mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

春さんの著書『叱って 笑って 支えられ』が河北新報で紹介

 昨日7日付け河北新報朝刊に、春さんこと元センター所長の春日さんが自費出版した著書『叱って 笑って 支えられ ~私と子どもの教室の記録~』が紹介されました。朝、出勤して仕事場につくと間もなくして、上司である専務が「春日先生が、新聞に載ってるよ」と教えてくれました。こんなに大きなスペースで紹介されるなんて。びっくりです。

  

 写真もとても素敵で、いつもお会いする春さんそのもの。この本の特色・ユニークさは、学級での日々の取り組みや営みを教師としての春さんが書いているのに、見えてくるのは素直で率直で、伸びやか子どもたちの姿ばかり。主役は著者の春さんではなく、子どもたちです。子どもたちの書いた文章もとてもおもしろいのです。そして、こんな子どもたちと春さんとのやりとりを、しっかり見守り支えているのは保護者のみなさんであっただろうことを感じたりもします。

 次に、本の宣伝チラシに掲載されている学級だよりの文章(当時の学級だより掲載)を紹介します。

《通信表、まちがってる! 春日》
 私は通信表は好きではありません。子どもたち一人一人のいかほどのことも知らないのに、子どもであろうと、ひとりの人間について、断定的なことを書きたくないからです。毎度、仕方なしに書いています。ですから、この日も、ただ機械的に配りました。
 好きでないと言っても、通信表を手にした子どもの反応は何気ないふうにしていながら気にして見ています。
 エイジ君は私の目の前の座席です。・・・渡し終わるのを待って、すぐに立ちあがったエイジ君が通信表をもって私のところにきて、「違う」と言うのです。
 私は、「算数だな」と言うと、「そうだ」と言います。2学期の算数の時間、ちょっと遊びをと「円錐の表面積を求める問題」を出しました。「わかった」というのが黒板で説明をするのですが、次々に途中でアウトになり引き下がるというのがつづきます。
 しばらく後に出てきたエイジ君が見事クリアー。間髪を入れずツヨシ君が、「エイジソンダー」と叫んだのでした。ですから、通信表の「ふつう」は間違いだというわけです。・・・・(続く)

 この後、どうなったんでしょう。先生のつけた俺の成績は「間違ってる」というエイジ君、すごいですね。この自己主張、立派です。でも単にエイジ君がすごいと言うだけでないように思います。こういうことを先生に言っても「大丈夫」という信頼が春さんとエイジ君の間にあるということ、そのことの方がもっとすごいことのように思いました。

《バカな教科書 カオリ》
 私は、算数のしゅくだいをわすれたので、いそいでしようと思いました。ところがちょうしがくずれました。ノートはあるんだけど教科書がないのです。
 ああどうしようとこまりました。みんなにおこられるだろうなあとか、ああしゅくだいなんか出さなければよかったのにと思ったりしました。私が悪いんじゃなくて、教科書がかばんの中にないのがわるいんだ―そうだ「教科書が悪いんだ」とどなりました。でももうこうなったら、しかたありません。「リエちゃんのりこうな教科書をかりようかなあ」。

 今、リエちゃんから算数の教科書を借りて来て、しゅくだいをする前に、時間表を見てそろえていたら、理科とまちがっていたバカな算数の教科書がありました。理科と思っていた本はまさしく算数だったのです。もうバカとは言えません。私の方がバカでした。よく見なかったこの目もわるいし、考えなかったのうも悪い。「かい主によくにる事がある」と言うけれど教科書もにる事があるのです。悪い所だけれども。

 カオリさんの刻々と移り変わっていく気持ちが、まるで実況中継のようで、そのうえに話のオチまでついて、なんてうまいんでしょう。同時に、きっと彼女は自分でこの文章を書きながら、ひそかに春さんやクラスの仲間がこれを読んだら、おもしろがって笑ってくれるだろうと思っていたのではないかと・・・。そんな学級の様子を感じます。

《ドキドキのさようなら エミ》
 今日の帰りの会。先生が、ものすごーく、おこった。せきにんを感じた。
 そうじの時間、ゆっくりのそうじ。マキは最後までふいていた。先生がいる。さっきおこられたばっかり。
 ジャンパーを着た。カバンを取りにゆっくり。ユウタ君が、なにか言っていた。カバンを取る。ドキドキ。メグミちゃんが来て、行ってしまった。勇気を出して、「先生、さようなら」と、教室を出ても、まだドキドキ。(明日、『おはようございます』って言えるかな?)

