mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

上映が始まります! 映画『教育と愛国』

 

 日本では、教育とメディアはいつも政治圧力にさらされてきました。なぜ標的にされるのか。屈したあとに何が待ち受けているのか。その答えが、『教育と愛国』で示されています。監督は大阪・毎日放送のディレクターの斉加尚代さん。
 2006年に第一次安倍政権下で教育基本法が「改正」され、愛国心が盛り込まれ、「教育再生」「教育改革」の名のもとに、教科書検定は教科書会社の忖度もあって、どんどん悪い方向へ突き進んでいます。

 この作品は、歴史記述をきっかけに倒産に追い込まれた大手の教科書会社の元編集者や、保守系の政治家が薦める教科書の執筆者などへのインタビュー。さらには新しく採用が始まった教科書を使う学校や、慰安婦問題など加害の歴史を教える教師や大学の研究者へのバッシング、日本学術会議任命拒否問題など、20年以上にわたって教育現場を取材してきた監督が、『教育と政治』の関係をみつめながら最新の教育事情を記録したドキュメント映画です。教科書は、そして教育はいったい誰のものなのか・・・。
 ぜひ映画を鑑賞し、共に考えていきませんか? (仁)

 宮城での上映は、
 BiVi仙台駅東口2Fのチネ・ラヴィータで、
 上映期間《5月27日・金 ~ 6月16日・木 》の予定です。

 上映時間は、1週間ごとに替わりますが、
 ・最初の1週目《5月27日・金、5月29日・日~6月9日・木 》は、
   《 ①9:20~11:15  ②17:45~19:40》

 5月28日(土) は、10時~ のみ(上映後、監督の舞台挨拶を予定)

     ※ 詳しいことは、チネ・ラヴィータにお聞きください。

季節のたより100 ホオノキ

  空中に咲く蓮の花  太古からいのちをつなぐ

 5月も後半、近くの森に入ると、草木や土壌の吐き出す呼気のような匂いのなかに、くっきりとした清清しい香りが漂ってきます。香りの源をたどっていくと、大きな葉、大きな花のホオノキでした。
 梨木香歩さんの『西の魔女が死んだ』の物語で、主人公まいは、この花を「空中に咲く蓮の花」と呼んでいました。

 ふと、急に空が明るくなって陽が微かに射し込んだ。同時に何かとても甘やかな匂いがして、まいはその方角に瞳を凝らした。
 沢の向こう側の山の斜面に、二、三十メートルはあろうかと思われる大きな木が、これもまた、二、三十センチはありそうな白い大きな花を、幾つも幾つもまるでぼんぼりを灯すようにしてつけているのが目に入った。花は泰山木を一回り大きくしたようでもあり、蓮の花のようでもあった。
 そうだ、あれは空中に咲く蓮の花だ。おばあちゃんは、蓮の花は空中には咲かないと言っていたけれど、霧の中で夢のように咲いている。まいはすっかり魅了されて動けなかった。ああ、おばあちゃんの言うとおり、人間に魂があるのなら、その魂だけになってあの花の廻りをふわふわと飛遊していられたらどんなに素敵だろう。
                (梨木香歩著「西の魔女が死んだ新潮文庫


 甘やかな匂いがして、ぼんぼりを灯すような白い花。まいを魅了したホオノキの花。

 ホオノキはモクレンモクレン属の落葉高木で、日本各地の山地に自生しています。枝が少なくまっすぐな樹形が好まれ、公園や庭園にもよく植えられています。
 葉も花も大きく、育つと高さ30mもの大木になります。特に葉の大きさは桐の葉と並んで日本の樹木のなかでは最大級でしょう。

 芽吹きの季節に存在感のあるのは冬芽です。縦の長さは3〜5cmほどあって、細長い冬芽とやや幅広い冬芽の2種類がありますが、どちらも芽鱗という革質のコートに包まれています。細長い冬芽は葉の芽で、幅広い冬芽は葉の芽と花の芽の入った混芽と呼ばれるものです。
 多く見られる冬芽は葉の芽で、暖かくなるとコートをぬぐように芽鱗をぬいで、新葉が展開していきます。その様子はまるで蝶が羽化するようです。

     
  ホオノキの冬芽     芽鱗のコートをぬいでいます。   托葉に包まれた若葉

 冬芽の内部では薄桃色の膜のような托葉(たくよう)が、新葉を一枚ずつラッピングするかのように包んでいます。芽吹くときに新葉と一緒に花開くように姿を現します。この托葉は紫外線などから新葉を保護する役割をしているのです。
 托葉はやがて落下しますが、その直前まで色鮮やかさを残して、新葉がもえぎ色の若葉に変わる姿を美しく引き立てます。

 
 花のように若葉が開いていきます。    托葉を残し、冬芽(葉の芽)が展開しました。

 ホオノキの展開した若葉は、7、8枚前後あって車輪状についています。しだいに緑色を濃くし、一枚の葉でも長さ20~50㎝、幅10~25㎝ほどの、フチが波打つ大きな葉になります。
 見上げると、車輪状の葉は互いに重ならないようについています。明るいところではたくさん葉をつけ、暗いところではやや少なめにと光の条件に合わせて調節しているようです。効率よく光合成を行おうとする葉は合理的に配置されていて、しかもそれが美しく見えます。

 ホオノキの葉は、燃えにくく芳香があり、殺菌力もあることから、昔から食べ物の皿代わりになったり、包むのに使われたりしてきました。現代でも朴葉味噌、朴葉包み焼き、朴葉餅などに利用されています。
 ホオノキの「ホオ」は、「包」(ほう)の意味で、大きな葉で食べ物などを包むことに由来しています。

 
    葉は車輪状についています。     光合成するための葉の配置はみごとです。

 ホオノキは高木なので、花やつぼみの観察や撮影はなかなかできません。森の中を歩き回って、谷の斜面に根を張り伸びている木を1本見つけました。崖を登って尾根近くに立つと、ちょうど目線の高さで花のつぼみを見ることができました。

