに向かった。延べ2200kmの行程だった。 (太田直道)

これはよかった! 原作を凌ぐ映画『キングダム 魂の決戦』

 つうしん123号で、「おすすめ映画」を紹介してくれたのは、新星のごとく現れたあべさちさん。つうしん読者からは、「映画の内容を詳しく紹介しているわけではないけど、読むと見に行ってみようかなあと思わせるうまい文章だね」と。そこであべさちさんに次号(9月末発行)の紹介もお願いすると、二つ返事で快く引き受けてくれました。そのうえ、なんと2作品も紹介文を書いてくれました。

 つうしん次号に2作品を載せるのは紙面の関係で難しいので、そのうちの1つをこちらで紹介することにしました。まだ映画館で上映しています。ぜひご覧になってください(以下は、あべさちさんの紹介文です)。
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 最近多いですよね、漫画やアニメの実写映画。この夏休みも多かった。私も実写化つい見てしまうタイプですが、やっぱり原作だよなと感じるのも事実。 しかしながら! 今回ばかりは「これ良かった!」と大声で言いたい。それが大人気漫画の実写『キングダム 魂の決戦』です。

 原作は80巻に達し、まだまだ連載中。紀元前の中華統一までの壮大な物語ながら、映画は早くもシリーズ5作目。今回は、秦が他6国の合併軍(合従軍)に攻め込まれ、国の命運をかけて「函谷関」で迎え撃つという激アツな展開です。 にしても、原作が長すぎて私のような「原作履修組」ですら忘れているストーリーを、分かりやすくまとめてあるのはありがたい限り。

 映画に求めるものは人それぞれながら、本作のように圧倒的なエンタメに徹しているのも大いにあり! 序盤の引きの漢陽宮から始まり、画面に映る何十万人もの合戦シーンは、かつてないスケール感のスペクタクル! そして今回の見どころ、信(山崎賢人)と万極(山田裕貴)との魂込めたクライマックスのバトルシーンでのカタルシス! 心の中で「おおー」と叫びまくりでした。

 賢人くんのキレッキレなアクションはもちろん、豪華すぎる俳優陣が次々出てくるのも楽しい! 最近は映画も高いけれど、これはお金を出す価値あり。大スクリーンで観てこそ映える、実写ならではの躍動感とエネルギーが詰まった傑作です。

  

季節のたより202 ダイコンソウ

  足元の小さな黄色い灯  かぎ針を持つ巧妙な種子

 ふだんは人に気づかれず、草むらの影に紛れている花が、ある瞬間だけそっと姿を見せてくれることがあります。
 近くの散策路を歩いていたら、木洩れ日の光を受け、草むらにいた小さな花がふっと浮かび上がり、黄色い5枚の花びらを広げてその存在を知らせてくれました。
 キツネノボタンかと思ったけれど、少し違う雰囲気なので図鑑を開くと、正体はダイコンソウでした。不思議なのはその名前です。ダイコンといえばアブラナ科の白い花、対してこちらはバラ科の黄色い花です。根の形が似ているわけでもありません。
 花の姿と名前とがうまく結びつかないその違和感が、かえってダイコンソウを心に留めるきっかけになったのでした。


ダイコンソウの花

 ダイコンソウは、バラ科ダイコンソウ属の多年草。北海道から九州まで日本各地に広く分布し、強い日差しよりも柔らかい光の環境を好むようで、林の縁や道端の少し暗い場所で見かけます。

 ダイコンソウの名前は、地面近くの根元に広がる根生葉が、野菜のダイコンの葉によく似ていることから付けられたということです(「夏の野草」山と渓谷社)。
 そこで、ダイコンソウの根生葉と大根の本葉が出た時期の葉を比べてみたのですが、「なんとなく似ている」という印象は持ったものの、よく似ているとは思えませんでした。

 
      ダイコンソウの葉             ダイコンの葉

 ダイコンソウの名が名付けられた歴史をたどってみると、名付けられた時代の空気が影響していると考えられます。

 『大和本草』(1709年)などの記録から、ダイコンソウの名は江戸中期以降に生まれたとされています。
 名付けた人物は伝わっていませんが、当時の植物名は、人びとの生活と深く結びついて名付けられたものが多くありました(武田久吉『民俗と植物』講談社学術文庫)。

 当時の農村では、畑仕事や山仕事の合間に薬草や山菜、あるいは毒草を見分ける必要があり、細かな形をじっくり比べるよりも、ひと目で「あれだ」とわかることが大切でした。植物名は学問的な分類よりも、日々の暮らしに役立つかどうかが優先されていたと考えられます。

 ダイコンは当時の農村で最も身近な作物で、どの家の畑にもあり、葉の形も誰もが知っていました。だから山道でダイコンソウの葉を見たとき、その「ざっくり広がる感じ」がダイコンを思い出させれば、それで十分だったのでしょう。
 ダイコンソウの名はそうした当時の人々の生活の中で生まれ、本草書に記録され、やがて現在の標準和名へと受け継がれてきたと考えられます。
 こうした比喩的な名前は他にも見られます。ネコノメソウ、ヤブレガサ、ガンクビソウ、マムシグサ —— 。どれも厳密に似ているわけではありませんが、一度聞けば忘れない名として残っています。

 今の私たちは植物を「分類」や「形態」から「正確さ」を重視して理解しようとしますが、当時の人びとにとって植物は生活のすぐそばにある身近な存在でした。そんな暮らしの中で生まれた素朴な工夫が、今もその名前の中に息づいているのです。


