mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

ドイツ留学日記1992年(17)

6月16日(火)晴れ
〈アイスクリーム〉
 暑くなるとアイスクリームのシーズンである。街の通りにはアイスクリーム路地売の店がいたるところに現れる。ピザパイを売る店も劣らずに多く、いい勝負である。各種のアイスクリームがボックスに入って並んでおり、好きなものを注文して丸スプーンでコーンカップに入れてもらう、あのアイスクリームである。日本では店の数も少なく、値段も安くないが、ヨーロッパではどこの国、どこの街角でも、10分も歩けばアイスクリーム屋に当たるほどである。コーンカップは形も大きさもさまざまであるが、アイスクリームの方は不思議に味に差がなく、さわやかさ申し分なしである。多くの店は1 Kugel(玉)1DM(80円)である。観光地ではさすがに高いが、ケルン大学では50pf.(ぺニッヒ、40円)である。たいていの人は違った種類のKugelを2~3個重ねたものを頬張っている。スーパーには必ずアイスクリームコーナーがある。大きな冷凍ケースに1kgや500g入りの箱づめのアイスクリームがいっぱいに並べられている。1kgのパックで6~8 DM。品質はコーンアイスやレストランのものに劣らない。日本のようにメーカーによって価格が違ったり、乳脂肪分〇〇%というような表示はない。乳脂肪が表示されるのは低脂肪の場合のみである。果肉やクルミ、チョコレートがいっぱいに入っていておいしく、夏の必需品である。

6月17日(水)晴れ
〈見ることと聞くこと 1〉
〈Sehen見ること〉と〈Hören聞くこと〉とは人間のもっとも重要な二つの感覚作用であるが、相互に対称的な特徴を有している。それらは人間の性格にも関わっており、「Sehen型」の人と「Hören型」の人との二つのタイプに分けることができるかもしれない。

 見ることは自己意識の営みであり、見ることを優先させる人間は自己意識によって支えられている人間である。見ることによって見るものと見られるものとが主観と客観の関係に置かれ、見ることによって私たちは 自分だけを視界(見られた対象)から分離させ、自立させ、切り離すからである。この分離と自立こそ自己意識の働きである。見る人間は絶えず何かを求めている。明瞭になること、はっきりすることを求めているのである。 自立する人間には物事がはっきりしていることが一番重要だからである。しかし世界は謎だらけであり、客観は常に主観よりも大きい。明瞭なもの、確固たるものはどこまでいっても与えられない。自力であるからいつも不満足であり、懐疑的であるから支えを持たない。求めても得られないから不安に襲われるのである。支えを持たない人間は絶えず見回しherumsehen、見つけ出そうとするbeobachten。納得ができ、己れを正当化してくれるものを求めるのである。しかし、本当に納得できるものに出会うことは困難であろう。仮に一時的に安心の地を得たとしても、次の瞬間には別の何かを求めないではいられなくなる。見る人間は好奇心に富むが、欲求不満であり、そのためにつねに苛立たないではおれない。

 近代社会に生きる人間の多数はこのようなSehen型の人間である。そしてこの型の優勢は個人の生活の場面にとどまらない。科学や技術は見ることから生まれ、社会のルールや法も見ることによって守られる。商業も見る関係によって成り立つ。売る側も買う側も相手をよく見なければならない。見ることは計ることであり、比較することであり、調べることである。見ることによって人間関係は合理的になるが、同時に各人は自己の利益を通そうとし、相手の力を計算し、相互に疑心暗鬼になる。私たちはものを見ているとき、自己防衛をしながら見ている。見ることによってさまざまなことが理解されていくが、本当のことは何もわからない。見る人間である私たちは安定した大地の上に立つことができない。大地が足元から崩れ去るのではないかという不安に襲われる。

 これにたいして、聞く事は受け入れることであって、相手に耳を傾けることである。本当は、耳を傾けるのではなく、心を傾けるのである。私たちは聞いているとき、自己を主張しようとは思わない。聞くという行為は人間を虚心坦懐にする。外から入ってくるものに心を開いて、何ものかによって心が満たされることを期待する行為である。音楽を聴くこと、人の言い分を聞くこと、自然の営みに耳を傾けること、これらは私たちに鎮まることを要求する。効くためには心を静かにたもたなければならない。

 ところが現代文明のなかでは静寂の地はなく、いたる所が喧騒にあふれている。私たちは幼い時から聞かないこと(人の言うことを聞かない、不都合なことに耳を閉ざす)に慣れすぎている。おしゃべりはするが相手の言うことをなかなか聞こうとしない。たいていは聞くふりをして逃げている。馬耳東風である。あるいは聞き方にも「現在的な聞き方」というものがあるのかもしれない。しかし、人は本当に聞くことを求めているのである。本音を聞きたいという言葉があるが、聞くということはもともと本音を聞くことであり、それこそ皆が渇望することである。

  本当に頷くことができる人は稀であり、心から頷くという行為は美しい。頷き方というものがあり、日本人とドイツ人とでは少し違う。日本人は念を押すようにうんうんún únと語尾を下げるが、ドイツ人は頷くときu- ūnと語尾を上げて伸ばす。そしてやさしそうに、歌うように頷くのが「礼儀」である。彼らはu- ūnを連発し、それによって会話を和らげようとする。よくわかったと言うときはa-hâと強く語尾を上げる。

 聞くことは分析することではない。むしろ相手の言うことを丸ごと捉えようとする営みである。そこには対象に没入しようとする姿勢がある。多くの人はそれほど明瞭に語ってくれないので、聞くためには静かに待たなければならない。ちょうど演奏会の始まる前のように。街の騒音は聞く対象ではない。むしろ聞くことを妨げるものである。しかし多くの人は沈黙を恐れる。自己意識が行き先を失い、目の前で渦巻くからである。しかし絶え間のない言葉は騒音に近く、言葉が途絶えたその次にはより静かな音が聞こえてくるはずである。沈黙は高度の聞き方であるということもまた多くの人は知らない。

6月18日(木)曇り一時雨
〈見ることと聞くこと 2〉
 私が「聞くこと」に興味を覚えるようになったのは音楽とキリスト教からである。音楽のほうは、数年前のある時からバロック音楽をよく聴くようになり、いわゆるクラシックの世界からほとんどはなれてしまった。自ら意図した「趣味の変更」ではない。沁み透り方が違うのである。19世紀音楽にたいしては感性のフィルターが目詰まりを起こして透りが悪くなってしまった。いまバロック音楽が流れるように沁み込んでくる。ある人はロックなら沁み透ると言うだろう。心の受蓉性がポイントであって、その性格の違いによって透過対象が違ってくるのである。