 花のつぼみは開いた若葉の中心にあって、紫褐色の芽鱗に包まれています。外側の芽鱗が落ちて、淡紫色の3枚のガク片が開くと、ふっくらとした白いつぼみが顔をのぞかせました。つぼみは何枚かの花びらが重なりあって白い珠のようになっています。

   
   ホオノキの花の芽    開くガク片     花びらが重なり珠のようなつぼみ

 つぼみが2、3個開花しました。花びらは大きく開かず、遠慮がちに開いています。いい匂いがしています。この香りに誘われ虫たちが集まってくるのでしょう。
 花のなかをのぞいてみると、どの花も中心の軸の上部にある雌しべの柱頭が開いて、いつでも受粉できる状態になっていました(写真AとB)。
 軸の下部にある雄しべを見ると、堅く閉じたままでした(写真B)。自家受粉を避けるしくみになっています。
 花はこのままの状態で、夕方になると閉じてしまいました。

   
  1日目の花    下部の雄しべは閉じたまま(A) 受粉できる雌しべ(B) 

 2日目の朝、昨日閉じた花が、再び開いていました。花びらは6~9枚、昨日より大きく開いています。
 1日目に受粉態勢を取っていた雌しべの柱頭は、軸に張り付くように閉じています(写真C)。どの花も受粉の役目は終えてしまっているようです。
 雄しべを見ると、今度はそり返るように開いて大量に花粉を出しています。(写真C)。すでに虫たちがやってきたようです。花粉が食べられたのか、雄しべがぽろぽろと脱落している花がありました(写真D)。

   
    2日目の花    花粉の出ている雄しべと閉じた雌しべ(C)    脱落した雄しべ(D)

 ホオノキの花は雌性先熟タイプの両性花でした。雌しべと雄しべの成熟期をずらし、開花1日目は雌花、2日目は雄花の役割をしています。
 2日目に雄しべが花粉を出すと、雄しべはもろくわずかな力で脱落し、そのあとは大きな花びらも落下して、中心の軸には雌しべだけが残ります。
 それにしてもホオノキの花のいのちはなんと短いのでしょう。2日ほど花を華やかに咲かせることにエネルギーを注ぎ込み、あっという間に1つの花のいのちを終えてしまいます。

 花の咲いているホオノキを見ていると、サクラやモクレンのように花を一斉に咲かせて、木全体が満開になることはありません。1本の木には堅いつぼみのものから、花開いたもの、花びらを落下させたものなど、成長過程の違う花がついていて、そのような姿が約1ヶ月間続きます。
 ホオノキは1つの花のなかで雌花と雄花の時期をつくり、さらに木全体でも花開く時期をずらすことで、自家受粉ではなく、他家受粉で丈夫な子孫を残そうとしているのです。


  咲く花は、あちらでぽつん、こちらでぽつんと、木全体で1ケ月間続きます。

 ホオノキは虫媒花ですが、じつは蜜を持っていません。広葉樹の中でも、原始的な種であるといわれ、花の構造に広葉樹の初期の姿の一面を残しています。広葉樹が出現し始めた頃は、虫を誘う蜜は使われていなかったようです。
 ホオノキには蜜がないので、ミツバチやマルハナバチなどはあまり寄りつかず、花粉を運んでくれる昆虫が少ないのです。甘い芳香に誘われ寄ってくるのは、花粉を食べに来る甲虫類です。
 京都大学大学院生の松木悠さんらの調査で、甲虫のなかのハナムグリは最大1100mもの離れた個体に花粉を運んでいることを明らかにしました(清和研二著「樹は語る」築地書店)。他家受粉を願うホオノキにとっては、遠くから花粉を運んでくれる甲虫類は何よりも頼りになる存在です。
 それでも、ホオノキの他家受粉率は低く、自分の花粉を受け取ってしまう確率が高いということです。

 ホオノキの果実は小さな袋果(たいか)と呼ばれる袋の集合体になっています。その袋には種子が1、2個入っているのですが、できた果実を見ると、ほとんどの袋は空っぽです。受粉に失敗しているものが多いのでしょう。
 果実は熟すと赤く染まり、できた種子は袋のなかから飛び出します。種子の色は鳥が好む赤色で、鳥たちを誘い、遠くまで運んでもらおうとしています。でも、そのまま地上に落ちてしまうものも多いのです。

   
 花後、雌しべだけが残ります。   果実から飛び出した種子      地上に落ちた種子

 ホオノキの親は、鳥に運ばれた種子たちが、無事に育ってくれるようにと、特別な能力を持たせて送り出しています。
 ホオノキは明るいところに育つ陽樹です。暗い森のなかに散布された種子は、周りの木々が倒れて暗い林床に光が届くまで発芽できません。でも、ホオノキの種子には発芽のチャンスが来るまで20年以上も休眠できる能力を持っているといいます。(森と水の郷あきた樹木シリーズ・ホオノキ)。
 また、林床に光が射しても、種子が地中深く潜り込んでいては光が届かず発芽のチャンスを失ってしまいます。そのチャンスを逃がしたら、次は100年後になるかもしれません。そこでホオノキの親は、種子が寝過ごしてしまわないようにと、光に反応して発芽するのではなく、土の温度の変化を感じて発芽できる能力(変温応答性)を持たせているというのです。種子には深い土の中で発芽しても地上に出て来るまでの養分が十分に蓄えられていて、他の木の種子より重いということです。
 これらのことは、東北大学大学院生の安藤真理子さんや夏青青さんの、若き研究者の丁寧な実験で明らかにされたことでした(清和研二著「樹は語る」築地書店)。
 また、ホオノキの下は、大きな枯れ葉が堆積して他の植物が育っていませんが、ホオノキには、他感作用(アレロパシー)という、他の植物の成長を妨げる物質を出す作用があることが知られています。発芽したホオノキの稚樹や若木は、他の植物に邪魔されずに育っていくことができるのです。