  ネコノメソウ      ヤブレガサ    ガンクビソウ      マムシグサ

 ダイコンソウは、春、林縁に光が差し込むころ、根生葉をロゼット状に広げています。やがてその姿のまましばらく過ごし、養分を蓄えて、開花の準備をしているのです。
 初夏になると、根生葉の中心から一本の茎が伸び上がります。茎には根生葉とは異なる小さな葉が互生につきます。
 茎が30〜60cmほどに達するころ、先端近くで軽く枝分かれして花茎となり、小さなつぼみが現れます。
 つぼみはガク片に包まれていますが、日ごとにふくらみ、先端がわずかに黄色を帯びてきます。やがてほころび、黄色い5枚の花びらが静かに開いていきます。

 
                                                                      草むらの中のダイコンソウ

 ダイコンソウの花は、花びらもガク片も5枚です。雄しべも雌しべも多数あり、バラ科の典型的な花の構造をよく示しています。
 雄しべは、先端に葯をのせて細い待ち針のように見え、花びらのすぐ内側をぐるりと囲んで並んでいます。
 雌しべは、花の中心でこんもりと盛り上がった花托の上に、小さな突起の形でブラシの毛のように密に立ち並んでいます。


ダイコンソウの花(多数の雄しべと雌しべ)

 ダイコンソウの花は、昆虫に花粉を運んでもらう虫媒花です。
 花には小さなアブやハチなどの昆虫がやってきて、雄しべの花粉を体につけ、そのまま雌しべの先にこすりつけて受粉が行われるのだろうと思っていたのですが、開花直後の花の雌しべは短く固いままでした。どうやら、花粉を受け取る準備ができていないようなのです。

 
    花を訪れるハナアブの仲間         蜜を吸うツチバチの仲間

 花の雄しべは、開花直後には花粉を出す葯が花糸にしっかりついていますが、時間が経つと葯が落ちてなくなっているのです。

 
  花粉を出す葯がついている雄しべ        葯が落ちた雄しべ

 調べてみると、この花は「雄性先熟」でした。
 開花直後は雄しべが先に成熟し、葯を開いて花粉を放出しますが、同じ花の雌しべはまだ受粉できない状態なのです。開花直後は雄しべだけが機能する「雄性期」の花です。
 やがて雄しべが役目を終えるころ、雌しべが成熟して「雌性期」を迎えます。雌しべの柱頭がわずかに湿り、他の花から運ばれてきた花粉を受け取って受粉できるようになります。

 1本の茎には、複数の花が時期をずらして咲いているため、雄性期の花で体に花粉をつけた昆虫が、そのまま雌性期の花へ移って受粉が行われます。
 ダイコンソウは「雄性先熟」のしくみによって、自家受粉を避けて、他家受粉を促し、丈夫な子孫を残そうとしているのです。
 それだけではないようです。雨続きで昆虫がまったく来ないときには、種子だけは残そうとする自家受粉の能力を備えていることも分かってきました。厳しい自然界のなかで命をつないできた工夫がよくわかります。

 受粉が終わると、ダイコンソウの雌しべはとてもユニークな形へと変化していきます。
 雌しべの下部にある子房は実へと成長しますが、上部の細い花柱はぐんぐん伸びて、途中の関節のあたりでS字状にねじれ始めるのです。

 
     受粉を終えた雌しべの姿      S字状にねじれている雌しべの先

 実が熟すころになると、上部にあるねじれた関節部分の先がポロリと落ちます。すると、残された先端が「J」や「U」の字のように美しく曲がった、かぎ針のフックに変化するのです。
 いわゆる「ひっつき虫」となって、実を動物の体に引っかけて遠くまで運んでもらうための変化です。それにしても、何と手の込んだ不思議な変形のしかたをするものでしょう。

 
    先端の関節の先がポロリと落ちる       固いかぎ針のフックに変化する

 花の後には、直径1.5cmほどのイガグリのような丸い集合果ができます。そこには、多数の雌しべがそれぞれ独立した小さな実となって集まっています。これらの実は、果皮が硬く、熟しても自然には割れない痩果(そうか)で、中には一つだけ種子が入っています。
 秋の野原では、この痩果のかぎ針のフックが、通りかかった動物の毛や人の衣服に引っかかり、種子は遠くへ運ばれていきます。こうしてダイコンソウは、自分の仲間の分布を広げていきます。

 
     ダイコンソウの実(集合果)      痩果の形(中に1個の種子)

 ダイコンソウと初めて出合った散策路を何度か歩いているうちに、小さな群落がいくつも目につくようになりました。
 小さな花でも、黄色い花がたくさん集まると、遠くからでもよく目立ちます。その明るさに誘われて、小さな昆虫たちがよく集まっています。
 蜜を求める昆虫たちは、雄しべや雌しべの上を行ったり来たりして、必ず両方に触れています。花の構造には無駄がなく、それぞれの器官が昆虫の動きを自然に受粉へと導くように配置されているのです。


ダイコンソウの小さな群落

 秋になると、この群落は「ひっつき虫」の痩果でいっぱいになり、人や動物が通りかかるのを静かに待ち構えていることでしょう。

 ダイコンソウの花は素朴で小さな花ですが、花の構造も、受粉のしくみも、昆虫との連携も、大輪の花と少しも変わるところはありません。
 多数の雄しべが花粉を送り出し、多数の雌しべがそれぞれ受粉し、やがて独特の形の実となって、遠くへ運ばれ命をつなぐ —— その一連の流れは、林の片隅のどんな小さな花のなかにも、ひそやかな生命の営みが続いていることを教えてくれるのです。(千)