 教会はつねにHör zu !(耳を傾けよ!)ということを要求する。「聞く」ということはキリスト教の教えの中心であり土台である。キリスト教徒にとっては神は見るべきものではなく、聞くことによって捉えられるものである。聖書は神の言葉であり、信仰は神の言葉を聞くことによって成り立つ。信者はGehorsam(よく耳を傾ける、従順)でなければならない。私はあるクリスチャンの人からこのことを教えられたのであるが、従順な人とは、真実なものに心を開き自分自身の理解を背後に押しやることのできる人間である。従順とは無私性であり、愛と同一のものだという。ところが、ニーチェはまさしくこの言葉を攻撃して、「強者」であることを説いた。彼はしかし不可能事を主張したのである。人間は強者であることはできないし、強者であってはならない。人間は本来弱者であり、絶望的なまでに弱い存在である。

 信じることと聞くことの距離は近い。むしろ見ることと聞くことの方が距離が遠い。聞く、受け容れる、許す、溶け込む、打ち解ける、一体になる——これらの事柄を私たちは忘れかけている。私たちは信ずべきものを失っており、故郷を喪失している。私たちの心は警戒心に満ちて安住できるところがない。自己疎外の本来の意味はここにあるのだ。自己を主張するあまり、自己が根無し草になってしまうのである。私たちの精神は浮き草のように虚無の海を漂う。

 見ることは本来、人間のもっとも本質的な営みであった。そして見ることと聞くこととはもともと矛盾しあうものではない。私に言わせれば、近代人は「ものの見方」が悪いのである。きょろきょろ見回し、比較をし、機を窺うようなことは本来の見ることではない。パスカルキルケゴールが言うように、私たちは虚ろであろうとする欲望を持っているのであろう。虚ろであることは精神の麻痺の表れであるから快いのである。この麻痺から私たちは容易に逃れることができない。絶えず見ながら見もせず、聞きながら聞きもせず、忙しく振舞いながら心の惰眠を貪っているのが私たちの現実である。

 聞くことの原点が「耳を傾けるGehorsam」ことであるとすれば、見ることの原点は「みつめるAnstarren」ことであると思う。一つのものを見据え、凝視し、注視し、洞見することが本当の見ることである。見つめることは呼吸するようにものを見ることである。見つめるとき対象から何者かが流れ込んでくる。能動的な意識の攻撃が失せ、心は受動的になっている。主客が転倒し、主観は従の位置に置かれる。見つめることによって自己のうちの何者かが変わる。私たちは同じもの、すでにわかっているものを見つめはしない。見つめることには新しいものに出会ったときの驚きが伴っている。いままで触れたことがなく知らなかったもの、そして過去の自己を否定するようなものに出会うとき、私たちは見つめる。見つめるという行為は科学的なのではなく、むしろ宗教的である。恋人同士は見つめ合い、母は子を見つめ、看護者は病人を見つめる。そして人間は自分の未来を見つめ、死を見つめる。私たちの知性や経験にとって微かであり通りいっぺんでは見えないから見つめるのである。こうして見つめるという行為は耳を傾けるという行為と一致する。このときに見えてくるもの、聞こえてくるものが真実の存在なのである。

 見つめるように聞くこと、そして耳を傾けるように見つめること、 そして見、聞くことによって打たれること、確かにこれらのなかに人生の大きな意味が込められている。

6月19日(金)曇り
 昨日は祝日(Fronleichnam聖体の祝日)であった。午後からオーバーハウゼンOberhausenに住んでいるゾンダーマンさんFrau Sondermannの家を訪れた。彼女は来日の折に知り合い、ドイツ語会話の手ほどきをしてくれた人である。オーバーハウゼンはケルンの北方数十キロにある中堅都市である。静かな通り沿いのマンションの1階に彼女の家はあった。ちょうど彼女の友人の一家が来ており、いっしょにおしゃべりの時間を3時間も過ごした。DOMについて話が盛り上がり、帰りに彼女の蔵書であるDOM写真集2巻本を譲り受けた。私の宝物となるだろう。

 帰宅後、夜はAltenberger Domでのコンサートに出かけた。ケルン・フィルの若手室内楽団の演奏で、ヴィバルディの四季より夏、ピッコロ協奏曲、チェロ協奏曲、バッハのフルート協奏曲、など多彩なメニューだった。指揮はV. Hartung。前回とは違って超満員で、ホールの片隅に押しやられた。

6月20日(土)雨のち曇りのち晴れ
〈ヴォルムス、マンハイム
 マンハイムManheim方面への旅行にでかける。ケルンから200kmほど南、フランクフルトからさらに南方にある都市である。近郊のヴォルムスWormsとシュパイアーSpeyerも周る予定。いずれの町にもドイツでももっとも美しいクラスに属するカテドラルがある。例によって、途中のサービス・エリアでぐっすり寝てしまい、ヴォルムスに着いたのはなんと3時過ぎ。ヴォルムスは小さいが、整然とした、落ち着いた町である。ドイツの小都市を馬鹿にしてはならない。小さいながらも構えは立派で、商店はモダンであり、公園は広く、むしろ大都市より静かで快適な居住空間になっているところが多い。旅行で訪れる場合も、大都市よりものんびりできて旅情を味わえる。

 ヴォルムスのドームは9世紀にまで遡るという。今日の建物が建てられたのは、11〜13世紀である。ドイツにおけるロマネスク様式を代表するカテドラルの一つである。16〜17世紀には周囲に僧院等が並び、今日よりも壮麗であったという。歴史的な建造物はその悠久の時間を想うだけでも感銘を与えてくれるものであるが、その存在感と美的構成は後世のあらゆる建造物をも凌ぐほどである。堂々とした佇まいは周りの空間までも中世のカラーで染め上げて悠然としている。しかも今日にいたるまで信仰の場そのままの姿で生きている。たんなる観光の対象となったカテドラルは魂の抜けた殻のようであり、面白くない。

 5~60mの高さの丸い塔が五つも空に突き上げていて、そのスカイラインは華やかである。しかしこのドームの最大の魅力は左手ファサードにある大きな円形窓であろう。ひまわりの花のような、花火のような放射状の模様とそこに嵌まっているステンドグラスは最高の美的快を放っている。人間の瞳のようでもあり、心を象徴しているようでもある。内部の暗いホールから見るとグラスの部分が赤や青の細かいモザイク模様の光となって宙に輝いているかのようである。

 夜はマンハイムの街を散策した。マンハイムは近世になってから建設された都市で、大きな環状道路で囲まれた市街地は京都のように規則正しい格子状の道路によって区切られている。ドイツではまったく珍しい形であり、他に見られないと思う。Luisen Parkルイーゼン・パークの大噴水をしばらく眺めていた。これまで見たなかでも最大の噴水である。プログラミングされて吹き上げる水は次々と驚くほど多様な造形を作り、一巡するまで30分もかかった。

6月21日(日)晴れ
〈シュパイヤー〉
 なんと明るくて清々しい町だろう。白をトーンにした明るい家々、赤い屋根、広い石だたみが目の前に広がる。シュパイアーSpeyerも歴史が古く、ローマ時代からの町であり、今年は町の2000年記念にあたるという。町中に「Speyer 2000 Jahre」の飾りつけがされていた。 また以前には27もの城門を持ち、城壁で囲まれた中世都市でもあった。今はドイツでももっとも歴史的なアルトポルテル門を残すだけであるが、中世の街の雰囲気がそのまま残っている。美しいDOMからまっすぐ伸びる広い大通りはそのまま石だたみの広場となって、カフェやレストランのテーブルがいっぱい並べられている。 両側の家々は明るく、屋根は美しく、まるで街全体が音楽を奏でているかのようである。