※前号の教室だよりにも書いたように、「帰りの会・朝の会、もうやめろ。話を聞かない練習をしているようなものだから、やらない方がみんなのためになる。話をきちんと聞けないなんて、やさしくない証拠だ。挨拶をしてすぐ終わればいいんだ」と怒鳴りました。
  怒鳴った後は私も身の置き場がないのです。エミさんの日記を読む。カバンを背負った後に、私に「さようなら」をいうために、ドキドキしていたのですね。
 こういう気持ちにしてしまって、本当に悪かったなあと思いました。子どものためと思いながら、こんなに心を痛めてしまって許して— でも、こんなに悩ませておきながら、私は、エミさんの優しい心をたいへんうれしく思い、エミさんには次のようなことを書きました。
 エミさん、昨日のことをこのように書いてくれてありがとう。じつは、おこってしまった後に、オレもね、とっても気分がよくなくなったんです。・・・(続く)

 先生に限らず、だれでも「あんなことを言わなければよかったなあ」とか、「どうして〇〇してやれなかったんだろう」と、後になって悔やむことはいくらでもあります。でも、大人になるとどういうわけか素直に謝るということが、なかなかできなくなるものです。今の政治の世界を見ていると、なんと謝ることのできない人たちの集まりだろうと思ってしまいます。のらりくらりと言い訳をし、時には開き直り噓をつき、そういう姿があちらにもこちらにも。そう考えると、春さんは実直に自分の思いを語り、謝ることのできる人なんだなあと感心し、自分もそうありたいと思います。

 さて昨日の新聞の紹介で、問い合わせの電話がセンターにも寄せられています。今日は、なんと春さんの教え子や保護者の方がそれぞれに本を求め、センターにやって来られました。春さんが担任をしたのは、きっと1,2年。でもその日々が、その人たちの心のなかで、いまでも生きているのでしょう。どの方も、じつにうれしそうに本を手に取り眺めながら、大切そうに持って帰られる姿が印象的でした。その姿を見て、春さんは幸せ者だなあと思いました。(キヨ)

読書メモ 17

 鶴見俊輔の書いたものの中に『思想の落し穴』(岩波書店 1989年)がある。この書の表紙裏に「思想の落し穴」について、次のような案内文(?)がある。

 たる詰された思想! 昭和精神史の特徴を著者はこの凝縮された表現でとらえる。「たる詰」を拒否するとき、同時代はどのような相貌をていするか、またそのとき日常の生活のどこに展望をみいだすことができるか。
 戦争・占領、高度成長を軸に現代は日本の状況を批判的にとらえ、老いと死の問題を射程に入れた生き方を考える。独自の思想的地歩を占める著者のエッセンス!
 昭和精神史を著者は「たる詰された思想」ととらえると言う。軽い生き方をしている私は「思想ということばを使うことはないが、昭和精神史を「たる詰めされた思想」と言われると、人生の半分を昭和で生きた私は、なんとなく(うまいことを言うなあ)と思う。 
 自分が生きてゆくにつれて視野がひらける。そういう遠近法を捨てることはできない。しかし、そういうふうにしてひらけてくる景色には、自分にとって見えない部分がふくまれる。この自分にとって見えない部分を見るというのはできないことだが、見えないものの気配を感じることはできる。そういうふうでありたい。
 自分の思想は自分にとっての落し穴だろうが、そこからはいでる道は、自分の思想の落し穴への気配を感じようとすることから、ひらける。すくなくとも、見えやすくなる。