◇昨年8月の「季節のたより」紹介の草花と樹木

【ご案内】宮城作文の会 9月ミニ学習会

 夏休みが終わり、今週から(早いところは先週末から)学校が始まりました。早速、宮城作文の会から、学習会の案内チラシが送られてきました。

  日 時:2026年9月12日(土)13時~16時
  会 場:大河原コミュニティセンター「オーガ」
  参加費:無料  ※駐車場は有料駐車場をご利用下さい。

 今回は、「小学1年生の実践 ~ひらがな指導から作文指導まで」です。レポーターの佐藤秀寿さんが、4月から1年生の子どもたちと取り組んできた実践を報告します。子どもたちがどのようにひらがなと出会い、授業を通じて書き言葉を獲得していくのか。また書き言葉の世界を獲得することは、子どもたちにどのような世界を拓くのか。ぜひご参加ください。

 

読書メモ 15

 最近、『叱って 笑って 支えられ ーー私と子どもの教室の記録』という名の冊子をまとめました。私の退職までの38年間の歩みなのですが、と言いながら、実際は後半部になる教室の事実を子どもたちの書いたものを中心にしての歩みの報告になります。
 それを退職30年後の今になって書いたということになります。書いている時は何も考えずに取り組んでいたのですが、終わった今、疲れ果てて何もする気力が残っていない体を引きずりながら、(もっと早く取り組むべきだった)と思っています。
 しかし、日ごとに、書いたものを振り返りながら、これまで考えることのなかったことが浮かんできて、もし、もっと早くに手をつけていたら、こんなことは浮かばなかった(考えなかった)かもしれないと思っているのです。

   

 私の教職後半の場はすべて小学校で、まとめたものは、その期間が中心になります。この冊子作りに入るまでの私の中では、「小学校に勤め、何年生を担任している」ということで、その時その時をただただ過ごしていました。もちろん、それでいいのでしょうが、今度の仕事を終えた後に、私に浮かんできたのは「何年生がどう」というより、小学生というように区切っている6年の期間は、中学・高校・大学とつづく学びのコースのスタートとして、「どんなことが期待されているのだろう」ということでした。この仕事を通して、「初めて」考えたのでした。もともと私は、国の示す「教育課程」と、目の前の子どもたちのずれは、なんとなく感じておりましたが、それを踏み込んで考えさせられたのは、今度の冊子を、「教室の報告」として、子どもたちの書いた多くの文を中心にしてつなぐことからでした。
 しかも、教職前半の8年間を中学校で過ごしたことが、後半の小学生を考えるために大いに役立ったように思うのです。
 今、疲れ果てた頭をそのことが行ったり来たりしているのですが、私に残る時間がもう少しあれば、それは何かを書いてみることにして、本題の「読書メモ」にうつります。

 以下は、優れた国語教育実践家として名の高い大村はまさんの「国語教育五十二年」からのものです。これは、『日本語を豊かに』(小学館)に入っているものです。( 春 )

・生徒の作文を見ますときに、いいとか悪いとか、ここがどう足りないとか、
 そういうことを言っただけではだめなので、いけないというからには、どう
 直すかということが、そこに示されていなければならない、直すことのでき
 る力をつけるのでなければならない。
・聞く力というのは知恵の始まりです。耳のあいていない生徒は、まず成功し
 ないと思います。
 耳の確かでない生徒は、まず伸びないと思います。
 聞く力をつけるにはどうしたらいいか。すばらしい話を子どもたちに聞かせ
 てやるに限ります。つまらない話は子どもたちに聞かせてはいけないと思う
 んです。
・話し方について生徒たちに教えていこうとすれば、これも先ほどのことと同
 じで、いいお話を聞かせるほかはないのです。
・テストというのは、どういう力がどのくらいあるか測ること。学力がつくと
 いうのは学力を増やすことで、測ることではありません。学力をつけるに
 は、話をしっかり聞いたり、話し合いをしたり、一人でスピーチをしてみた
 り、本を読んだり、文章を書いたり、いろんなことをして言葉の力という大
 きなものをだんだんつけていくことなのです。
 学力をつけるこということと、テストをするということとは、全然違うこと
 なのです。

ドイツ留学日記1992年(34)

10月11日(日) 晴れ
 コブレンツKoblenzまで本屋さん親子を迎えに行く。天気は良くなったが寒い。ホテルはライン対岸にあり、ホテルからは行き交う船が見下ろせ、川向うにコブレンツの街並みが見渡せる。昨日はホテル探しに苦労したそうだ。旧市街の様子をきちんと言っておけば苦労しないで済んだかもしれなかった。

 車でモーゼル川Mosell F.を遡り、コッヘムCochemから北の山間部に入って、マリア・ラーハMaria Laachに案内した。マリア・ラーハは山中の湖のほとりにあり、中世ロマネスク様式の壮大で、天上の異世界を思わせるようなカテドラルのあることでよく知られている。ドイツでもっとも古いカテドラルに属するが、今日なお修道士たちの祈りと修行の場であり、いかにも僧院の趣がある。ファサードにはロマネスク特有の回廊があり、屋根はなだらかであり、窓は高く小さく、円塔や方塔が林立している。ゴシック様式に見慣れた目には、ロマネスク様式は石の感触が柔らかで、誇張がなく、中世という時代の優雅さを感じさせる。

 堂内を見物していると、ちょうど僧侶たちの夕べのミサが始まるところで、30人ほどの修行僧の列が入ってきた。絶好のチャンス。居合わせた観光客はみな腰を下ろし、ミサの様子を見守る。少しお経にも似た聖歌が20分余り続く。一般のミサではなく、修行のミサを観るのは初めてであった。

 本屋さん親子たちには、数日私の住居に滞在してもらう予定だ。私は大学に通い、本屋さんたちはケルンとボンの観光というスケジュールである。

10月12日(月) 晴れ
〈コロンブス新大陸発見500周年に思う〉
 寒くなった。明け方は3〜4度にまで下がっている。日中でも12〜13度位であろう。もうすっかり晩秋の気配だ。