 DOMは他のいかなるDOMとも趣を異にし、軽快で美しい。建物は柔らか味を帯び、飾らない優雅と気品に満ち、見るものの目を楽しませるものがある。ヴォルムスのDOMよりさらにいっそう古く、すでに800年に最初の建築が始まったという。今のDOMは1061年のものであり、規模もヴォルムスより大きく、奥行きは優に150mはある壮大な建物である。しかしそれほどの巨大さを感じさせないのは、建物全体の柔らかい調和のゆえであろう。四つの真四角の鉛筆のような塔がよい。同じ形のとんがり屋根がなんとも言えずかわいいのである。同じロマネスク様式でもヴォルムスのDOMは重厚感、オーソドックスさを持っているが、シュパイアーのDOMは自由にあふれ、質量の柔らかさと形相の明るさを備えていて、その大きさを感じさせない。どこまでも素朴で心にすがすがしさの風を送るDOMである。世界にも数少ない名建造物の一つだと思う(ユネスコの歴史的建造物に指定されている)。もっとも、ウプサラのDOMははるかに新しいが、美しさの点では並ぶものがなく、さすがにこのDOMも及ばないと言わざるを得ない。窓が小さく(初期ロマネスクの特徴)、ステンドグラスも飾り気のない無地であるが、これもまた調和がとれていてすっきりしている。

 午前中はDOMでゆっくりと過ごし、アルト・ポルタルの門に登ってシュパイアーの街を眺め、St.Josefkir.とGedächtniskir.に立ち寄る。どちらも今世紀初頭に建てられた建造物で歴史的価値はないが、DOMにもそんなに引けを取らないスケールであり、どうしてこのような小さな町に巨大なカテドラルが、しかも今世紀に建てられたのだろうと不思議になる。今世紀にもこのようなカテドラルを造る気力があることは驚嘆すべきである。

 3時から教会音楽祭があるというので聴くことにした。バッハのカンタータ10番だった。カテドラルの内部はむしろ演奏会用ホールにふさわしい建て方をしたのかと思われ、広々とし、響きもよかった。その後1時間余り喫茶店で休憩、久々にゆっくりとした一日を過ごした。

6月22日(月)晴れ
〈言語について1  言語の起源〉
 ルソーとヘルダーが言語の起源について論じている。彼らに共通する点は、人間の生活と歴史の中から言語の生誕と本質について考えようとしている点である。哲学者の言語問題への関心は何も今世紀に始まったことではない。哲学にとって、言語の問題は根本的な問いの一つである。人間の人間たるゆえんは人間が言語を話す動物であるという点にもっとも大きく負うているということからも、このことは理解できる。

 もし私たちからすべての言語が取りさらわれてしまえば、私たちはもはや人間ではなく、生きていくことさえできなくなるであろう。認識と意識のもっとも大きな部分は言語に負うており、言語がなければ要の外れた扇のように自我が解体してしまうからである。言語は私たちの精神のすべてではないにしても、もっとも核心的な部分であり、他のあらゆる働きの土台である。私たちは言語なしには考えることができない。直接的な感覚は言葉より先に伝わってくるであろうが、もし私たちが言語を持っていないのだとしたら、その感覚はどのようなものであろうか。「痛い!」という言葉を知っていなくても、「あっ!」とか「うっ!」という叫び声をあげるであろう。これらは言語ではないのか。「あ」も「う」もがまんをして、まったく黙っていたとしよう。それでも心の中では「音(ね)」を上げているのである。音もあげないでいるということは、生きている以上不可能である。感覚する、痛みを覚えること自体が反応による「何か」の発出であって、人間の身体のいずれかが「音」を上げているのである。この言葉以前の「音」のレベルでは、人間は動物と異ならない。鳥はなぜさえずり、危害にあった動物はなぜ泣き叫ぶのか。人間はなぜ声を出して泣き、あるいは笑うのか。驚くとなぜ思わず声が出るのか。声こそはそれが有声であろうと無声であろうと、言葉の「現場」である。あえて言えば声は声帯によって発せられるだけではない。感覚の痛みは痛覚の「声」であって、「痛い!」と思うことはその声を聞き取ったことである。何らかの対象に出会って、私たちの心身のいずれかが動揺し反応したとき、その動揺もしくは反応は一つの「表明」=声となって発信される。そして痛みの知覚はこの発信に対する受信に他ならない。このプロセスは身体内部においては神経系が司るが、言語のプロセスはこの神経系のプロセスの延長線上にあって、基本的に同じ性格のものであると思われる。

 ここに言語の起源と本質とがある。言語はコミュニケーションから始まるのではなく、その根源に「感覚語」(より一般的にいえば表明語)がある。感覚語は叫びであり、叫びは自己存在の動揺の表現である。コミュニケーション語はこの感覚語より後になって生まれるのである。ヘルダーはすでに18世紀にこのことを洞察していた。私たちは何かについて非常にものが言いたいとき、例えば苦痛を訴えるとき、言葉よりも先に体がしゃべり出す。口元が動き、手が何かを表そうとし、体がよじれ、そして最後に言葉が飛び出す。言葉には身体運動が伴っているというより、身体運動が結晶して言葉になると言ったほうが適切であろう。このことはすでにアウグスティヌスが指摘し、ヴィトゲンシュタインが『探求』の冒頭で引用していることである。私も言語の問題はこの原点から考えるべきであると思う。そのとき、言語論は人間存在論となり、人間理解にとっての要の問題となるであろう。

 しかし哲学的言語論は今日なお貧弱であり、哲学の中でも主要な位置を占めていない。ヴィトゲンシュタインがこの道を切り開き、分析哲学がいくつかの議論をしているが、解明のための鍵はなお未知のままである。現代の言語哲学はいささか枝葉末節に流れている観さえある。

 言語問題にはどのような可能性があるのだろうか。言語とはそもそも何なのだろうか。なぜ言語は「語」からなるのか。「文」は私たちの生き方とどのような関係があるのか。言語が違えば心も違うのだろうか。絵画や音楽は言語とどのような関係にあるのだろうか。ヴィトゲンシュタインは言語を生活の水準からとらえ直すことを要求した。このことはまったく必要であると思う。論理学や言語学は言語の「上部構造」を追求するであろうが、私たちは言語の土台、それどころか地下の礎石を知りたいのである。 それが、ルソーが言語の起源を問うた本当の動機だと思う。                            (太田直道)

それぞれの持ち場で、師走を走り抜けよう!