     ホオノキの花は、人間が地上に誕生する前から咲き続けてきました。

 ホオノキの花は、地球に広葉樹が初めて誕生した頃の原始的な種であることを先にふれましたが、一億年前からといえば、この地上に人間は誕生せず、恐竜が闊歩していた時代です。この地上で滅びることなく生きてこられたのは、地球上の様々な環境変化にしなやかに対応し続けてきたからでしょう。
 ホオノキの一粒の種子には、太古からいのちを受け継いできた潜在能力がこめられています。その能力を発揮できる種子を育てるために、ホオノキは他家受粉にこだわっているように思います。

西の魔女が死んだ』の主人公のまいは、中学に進んでまもなく学校に行けなくなって、季節が初夏へ移りゆくひと月あまりを、西の魔女とよぶ田舎の大好きなおばあちゃんのもとで過ごし、この花と出会います。長い歴史を生き抜いてきたホオノキのいのちの美しさが、まいを魅了しました。
 まいは、自然の生きものたちと、自然に教わり生きてきたおばあちゃんの生活の知恵や暮らし方に触れて、自らの自然の生きものとしての生命力を取り戻してゆくのでした。(千)

◇昨年5月の「季節のたより」紹介の草花

正さん 高野山から熊野本宮大社へ(その4)

【4日目】4月10日(日)    (晴れ 27℃ 超暑い)
 熊野古道③「三浦口~三浦峠~十津川温泉  19.2㎞」


 《4日目の全行程》

◇舟渡橋からスタート(7:45)

宿のご主人に、前日の自販機まで送ってもらった。
今日も暑くなるとの予報。
スポーツドリンクとお茶、2本持った。
本日のコースには水場もある。
これでよし!

登り初めてすぐ、「石畳の道」が延びていた。
確かに “ 古の雰囲気を今に残す石畳 ” ではある。
熊野本宮に近いところには、もっとたくさん残っているはず。
そそられてしまう。
しかし、急な下り坂にこれがあると、歩きにくいのなんの。
時を経て劣化しているので、でこぼこが激しい。
ここは、まだまし。

民家の間を通って吉村家跡に向かう

◇三十丁の水(9:05)

3日目にして、ようやく体が山用に変化しつつある。
特に喉も渇いていないのでスルーしようか。
いや、看板に “ むりをしない ” とある。
右奥に水場があったので飲んでみた。
うまいを通り越して、ありがたい味がした。

杉の間から下界が見える。(9:20)
ということは、もっと高度が上がるのだ。

標高差700mを登るには、眺める回数を何度も取ることが肝要。
というか、休みたいだけ。
同じような景色だが、山は見飽きないな。(9:46)

また出た。おっかない場所。(9:50)
強調しすぎ。木がまっすぐになるように角度を変えたら正解。
でも、気持ちはこんな感じ。
こういう道多いな。

◇三浦峠(10:15)

ふう~。まずは峠にたどり着いた。
ここには、東屋やトイレがあった。
川津今西線という林道が走っているせいか、
オフロードバイク4、5台が土煙を上げて通過していった。
おいらを珍しそうに眺めながらも、挨拶をしてくれた。
本当は、少し話をしたかったのだが。
今日は、まだ誰とも会っていない。
寂しくはないが、人を見ると話したくなる。
さあ、長い下りにかかるか。

◇古矢倉跡へ向かう

少し余裕が出たか,花に目が行く。

◇出店跡を過ぎて(11:30)

ここから「今西集落が見えますよ」という看板あり。
生活道路は必ずあるだろうが、大雨、大雪、どう凌いでいるのか。
なぜここ?
1日目のように、あそこを越えていくのだろうか。
勘弁してほしい。

◇矢倉観音堂(12:15)

だいぶ、スマホのタイマー撮りがうまくなった。
元気そうにはしているが、長い下り坂で膝が痛い。
下界まではもう少しだ。

今日もそうだったが、

下界が近づくと下の方に白っぽいものが見え始める。
木々の間にちらちらと。川なのだ。
ひと山越えて谷間に降りていくんだな。
もちろん気温も上がるから、終わりを感じることができる。

◇民家の前に出た(12:45)
山道から民家の前の舗装路に出た。
うわ、暑い。夏だよ。
すぐに半袖になる。
西中大谷橋バス停を目指した。
途中から山道に入るつもりだったが、崩落通行止めになっていた。
舗装路をそのまま下りた。

◇バス停到着(13:10)
バスが来るとは思えないところだ。
バス停の標識が見当たらない。
あった。草に隠れて見えなかった。
ここから十津川温泉まで歩いて2時間。
14:01分が最終だ。
バスを使うか使わないかは、歩いて決めようと思っていた。
だから時間に間に合うように歩いてきた。
さあ、どうする。
この暑さの中、生活道路をひたすら歩いて楽しいか。
ん~。ここは無理せず有り難いバスを使うか。
さっさと温泉に入ろう。賛成だな。

少し時間があったので、西中バス停をいくつか越えたところまで歩いて乗車した。
お客はおいら一人だった。運んでもらう楽ちんさを久々に感じた。

◇お宿到着(14:40)

本日のお宿は、旅館を民宿にしたような所だった。
ダム湖のすぐそばに立っており、部屋からはこんな眺め。
露天風呂が3つもあり、
入るとき “ 入浴中 ” の札をひっくり返して貸し切り状態。

さっそく入る。
いわゆる源泉掛け流し。
同じ景色が風呂の中から見える。
はあ~、今日もよく歩いたな。
ごほうび、ごほうび。

でも、何となく人気がないお宿だ。
お客も他に1組だけ。
若い兄ちゃんが受付その他をやっている。
それだけ。
女将は夕方じゃないと来ない。
だから民宿なのかな?