 今日はコロンブスの「新大陸発見」500周年の記念日らしい。ジェノバやスペインでは各種の記念行事もあるようだ。今日、世界は西欧型の文明一色に塗られ、あたかもヨーロッパ的な生活様式が唯一の可能性であるかのように非ヨーロッパ世界に浸透しているが、このことが「新大陸発見」の時から本格的に始まったことはいうまでもない。西洋文明が世界に拡大したことはある意味では歴史的な必然であった。もちろん西欧諸国に強大な軍事力と経済力が蓄えられていたという歴史的条件があったことが拡大を促したが、それだけではない。むしろ、西洋文明の中にヨーロッパ大陸の中にだけ閉じ込めておくことのできない何者かが存したからであろう。その最大の普遍的な力は科学とそれに立脚した技術であると思う。科学と技術は人間が生み出したもののなかで真に強力な、他の一切を打ち砕く力である。近代以降のさまざまな国家や勢力の興亡をひき起こしてきたものも、その最終的な力は技術であると思う。科学技術はすべての人間を照らす光であったが、 同時に人類を信じがたい世界にまで導いていく悪魔Demonでもあったのである。人類はこのデーモンに導かれてこんなところにまで連れてこられたのであろう。

 問題はしかし、この科学技術という普遍的なものが、西欧における特殊的なもの、すなわちヨーロッパ文化のなかで育まれ、それと一体のものとして形成されてきたことにある。 ヨーロッパ世界においては科学的なもの、技術的なものと文化的なものとはよく符合する。あえて言えば、キリスト教的なものと科学的なものとの間に一つの親和性が成り立っていると思う。実際これら両者が一つになってヨーロッパ精神を形成してきたのである。

 ヨーロッパが拡大する場合、両者が一緒になって移植される場合と両者のうち科学技術のみが移植される場合とがある。もちろん日本は後者の典型的なケースに当たる。「和魂洋才」なのである。その場合に生じる不幸は、ヨーロッパ的生活様式と文化から切り離された科学技術は少々グロテスクな姿にならざるをえないことと、西洋型の科学文明が入ってきたときに在来の伝統的な日本的生活様式が奇形化されて残り、再生産されるということである。日本人の生活と文化がすっきりと西洋的なものに入れ替わるのではない。日本的なものがこの科学技術という新種の栄養を得て奇型増殖するのである。このことに多くの人は気づいていない。和魂洋才のよき魂はすでになく、異常増殖した「悪霊」に取りつかれている観すらする。このことは日本のみのケースではなく、異文化の中に科学技術が導入された場合に共通に発生しえることだと思われる。

 日本の科学技術が日本人の精神生活と本当に融合して一体になるには、まだまだ時間がかかるように思われる。

10月13日(火) 快晴、朝にうっすらと初霜
〈ドイツの味について〉
 ドイツのレストランなどで出される料理は概して塩分が多い。それもわれわれ日本人には塩抜きをしたくなるほど塩味がピリッと効いていることが少なくない。ドイツ人は健康管理にはうるさい民族であるから、よほど塩味が好きなのだとしか思えない。 最初はこの塩味に閉口したというより不安感を持ったが、そのうちかなり慣れ、それほど異常とも思わなくなった。日本からやってくる人の多くもやはり辛いと言う。塩味についてはおそらく日本人は世界でもっとも塩分を控えているのではないかと思う。もっとも他のヨーロッパ諸国ではドイツほど塩辛いという経験をしていないが。

 これと同じことが甘味や酸味についてもいえる。糖度も酸度も明らかに日本より高い。甘いものははっきりと甘く、酸っぱいものはしっかりと酸っぱい。味覚においても万事はびしっと決まっているのである。また、ドイツの食品は概して大きくて硬い。しっかりと噛んではっきりと味わうという民族性が感じられる。とろっと溶けるような柔らかさ、かすかな風味ということはドイツ料理にはまったく期待できないだろう。この点では日本とドイツとでは対極的であり、ほとんど正反対に近い。他のヨーロッパ諸国でもドイツほどのところはない。もっとも、菓子類の甘さだけはどこの国に行っても大したものだった。

 精神が感覚を左右するのか、あるいは感覚が精神を形づくるのか、いずれにせよドイツ人はその精神においても感覚においても、万事びしっと決まったことを好み、明確でないことを何よりも嫌悪し、われわれなら行き過ぎだと思うほど言葉にスパイスをふりかける。その明快さはわれわれには単純と思えるほどであるが、彼らはこの単純明快なものを複雑に組み立てて、稀有のドイツ文化を築きあげてきたのである。ドイツの味覚はどこまでもドイツ的である。ビールやワインの味もフランスやイタリアとは異なる(そして抜群に美味しい)。それどころかあの発泡水(ミネラル・ウォーター)の ピリッとした「味」もドイツ的なのだということに気がついた。

10月15日(木) 晴れ
〈冬学期〉
 今週から冬学期が始まった。夏学期の時のように最初の週は輪番講義である。今回は趣向が異なり、各教授のテーマは「哲学と〇〇学」という形で統一されている。デュージング教授は「哲学とドイツ古典文学」である。他大学でもこのような形のガイダンス講義が一般に行われているのか否かは知らない。