 今年も残すところ1か月となりました。

 研究センターの高校生公開授業と同じ日の開催となる同志会の12月例会、正直いえば同志会のみなさんにも、ぜひこの日は昨年ノーベル平和賞を受賞した日本被団協の田中熙巳さんの話を聞きに来てほしい。でも師走はどこもみな忙しいし、あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たずです。年の瀬をどう締めて終わるかは、また大切なこと。
 実を言うと、私たちと同じ宮城県教育会館に所属するみやぎ教育相談センターの方も、この日は「不登校の子ども支援団体の有志茶話会」を行うのです。

 ですから、この日は、それぞれの持ち場でがんばりましょう!ということで、一挙紹介します。

  

『改訂版 人間とその術』を出版、ぜひこの機会に!

amazonからも購入できます!

 

 当センターのゼミナールSirubeでは、日本教育公務員弘済会宮城支部(以下、弘済会)の学習会をもとにまとめられた太田先生の著書『人間とその術』をテキストに、2023年の4月から学習してきました。

 太田先生の問いの思索に導かれながら、その思索の旅につたない足取りでお供してきました。テキストも残りページは少なくなり、今は本書の山場を迎えています。やっと頂が見えはじめて、ここまで来たか!と感無量でもあります。
 そんな思いでいる私(たち)を尻目に、師匠である太田先生は本書を私たちと読みつつ、さらにその思索を深めていたのでした。

 震災から15年を迎えようとする今日、改めて改訂版として『人間とその術』を出版されます。前著となる弘済会の『人間とその術』は、関係者を中心に限られた方たちのなかでの著書でしたが、今回の改訂版は、アマゾンで購入できるようになりました。
 多くのみなさんに、ぜひ手に取ってお読みいただきたいと思います。

 以下、執筆の経緯と内容について太田先生が語られた「はじめに」の一部を紹介します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 本書は人間の術について考察したものである。

 なぜ術の問題に注目するのか。その始まりは、東日本大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所の崩壊であった。そのとき、私の心を震度6を越えた激震となって襲ったものは、近代文明を震源とする精神的地震であった。キルケゴールは自らの魂の出来事を大地震と呼んだが、いまわれわれは近代文明の制作世界を眼前に見すえるとき、精神の大地震に襲われるのを覚える。いったい人間は何というものをつくってしまったのだろう。人間は自分が作ったものに気がついているのか。そのような制作は人間に赦されるのか。

 私にとって原発事故が問いかけた問題は「術とは何か」という問いであった。術という言葉で私は何を言い表そうとしているのか。術は行為、制作、仕業、生業という人間の営みにおける技を表すが、その意味はかぎりなく広がり高まることを私たちは知っている。文化や文明は人間の術の総体である。学問や技術や芸術は術の精華である。すべての人間の文明、文化、芸術、学問、産業は術によって成ったのである。

 術とは有形無形の制作の技のことである。私たちは、全体的で根源的な自然世界のまえに立つ人間の行為のあり方全般を術と呼ぼう。そして、術を訪ねることによって人間がどこから始まり、どのような道をたどり、どこにやってきたかを判定してみよう。術は人間の足跡を教える。足跡を見ればそこを誰が通ったかがわかる。術は現実世界のなかでの人間の生きざま、人間と世界との交渉関係を目に見えるものにする。
 人類の進んで来た道はこれ以外ではありえなかったのであろうが、身体の巨大化の道を進んだために滅んでしまった恐竜の跡をたどってはいないだろうか。人間の知性もまた「巨大化」の道を歩んでいるが、知性は人類の生存を揺るぎないものにするだけの卓越した力をもっているのだろうか。

 術の問題を考えることによって、人間の生きてきた道をふり返りたい。術の歴史と術の現在をたどれば、現代世界がどのような世界かを見届けることができるからである。それではなぜ現代を問うのか。現代が真に危機の時代であり、人類史の転換点に立つ時代だからである。人類の未来が真の意味ではじめて問われる時代だからである。そして人類の未来が途絶えることのないように、いまこそわれわれの足もとを見つめなければならないからである。いま何が起こっているか。そのことは人間をどこに連れて行くのか。あるいは人間を滅亡へと追いやるのか。人間は何を作ってはならないのか。そして、何が人間にとって真に為すべきことなのか。——これらが今日における術をめぐる問いである。

季節のたより184 スズメウリ

  野のムーンストーン  葉先でつくる地中のむかご

 秋の陽が藪を照らすと、白いものがふっと浮かび上がりました。  
 近づいてみると、糸のような細いつるに、小さな白い実がいくつもぶら下がっているのが目に入りました。  
 野原のムーンストーン、あるいは野の真珠とも呼ばれるスズメウリの実です。  
 その名前は、実がカラスウリより小さいこと、あるいは熟した実がスズメの卵に似ていることに由来します。  
 藪のなかではごく普通に見られるつる植物ですが、なぜか小さな図鑑には載っていないことが多いようです。


スズメウリの実

 スズメウリはウリ科スズメウリ属に分類される一年草で、日本に古くから自生している在来種です。本州・四国・九州に分布し、湿気のある場所を好み、野原や土手、林の縁などでよく見られます。

 私がスズメウリを初めて見つけたのは、花ではなく白い実でした。その実には種子が入っていたので庭にまき、花を咲かせてみようとしましたが、うまく発芽させることができませんでした。
 そこで、実を見つけた場所を覚えておき、翌年に花を探すことにし、藪の中で花を見つけたのは9月の初めでした。花はとても小さく、大きな葉とつるのほうが目立ちました。


スズメウリの葉と花

 葉はうすく三角形に近い形で、縁にはギザギザがあります。つるはとても細く、一見して弱々しそうですが、触ってみると丈夫なつるです。

 スズメウリは春から初夏にかけて芽吹きます。  
 地中から芽を出すと、細い茎はつる状に伸び、まるで何かを探すように周囲へ広がっていきます。つる植物にとっての第一の生存条件は、周囲の植物より先に光を浴びることです。いち早く日当たりのよい場所を確保しようとしているのでしょう。
 茎が伸びるにつれて節が形成され、その節から葉と巻きひげが現れます。
 葉は節ごとに互生し、広がって光合成を行い、巻きひげは周囲の草花に絡みつき、葉がより良い位置で光を浴びられるように茎を支えています。
 茎、葉、巻きひげの三者はそれぞれ役割を果たしながら、スズメウリの成長を支えています。その連携は実に巧みです。

 
      スズメウリの葉の形         スズメウリの茎(つる)

 開花期は8~9月です。葉の付け根から伸びる花柄の先に、直径約6mmの白い花を一輪咲かせます。花には雄花と雌花の区別があり、1株の中に両方が混じって咲きます。これを「雌雄同株」と呼びます。
 花びらは通常5枚で、小さく白く、先端が浅く裂けて広がっています。緑色の5枚のガクが、花びらの基部を支えています。
 雄花の雄しべは3本です。ただ、ウリ科全般には雄しべが合着して数が減ったように見えるものがあり、スズメウリもその一つです。起源的には6本あったものが、合着によって3本に見えるのだそうです