食事場所にはおいら一人だった。
十分すぎるごちそうで、ご飯までたどり着かなかった。
女将と少し話をした。
どうも女将の本業はここじゃないらしい。
介護施設とデイサービスの事業所2つを運営しているという。
だから、ここに来るのは夕方だけだと。
お客は、温泉に入って好きなようにくつろぎ、
朝は誰もいない玄関から勝手に帰っていく。
そんなシステムのようだった。
何とも自由で、不思議な感じだ。
でも、ちっとも不満じゃない。
小辺路歩きの一泊ができればそれで十分だ。
翌日のお弁当も準備してもらったし。

ただ一つ。館内に自販機がないのには参った。
下駄を履いて5分ほど散歩し、見つけた自販機で明日の飲み物を準備した。
歩き目的じゃなかったら、何日間か逗留したいと思った。

カメさんのような歩きで十津川まで来たな。
明日が最後だ。
何とか行けるといいが・・・

学ぶとは生きること、世界を広げること ~ オレは幸せ者6 ~

 先日、Aさんから手紙をいただいた。Aさんは、30数年前に5年・6年と担任をしたK子さんの母親。手紙の内容は、Kさんの弟のT君の現在を知らせるものであった。
 脳性麻痺という病を負っているT君は養護学校で毎日を体の機能訓練をつづける。その一方で母親のAさんは、T君が子どもたちの仲間に入れるようにしながら、絵本の読み聞かせなどにも力を入れつづけた。話を聞いただけでも、Aさんだけでなく家族全員のT君を支える努力は想像を絶するものであった。
 私は一度だけT君に会っている。姉のKさんが6年生で、T君が4年生のときだった。
 Aさんから、「今、機能訓練だけではと思って、週の何日かは、私が自己流で、Tに文字の指導をしています。こんなことでいいものかどうか一度見ていただけませんか」という手紙をいただき、お宅をお邪魔したのだ。

 身体に力が入らないので、T君は車椅子以外はいつも寝たきり状態の生活になっている。
 お宅をお邪魔し、短時間、T君についての話をお聞きした。その後、寝ているT君に向かってAさんが、「T君、今日のお勉強しようね」と言うと、K君は起き上がって座った(自分の力だけだったのか、Aさんの介助で座ったかの確かな記憶はない)。
 座ったT君の膝の上に、Aさんは、ボール紙でつくったひらがなの文字盤を置いた。文字盤は、T君が右手を伸ばして届く範囲の大きさ。そのために、濁音・半濁音などの文字はなく、「゛」「゜」を置き、清音にこの記号を使う約束にしてあった。
 Tさんが「昨日は学校で何をしたの?」と聞く。すると、T君は一字ずつ文字盤の字を指で指していく。それをAさんはノートに書きとっていき、区切りでAさんが確認して次の問いをする。そばで見ていて、二人ともに相当な根気がいると思った。
 それが30分以上つづいたように記憶している。T君の様子からは、座っていることに特別我慢をしている感じは見えない。Aさんが、「じゃ、T君、今日のお勉強はこれで終わりにしようね」と言ったとたんにT君の身体は崩れるようにコロンと横になった。見ていた私は驚いた。T君の身体を長時間支えていたのは、まちがいなくAさんとの(勉強だった)と思った。

 この時の様子は今になるも私のなかに鮮明に残っている。
 その頃、私の教員生活はもう折り返しにきていた。時がそうしたのだろうか、やっと自分のこれまでが見え出してきて、過ぎた日々の取り返しのつかない数々の事実に頭を抱えていたころだった。
 教師なりたての頃は、「教科書を教える」のが自分の仕事で、それ以上のことは考えず、教室にはいろんな子どもがいることは頭にありながら、すすめる授業は教科書に忠実。その決まった色以外の色には目もやらないどころか、外れる子どもにはただただ大声を出す。その後サークルに参加するようになり、自分のそれまでの非に気づくようになるが、それからはサークルでのまねごとをして満足する自分がつづく。サークルで学び、教科書一辺倒ではなくなっても、子どもを見る目は広がらず、これまで同様「一色」であることは同じ、そこに入りきれない子どもたちに目もくれない。
 そのような自分をやっと考えられるようになった時には折り返し地点に近づいていた。それまでの間に私に置き去りにされた子どもたちはどんなに多くいただろうことか。
 林竹二先生は「教師にとって一番大事な能力というのは、うまく教えるということではなくて、いかに深く柔軟に学ぶことができるかということです。学ぶということは、自分を何度でもつくりなおすということです。自分を絶えずつくりなおさなければ、ほんとうに子どもに向き合うことはできません。~~ 教師の原罪の非常に大きな一つは、自分が変わろうとしないで、子どもにだけ変わることを求めるということです。」と繰り返し話されていたが、それがオレにも言っていることにやっと気づくようになったのだ。

 教科書を教える自分から抜け出そう。それに、よいテキストだからといって、それをただなぞることだけの自分からもなんとか抜け出さなければいけない。やっと真剣に思い始めていた。
 そのために、子どもたちの顔を浮かべながら、本屋にもこれまで以上に足しげく通うようになった。また、授業でオレができない部分を少しでも補い、子どもたちをつなごう。親たちにも教室を知らせて応援をもらおう。それらのために「学級便り」を発行しようとも考えた。
 こんなときT君に出合える機会をAさんにつくってもらい、「学び」が体を支えているのだという事実を目の前で見せてもらったということになる。AさんとT君に深く感謝しなければならない。

 いただいた手紙から、T君の今を付しておく。現在47歳。医療教育センターに入所し、パソコンでの単語の入力もできるようになり、Aさんとはがきの交換もしている(住所を書いたハガキをT君に届けている)。自力で年賀状も作ったという。いろいろなものへの興味は広がっており、電動車いすで自由に走行できるようにもなっている。それでも、車いすから降りると寝たきりだという。寝たきりは変わらなくても、T君の世界はどんどん広がっているという。こんなT君をたいへん喜んで知らせてくれた。オレもうれしかった。( 春 )

人間賛歌の『 Coda ~あいのうた~ 』

 しばらく前に、センターつうしんなどで紹介できる映画はないかと友人に電話をしたら、「仕事が忙しくて、最近は見に行けてない」という。なにか素敵な映画があったら教えてくれと話していたら、つい先日メールが届いた。忙しいのに気にかけてくれていたのだ。せっかくなので、このdiaryで紹介することにします。  
 今年3月の第94回アカデミー賞で作品賞を受賞したこともあり、今ならまだ映画館で観ることもできます。よかったら映画館(フォーラム仙台)に足を運んでみて下さい。(キヨ)