 彼は冬学期のゼミを2コマ開講した。学部レベルのゼミPro Seminarは「カントの空間・時間論」、大学院レベルのゼミHaupt Seminarは「統覚と概念」。他に講義「カントからヘーゲルまでの自由論」。冬学期にはカントに、夏学期にはヘーゲルに焦点を当てようという作戦のようだ。プロ・ゼミはゼミとはいっても講義と同じようであり、受講生も70〜80人はいる。他学部からの聴講生も多いようだ。ゼミでは学生たちはよく質問をする。多くはそれほど突っ込んだ内容とも思われないが、それでもしつこく食い下がり、教授とのあいだで議論になったりする。他の教授のゼミを受けていないので全体像は見えないが、学生たちのカント・ヘーゲルに対する関心は予想以上に高く、受講生も他のゼミより多数のようだ。

 ケルン大学の授業時間は1コマ60分、講義は60分づつ週2回ある。ゼミナールは90分である。通年という考え方は一般になく、一つの学期で講義等は完結する。授業時間帯は9時から19時まで1時間刻みで組まれており、休憩時間も昼休みもない。数が不足している講義室は一日中フル稼働しており、講義の終了間際には次の講義をとる学生たちが廊下で待っている。昼休み時間帯がないというのはなかなかよいシステムだ。講義時間の選択幅が増え、食堂Mensaもいちどに集中するということが緩和される。学生は自分で空きコマを作って昼食時間とすればよい。もっとも、宮教大の学生のように一日中講義で時間割を埋め尽くすというようなことはケルン大学では考えられない。

 授業の合間には地下のカフェや階段ベンチ、芝生、資料室などで時間を過ごしているようだ。そして2〜3コマもとれば自転車にまたがってどこかに消えて行く。図書館は学期が始まってもそんなに混まない。一般の学生はそれほど勉強熱心でもないと見える。閲覧室の常連組は外国人留学生が多く、適度の混み具合で快適だ。

10月16日(金) 晴れたり曇ったり
〈ドイツの公園について〉
 友人の石幡さんが10月1日からドイツに来ている。彼は仙台市の公園課の職員で、ドイツの公園事情と公園建設技術を視察するために、約1ヵ月間の予定でミュンヘンなどの南ドイツの都市、ハンブルクなどの北ドイツの都市を見て廻っている。彼とは仙台日独協会のドイツ語コースで、数年間机を並べてWilhelm教授の質問攻めに苦しんだ仲間である。

 来独の折にはフランクフルト空港まで迎えに行き、ケルンで1泊してもらってからミュンヘンに向かったのであった。昨日は南ドイツからドルトムント、ハンブルクへの移動中にわが家に立ち寄っってもらった。4人で賑やかな食事を共にし、ドイツでの旅や食べ物の話、公園の話に花が咲き、時の経つのを忘れた。

 彼はドイツの各都市にある大緑地帯Stadtwaldはあまり参考にならないと言う。広大すぎて日本では真似のしようもないからである。それに対して街の中心部には広場や、ちょっとした緑地、児童公園などがあり、こちらのほうは日本の公園にとっても啓発的なものが多いと言う。小公園にも広場、街角の公園、遊歩道、河川敷、子どもの広場、ショッピング通りなどさまざまなものがある。それらがさまざまに工夫されていることが多いのだ。

 いま、私に関心のあるのは、それらの中でも 中心部Stadtmitteの広場とショッピング通りである。広場はヨーロッパの都市にとっては瞳にもなぞらえることのできる「都市の顔」であり、コミュニティー・センターである。多くは石だたみが敷き詰められ、木立ちや噴水、ベンチ、記念碑、彫像などで飾られている。ヨーロッパの古い都市には必ずカテドラルと市庁舎が街の中心にあり、その正面は広場になっている。広場は街の中心点であり、シンボルであり、そして観光客の集まる名所である。街の道路はこの広場を中心として四方に延び、あるいは広場と広場を結ぶ形で造られている。広場では日曜日に市が立ったり、レストランやカフェのテーブルが広げられたりする。

 ヨーロッパでは広場のない都市生活はほとんど考えられない。周りには街で一番美しい建物がとりまき、人々はそこで長い時間をビールやコーヒーを飲んだり、食事をしたり、ショーウインドーを覗き込んだりして過ごす。広場は四方に道路がつながっており、人々がもっともよく集まりやすいところになければならないから、日本の都市ではおいそれと真似はできない。しかし中心部の交差点を膨らませたり、歩行者道路の一部を方形に広げたり、駅前のメインストリート全面を歩行者専用道路と緑地にして広場の機能を持たせることはできる。このような広場を市民生活の第一の必要と考え、二の次に考えないことが大事なのである。日本の都市にも小公園はそれなりにあり、美しく飾られているが、多くはツンと澄ましており、利用価値が少ない。せっかくの噴水があってもベンチや休むところが少なく、素通りせざるをえないということになる。何事も規則で臨もうという体質があるから、カフェ・テラスも屋台も大道芸も発達しない。公共空間は楽しくて有益なものにすることが第一だと思うが、公園をたんなる飾りものと考える世相にはその発想がない。

 日本の公園はひと気がなく静まり返っている。しかし私は、そこに人が集まらないのはその公園の造り方が まずいのだと思う。子どもの遊ばない児童遊園地(ボール遊びをさせない、静かにさせる!)は避難所以外の存在価値がない。ショッピング街のアーケード通りも、歩く人のスピードはヨーロッパの街のそれよりもかなり速い。店が面白くなく、覗き見できないからである。ドイツの街のショッピング通りでは、ショーウインドーを店の奥に置き、観光客が店内に入って覗き込んでいくように設えている店が多い。ドイツにはアーケード通りはほとんどない。広場や街路がそのまま店につながり、また緑陰の機能を果たしているのである。

