11月27日(金) 晴れ、暖かい
〈イタリア ローマ1〉
早朝にアテネを発ってローマにやってきた。機内の乗客は3分の1が日本人だが、団体ではないようだ。空港(レオナルド・ダヴィンチ空港)からは国鉄の空港線でローマ市にアクセスできる。しかし都心のテルミニ駅Stazione Terminiに行くには地下鉄に乗り換えなくてはならない。長い陸橋と地下道を通って駅につけば、ストライキの最中であった。早速、イタリア名物にぶつかってしまった。
仕方なくバス乗り場へ向かったが、しかしどこにも切符を売っている場所は見当たらない(タバツキ(キオスク)で売っている)。困り果てていると、親切な婦人が切符を1枚くれた。お金(800L)を渡そうとすると、受け取らないで立ち去ってしまった。旅先でのこうした親切には頭が下がる思いがする。ところが今度は駅行きの57番のバスが一向に来ない。さすがのイタリア人も怒り出し、他系統のバスの運転手に食ってかかっていた。腰が痛くなってきたころ、やっと57番がやってきた。都心部のローマはさすがに目を見張らせるほどの美しさだ。車窓からは次々と遺跡が現れる。周囲の街並みの佇まいも立派だ。そして広い道路は石畳である。街中にローマ帝国以来の歴史が息づいていると感じた。
近代的なデザインのテルミニ駅から歩き始め、官庁街のある「九月二十日通り」へ。ここには各省庁の堂々とした建物が並んでいる。共和国広場の横にローマ国立博物館がある。建物はローマ時代の浴場遺跡に建てたものだ。現在移転中で、一部の部屋しか見学できないが、「ルードヴィシ」、「円盤を投げる男」が展示されていた 首相官邸の建物となっているクィリナーレ宮殿から南に向かうと、フォリ・インペリアーリFori Imperiariの遺跡に出る。トラヤヌス帝時代の神殿、大円柱、市場などの遺跡がある。くすんだ灰色の石柱と黒褐色のレンガとのハーモニーが印象的である。遺跡は現在の地面より数メートル低いので上から見下ろすことになる。その南にあるのがフォロ・ロマーノForo Romanoの遺跡である。ローマ時代の元老院や神殿、凱旋門、バシリカなどがあった地域で、文字通りの「ローマの遺跡」であり、ローマ帝国の中心地である。皇帝たちの宮殿や庭園遺跡のあるバラティーノPalatinoの丘に続いており、両方を合わせると見て周るのに半日かかるほどの広大さである。元老院の建物は残っており(3世紀に建て直されたもの)、その隣の凱旋門は今にも崩れそうだ。この建物の前でシーザーはブルータスに殺された。一帯には回廊の円柱や、建物の基礎や床、道路、壁などがいたるところに残っている。かつて圧倒的な建築群があったことは列柱跡を見ればよくわかる。
2千年前のローマ帝国の舞台の地に立てることは感動的であり、心が高ぶるのを感じるが、同時に2千年という歳月の無常をも感じずにはおれない。遺跡は、すべては朽ち果てるということを語っているかのようである。われわれは、ローマ時代ははるか昔の古代世界だと考えているが、このような地に立つと2千年の歳月もそんなに長くないという気がしてくる。むしろ絶えず変化させ崩壊させる時の威力を思い知らさせられる。私はローマ史には疎い。遺跡はまさに歴史を語っているのだから、歴史的知識を持っていなければ本当の興味の対象とはならないだろう。キケロの言葉を思い出し、「ローマ帝国衰亡史」の知識を持ってみることができればどんなにか興味深いことだろうと残念に思う。パラティーノの丘の宮殿と庭園跡は当時の宮廷の並外れた華麗さに驚くばかりだ。
コロッセオColosseoはローマ遺跡の隣にある。ただただ巨大な建物で、甲子園球場を思い出してしまった。迫力のある建物だが、私には無骨な感じがし、ローマ時代の闘技の様子が想像され、いただけない。前には観光バスの列が続き、いくつもの観光団の行列が入り口へと動き、じつに観光地の光景だ。