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 私は、この3年間、特別支援学級を担任している。点数による評価が蔓延していること、宿題などの〇付けに翻弄されている自分がいること、協働による校内研究によって自分のやりたい実践とは違うことをせざるを得なくなっていることなどに、正直ちょっと離れたい気持ちがあったからだ。教科書だけに縛られない中で、自分が培ってきた実践の中から、その子に合った実践は何かを考えることで、自らの成長を模索している。
Codaとは「Child of deaf adults」の略語で、「ろう者を持つ親のこども」の意味だ。そして、今担任しているのは難聴学級だ。そんなこともあって、以前から「Coda」には惹かれていた。

 主人公のルビーは、両親、兄との4人家族で自分だけが健聴者である。小さいころから通訳としての役を果たし、生業の漁業でも欠かせない存在である。と、同時に歌が好きで、歌を生きがいに人生を歩もうとする。そんな娘ルビーと家族の葛藤を描いた作品である。

 観ていて驚いたのは、聞こえない家族を演じている役者全員が本当のろう者であるということ。これが、とても自然にスクリーンの中で活躍していて、役者として素晴らしいハーモニーを奏でている。そして主人公の健聴者ルビーは、手話ができて、心から震わせてくれるような歌声も届けてくれる。この4人でなければ、この映画は成り立たない。とても美しい作品で心が洗われた。

 これまでも素晴らしい映画をたくさん観てきているが、改めて伝えたいのは人間讃歌ということ。父親役のトロイはインタビューで「私たちは、ただの人間だということ。私たちは手話で話しているということだけ。それだけの違いです」と話しています。これまで受け持ってきた子どもも、今を懸命に生きているという意味では、何ら変わらないし、そういう珠玉のような場面に何度も立ち会ってきました。そして見識の狭いボクは、そういう人たちや出来事から今でも多くを学んでいる。
 相手が攻撃してきたから反撃する能力を持とうとか、作戦と称して戦争を仕掛けるそういう人たちに声を大にして言いたいです。
「懸命に生きている人たちと共に笑顔になろう! 武器も武力も要らない!」
                          (翔家ぱんだ  より)

正さん 高野山から熊野本宮大社へ(その3)

【3日目】4月9日(土)   (晴れ 25℃ 暑い)
   熊野古道②「大股~伯母子峠~三浦口18.9km」


 《3日目の全行程》

◇大股バス停からスタート(8:05)

 

 昨日のお宿は、古道ルートから1kmほど離れていた。ご主人が「昨日の続きのルートまで車で送るから。」と言ってくれた。「いえいえ、そんなに律儀にルートを守る気はないので、登り口までお願いします。」
 どっちにしろ1kmちょっとなので、歩いてもどうってことないが、少しでも体力温存。
 バスが来るとは思えないような、奥まったバス停だ。
 観光がてらまた来たい、と言うと、「観光なんて何にもないよ。来るのは渓流釣りだけだ。どれ、写真撮ってやるから。」


 《行程前半:大股バス停-萱小屋跡-桧峠-伯母子岳-伯母子峠-上西家跡へ》

◇いやあ、きつい坂だあ
 山登りに出てくる急なガレ場ほどの道ではないが、カメさんが歩くようなのろまな足取りだ。
 息が上がらないようにするにはこのペースしかない。あせらず行こう。
 今日の目標は、午前中のうちにピークを越えること。
 昔、縦走している人に聞いたのだが、朝の4時5時から行動し、午前中にその日の目的地まで歩くのだそうだ。それは、高い山だと午後に天気が急変する場合が多く、安定している午前が勝負と言っていた。
 小辺路は高山ではないが、午前勝負はまったくその通りだと思う。しかし、足がカメさんじゃ。


    萱小屋跡(9:05)で一服しなきゃ! ふ~ふ~、ひ~ひ~
 
◇今日は、歩く人多いな

 
    桧峠(10:05)
 ここまでの2時間きつかったなあ。カメさんの歩みなのに、大丈夫かおいら。
 この間、3グループの登山者に追い抜かれた。みんなヒョイヒョイ登っていく。
 降りてくる数人の登山者とも会った。
 思えば今日は土曜日で、天気も最高。この先にある伯母子岳への登山なのだ。
 挨拶を交わした地元のおんちゃんは、「眺めが最高の山として知られているから一度は登っておかないとな」と教えてくれた。
 もちろんおいらも頂上経由でいくつもりだ! だった。

◇あれ?もう伯母子峠なの?(11:00)
 桧峠を過ぎると道が平坦になった。ふう~少し楽できるなあ。
 でも、たいていの場合、山腹を巻くように作られた道は、次の急登を予告している。
 楽なのはほんの少しだろう。そう思ってどんどん歩いた。
 いつまでたっても急な登りが出てこない。
 1時間ほどしたころ、前方の視界が開けた。

 ん?避難小屋やトイレがある。え!まさか峠に着いてしまったの?
 頂上に行くつもりだったのだが。
 道標を見逃したかな。護摩壇山に右折するところは確認した。
 地図で見たら、三叉路になっていて、真ん中が頂上へのルートだった。
 そんなに早く頂上ルートが出てくるとは思わなかったので、先へ先へと歩いてしまった。 

 

 もちろん峠からも頂上に行ける。ここを20分ほど登っていくだけだ。
 少し考えた。この時点でまだ半分も来ていない。
 往復4、50分はかかるはず。ん~360度の大パノラマかあ・・・。先があるしなあ・・・、ここからだって十分絶景だ。がまん、がまん。

 

◇上西家跡へ向かう

  

 歩きやすい道ではあるが、左側がかなり深く落ち込んでいて気が抜けない。

 

 崩れたところもよく整備してある。左が崖なのには変わりないが。

   