10月17日(土) 晴れたり曇ったり、一時雨
〈オランダ旅行1〉
 本屋さん親子とハーグ、アムステルダムへの旅行に行く。しばらく持ち直していた天候もすぐれず、寒々とした空模様になった。空気が湿っぽくて冷たい。今にも雨の降り出しそうな雲がやってくるかと思えば、青空が広がったりする。ヨーロッパの秋はこのような気まぐれ天気が多いのだろう。秋の空は大方ぐずつき気味で、急変することが多く、日没も早い。葉は落ちつくし、花もほとんどなく、長い冬に向かう寂しさが感じられる。ヨーロッパを観光旅行するなら春がよい。ともあれ寒空の下、オランダ方面へと車を走らせる。車の調子が悪く(キャブレターVergasarの目詰まりが原因)、修理をしてから出かけるつもりだったが、部品の入荷が間に合わなかった。エンジンの音は高く、燃費も思わしくない。

 オランダ国境を過ぎ、約1時間でブレダBredaに着いた。ブレダはオランダでは中規模の都市だが、古い町並みが残ることで知られる。旧市街地を周回道路が囲み、その中には一般車が入れない街の造りになっている。駐車場に車を置き、本屋さんのお母さんは折りたたみ式の車椅子に乗り、市内見物に出かける。繁華街を抜け、女子修道院、カテドラル、宮殿、運河、スペイン門を見物して周った。ヨーロッパの典型的な普通の古都という感じだ。際立った豪華な建物はないが、昔から営々と続いてきたであろう街の生活が肌で感じられる都市である。繁華街はどの都市でもそうであるが、軒を連ねる小売商店に活気があり、どこから集まってくるのだろうと思われるほどの雑踏が通りを埋め尽くす。小売商店が生き生きとしており、そのショーウインドウの華やかなことがヨーロッパの都市景観を楽しいものにしている。

 ブレダから運河地帯を北上し、ロッテルダムやデルフトなどの魅力ある都市を素通りし、デン・ハーグDen Haagに向かう。暗くなるころハーグのホテルに到着、 食事を済ませて、王宮までの夜の散歩をした。夜景の美しい都市だった。

10月18日(日) 曇り、肌寒い
〈オランダ旅行2〉
 ハーグは美しい都市である。 レンガ造りの目を見張るような建物が大通りに面して連なっている。首都ではないが王宮はハーグにあり、国会議事堂や国際司法裁判所もハーグに置かれている。緑が深く、市街地は開放的で明るい。ヨーロッパの理想的な都市の一つだと思う。

 旧市街地の広場の横に車を置き、王宮Binnenhofを観に行く。中庭は石畳の広場になっており、周囲の宮殿はレンガと石からなる壮麗な壁と装飾に満ちた屋根とがオランダ特有の華やかさで、別世界の空間を造りだしている。中庭を侵食するようにそびえている大きなカテドラル状の建物は国会議事堂である。日曜日のためか、入り口は閉まっていて中には入れなかった。観光客もまばらな中庭にしばらく佇んでいると、600年を経たこのレンガの空間が今日われわれが忘れている「都市の華麗さ」、「空間の演出」をまざまざと現していることに気がつく。

 王宮の隣に、スケールは小さいが質の高いオランダ絵画の宝庫であるマウリトゥス美術館がある。ここにはレンブラントの「テュルプ博士の解剖講義」、フェルメールの「デルフトの風景」がある。いずれもオランダ絵画全盛期の最高傑作であって、実に見応えがある。

 旧市街、カテドラルを散策して後、国際司法裁判所を観に行く。旧市街地もまた朝の静かさに包まれていて、落ち着いた昔そのままの街の雰囲気に浸ることができる。往時はよほど繁栄していたのであろう。街全体が歴史建造物博物館のようであり、今日ではもはや真似ができないであろうと思われるほどの造形美を感じさせてくれる。春にアムステルダムを訪れた時にも同様のことを感じた。運河沿いに延々と立ち並ぶ建造物を見て、オランダの繁栄を見せつけられた思いがしたとともに、ドイツの街並みとはまったく違う「オランダ様式」へのこだわり、徹底した自己主張には脱帽せざるを得なかった。国際司法裁判所もまたハーグでもっとも華麗な庭園建造物の一つである。休日なので門から建物(平和宮)を眺めることしかできないが、それでも観光客が次々とやってきてカメラを向けている。

 公園内の道路を通り、近くにあるマドローダムMadurodamに行く。マドローダムとは、球場ほどの広さのミニチュア公園の名である。ハーグの歴史的な建物や水車、港などをミニチュア化し、見物客はガリバーとなって遊歩道を歩けばハーグ見物ができるという趣向である。高さが1メートルほどのミニチュアが何十と並び、機械仕掛もあったりして、その精巧さを楽しむことができる。ミニチュア遊園地とはじつにヨーロッパ的な発想だと思う。

 夕方になってハーグを離れ、アムステルダムへ向かう。高速道路から市の中心部に向かいホテルを探そうとするが、複雑な迷路のような旧市街地の錯綜と一方通行の規制のために、たちまちどこを走っているのか分からなくなった。びっしりと立ち並ぶ古い建物に挟まれた狭い道は、まるでトンネル迷路かありの巣の中のようであり、標識も方向もわからず、識別できる建物も見つからず、ホテルも見当たらず、ただ放浪を続けるのみである。1時間ほど無意味なRing Wanderungを繰り返した後、都心部とおぼしき運河のほとりでホテルを教えてもらい、ようやく宿を確保することができた。

 ホテルで休憩の後、ブレンデルのピアノ・リサイタルを聴きに行こうということになり、タクシーでアムステルダム・コンセルトヘボウへ行く。当日券なのでよい席は得られなかったが、それでも音響は今までに訪れたどのホールよりもすばらしいものであった。ブレンデルの弾くベートーベンは緻密繊細であり、音に一分の緩みもなく、まさしく職人芸そのものであり、緊張の連続だった。