ベネチア広場に戻る。ここには今世紀のローマのシンボル、ヴィットリアーノVittorianoがある。広場の反対側はヴェネツィア宮殿だ。ヴィットリアーノの南にはカンピドリオCampidoglioの広場があり、正面は旧市庁舎、両サイドは今は美術館となっているルネサンス期の建物があり、ここだけはルネッサンスの世界である。
11月28日(土) 晴れ、風がなく、歩いていると汗がにじむ。
〈イタリア ローマ2〉
荷物軽減のために小包を送った。旅行の途中のローマで荷物を発送することがどんなに大変かは、実際にやってみて骨に染みた。まずガイドブックと地図で小包発送センターを探し出す。一般郵便局は小包を扱っていない。道を尋ねながらやっと発送センターにたどり着くと、小包用の段ボール箱を売っていず、近くの店にあると教えられた。その店に行ってみれば、なんと休み。仕方なくぶつぶつと文句を言いながら近くの商店の空き段ボール箱を探す。それでも30分あまり探して、少し小ぶりだがほどよい箱を見つけることができた。今度は文房具店を探し出し、テープ、紐、包装紙を買い、近くの公園でパッキング。こうして小包を出し終わったときにはもう昼になっていた。目的を達成して、晴れ晴れとした気分になるはずだが、疲労感ばかりが後に残った。
発送センターの少し北のほうにパンテオンがある。円形の大きなドームで、ローマの代表的建造物の1つである。パンテオンからフランチェスコ教会,上院議会となっているマダーマ宮P. Madama、ナヴォーナ広場Plazza Navonaを通り抜けてバチカンと急ぐ。
テヴェレ川を渡ると目の前にサン・ピエトロの雄大な姿が見えてくる。広々とした参道が一直線に延び、その奥に円蓋と列柱で飾られた寺院がそびえている。サン・ピエトロBasilica di San Pietroはカテドラルではなく。バシリカ(僧院)である。聖ペテロの墓の上に建てられたものであり、彼が祀られているのである。その前に円形のサン・ピエトロ広場が広がる。284本の列柱と140体の聖像で囲まれた、あまりにも有名な広場である。広場に入ろうとすると一人の老人がやってきて、私に語りかけた。片言の日本語で私が日本人であることを確かめると、彼の息子が仙台におり、手話による説教を行っている教会の神父であるという。Marco Penneaという名前だそうだ(帰仙後、確かめることを忘れてしまった)。
サン・ピエトロ広場Piazza San Pietroは広大で明るく美しい。右手には法皇庁の建物も見える。その広さのために人影は小さくまばらにしか見えない。小さな人の群れが寺院のほうに吸い込まれるようにゆっくりと流れる。いろんな広場を見てきたが、この広場は他とは受けとる印象がまったく違い、特別な空間だという空気が漂う。むしろ日本の寺社の境内の雰囲気に通じるものがあり、宗教の場であることが肌で感じられる。
サン・ピエトロ寺院は正面の構えの迫力に圧倒されるが、屋根がないのでそんなに威圧感はない。しかし扉をくぐって堂内に入ると、その広さと、壁や天井のモザイク、フレスコ画、彫像などの華やかさにはまったく驚かされる。入口を入ってすぐのところに、ミケランジェロが25歳の時に造った「ピエタPietà」があり、バチカンのシンボル的存在になっている。高度に洗練された非の打ちどころのない像で、この作品によって彼は自己の芸術的境位を確立したのだと思われる。真っ白の大理石の像である。マリアの首の傾げ方が少し違っていてもこのような緊張感は得られないだろう。堂内の中央には聖ペテロの墓がある。ベルリーニの作という天蓋で覆われ、灯火が灯されていて、異様なまでの神聖の場だ。地下には歴代法皇の墓があり、見て周ることができる。