 急斜面を強調しようとスマホを傾けたら、こんな恐ろしい道になってしまった。滑落間違いなし。雨が降っていなくて本当に良かった。
 こんな場所が何カ所も出てきた。迂回路を作ろうにも作れる場所がないのだ。
 昔の人たちは急峻な山をつなぐために、最善のルートとして歩いたのだろう。
 こういう急斜面の道を歩くときは、おっかないからといって重心を山側にかけないようにした。体をまっすぐにするために、谷側の足にしっかり加重して踏み込んだ。スキーと同じだ。
 少し安心なところで昼食を取った。あら、水が残り少ねえ。

《行程後半: 上西家跡-水ヶ元屋跡-侍平屋敷跡-伯母子岳登山口-三浦口バス停》

◇上西家跡(12:35)

 

 見て分かるように石垣が積まれており、旅籠があったという。こんな山奥に。
 しかも昭和の初め頃まで営業していたようだ。
 それほどまでに小辺路が使われていたということか。
 逃げ場のないルートだからこそ、旅人にとってはどんなに有り難かったことか。
 歩いてみてそう思う。
 さあ、一服したので、長い下りを続けよう。

 

◇水ヶ元茶屋跡(13:25)で2つ切れた!?

《水切れ》
 普段の日帰り登山では500㎖ ペットボトル1本あれば十分だった。
 何年もそれが習慣だった。体が要求しないので、良くないとは分かりつつも水分はあまり取らなくて済んだ。
 ところが、今日は気温も高く、午前中かなり汗が出た。すごくのどが渇いた。
 持ってきてたのは、お茶でもスポーツドリンクでもなく、桃味の水だった。
 まあ、あと1時間ちょっとだから我慢して歩くしかないか。

スマホの電池切れ》
 ここの写真を撮ろうとしたら、あらま、電池切れだ。
 四国遍路を回っていたとき、写真撮りまくったら、どんどん電池が減っていくことを知った。
 だから、ほどほどに撮っていたのに・・・
 あ、あれだ!
 登山アプリだ。ルート上に現在地が表示される優れもの。
 今日の伯母子岳で使ってみることにしたのだった。
 あ~無駄なことやってしまった。

 山登りの基本教書を思い出した。
 “ スマホはあくまでも緊急事態の場合の通報用として、予備のバッテリーも持参 ”
 “ カメラは小型のものを準備 ”
 どれも守っていなかった。
 何も起こらないと誰が言えようか。

◇侍平屋敷跡で、ヤマンバと遭遇?(14:25)
 喉からからで、足が妙に重くなってきているのを感じた。
 もちろん長い下りのせいなのだが、脱水症状になりつつあるのかもしれない。
 ちょうど「待平屋敷跡」にたどり着いたので休憩だ。
 そこに説明板があった。休みがてら読んでみた。

 “ ここに、髪が真っ白で、口が耳まで裂けたヤマンバが住んでいた。麓から登ってくる村人を襲ったり追いかけたりしたという言い伝えが残っている ” のような内容だった。普段なら、またまたあ、どっから出た話だい。
 でも、この山深く、鬱蒼とした森の中なら、あり得ると思ってしまった。
 いやなもの読んでしまった。

 ここは早く立ち去ろうと歩き出したとき、薄暗い森の道から人気がした。
 髪は白髪、ヤマンバだ! 心臓が止まりそうになった。
 音もなく、すうっと現れた。
 背中には大きな箱のようなザック。
 縦走していることが見て取れる。
 声は出さず、頭だけ下げた。
 返礼はなく、ゆっくりゆっくり登っていった。
 けっこうな年齢の女性だった。
 いやいやびっくりした。あまりにもタイミング良すぎたな。

 おいらとは逆コースで小辺路を歩いてきたのだろう。
 山経験豊富なただずまいを感じた。
 この時間からすると、峠の避難小屋で一泊するのだろうか。
 尊敬するばかりだ。
 それにしても一瞬、汗が冷や汗に変わった。

◇伯母子岳登山口についた!(15:00)

《自販機はどこだ~》
 急坂を下ると川筋の舗装道路にポンと出た。
 水、水、とにかく水がほしい。
 見ると、古ぼけた手書きの案内板に「自販機、この先1km」とあった。
 よし、よし。すぐだ。
 はあ~はあ~しながら歩いて行くと、家が2軒ほど見えてきた。
 あそこだな。何か店っぽくもある。
 あれ? 空き家だ。
 自販機には日に焼けたカバーがしてある。
 勘弁してくれ。
 さらに歩いて行くと,三浦口バス停があった。
 家はあるが自販機がない。
 あきらめて、民宿に行くための舟渡橋(明日の出発点でもある)を探した。
 吊り橋のような橋だった。
 桜が咲いていたので、渡る前に一服しようと思った。
 そうしたら、枝の間から自販機が見えた。
 しいたけ集荷場の建物の前に置いてあった。
 はあ~、助かったあ。ごくごく飲んだ。

《これが民宿への道なのか?》
 一息ついて、本日の歩きは終わったなと、民宿に向かった。
 舟渡橋を渡ると、正面に「民宿左2km」という手作り看板があった。
 え、この道? さっきまで歩いてきた山道と変わらない。
 それどころか、枝が道をふさいだり、落石の石がごろごろしてる。
 見た感じ、ここ1年人が歩いた形跡はない。
 川っぺりの急な崖の道。
 ここが近道なのは分かるが…
 長年の経験から、手書きの2kmは3km以上が覚悟だ。
 当たった。

◇お宿に到着(16:00)
 山間にぽっかりと開けた所に5、6軒の集落が出てきた。
 田畑も少しある。
 早春の感じが何ともいい。
 出てきた女将さんは「あらなんでしょ、電話くれれば迎えに行ったのに、歩いてきたんですかあ。」
 そうしたかった。本当は。電池切れ。

 本日のお客はおいらのみ。
 食事の時に、旦那さんも交えて歓談。
 どんな暮らしをしてきたのか、いろいろ教えてもらった。
 「何も知らずに嫁に来たんですよ。当時は原木椎茸を採りに山を1時間半越えるんです。大きなかごに椎茸を山のように積んで、それをしょって山道戻ってくるんです。重かったですよ。でも、しばらく前からイノシシに全部食べられて今はやってません。」
「お米は自家用に作っているだけです。全国の品種をいろいろ試してみたの。冷たい水でもおいしくできたのが “ あきたこまち ” なの。」
どうりで、うまいはずだ。