 思想の落し穴

 このように書かれると、いろんなものが身近になり、読んでみたくなる。鶴見の書いたものをついつい読んでしまっていたのは、これだったのだなあと思った。
 いろんな人々が登場してくる。たとえば、この本の中に、1ページ半ぐらいのエッセーの並ぶ章がある。たとえば「1冊の本をかこんで」。ここでは、昨今(と言っても半世紀も前だが)の形ばかりの集まりになっている出版記念の会の様子が記されながら、「出席した真野きよ『黄昏記』の出版記念会が私の知っているかぎり、日本の出版記念会の例外だった」と書く。自分の母親がぼけて死に至るまでを書いた記録小説だが、会場には若い人も多く、話をする人すべて、この本を読んだ人だと言う。そのうえ、自分にとって意外なことが3つあったとそれぞれを紹介している。

 形式的な記念会に異をもつ鶴見が十分満足した会であったことが、1ページ半の文量でありながら、常に持つ不満(?)と参加したこの会の満足が、読む者に十分伝わってくるエッセーになっている。

 鶴見の文を読んでいつも感じるのは、この「一冊の本をかこんで」もそうだが、登場するそれらの人々を無理にまとめようとしていないことにあるように思った。
 どんなにすぐれた見識を並べ立てられても、どうしても入っていかないことがしばしばある。読み手の力不足と言われればそれまでだが、鶴見のように「無理にまとめようとしない」は、私にはありがたい、それでいて、私における鶴見俊輔の価値は少しも下がることはない。( 春 )

ドイツ留学日記1992年(37)

11月10日(火) 晴れ
〈北フランス旅行4〉
 朝日のまぶしさで目が覚めた。目の前は干潟がどこまでも続いている。その先に淡いグレーの水平線が高く見える。昨夜のうちにモン・サン・ミシェルMt. St. Michelにまでやって来て、干潟に設けられた駐車場で一夜を明かしたのだった。

 モン・サン・ミシェルはフランスきっての観光地の1つである。満潮時には海となる広大な干潟の真ん中に浮かぶ岩山に、ベネディクト派の僧院が城のように建てられている。干潟は最高で陸から18kmも引くという。その中にすっくりとそびえ立つ僧院の姿はまったく驚異的というほかない。僧院は8世紀から14世紀にかけて次々と建て増され、今日のような巨大な姿になった。遠くから見ると鬼ヶ城のようであり、子どもたちの大好きな魔法の城のようでもある。僧院へは堤防がかけられており、すぐ間近まで車で行ける。車から降りると風が強い。干潟ではかもめのような鳥の群れが羽を休ませている。島の入り口にはレストラン、ホテル、土産物店がぎっしりと並び、らせん形に島を巻くように石畳の坂がそこから伸びている。

 僧院の内部は複雑である。荒い石組みの回廊が右へ左へ、上へ下へと続いている。薄暗い回廊や礼拝堂の明かり窓からは眩しい海の輝きが見える。中央の大礼拝堂のほかに、おそらく12の礼拝堂やホールがあり、それらを回廊がつないでいるのである。緑の鮮やかな中庭や、海が見下ろせるテラス、地下牢のような礼拝堂、巨大な石の暖炉など「楽しい装置」がいっぱいある。一巡するのに2時間余り、奇跡的な建造物である。ふとラピュタの空に浮かぶ島のことを思い出した。
 レストランで食べたクレープ(ハム・チーズ・卵のクレープ、砂糖のクレープ、チョコレート・クレープ)がおいしかった。

 レンヌRennesはモン・サン・ミシェルの南70kmにあるブルターニュ地方の旧都である。やはり木組みの家々が残り、古い教会が数多くある。サン・タンヌSt. Anne、サン・ピエールSt, Pierre、サン・マレーヌSt. Mareinなどの教会を訪れながら、賑やかな市街地を一周した。
 レンヌから東にアウトバーンを走る。途中のル・マンは通過。250km走ってすでに暗くなったシャルトルChartreに着いた。 途中から東の空に大きな満月が顔を出した。