大ドームKuporaに登った。フィレンツェのDuomoほどの大きさだ。ミケランジェロの設計によるものであるが、私としてはフィレンツェの方が美しいと思う。塔の上からはローマ全市のスペクタクルが一望のもとに見渡せる。大きな石造建築や遺跡、森などが混ざりあってすばらしい眺めだ。これがローマ、そしてここがバチカン、深呼吸をしてローマの景観をいっぱい吸っておこう。
バチカンを出てサンタンジェロ城Castel sant'Angeloから、すでに暗くなった夜のローマ繁華街を歩く。ポポロ広場Plazza del Popoloとポポロ門はローマの北の入り口で、「すべての道はローマに通ず」と言われたその終点である。昔の旅人はみなこのポポロ門をくぐってローマに入った。ポポロ門からピンチョの丘Pincio(夜なので恋人たちの姿しか見えない)を通って、スペイン広場Plazza di Spagnaに出た。「ローマの休日」の舞台となった広い階段には、まるで電線に留まるスズメのように、おびただしい数の人々が何をするともなく腰を下ろしている。私もスズメに混じってしばらく休憩。スペイン広場からコルソ通り、トリトーネ通りは歩行者道路になっていて、前に進めないほどの人間の洪水である。ここにはGucciをはじめ、有名店が軒を並べている。南に下ったところにトレビの泉Fontan di Treviがある。後ろの宮殿の壁に美しく大きな噴水があり、ここも人の山である。水の中には思ったほどコインが入っていなかった。
11月29日(日) 晴れ
〈イタリア ローマ3〉
バチカン美術館は他に並ぶもののないスケールと質の高さを誇り、すべてを観るのは不可能なほどだ。内部はピオ・クレメンティーノ美術館、ベルベデーレ庭、エトルスコ美術館、ラファエロの間、システィーナ礼拝堂、さらに絵画館などがある(残念ながらピナコテカは現在閉館中であった)。
日曜日は月の最終日曜だけ開き、しかもこの日のみ無料である。そのためかものすごい人の列だ。しかし名作の前では人の雑踏は次第に気にならなくなる。見学コースはA、B、C、Dに分かれ、1時間半から5時間まで選択できる。コース案内は実によく工夫されていた。古代彫刻ではラオコーン像、いくつかのヴィーナス像、ヘルメス像などがよい。なかでも「ラファエロの間」は圧巻だ。正面に「秘蹟の論議」、その反対側には「アテナイの学堂」がある。ついに「アテナイの学堂」に出会えたという感慨が込み上げる。フレスコ画は高いところに描かれているので、細部まではよく見えない(美術書の方がよくわかる)が、実物を目の前にしているという感動がすべてに勝る。「ラファエロの間」は全部で4室あり、いずれのフレスコ座もすばらしいものである。「システィーナ礼拝堂」は広大な部屋で、3面の壁にはボッティジェリなどのフレスコ画、そして正面の壁にはミケランジェロの「最後の審判」の大フレスコ画があり、バチカンの最高の財宝なのだが、残念なことに修復作業中で布で覆われている。他方で、ミケランジェロの天井フレスコ画はすべてを観ることができる。「アダムの創造」、「楽園追放」などのよく知られた絵が天井いっぱいに何十枚と描かれている。この天井画の作成のために彼の背中は曲がってしまったという。ピナコテカの名作を観れないので少々くやしい思いをしながら、館内のレストランで昼食をとり、1番最後にバチカンを出る。