 小辺路を歩く人は、どれほどいるのか聞いてみた。
 意外な答えだった。
 「コロナ前は、ほとんどが外人さんなの。何ヶ月も前から予約が入るので、日本の方を断ることもありましたよ。全員が外国人の日もずいぶんありました。」
 ふ~む。外人さんか。交流したかったな。
 歩いてみようという動機は共通だ。

 さてさて、今日は水不足になってピンチだったが,何とかたどり着いた。
 体力消耗が激しかったので、足のお手入れをしてさっさと就寝。

季節のたより99 ウワミズザクラ

  ブラシの花は異色の桜  親元離れた種子のみ育つ

 桜の花の季節が終わり、まわりの緑が急に濃くなる季節に咲き出す異色の桜が、ウワミズザクラです。
 ブラシのような白い穂の花がいくつも咲いて、樹木全体を真っ白に包んでいきます。季節になると一斉に咲き出すので、自然公園やあちらこちらの野山で白さが目立ち、開花していることがよくわかります。
 白い穂の花は、若葉の間から上に伸び出し目に鮮やかです。それぞれの花穂が自由奔放に踊っているように見えます。


    ウワミズザクラの花。花だけでは桜の花の仲間とは思えませんね。

 ウワミズザクラは、北海道の西南部から九州まで分布し、高さ10~20mになる落葉高木です。明るいところを好み、やや土壌水分が多い場所に生えています。  
 宮城県内では、丘陵地の雑木林や山地のブナ林に普通に見られます。
 以前はバラ科サクラ属でしたが、今はウワミズザクラ属に分類されています。

 
     花穂はブラシのようです。    見上げると花穂が若葉の間から覗いています。

 ウワミズザクラは古くから日本に自生していました。
古事記」(712年)の天の岩屋戸の段に「天の香具山の鹿の骨とハハカの木で太占をした」とあって、そのハハカ(波波迦)の木が、ウワミズザクラの古名といわれています。「太占」(ふとまに)とは上代の占いのことで、シカの肩甲骨の裏に溝を彫り、炎にかざして骨の表面の割れ目の模様で占ったとされています。その後、中国から亀の甲羅のひび割れで占う亀卜(きぼく)も伝わってきて、この太占や亀卜の占いの際に ハハカの木に火をつけあぶったとされています。
 ウワミズザクラ(上溝桜)の由来には諸説あって、木に溝を彫ったとしたウワミゾが訛ったという説や、鹿の肩甲骨の裏に溝を彫り占ったことから裏溝・占溝(ウラミゾ)が転じてウワミズザクラとなったという説などがあるようです。

 ウワミズザクラの冬芽の芽吹きは3月末から4月、ちょうど桜の花が満開の頃に始まります。桜の仲間では最も遅咲きで、派手に咲く他の桜との競争を避けて時期をずらしているように見えます。

   
   冬芽の芽吹き      葉の間から花穂が伸びてきます。   花穂のつぼみ

 桜は花を咲かせてから葉を開きますが、ウワミズザクラは葉が開き終わった枝先から、ゆっくりと花穂が現れます。穂状に集まった小さなつぼみがしだいに膨らみ、花穂の下のほうから順番に白い花を咲かせていきます。

 
   膨らみ始めたつぼみ        花穂の下から小さな花が咲き出しました。

 花穂は長さ10㎝前後で、花穂に集まる小さな花は、直径6~8㎜ほどです。花びらが5枚、雌しべは1本、雄しべが30本を超えるほどあります。花のしくみは桜の花とおなじですが、雌しべも雄しべも花びらよりもはるかに長く、特にたくさんある雄しべが目立って、これがブラシのように見えるのです。
 ふだんはあまり目につかないウワミズザクラですが、花期には樹木全体が花に包まれ真っ白です。花の香りも “ 桜餅 ” の香り(クマリンの匂い)ようで、蜜も多く、アブの仲間、カミキリムシの仲間、チョウの仲間など、多くの昆虫が集まってきます。

   
 花は下から咲き出     花穂は小さな花の集まり。        しべの長さが目立ち
 します。                          ちます。

 受粉を終えて、6月頃に緑色の実が見られます。緑色の実は黄色から橙色に変わり、しだいに赤色から黒紫色へ変化していきます。
 一つの枝に熟成度の違う実が一緒につくので色彩豊かです。ウワミズザクラの実は、花とは別に実の色の変化でも目をひきます。

 
     初めの頃の緑の実         熟すにつれて実の色が変化します。

 ウワミズザクラの花のつぼみや実は、昔から食用として利用されてきました。
 新潟県などでは、ウワミズザクラの若い花穂(未熟果)を塩漬けにしたものをアンニンゴ(杏仁子・杏仁香)と呼んで、酒の肴や料理に使われています。
 杏仁は杏子(あんず)の種子の白い胚乳のところで、その香りとウワミズザクラの花芽や実の香りが似ているので、アンニンゴと呼ばれているのです。熟した実は、果実酒にしてアンニンゴ酒(杏仁子酒)と名づけられ利用されています。

 人間以上にこの実を好むのは鳥たちです。ヒヨドリムクドリオナガキジバトアカゲラアオバトなどが集まってきます。鳥だけでなく、サルやツキノワグマにとっても夏の季節のご馳走です。クマはこの木の上にクマ棚をつくるそうです。
 ウワミズザクラのたくさんの実は、森の生きものたちの恵みの食べものになっています。もちろん、ただ食べられるだけではありません。鳥やクマたちがこの実を食べても、種子は糞とともに散布されるので、ウワミズザクラは、動き回らずに新しい土地に生育する範囲を広げているのです。


晩夏(8~9月)の白川村周辺に生息するツキノワグマの糞からウワミズザクラの
果実が96.84%見られたと報告されています。(08年日本生態学会第58回全国大会)