10月19日(月) 曇り
〈オランダ旅行3〉
 王立美術館は月曜日で休館だった。春に来た時も月曜日、めぐり合わせがまったく悪い。代わりにゴッホ美術館に向かう。建物は木立ちの公園に囲まれ、こじんまりとひかえており、瀟洒な美術館である。ゴッホの多くのよく知られた絵を見て周る。やはり原画の印象は鮮烈であり、衝撃を受けた。

 空はそれほど暗くなかったが、秋の深まりを感じさせる風が次第に強くなり、雲行きも怪しい。その後のアムステルダム散策は不都合と判断し、車で街を観て回ることとした。アンネ・ハウスも運河巡りもパスをして、昼過ぎにアムステルダムを離れ、ケルンに向かった。オランダの高速道路は快適で、車窓からの風景も美しい。しかし車の調子は依然すぐれず、エンジンの音も普段より高い。100kmを下回る速度で、慎重運転に心がける。夕方にケルンに着いたが、本屋さんたちには車トラブルの不安を感じさせ、ドライブはあまり快適ではなかったことだろう。                 (太田直道)

季節のたより201 ハナゾノツクバネウツギ

  都市景観を支える園芸植物  昆虫たちの長期の蜜源

 風にゆれる小さな白い花。この花は、町の公園や生け垣、道路の緑地帯などでよく見かける人も多いでしょう。
 「これ、何という名の花?」と聞かれると、一瞬返答に迷ってしまいます。正式な和名が「ハナゾノツクバネウツギ」と非常に長く、園芸や造園の世界では通称「アベリア」と呼ばれているため、相手にどちらの名前を伝えたら印象に残るか、つい考えてしまうからです。
 最初の「ハナゾノ」という響きから漢字の「花園」を連想する人は、枝いっぱいに花が咲きこぼれる姿に納得し、長い名前も気にならないようです。
 一方、「アベリア(Abelia)」は、イギリスの植物採集家クラーク・エイベルの名に由来する名前で、短いものの、印象には残りにくいようです。以前「ああ、アベ・マリアね」と祈りの言葉を返されたことがありました。


ハナゾノツクバネウツギの花

 ハナゾノツクバネウツギは、スイカズラ科ツクバネウツギ属に属する半常緑〜常緑の低木です。ツクバネウツギ属の2種を人工的に交配して生み出された園芸品種で、現在では世界各地で栽培されています。
 葉は小ぶりの楕円形で厚みがあり、光沢のある質感が特徴です。日差しを受けると明るく反射し、植え込みの中でよく目立ちます。
 葉のつき方は基本的に対生で、ひとつの節に2枚の葉が向かい合ってつきます。ただ、勢いよく伸びる若い枝では3輪の葉が現れることがあり、そのまま花芽の準備を進めているものもあります。


     新しい葉        対生につく葉       3輪の葉も見られる

 ハナゾノツクバネウツギの花は6月から咲き始め、11月頃まで咲き続けます。花の季節がとても長いことが特徴です。
 つぼみは5月下旬から現れ始めます。長さ1cmほどの細長い筒形で、枝先にいくつも連なってつきます。先端がわずかにふくらみ、淡い紅色を帯びています。
 濃い赤色のガク片は、つぼみの時期から大きく目立ちます。


   小さなつぼみ         目立つガク片        つぼみとガク片 

 つぼみがほころぶと、細い筒状の先端から淡い桃色を帯びた5枚の花びらがふわりと広がります。咲き進むにつれて色は白く抜け、赤色のガク片との対比がすっきりとした美しさを見せます。


濃い赤色のガク片に映える白い花

 花の内部を見ると、雄しべが4本、雌しべが1本。雄しべは筒からはみ出る程度に顔を出し、丸みのある雌しべの柱頭が中央に見えます。
 花は初夏から秋まで長く咲き続けるため、淡紅色のつぼみ、開花した白い花、花の終えたガク片が一度に見られるのもこの植物の特徴です。

 
   雄しべと雌しべの姿       つぼみとガク片が同時に見られる

 ハナゾノツクバネウツギの花は、蜜をよく出し香りも強いため、季節を通してさまざまな昆虫が訪れます。
 初夏から秋にかけては、チョウ類が羽を広げて吸蜜する姿が見られます。ハナアブや小型のハチ類も頻繁に訪れ、花の周りを短い間隔で移動しながら蜜を集めています。花期が長いため、他の花が少なくなる晩夏や初秋には、昆虫たちの貴重な蜜源になっています。
 また、チョウやハナアブのような移動性の高い昆虫にとっては、都市の中を移動する際の緑地と緑地をつなぐ “中継地” の役割も果たしています。


花は初夏から秋まで花期が長く、昆虫たちの貴重な蜜源となています。

 ハナゾノツクバネウツギは多くの昆虫を引き寄せますが、実をつけることはほとんどありません。園芸品種なので、異なる種を掛け合わせた影響で生殖がうまく進まないためです。
 晩秋になると、しだいに花の数が少なくなり、葉も赤褐色を帯びていきます。ガク片は枝先に残り、秋の深まりとともに色を濃くし、やがて乾いて茶色に変わります。最後に薄く透けて羽根つきの羽根のようになって、風にとばされ飛んでいきます。羽根には実も種子もついていません。