11月11日(水) 朝から突然の強い雨、嵐となって午前中吹き荒れる。あちこちで
物の飛ぶ音。午後からは青空が見えたと思うと、またざっと雨。夕方になってようやく風が止む。
〈北フランス旅行5〉
 シャルトルは静かな小さな街だ。パリから南西へ100km足らずの所にあるのに、都会的な華やかさは何もない。裏通りは数百年来変わらない生活が続いているかのごとくだし、古い石垣や石の階段道は現代文明のめまぐるしさしか知らない私たちに悠久の時の流れを教えているようだ。
 突然のつむじ風が一瞬吹き抜けたかと思うと、大気が怒り狂ったように暴れまわり始めた。少し止んだかと思うとまた町中をバタバタと鳴らしてまわる。北フランスの秋はこんな天気が多いのだろうか。

 シャルトルの名をこんなにも不朽なものとしたのはカテドラルのノートルダムNotre Domeのおかげである。シャルトルのカテドラルはそのステンドグラスの美しさで知られている。今回のフランス旅行も、第1の目的はシャルトルのステンドグラスを見ることであった。11世紀から13世紀にかけて建てられたこの聖堂は優雅さを湛えており、ファサードの2つの塔が印象的だ。右の塔はロマネスク様式で中世の香りを漂わせ、少し高い左の塔はゴシック様式の荘厳さを湛えている。どちらも美しく、非対称なのも味わいがある。周囲の壁や柱にはめられたおびただしい数の聖像もよい。1つ1つが高い芸術的水準にあり、美しい姿をしている。高いところにあるので近づいてもよく見えないのが残念だ。建物全体は壮大なスケールなのに威圧感がなく、凛とした端正さがある。

 大聖堂の建設は中世ヨーロッパの奇跡だと思う。何かの衝動に駆られたかのように、イタリア、フランス、ドイツ、さらにスペイン、イギリスや周りの国々で次々と大カテドラルが建てられた。いずれも数十年から数百年の歳月を費やしている。代々受け継がれてきた町の最大の仕事であったに違いない。ある世代は基部しか見なかったであろうし、数世代後には柱の石をひたすら積み上げていたことだろう。何千何万という町の人たちが当然の仕事と思って、営々と造り続けてきたのである。シャルトルやシュパイアーのような小さな町で壮大な、そして芸術的に最高度のカテドラルが建てられたことはまったく信じがたい。これらの町の人々は次第に石工やガラス工、鍛治工などのギルドを形成し、あるいはルネサンス以降の芸術家となり、近代市民の母体を形成してきたのである。

 西側の正面、そして北と南の大きな丸窓Rosenfensterと下部の縦長の窓Spitzfensterの大胆なデザインと神秘的な色彩の輝きを前にして、長い間呆然として立ちすくんだ。中世に咲いた花火のようであり、夜空に現れた天上の光の放射のようでもある。色彩がすごみを帯びて怪しく迫ってくる。シャルトルの「青」はよく知られている。人々はこの「青」を見るためにやってくる。しかし「赤」もよく、「黄」も華やかに輝いている。図柄はすべて人物群像であり、1枚のガラスの枠の中に2から5人のさまざまな場面が描かれている。何千枚もあるすべての枠が異なった群像で描かれている。午前中いっぱいステンドグラスとにらめっこをする。丸窓を見上げているとヨーロッパに来て本当によかったとつくづく思う。途中で司教、合唱隊、街の主だった人たちの正装姿が入ってきて、祈りとコーラスが始まった。

 オルレアンOrléanはシャルトルから南に70kmのところにあるロワール地方の州都である。シャルトルでゆっくりしすぎたため、急ぎ足で市の中心部を1周する。サント・クロアSt. Croixは立派なカテドラルだがシャルトルを観た後なので、それほどの感興もわかない。市庁舎、ジャンヌ・ダルクJanne Da Arc像、ジャンヌ・ダルク記念館を見て周る。オルレアンはジャンヌの出生地であり、イギリス軍と戦った地である。