 
     スズメウリの雄花(上向きに咲く)        雄花の雄しべ  

 雌花の雌しべは1本です。雌しべの花柱は短く、柱頭が3裂しています。子房は下位にあり、ほぼ球形で、これが後に小さなスズメウリの実になります。

 
     スズメウリの雌花(下向きに咲く)        雌花の雌しべ

 花の花粉を運ぶのは、ハナバチ類、ハナアブ類などの一般的な訪花昆虫です。
 花の付き方を見てみると、雄花は上向きに、雌花は下向きに咲いています。これには理由があるのでしょうか。
 雄花が上向きに咲いていると、昆虫たちを呼び寄せるのに効果的です。昆虫たちが集まれば、近くに咲く雌花にも気づいてもらえます。
 一方、雌花が下向きに咲くのは、子房が実になる期間、その実が茎や葉にぶつかることなく、安定して成熟するようにしているのでしょう。
 雄花と雌花は、確実に受粉し実を実らせるために、互いにその役割を分担しているようです。

 秋になると、花のあとに直径1〜2cmほどの球形の実ができます。果皮の柔らかい水分を多く含む液果(えきか)です。
 最初は鮮やかな緑色をしていますが、熟すにつれて白い実に変化していきます。
 白い実は自然界では珍しい色です。

 
     スズメウリの青い実             熟した白い実

 すっかり熟した実は透き通るようになり、中の種子が見えることもあります。
 実際に食べてみた人の記録では、「ほんのり甘い」味だそうですが、食用としての安全性は確かではありません。
 白く熟した果実は目立ち、他の植物が枯れる時期まで残っています。
 水分も多いのでヒヨドリムクドリ、ネズミ類などが口にする可能性があります。
 最近の研究で鳥の糞の中からスズメウリの種子が確認されています(高槻、2023)が、この実を食べて、種子を運ぶ特定の摂食者は見つかっていません。

   
    透き通ってきた実        実の中の種子      乾燥して冬まで残る実     

 私は、スズメウリは自然界では種子散布で増えていくと思っていたのですが、そうではありませんでした。
 さんだネイチャークラブの菊田穰さんの観察記録によると、「十数年前に鉢植えにしたスズメウリが、秋に蔓の先が植木鉢の下に潜り肥大し地下茎のようになり(珠芽)、翌年その珠芽から芽が伸び成長し、秋には沢山の実をつけた。」とありました(兵庫県人と自然の博物館・「共生のひろば」9号)。
 スズメウリは秋深くつるの先が地中に潜り、地中に珠芽を形成、翌年の春に芽を出して、新しい株となるというのです。
 地下にできる珠芽、いわゆる(むかご)があったのです。これには驚きました。見てみたいと、現在、藪の中を探索しています。

 多くの植物に見られる珠芽は、一般に葉腋や地下茎に形成されます。
 ウリ科植物の多くは種子によって繁殖しますから、スズメウリのように珠芽をつくり、しかもそれを地中で形成する例はきわめて珍しいことです。
 スズメウリの果実や種子は、冬のあいだに鳥や小動物に食べられてしまい、翌春まで残りにくいと報告されています。地中の珠芽による栄養繁殖は、種子散布に依存せずとも確実に子孫を存続させるための、スズメウリ独自の進化の姿と考えられます。

 
  実は冬の間に食べられてしまう。      地中にできる塊根(むかご)の姿

 スズメウリは古くからの自生種ですが、いつからその名があったのかはよくわかりません。江戸時代には民間や本草学で「雀瓜」の呼称で用いられていたようです。
 このスズメウリに学名をつけ、西洋に紹介したのが、カール・ペーテル・ツンベルク(Carl Peter Thunberg, 1743–1828)でした。

藪の中のスズメウリの実

 ツンベルクはスウェーデンに生まれ、二名法(属名+種名)という学名の表記体系を確立したリンネに師事し、医学と博物学を学びます。
 1775年にオランダ東インド会社の「商館医」として出島に赴任。1776年に商館長の江戸参府に随行し、旅の途中で、箱根や駿河などの植物を精力的に採集しています。このときスズメウリにも出合ったのでしょう。

 ツンベルクは日本滞在中に採集した標本をもとに、1784年に『Flora Japonica』を刊行しました。本書はリンネの分類体系に従い、日本産植物812種を記載し、そのうち418種を新種として発表、その学名には「japonica」「japonicus」など、日本由来を示す語が与えられています。
 これによって、日本在来の植物は初めて体系的にヨーロッパへ紹介され、近代植物学史において重要な役割を果たしていくことになります。
 スズメウリはその中の一種で、「 Bryonia japonica 」と記載されています。その後の分類学的改訂により異名が用いられた時期があり、現在は Zehneria japonica または Neoachmandra japonica が使われています。属名はいずれもスズメウリ属を意味しています。

 江戸時代の頃に「雀瓜」と呼ばれていた小さな野草は、ツンベルクによって初めて学術的なラテン名で命名され、日本の固有種として世界の植物分類体系の中に位置づけられて、以後の研究に役立てられていきました。

 鎖国下の日本で長崎出島での活動を許されていたのはオランダ人と中国人のみでした。スェーデン人であったツンベルクは、「オランダ人医師」としての肩書で入国し、厳しく行動が制限された中での植物採集でした。
 日本の滞在は、約1年半。短期間で驚異的な数の植物を採取したその陰には日本の蘭学者たちとの交流や協力もありました。
 人類の知恵は、時代や地域を越えて交流し、互いに影響を与え合うことで発展していきます。学問や科学の研究は一国の内部だけで完結するものではないことを、この小さな野草のスズメウリも語っているように思うのです。(千)

◇昨年11月の「季節のたより」紹介の草花

創造的実践は、はじめはみんなローカル!

  中森孜郎のもとで取り組んだ
    授業の創造とその現代的意義

 1971年8月に、宮城県の片隅に「宮城保健体育研究会」(以下、宮城保体研)という小さな研究サークルが誕生しました。それは、1967年に宮城教育大学に赴任した中森孜郎の呼びかけと主宰によるものでした。

 それから50有余年、この度、中森孜郎が数え年で100歳を迎えるのを機に、宮城保体研に集う教師たちが取り組んできた教育実践の今日的意義を世に残そうと、創文企画社のご協力を得て、本書『「からだの教育」としての体育・保健の実践的探求ー中森孜郎の教育観に導かれた授業の創造とその現実的意義』を出版することになりました。

 私たちの創り出してきた体育や保健の教育実践は、今日の日本の教育の世界においてはメジャーなものではないかもしれません。しかし、その仕事の重要性は、忘れ去られてよいどころか今日の子どもの生命と「からだ」をめぐる「人間的危機」ともいえる状況の中で、ますますその輝きを増してきている、と私たちは考えています。

 本書が、子どもたちの「からだ」と健康に関わる文化と教育に関心のあるすべての人々にぜひ読んでほしいと思っております。ぜひご購入下さい。

   