バスの中で災難にあった。少し混んでいたのだが、目の前に眼付きの悪そうな男がいて、乗って2、3分後には私のコートのファスナーが半分開かれているのに気づいた。これは警戒しなければとその男をにらみつけ、バスを降りようとして何気なくバッグに手をやると、蓋が開いていて中のカメラがない。あっと思って "My camera !" と叫ぶが、2、3人が振り向くだけで、仕方なくバスを降りてしまった。スリは複数のグループで、前の男はおとりだったのだ。このようなプロに狙われるとどうしようもないとあきれるやら、感心するやら。中年の日本人男性は特に狙われやすいということだ。アテネやローマではスリやひったくりが多く大変危険だ。街ではつねにその危険を肌で感じる。ローマではその前に2回狙われている。カメラは首から下げ、コートの中に入れておくべきだった。ポシェットは急遽シャツの下に入れ,小銭だけをポケットに入れるようにした。せっかくのバチカンやコロッセオの写真も失われた。目下これからの写真をどうしようかと思案中である(この盗難事件をきっかけに趣味のカメラをやめてしまった)。ともかくバスを乗り継いでアッピア街道へと向かう。
アッピア街道Via Appiaはローマ時代の道で、昔ながらの雰囲気が残り、街道沿いに多くの遺跡、とくにカタコンベCatacombeが残っていることで知られている。カタコンベとは初期キリスト教時代の地下礼拝堂と地下墓地の名である。地下深くに無数の通路(トンネル)が掘られ、その両側には墓穴や小さなチャペルがある。街道沿いには約30のカタコンベがあると言われ、その総延長は500kmに及ぶという。一番大きなサン・カリストのカタコンベCat. San Callistoに入ってみた。街道から500mほど入ったところにあり、この辺り特有の「からかさ松」が歩道の周囲に生えていて、古代ローマを思わせるような風景である。各国語のガイドツアーが次々と出る。私は他の4人とともにドイツ語のツアーで地下に入った。地下道は5階になっていて、底まで降りると地下約30mもある。通路は碁盤の目のように四方に延びていて複雑きわまりない。所々に明かり取りの穴が開けられていて、地底から空を仰ぎ見ることができる。入り口近くに初期法皇の礼拝堂がある。かろうじてすれ違いできるほどの通路の両側には、7、8段の墓穴がどこまでも続いている。 ちょうど遺体が入る大きさだ。小さな穴は子どもや赤ちゃん用に違いない。サン・カリストだけで約20kmの通路があり、10万人が葬られているという。遺体を入れた後はレンガと土で蓋をする。蓋のされている多くの穴には まだ遺体が眠っているはずだ。蓋のない穴にはもちろん遺体はない。底には灰が敷かれ、遺体の保護のために最適の条件だという。初期キリスト教徒たちの迫害と苦難の歴史を垣間見た気がするが、信仰もつの力の大きさにはただただ胸を打たれるばかりである。
街道沿いにはチェチリア・メッテラの墓、マクセンティウスの競技場(1km近くの大きなものである)、ロムルスの墓、ドミネ・クオ・ヴァディス教会、そしてローマよりにカラカラ浴場Thermae Caracallaeの遺跡などがあり、見るべきところが多いが、日没が早く、カタコンベから出たときには、すでに周りは闇に包まれていた。
11月30日(月) 晴れ
〈イタリア ナポリ1〉
ナポリはローマから南へ200km余りの地にある。南イタリア唯一の大都会である。古くからサンタ・ルチアの港が開かれ、周りは丘に囲まれた明るくて南国的な都市である。駅から西に向かって中心街が広がっている。中央にはスパッカ・ナポリSpacca Napoliという名の旧市街地がある( ジェノバの旧市街地に似ており、街の内部は迷路のように複雑であり、路地の両側の家が細い路地をまたいでおびただしい数のロープが張られて、洗濯物が青空にはためいている)。