 フォテヌブローFontainebleau。パリからすぐ近くにあるこの街は圧倒的な宮殿Châteauで知られる。ヴェルサイユ宮殿と並ぶブルボン王朝のもう1つの宮殿である。コの字型の宮殿正面に着いたのが5時少し前であった。かろうじて閉館に間に合ったものの内部には入れず、庭園にまで入りかけたところで係員に追い返された。何百人もの人がまだ続々とやってきているのに1分の猶予も与えない。あきらめきれない少数派の人たちは、金色に塗られた鉄柵の間から覗き見をして周る。何箇所も入り口があって、宮殿に沿って周ると内部が少しだけ見えるのである。私のような頑固派は運河に沿って奥の庭園にまで足を延ばすが、途中で雨がザーと降り出し、大慌てで引き返すはめになった。

 夜のパリ東方の田園地帯をルクセンブルク方面をめがけて走る。この方向はアウトバーンがないので、すべて地方道である。地図と道路標識を交互に見ながら走っても現在地が定かでない。周囲360度は草地と丘陵の地平線ばかりで、村の明かりもまったく見えない。何というフランスの広大さ、道路はどこまでも一直線に延び、地平線に吸い込まれていく。看板はおろか標識もほとんどない。並木がなければアメリカの平原を走って いるかと勘違いをしそうだ。ランスを過ぎたのが10時、ルクセンブルクの国境の手前までやってきて12時を過ぎたので仮伯。

11月12日(木) 曇り、通り雨と晴れ間が交互にやってくる
〈北フランス旅行6〉
 ルクセンブルク、トリアーを経てケルンに帰ってきた。車での最後の旅行だった。アウトバーンを走りながら少々センチメンタルな思いがこみ上げてくる。この半年間、この車でじつに多くの旅行をした。走行距離は5万キロに近づいている。誰しも呆れることであろう。ヨーロッパの未知の地をカテドラル観たさに惹かれてほとんど毎週のように旅行に出かけた。私のケルン滞在の留学生活は哲学研究もさりながら、カテドラルの訪問に当てられたかのようである。
 
11月13日(木)から11月20日(金)まで記録なし。
 *ケルン滞在の最後の1週間は出立する準備で日記をつける余裕もなかったようだ。家の整理、荷物の発送、大学や市役所への書類の提出、車の売却(行きつけの修理工場で引き取ってもらった。数度の修理を経て購入した時より車の状態はよくなっていたが、足元を見られたのか、予想を下回る価格だった。)、そしてデュージング教授、ブラシュケ氏へのあいさつなど。

 私の在外研究計画では、9ヶ月間をケルン大学での研究・研修に当て、残りの1ヶ月をギリシア、イタリア、スペイン、フランスへの視察(各国の哲学と文化の視察!)として組んであったのだ。11月21日早朝にケルンを発ち、アテネに向かった。 
   (太田直道)
                            

今年の高校生公開授業の授業者は、堤未果さんです!

 昨年の高校生公開授業は、ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)の田中煕巳さんに授業をしてもらいました。ご自身の被爆体験を語りながら、核兵器廃絶と平和への熱い思いを高校生たちに語ってくださいました。

 さて、今年は誰にお願いしよう? この人選は、毎回悩みます。センターの事務局を中心に「この人はどうだろう」「あの人はどうだろう」と話し合います。こちらが、ぜひこの人に!と思っても、相手が引き受けてくれなければどうしようもありません。恋愛と同じです。こちらがどんなに恋焦がれも、相手がどう思ってくれるかはわかりません。講師依頼には、そんな両者の関係があるからでしょうか? いつの頃からかセンターでは講師依頼のお願いは、《ラブレターを書くつもりで》と言われるようになっています。
 そして、今回のラブレターを快く受け取って下さったのが、国際ジャーナリストの堤未果さんです! ちなみに堤未果さんを熱烈に推薦したのは所長の達郎さんです。依頼してから返事が来るまで、本当にまだかまだかと首を長~くして待っていました。

   