【目次・内容】

第Ⅰ部 中森孜郎の自己形成の歴史と「からだの教育」論

第Ⅱ部 「からだ育て」としての体育実践の今日的意義
第1章 障がい児・難病児の教育から「体育」の原点を考える
第2章 器械運動の「問と答の間」と「仲間」の中で成長する子どもと教師
第3章 陸上競技の学習に「からだ」の視点をあてた実践の今日的意義
第4章 からだと動きを耕し育てる「体操」と「マット運動」の実践
第5章 学校教育への民舞の導入と実践の展開

第Ⅲ部 体育と保健のねらいをクロスした授業実践づくり

第Ⅳ部 「からだの学習」としての保健教育実践の創造とその今日的意義
第1章 戦後の保健教育における「からだの学習」実践の創出
第2章 私たちが創出した「からだの学習」教材の分類と実践の特徴
第3章 宮城で創出した「からだの学習」の典型性とその現代的意義
第4章 「からだの学習」としての保健授業の「深い学び」の検討

第Ⅴ部 中森孜郎の3つの学校づくりに関わる諸実践とその成果

【資料1】中森孜郎の保健体育教育関係著作リスト
【資料2】宮城保健体育研究会の例会の歩み

 

ドイツ留学日記1992年(16)

6月10日(水)快晴
〈スカンディナビア旅行 ⑤ スカンディナビア半島横断〉
 今日も澄みきった真っ青な空が広がっている。ウプサラから海沿いにSundsvollまで北上する。約300kmの行程である。交通量は多く、トラックが次々と追い越していく。海岸沿いには小さな町が点々と並んでいる。真夏のように暑い。もう北欧の短い夏のまっただ中なのであろう。Sundsvollから左に折れて、スカンディナビア半島を横断する道路に入る。湖沼と森林がどこまでも続く500km近くの行程である。しばらくは残っていた街の気配も次第に消えて、道は樹林帯の中に入っていく。残念ながらここでも伐採が進んでおり、広大な面積が無残にも切り拓かれている。スウェーデンでも伐採による原生林破壊が相当進んでいるのである。ニルス君が言っていたように、スウェーデンの最大の産業は林業なのだ。

 右に左に次々と湖が現われ、真っ青な水面が目の前にぱっと広がる。氷河によって削られてできた湖で、フィンランドスウェーデンにはこのような大小の湖沼が数限りなくある。スウェーデンで 約10万近く、フィンランドで約5万の湖があるそうだ。湖水面積はフィンランドの方が広く、国土の半分は湖ではないかと思われるほどである。湖水の周りには針葉樹の原生林、どの湖も手付かずの自然のままで、絵のようであり、水は澄みきっている。ここでは湖の間を縫ってのドライブが思う存分堪能できるのである。

 Ostersundまでやってきたときにはもう夕刻であった。600kmほども走ったことになる。街を散策して、湖畔の草地に車を寄せる。雛が4匹の鴨の一家が草の上で休んでいたが、車に驚いて湖を泳いで逃げていった。寝場所を奪ったおわびにパンくずを草の間に投げておいた。都会ではユースホステル、自然の中では車中泊の旅行である。前席が倒れてフラットになるのである。湖畔の野宿は最高の気分だ。12時を過ぎてもまだ空は明るく、深夜でも暗闇にならない。夏至がもう間近なのだ。あと500kmも北上すれば白夜の世界であるが、今回はあいにくと日数が足りず断念。

6月11日(木)快晴
スカンジナビア旅行 ⑥ ノルウェーへ〉
 Ostersundからノルウェー国境までは180kmの行程である。周りの風景が一段と高原の様相となり、針葉樹林と小さな湖沼、水量がたっぷりの急流、そして遠くには残雪に輝く山々。山容はゆるやかであり、広大な裾野がそのまま大平原となって、地平線に消えていく。しかしなお国道の両側には伐採箇所が多く、山肌にも無残に刈り払われた跡があちこちに見られ、心を突きさす。標高を次第に上げて国境に到着。両国のそれぞれの側にレストランが一軒づつぽつりと建っていた。

 ノルウェーに入ると風景は一変する。なだらかな高原状の大地はもはや見られなくなり、国道は急峻な谷あいを急なカーブを描きながらどんどん下っていく。山が険しくなると、むしろ日本の山岳地帯にそっくりの風景になる。道路は狭く、谷にへばりつくように民家が散在している。100km余りで道はフィヨルドの海岸に沿って走るようになり、ほどなくトロンハイムTrondheimの街についた。ノルウェーで3番目に大きな都市である。とはいっても、人口は13万人余にすぎない。それほど広くない都心は、短かい夏を楽しむ人たちでいっぱいである。この街にもまた美しいDOMがある。巨大な石像の建物で、二つの重厚な尖塔をもつ。北欧の建物はほとんどがレンガ造りであり、ウプサラのDOMも明るいレンガ造りであったが、ここのDOMは石造である。正面のファサードは3層にわたって聖像彫刻が列をなし、午後の日差しを浴びて燦然と輝いている。いかにも極北の面影のある(?)大聖堂の下で、しばしカトリック世界の深みに浸る。

 街を散策した後、フィヨルド寄りの地方道を楽しもうと、海辺の道に出た。ところが、30分ほども走ると車が不調を訴え始めた。ノッキングとエンストを繰り返し、トップギアが入らなくなった。立往生する前に修理をしなければならない。急遽、コースを国道に替えて、セカンドギアにシフトダウンし、エンストを起こさないように20〜30km/hの超低速で走り、ようやく20km余り先のところで修理工場のあるガソリンスタンドにたどり着いた。その間2時間余りのひやひや運転だった。応急の点検をしてもらったが、エアフィルターの下の部分Carborater(キャブレター)の本格修理が必要らしく、明日修理をしてくれることになった。老朽車を長旅させたので疲れが出たのであろう。ウプサラを越えたあたりから不調を感じていたが、山間部をさんざん走らせたものだから、音を上げたのであろうか。
 近くの宿を紹介してもらって、思わぬ宿泊となった。

6月12日(金)快晴
スカンジナビア旅行 ⑦ノルウェーの自然景観 〉
 午前中は車の修理。キャブレター(ガソリンに圧縮空気を送り込み気化させる装置)の目詰まりらしく、丹念にオーバーホールしてもらった。元気になった車を走らせて、ここからソグネフィヨルドへと向かう。

 ノルウェーの中央高地というべきオプダルOppdal地方は夢のように美しい高原の世界である。豊富な残雪が残る山々は標高が1600mから1800mであり、最高峰のSuφheltは2286mの高峰である。 先の尖った鋭いピークと純白の稜線、そして刷毛で描いたような美しい裾野が目の前に広がる。U字渓谷特有の地形であり、その美しさに身も心も奪われる。ノルウェーは山国であり、1000mから2400mの山々が細長い国の脊梁を形成している。ソグネフィヨルドのあたりが一番標高が高く、北に行くほど標高が下がっていく。