 1本の樹になる実はかなりの数です。これらの実は全部発芽できるのでしょうか。
 1970年に熱帯雨林の種子を調べた二人の研究者が提唱したジャンゼン・コンネル仮説(Janzen-Connell hypothesis)というのがあります。
 それは「親木から散布された種子は親木の近くでは数は多いものの、そのほとんどが昆虫や病原菌などの天敵によって死亡してしまう。しかし遠くに散布された種子や実生は生き残る。・・・親木の下では自分の子供の代わりに他種が生き残り、種の多様性が作られる」というものです。
 清和研二氏(東北大学名誉教授)の著書「樹は語る」(築地書店)には、この仮説が熱帯雨林だけでなく、温帯林でも同じしくみであることを、栗駒の森に咲くウワミズザクラの調査で確かめていった様子が語られています。

「雪解けを待って栗駒の森に調査に出かけた。・・・5本の太いウワズザクラを探し出した。それぞれの親木の下で芽生えを数えて見ると1平方メートルあたり平均280個あった。・・・まるで芽生えの絨毯である。しかし、梅雨期に入ると・・次々に死にはじめた。いわゆる『立ち枯れ病』だ。・・・芽生えの4割がこの病気で死んでしまった。・・・」

「このように親木の下ではたくさんの芽生えが発生するが、生き残るのは翌春までに2割、翌々年までは1割以下となる。・・・親木の下では大きくなれずに早く死んでしまうようである。」「しかし、親木から離れると、大きな稚樹がちらほらと現われはじめる。数はグンと減るものの遠くへ行くほど大きな稚樹が見られるようになる。・・・」(清和研二著「樹は語る」第3章―ウワズザクラ)  

 調査から、ウワミズザクラは遠くに散布された種子だけがすくすく成長するというのです。逆にいえばウワミズザクラの種子は鳥や森の生きものたちに運んでもらわなければ、生き延びることができないということになります。また、ウワミズザクラの種子が親元で育たないため、一種のみが同じ空間を独占することはありません。そこには他の木々の種子が芽生え、しだいに多くの樹種が共存する森の多様性が作られていきます。これは、ジャンゼン・コンネル仮説のとおりです。

 
林緑の一本立ちのウワミズザクラ   天を向く花穂が、ウワミズザクラの特徴です。

 栗駒山での森の観察では、親木から遠くに運ばれた種子が芽を出し、やっと育った稚樹も、森の中では暗すぎて2~3m以上には育つことができないそうです。
 その暗い林内で生き延びるために、ウワミズザクラは、上から降り注ぐ光をなるべく多く受け取ろうとして、幹を少し斜めに傾け、お互いの葉が重ならないようにしたり、古くなった幹は枯らしたりするそうです。もう一つ、ウワミズザクラは樹木とは思えないようなふるまいをするというのです。それは、春に作った新しい枝、つまり当年生の枝(シュート)のほとんどを、その年の秋に落としてしまうというのです。
 冬芽のついたウワミズザクラの枝を見たときに、枝を落とした脱落痕がたくさんあったので不思議でしたが、そういう意味があったのでした。

 台風や暴風雨で突然大木が倒れることがあって、周りが明るくなるチャンスが訪れると、日かげに耐えていたウワミズザクラの稚樹は、今度は枝を落とすことなく、毎年前にできた枝に新しい枝を伸ばしてぐんぐん伸びていくそうです。
 仙台の青葉山を歩いてウワミズザクラを観察してみると、樹齢の若い樹は暗い森でも光の届く隙間を見つけては、葉を広げ花を咲かせていました。
 ほぼ15mはあるかと思われる大木を見つけて見上げると、周りのモミやホウノキの大木を追い越して、太陽の光がさんさんと届く林冠まで到達して見事に花を咲かせていました。

 
   隙間の光を利用     モミ、ホオノキを追い越し林冠に達したウワミズザクラ

 いったん林冠に到達し太陽の恵みを受けたウワミズザクラですが、いつまでも花を咲かせ続けられるわけではないようです。隣接する樹々が枝を伸ばし葉を茂らせてきて、また日かげになってしまうからです。

「ウワズザクラのような背のそんなに高くならない木が暗い森の中で長く生き延びるのは大変なことだ。周囲の樹々との激しい競争に晒され、枝は枯れ上がり、樹冠は小さくなる。そうすると光合成して炭素を吸収する葉の量が減ってしまう。

 ところが、幹が太っていると、幹の重さ(表面積)に比例するといわれる呼吸量が増えるばかりだ。このままでは、葉による炭素の収入よりも幹の呼吸による支出がオーバーしてしまう。炭素収支のバランスを崩すと樹木は生きていけない。そこで、ウワミズザクラは、幹をへらすことにしたのである。太い幹を枯らし、そのかわりに細い萌芽幹を出し、まずは呼吸量を減らして生き延びようとしているのである。」(同著)

 ウワミズザクラは生命の危機を察知すると、太い幹を枯らして新しく細い幹を出し始めるというのです。ウワミズザクラは、たえず変化する環境に逆らうことなく、自分を変えて生き続けようとしています。
 ウワミズザクラの生き方を見てくると、たくましいというよりはしなやかな強さを感じます。森に生える多くの樹々たちにも、ウワミズザクラとはまた違う独自の生き方があるのでしょう。


        初夏の野山で 花を全開させるウワミズザクラ

 自然の摂理に従って、多様な樹木たちの多様な生き方が展開されているのが森の姿です。人間は同じ種類の桜を一ヶ所に集めて花見を楽しんでいますが、桜の名所といわれる姿は自然のしくみからすれば、異質なのかもしれません。
 早春の森の若葉の緑が様々な色合いを帯びているのは、それだけ多様な樹木が生存し共存しているからでしょう。多様な樹木が生存している森では、その樹木を利用して多様な生物が生きています。地球の自然環境を支えているものの一つが、この多様性のある森のしくみであることにあらためて気づかされるのです。(千)

◇昨年5月の「季節のたより」紹介の草花