 さて、タイトルや内容などは、これから堤未果さんにも相談しながら決めていくことになりますが、気の早い達郎さんは、タイトルは「社会の真実の見つけ方」がいいんじゃないかなぁと意気込んでいます。
 詳細や参加申し込みなど詳細については、もうしばらくお待ちいただくことになりますが、高校生公開授業の日時、場所は以下の通りとなります。

  日 時:12月19日(土)13:30~16:00
  場 所:フォレスト仙台2F  第7・10会議室

 そして、授業者を依頼したまさにこの9月、堤未果さんが、NHKの番組『100分de名著』のゲストスピーカーとして登場し、オルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』の解説をとてもわかりやすく、そして私たちの現代社会の在り方ともかかわらせながら話をしてくれていました。こんなことも重なり、私たちのまわりでは堤未果さんへの関心と授業への期待が高まっています。どんな授業になるのか、今からたいへん楽しみです。

 堤未果さんの登場する『100分de名著』は、今週月曜(9月28日)の回が最後となりましたが、NHK ONEでは、10月5日(月)まで最後の回を見ることができます。ぜひご覧になってみてください。

第22回 不登校の子ども支援団体有志茶話会のご案内

 当研究センターと同じフロアーにある「みやぎ教育相談センター」は、子どもたちや保護者のみなさんの教育・子育てについての悩みや、学校の教職員の悩みなど幅広い相談に応じてきています。

 そして、より充実した取り組みにしようと始まった一つが「不登校の子ども支援団体有志茶話会」(茶話会)です。フリースクール・NPO・子どもの居場所づくり関係者をはじめ保護者、教職員など様々な方たちが集まり、それぞれの活動の交流や課題など、子どもたち、若者たちの支援に何が必要なのか、求められているのかなど意見交換を行ってきています。

 ●日 時 10月10日(土)13:30~16:30
 ●場 所 フォレスト仙台2F  第5・6会議室
 【話題提供】
  子どもたちがよりよく育つために
     ~不登校についてともに考える~

  話題提供:藤島玄介さん(仙台市教育支援センター所長)

 《参加定員》60名
 《参加申し込み》はこちら ⇓ (10月4日まで締め切り延長)
               https://forms.gle/DbqtseF2dzvd9B4L6
 ※問い合わせ:みやぎ教育相談センター(✉sodan-center@forestsendai.jp  ☎022-272-4428)

 2021年に始まった茶話会(3ヶ月に1回)も、今回で22回目を迎えます。回を重ねるごとに参加者は増え、今では常時40名から50名の支援団体や個人の方々が参加されています。時には、60名を超える時もあります。
 今回は、仙台市教育支援センター所長の藤島玄介さんにおいでいただき、教育行政としての取り組みの現状やこれからについて話をしていただきます。
 行政と民間団体、保護者との問題意識の共有、連携はとても大切です。当日は、“子どもを真ん中”に、日ごろ感じていること、思っていることを率直に語り交流できればと思っています。ぜひご参加ください。

  

秋は、いろんな学習会や企画が目白押し!

 授業実践報告会のお知らせ!

 先週、黒川理科研究会の学習会を案内しましたが、これから秋は様々な学習会や企画、行事が行われます。diaryで紹介しようと思っていても、ちょっと気を許しているとあっという間に開催日が迫ってきてしまいます。

 ということで早速、今週の10月3日(土)13:30~、学校体育研究同志会主催の『授業実践報告会』が、宮城教育大学の541教室で行われます。

 《実践報告の内容》は、性教育実践(小5,6年)と、水泳の実践(小3年)の報告です。性教育も水泳指導もどちらも「いのち」に関わる大事な教育内容です。それぞれの報告と検討を通して、どのような取り組みが求められているのか、また課題は何なのかなど話し合います。ぜひご参加ください。

 《問い合わせ先》
   学校体育研究同志会宮城支部 tmyk029@gmail.com(井上)

  