 OppdalからDombasへと抜ける国道E6は、U字渓谷の底をゆるやかなカーブを描きながら走り、道の両側には湿原状の原野、池塘、湖、堆石、清流が次々と展開して、すばらしい高原景観がどこまでも続く夢のような道路である。カーブを曲がるたびに新しい景色が目に飛び込んでくる。車を何度も止め、岩に腰をかけ、流れに手を浸してみたりする。1本の道路と、時々現れるヒュッテ風のホテル以外には人工的なものは何もない。車で走り抜けてしまうのが惜しく、このようなところで何日も過ごせたらと思う。

 雲ノ平や朝日連峰大雪山系の自然景観は言葉に表しようのない美しさであるが、Oppdalの景観はやや荒削りであるが、はるかに雄大である。花はほとんど見られず、季節がまだ早いのかもしれない。山々はどこまでも端正であり、空気は張りつめ、水は豊かに流れ、澄みきっている。このような景観がどこまでも続く。ようやく道が谷あいを降り始め、下りきったところにある小さな町Dombasに着く。この町はフィヨルドやOppdalへの中継点らしく、観光客でいっぱいである。ここから数十キロほど川に沿ってOttaの町までいったん下り、そこから右折して川沿いの急な登り道を、Krossbu峠へと向かう。

 ノルウェーの川は、どこでも溢れるほどの豊かな水量の流れが勢いよく谿を駆け下る。雪解けの季節なのであろう。われわれは普段水量の貧弱な川しか見なれていないから、道路の近くまで清流が激しく流れているのを見ると迫力を感じ、これが川というものかと思ったりする。日本は川の国であるのに、その多くが伐採で水源を奪われ、ダムで水をとられて、かろうじて細々と流れを保っている。木曽川も大井川も黒部川も滔々とした流れの時代はとうに過ぎ去っている。道路が俄然急になり、どんどん標高を上げていく。ソグネフィヨルドの源頭部、2000mから2400mの高峰が並ぶ地域に向かうのである。狭く急な峠道を登りつめていくにしたがって、道路のそばまで残雪が現れるようになり、峠付近では雪の壁になってしまった。Krossbu峠は標高1400m、周囲は一面の銀世界であり、冬のままの景色である。山々は鋭い岩峰と岩壁で、カールや氷河を抱くその山容はスイス・アルプスに劣らない雄大さであり、人を寄せつけない厳しい姿で林立している。

 ノルウェーの山々は標高が2000メートル台のためであろうか、あまり知られていない。最高峰は標高2469mのGaldhφppingenであり、ソグネフィヨルド源頭部には2000mを越える山が10座以上ある。それぞれが個性的な形をした岩峰であり、岩の黒と雪の白とが強いコントラストをなしている。これらの山々から氷河が一気に海に流れ落ち、深いフィヨルドをつくるのである。フィヨルドは氷河をもつ高い山々があって初めてできる。山が高ければ高いほどフィヨルドは深くなる。フィヨルドの両岸はU字状の断崖であり、海面から真っ直ぐにせり上がった断崖は千数百メートルに及ぶことがあるのである。圧倒的な山岳景観であり、そして谷の底は陸地奥深くまで切り分けて侵入する入江の海である。海から見れば、頭上の岩峰から何本もの滝が落ちてくるのが望め、山の上から見れば、足元の眼下は黒い水を湛えるフィヨルドの海面である。

 フィヨルドは同時に険しい山岳地帯であるから、陸上交通は不便を極める。人々はフィヨルドの谷底にひっそりと暮らしている。ソグネフィヨルドは外海から200kmも山岳地帯を内陸に向かって延びている。その狭い海沿いに小さな集落が点々と散在するのである。昔は海が唯一の交通手段だったであろうが、崖の下の猫の額ほどの土地に外から隔絶されて何百千年も生きてきたのである。生きることの意味を考えさせられるほどの地形である。

 峠からは、1400mの標高差を海まで一気に下る。ヘアピンカーブを繰り返しているとほどなく海面に降り立つ。ソグネフィヨルドの一番奥の入江である。山から海へあまりにあっけなく降りてしまったので、はじめは途中に湖でもあったのかと錯覚したほどである。フィヨルドだから海とはいっても周りは全部山であり、湖のように見えるのである。海であることを確かめるために海水をなめてみたら薄塩の味であった。流入する川の水のためにほとんど真水に近いのである。

 フィヨルドに沿って100kmほど外海のほうに向かう。小さなフィヨルドがいくつも枝状に入り込んでおり、そのたびに道は大きく迂回しなければならない。Hellaからフェリーに乗って対岸のDragsvikに渡る。フィヨルドの中は何種類ものフェリーが常時運行しているのである。Melまで枝フィヨルドを奥に進み、そこから再び標高750mの展望台まで登った。

6月13日(土)快晴
スカンジナビア旅行 ⑧オスロへ 〉
 展望台から北上し、湖(フィヨルドになりきれなかったU字渓谷の一部で、必ず細長い)に立ち寄る。峠に着くと周りは再び銀世界、湖はまだ水面が雪で覆われている。湖畔の村でUターン、のびやかな下り道の途中で何回か羊の群れに出会う。道路をゆうゆうと歩いている。夏の間放牧されるのだろうが、峠の付近まで上がってきており、野生の羊に出会ったような感じだ。はじめは羊も警戒していたが、ビスケットをあげていると、子羊連れが10頭以上も集まってきて、全部食べられてしまった。この羊がノルウェー製のソックスやセーターになる。私は山のソックスはノルウェー製を愛用している。雪の中を平気で歩き回っているのだから暖かいわけだ。

 再びフィヨルドをフェリーで渡ってVangsnesへ。ここからまた標高1000mの峠まで猛烈な登りを繰り返す。登りきればまたまた銀世界、再び急な下りで隣のフィヨルドへ。ソグネフィヨルドの長い枝フィヨルドである。

 Fråmの入江を最後にオスロ方面の道に入る。途中の民家が印象的である。ノルウェーは平地がほとんどないから、山の斜面を切り拓いて村が作られている。スウェーデンの民家はログハウスを赤っぽいチョコレート色に塗り、四すみの窓を白く塗った家が一般的だが、ノルウェーの民家は厚い板張りを黒の防腐剤カラーで塗り、家の形も思い思いにさまざまなのが特徴的だ。ときどき「草屋根」の家を見かける。勾配をなだらかにし、そこに土を盛り、本当に芝のような草を植えるのである。草の音が張っているので土は流れない。「庭のような屋根」だから雰囲気はよいが、どのようなメリットがあるのだろうか。冬暖かいのかもしれない。

 夕方の雑踏のなか、オスロに着いた。

6月14日(日)晴れのち曇り
スカンジナビア旅行 ⑨オスロから帰路を急ぐ 〉
 今日はもう日曜日、明日の午前中にケルンに帰らなければならない。旅の日程は1日予定より遅れている。オスロからケルンまでは1300km、仙台からはほぼ下関辺りまでの距離である。