花の数が少なくなり、ガク片が枝先を飾る秋

 初夏の野山を散策していると、ハナゾノツクバネウツギによく似た植物に出会うことがあります。それが「ツクバネ」と「ツクバネウツギ」です。
 ツクバネ(季節のたより17)は、ビャクダン科に属する半寄生の低木で、山地の林内に自生します。開花は5月から6月で、雌雄異株です。
 枝先には、雄株では数個の雄花が、雌株では一輪の雌花が咲き、どちらも淡緑色の小さな花です。花そのものは非常に小さく、ふつうは気づかずに通り過ぎてしまうでしょう。ただ、雌花を囲む4枚の苞葉は、咲き始めから細長い羽の形で、長さ3cmほどあります。そこだけはっきり目を引くので、野山でこの花を見つける手掛かりになります。
 秋には、実と苞葉が羽根つきの道具「突く羽根」にそっくりの姿になります。「ツクバネ」という名は、この独特な実の形に由来しています。

 
  ツクバネの雌花と4枚の苞葉      羽根つきの羽にそっくりの秋の実

 ツクバネウツギも、山地に自生するスイカズラ科の落葉低木です。初夏にツクバネよりやや早く開花し、枝先に白から淡紅色の花を2つずつ咲かせます。花びらの内側には細かな網目模様があり、野山でも比較的見つけやすい花です。
 枝を折ると幹の内部が中空で、ウツギ属に共通する特徴を持っています。
 花後に残る5枚の細長いガク片は、乾くにつれてプロペラ状になり、ツクバネと同じく羽根つきの道具「突く羽根」を思わせる形になります。

 
   ツクバネウツギの花とガク          ツクバネに似た実

 ツクバネ、ツクバネウツギ、ハナゾノツクバネウツギの3種は、いずれもガク片が羽根つきの道具「突く羽根」に似た形をしており、見た目は同じ仲間の植物のようです。しかし、生い立ちも生育環境もまったく異なります。
 ツクバネとツクバネウツギは野山に自生する野生種で、季節のめぐる自然のなかで芽生え、生育します。
 一方、ハナゾノツクバネウツギは園芸種として生まれ、気温や乾燥の厳しい都市の光に包まれた人工的な環境で育ちます。まったく別の世界で、別の植物のように生きているのです。

 
 都市環境に生きるハナゾノツクバネウツギ     ツクバネに似たガク片

 ハナゾノツクバネウツギの誕生と生育の歴史は、19世紀の世界各地での植物採集と園芸文化の広がりと深く結びついています。

 この花の親となったのは、中国に自生する二つの低木の、シナツクバネウツギ(Abelia chinensis)とアベリア・ユニフローラ(Abelia uniflora)です。
 いずれも香りのある花をつけ、丈夫で観賞価値が高いことから、当時の植物採集家によってヨーロッパへ持ち込まれました。

 19世紀後半、イタリアのロヴェリ種苗園では、これら二種を人工的に交配する育種が行われました。交雑によって得られた実生の中から、両種の特徴を併せもつ個体が選抜され、これが現在のハナゾノツクバネウツギの原型となりました。
 選抜された個体は、初夏から秋まで咲き続ける長い花期と高い芳香性をもち、さらに暑さや寒さ、大気汚染、刈り込みにも耐えるなど、都市環境に適した性質を備えていました。こうした特徴が評価され、ヨーロッパ各地で広く栽培されるようになります。
 日本には大正時代に導入され、都市の公園や道路沿いの緑地帯の植え込み、生け垣などで利用され、現在では都市の景観を支える身近な花木となっています。


都市の道路の緑地帯に利用されるハナゾノツクバネウツギ

 ハナゾノツクバネウツギは自然界では結実しにくく、種子で増えることはほとんどありません。挿し木によって人の手で増やされ、広められてきました。誕生以来ずっと、人間に育てられ、存続してきた植物です。
 ハナゾノツクバネウツギに限らず、多くの園芸植物も同様で、自然界ではほとんど結実せず、多様な環境に適応する力を持ちません。人の手を離れれば、自力で自然繁殖することができない植物が、園芸植物なのです。


ハナゾノツクバネウツギは、人間の手で育てられ存続してきた花です。

 これまで多くの園芸植物が生み出されたことで、私たちの暮らしは彩りと潤いに満ち、安らぎのあるものになりました。都市の気温を和らげたり、空気をきれいにしたりと、生活の質を高めるさまざまな恩恵ももたらしてくれました。
 しかし、その園芸植物の誕生と生育のあり方を見つめると、彼らが自然の循環の外側に置かれていることに気づかされるのです。

 野生の植物は、自然の循環の中で進化し、環境や他の生物との関係に支えられて生きています。そこでは、発芽から枯死、そして分解に至るまで、すべてが自然の循環のしくみの中に位置づけられています。
 これに対して園芸植物は、人間が自然のしくみを借りながら生み出した生命です。自然界で起きる近縁種間の交雑や、突然変異による新しい形質の発現といったしくみを利用しつつ、花の色や形、香り、樹形、気候への耐性、病気への強さなど、人間の価値観や美的な好み、経済性に沿って生み出され、選抜されてきました。
 その生命は人間の保護のもとに置かれ、自然の淘汰を受けることもなく、流通のしくみの中で大量に生産され、消費され、廃棄されています。

 園芸植物は、もともと自然のしくみの中で生まれながらも、人間の価値観によって形づくられた文化的「生命」ともいえる存在です。そんな二つの顔をもつ植物は、ただ「きれいだな」と眺めるだけでは終わらない問いを、私たちに投げかけてきます。
 それは、人が自然の循環から離れた生命をつくり出すことで、いつのまにか生命を消費するものとして扱ってしまってはいないだろうか、という問いです。
 園芸植物は、自然界と人が築いた文化的環境のあいだに立ちながら、私たちが生命の尊さとどう向き合うのかを、問い続けているのです。(千)

◇昨年8月の「季節のたより」紹介の草花と樹木