季節のたより204 ウド

  大木と呼ばれた草本  芽吹きから季節をめぐる一年

 初秋の山道で、白い球状の花が線香花火のように広がる独特の花姿で迎えてくれるのが、ウドの花です。
 ウドは春の山菜として芽を食べるイメージが強いですが、夏には背丈が1〜2mほどに伸び、立派な花を咲かせる多年草です。


ウドの花

 ウドは北海道から九州まで幅広く分布するウコギ科の草本です。香りのよい新芽やつぼみは和え物、酢の物、天婦羅などに利用され、代表的な春の山菜として古くから親しまれてきました。
 山菜の季節がすぎると、もう目を向ける人はほとんどなくなり、「ウドの大木」などと揶揄されることもありますが、季節のめぐりのなかでこの植物がどんな一年をすごしているのかを見つめてみました。

 春、山の斜面の雪がとけ、土がゆるみ始めるころ、ウドの根株から、赤みを帯びた芽が、ゆっくりと土を押し上げて顔を出します。
 光に向かって伸びる芽はまだ短く、柔らかく、皮にはうっすらと毛が生え、独特の香りをまとっています。この若い芽や茎が、私たちが「山菜ウド」としていただいている部分です。

 
   芽吹き     伸びだす幼葉     山菜として採取される「山ウド」      

 人が摘み取らなかった芽は、そのまま伸び続けます。春の光を受けながら、ウドは葉を広げ、根に蓄えた養分を新しい茎や葉へと行き渡らせながら、今年の「からだ」をつくっていきます。

 
          伸びだす葉               初夏のウド

 初夏になると、ウドはぐんぐん背を伸ばし、1〜2m、場所によってはそれ以上の高さに達します。茎は太く直立し、中は空洞ですが、その周囲を支える組織はしなやかで、風に揺れながらも折れずに立っています。
 この頃のウドは、固くてもう食用にはならず、「ウドの大木」とからかわれる姿になっていますが、植物としてはここからが本番なのです。
 葉は大きな羽状複葉となって広がり、あたりを覆います。大きく茂った葉は光を受けてさかんに養分をつくり、根茎へと送り返します。
 その働きは今年の株を支えるだけでなく、来年の芽生えのための蓄えにもなるのです。

 
   大きな羽状複葉の葉        栽培畑の山ウド(2m近くのびている)

 夏の終わり、茎の上部につぼみが密に集まり、茎先では白〜淡緑色の小花が球状に咲きはじめます。
 花は数ミリと小さいものの、花びら5枚、がく片5枚、雄しべ5本というウコギ科の典型的な形態を示しています。

 
      花のつぼみ                開花した姿

 花の色は白〜淡緑色と控えめですが、球状の花序がいくつも連なり、線香花火のような繊細な姿で空へ広がります。蜜も用意して昆虫たちを引き寄せます。


いくつも連なり、線香花火のように広がる姿

 ウドは、1つの株に両性花と雄花の2種類をつけます。両性花は雄しべと雌しべを備えていますが、雄花では雌しべが退化し、雄しべだけが機能します。
 花序のいちばん目立つ上部に両性花が集まり、下部の枝分かれした位置には雄花が並ぶ配置になっています。
 雄花は自家受粉を避けるため、上部の両性花よりも少し遅れて開花します。


開花した両性花とつぼみの雄花

 両性花も自家受粉を避けるため、雄性先熟のしくみを持っています。
 両性花の咲きはじめは雄性期です。5枚の花びらがきれいに開き、雄しべが放射状にしっかりと突き出て花粉を放出します。このとき雌しべの花柱は短く閉じたまま、受粉できないしくみになっています。

 
     両性花(雄性期)の花       成熟した雄しべと未成熟の雌しべ

 両性花が雄性期で花粉を出す役割を終えると、花びらと雄しべはポロポロと落ち、花は雌性期へと移行します。中央の雌しべの花柱が5本のツノのように伸び、他の花から運ばれてきた花粉を受け取り、受粉できるようになります。