 オスロOsloでもゆっくりしたかったが、急がなければならない。オスロの中心街は意外に小さい。駅と王宮とを結ぶカール・ヨハン通りがオスロの目抜き通りである。駅はモダンな最新の建物で、ゆったりしている。駅の目の前にオスロのDOMがあるが、それほど大きくもなく、個性的でもなく、普通のカテドラルである。通りに面して国会議事堂、オスロ大学講堂(アウラ)、国立劇場などがある。王宮の正面まで行って、Uターンして駅に戻る。ムンク美術館などは省略。

 オスロから約1時間で国境を越え、再びスウェーデンに入る。さらに2時間南下してヨーテボリGötebergに着いた。ヨーテボリスウェーデンでは2番目に大きな都市である。駅前に車を置き、昼食を兼ねて市内を散策する。港町であり、旧市街は駅から港にかけて広がっている。大きなショッピングセンター、市庁舎、グスタフ・アドルフ広場を通って、港を観に行った。港にはひときわ大きな帆船が係留されており、小さな漁船がひしめくように並んでいて活気に溢れている。埠頭には17、8世紀のものと思われるレンガ造りの大きな倉庫が2棟並んでいた。ヨーテボリからさらに2時間南下してヘルシンボリに戻ってきた。ヘルシンボリも古い街だが、そのままフェリーに乗り込んで、デンマークに急ぐ。どうしても観ておきたい所が2箇所あるのだ。

 デンマーク側のヘルシンゲアにはクロンボー城Kronborgがある。『ハムレット』の舞台になった城である。15世紀の古城で、ロの字型の古風な造りである。『ハムレット』の冒頭に出てくる、王の幻が出たという夜衛の塔は右手奥に見える塔のことだろうか。シェイクスピアは実際にこの城を訪れたのであろうか。『ハムレット』に描かれる城と実際のクロンボー城とは一脈通じるところがあるようなないような難しいところだ。4時半過ぎに城に入ったのに、建物の内部見学を認めてくれない(入館は5時まで)。30分足らずでは内部を観て周れないと言うのである。せっかく来たのだからと2回頼んだが、頑としてはねつけられた。私の後からも観光客が次々と入ってくるというのに。駄目なら入館は4時半までと書いておくべきである。少し頭にカチンときて、ハムレットのように城内ならぬ中庭をぐるぐると歩きまわった。

 ヘルシンゲアから田舎道を北に向かって、ギーレライエGillelejeを訪れる。ギーレライエはシェラン島の北の端にある岬である。断崖(といっても実際には30m程度のゆるやかな崖)になっており、北海を隔ててスウェーデンが見渡せる。ギーレライエはまだコペンハーゲン大学の学生であったキルケゴールが夏の一日ここを訪れ、手記をしたためた所である。この手記は今日「実存宣言」とも呼ばれ、実存主義の発端となったものである。「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、それのために死にたいと思うイデーを発見することが必要なのだ」。

 若いキルケゴールが「実存Existenz」に行き着いたその場所を訪れることは長い間の私の夢であった。夢は大抵裏切られるものだが、「断崖」は思っていたよりかなり低く(デンマークに高い断崖のあるはずがない)、「人家の途絶えた 荒涼たるヒースの原野」は岬のすぐ近くまで瀟洒な家の立ち並ぶ遊歩道であった。ギーレライエは静かで落ち着いた街である。家々は海岸沿いにまで並び、どの家も広い庭をもつ立派な建物である。キルケゴールの記念碑を案内する表示は何一つなく、通りにも人影はない。海岸に沿って行けばそのうち行き着くだろうと思い歩き出す。住宅の庭の茂みとハマナスの茂みとの間の散歩道は趣があって美しい。海を見ながら、このようなところに住めればすばらしいことだろうと少し羨望心を持ちながら歩くが、なかなか見つからない。はまなすをそのまま自分の庭に取り込んで花を楽しんでいる家、藁葺き屋根の立派な家、素朴な丸太のフェンスを過ぎ、庭木の手入れをしている人を見つけ、場所を訊いた。記念碑は松林の中にひっそりと立っていた。海が開けて見え、なかなかよいところだ。キルケゴールのように何かひらめいて来ないかと思って、半時間余り崖っぷちに腰を下ろしぼんやりと海を眺める。何の「イデー」も湧かないまま、断崖を離れ、車まで戻った。

 ギーレライエからは寄り道もせず、ケルンに向かってひたすら走る。約800kmの行程である。ハンブルクに着いた時は夜中の1時過ぎ、いつの間にか都心に向かうアウトバーンを走っていて、あわてて引き返す。近くのサービスエリアで停泊。

6月15日(月)曇り
〈授業に出席 〉
 ハンブルクからケルンまでは400km。少し寝過ごしてしまったので、急いで朝食をつめ込み、ケルンまでノンストップで飛ばす。そのまま大学へと向かい、駐車場に車をつけたのが12時45分、授業の始まる定刻である。我ながら無茶なことをしたものだ。別にさぼっても支障はないのだが、このようなときに限って真面目に出たくなる性分である。今回の旅行の走行距離は5001km、ずいぶんと車を酷使したものだ。ウプサラの大聖堂とノルウェー大自然とがよかった。テキストもノートも持たずに授業に出る。疲労感に襲われて夢うつつの授業であった。
(太田直道)

学校教職員や市民の皆さんも、ぜひ参観ください!

 核兵器のあるこの世界で、
 高校生たちと
平和について考えよう

  

 当センターでのこの企画は、これまでに小森陽一(東大名誉教授・国文学者)・林光(作曲家)・アーサー・ビナード(詩人)・仲本正夫(数学教師)・三上満(宮沢賢治研究家)・金平茂紀(ジャーナリスト)、樋口陽一憲法学者)、中村桂子生命誌研究者)、加藤公明(社会科教師)、山極寿一(京都大学総長・ゴリラ研究者)、高橋源一郎(小説家・文芸評論家)、ロバートキャンベル(早稲田大学特命教授・日本文学)といった、様々な分野で活躍する文化人を招き、高校生に授業という形で「思考すべき課題」を提起してもらい、それを学校教員や希望する市民にも公開し「学校教育で今何をどのように学ぶべきなのか」を探るヒントになればとの思いで実施してきました。

 今回は、ノーベル平和賞受賞の田中煕巳さんを招き、13歳時に受けた被爆体験をもとに長年追究されてきた平和問題にかかわる課題を高校生に公開授業という形で提起してもらい、それを学校教員や市民の方々にも参観してもらって「平和教育のあり方」を共に探りたいと思っています。

 とりわけ、学校教員のみなさんには、ノーベル賞授与による世界の期待を、これからの子どもに托すべく教育の中にどう反映させるかが問われています。田中さんは被爆したご自身の体調と対峙しつつ、人生の大半を核廃絶のための厳しい運動とも闘ってこられました。その重い体験を通じた人類平和の道を共に模索できたらと思います。多くのご参加をお待ちしています。(数見隆生)

 《参加(参観)の申し込み》
  下記「申し込みフォーム」より申し込みください。

            【申し込みフォーム】