 
      両性花(雌性期)の花          受粉可能な雌しべの柱頭

 やってくる昆虫は、ハチやハエの仲間です。彼らが蜜を求めて両性花の上を歩き回るため、受粉の成功率が高まります。さらに、昆虫が花序の下方へと移動する際、そこに咲く雄花の花粉が体に付着します。その昆虫が次の株の両性花へと向かうことで、受粉が成立するのです。
 ウドの花は、上部の両性花で受粉を済ませ、下部の雄花で新たな花粉を昆虫に補給させて次の株へ運んでもらう、という見事なリレーの流れを巧みにつくっています。

 こうして受粉が成立すると、花の中心にある子房(緑の丸い部分)がふくらみ始め、球状の塊の一つひとつが、やがて小さな果実の集まりへと変わっていきます。


 両性花の雌性期    受粉を終えた花    黒紫色の丸い実    成熟した実の姿  

 秋には、黒紫色の丸い実がいくつもぶら下がり、光を受けてつややかに熟します。
この実は、黒紫色の小さな水分をたっぷり含んだ液果で、その中には次の世代へとつながる5つの種子が収まっています。
 鳥が実をついばんで遠くへ運んだり、地面に落ちた実が崩れて種がこぼれたりしながら、ウドは自分の居場所を少しずつ広げていきます。


晩秋 つややかに光るウドの実 小鳥たちを待っている

 同じころ、地上部の茎や葉は少しずつ役目を終えて黄変し、やがて枯れていきます。
 秋が深まり、霜が降りるころには、ウドの地上部はほとんど姿を消してしまいます。しかし、土の下では、太くて肉厚な根茎だけが静かに眠っています。この根茎は、この一年に光を浴びて蓄えた養分のかたまりであり、やがて来る春の芽吹きをじっと準備しているのです。

 
        秋 ウドの黄葉           晩秋 枯れて地上から姿を消す

 こうして、ウドは芽吹き、開花し、結実し、地上部は枯れ、根が越冬するという一年のサイクルを毎年くり返し、いのちをつないでいます。
 その営みをたどると、ウドが木ではなく草であることもよくわかります。
 「ウドの大木」と言われるその姿は、ウド自身にとっては、いのちの循環のまっただ中にある姿そのものなのです。


受粉を終えた両性花と 咲き出した雄花

 「ウドの大木」ということわざが文献に現れるのは江戸時代初期で、初出は仮名草子『浮世物語』(1665年頃)とされています(『日本国語大辞典』)。
 日本の在来草本には、オオウバユリ(季節のたより89)やウドのように人の背丈を超える大型草本がいくつかありますが、そのうち「ウドの大木」だけが揶揄的なことわざとして定着した背景には、江戸期の生活文化が深く関わっていたのでしょう。
 ウドは里山や人家近くに普通に生え、草本でありながら太い茎と大きな葉を広げ、若木のように見える植物です。しかし内部は空洞で折れやすく、材にもならず、成長すると食用にもならないため、見た目と実用性のギャップが大きく、「見かけ倒し」という感覚が庶民の間で共有されました。そこに、どこかユーモラスで親しみのある気分も重なり、「ウドの大木」という揶揄が生まれたのでしょう。
 一方、オオウバユリはより大型ですが、深い山地に生えるため生活圏で目にする機会が少なく、木のように見える場面もほとんどありません。さらに根はデンプン源として利用されるなど、役に立たないという印象が生まれなかったため、ウドのようなことわざが生まれなかったのだと思われます。

 ウドなど多くの山菜は、人が改良していない野生の植物です。野菜と異なるのは、天候不順や冷害など自然環境の変化に対して強い適応力をもっていることです。
 厳しい条件でも芽吹き、成長する力を備えているため、飢饉の時代には人々の命をつなぐ貴重な食料ともなりました。
 山菜は人の手を加えなくても毎年芽吹き、山のリズムに従って姿を現します。その季節を待ち受け、山菜を採り味わうという行為には、自然の恵みをそのまま受け取るという精神性が宿っています。人間が自然の循環の中で生かされていることを、体を通して感じ取ることのできる食文化なのです。(千)

◇昨年9月の「季節のたより」紹介の草花と樹木