カプアーノ城、DUOMO(大聖堂)に立ち寄り、街の中心にあるナポリ大学に行く。ナポリはトマス・アクィナスの出身地であり、ヴィーコもナポリ大学で学んだ。13世紀に創設されたヨーロッパでも屈指の歴史を持つ大学であり、校舎は重厚で華麗な威容を誇っている。学生が道にあふれ、大学の前には本屋やコピー屋、カフェが軒を並べている。大学の前で昼食に食べたピザが大きくておいしいので驚いた。ビールとよく合う。14世紀の古い教会サンタ・キアーラSanta Charaに立ち寄る。中に入るとちょうど結婚式の最中だった。しばらく見させていただく。祭壇の前に双方の親族が数十人がこじんまりと集まり、式の内容も簡素だった。オルガンの響きがよい。丘に登ってサン・テルモ城とサン・マルティーノ修道院を観て周った。残念ながら月曜日なので内部を観ることはできなかった。
市内を歩いているうちにカプリ島Capriに行くことを思いついた。ナポリで泊まるのはつまらないし、カプリ島は近い。ヨーロッパでも有数の保養地であり、風光の美しさでも知られる地である。港へと急ぎ、首尾よく島へ行く水中翼船の切符を手に入れることができた。船が島に近づくにつれて、切り立った岩壁、山の斜面を白く彩っている家々、そして濃い緑に包まれた山々が次第に大きくなる。島の西側にアナカプリAnacapriという静かな町がある。別荘が多く、標高200〜300mの緩やかな斜面に点々と白い家が見え隠れする風景は多くの芸術家たちによって愛されてきた。
ガイドブックに載っているペンションを探して、港から石垣の間を縫うように登る細い山道をひたすら歩く。3km弱の道であるが、荒れた上りの山道なので(歩く人は誰もいないらしく、草がかぶさっている)意外に時間がかかる。登るにつれてナポリ湾を隔てて、ナポリの街明かりが見渡せるようになる。アナカプリから別荘地帯の複雑な道を教えられた通りに歩いてペンションにたどり着いた。しかしブザーを押しても応答がない。あたりは木立ちの中の別荘で、ちょうど顔を合わせた隣の人に聞いても留守ではないかと言う。仕方なく近くのホテルを探しながら歩いていると、バイクが寄ってきてヴィラ・エヴァVilla Evaに泊まるのではないかと聞く。どうやら隣の人が教えてくれて私を探しに来たようだ。ペンションはシーズンオフで営業していなかったのだが泊めてくれた。まったく思わぬことがあるものだ(その辺りには他にホテルがなかった)。広い庭の敷地の中に数棟のカプリ風の小さなロッジが建てられているペンションである。庭にはバラやゼラニウム、名も知らない紫の花が咲き乱れ、バナナやサボテンが植えられている。テラスにはテーブルが置かれ、ベランダからは海が見渡せる。まるで別荘を探し当てたようなもので、快適な一夜を過ごすことができた。星が美しかった。
12月1日(火) 晴れ
〈イタリア ナポリ2〉
アナカプリから北に下った海岸に「青の洞窟Grotta Azzura」がある。洞内の海の色が神秘的なエメラルド・ブルーなのでこの名がある。人々はこの青色を見るためにやってくる。海岸へと岩壁の階段を降りると、沖合に待機しているモーターボートと2艘の小さなボートが見え、そのうちの1艘のボートがやってきて乗せてくれた。洞窟の入り口が極端に狭く、小さなボートでないと中に入れない。船頭も私もボートの中に身を伏せて中に入った。内部は直径数十メートルのドーム状になっていて、それほど広くない。水深は20mで、底が見える。入口の方の水が明るい青色に発光し、奥にいくにしたがってダークブルーとなる。光る水面を眺めながらボートはゆらりゆらりと10分ほど徘徊する。
アナカプリの中心近くの切り立った断崖の上にヴィラ・サン・ミケーレVilla S. Micheleという別邸がある。古代ローマの館で、島の建築様式をよく残しているという。今はスウェーデンの小説家の別荘らしいが、内部が見学でき、ベランダから眺めるナポリ湾が美しい。
カプリ港からソレントSorrentoへ渡り、ソレントから電車でポンペイPompeiに行く。駅前の一帯(駅の名前はミステリ駅)に広大なポンペイ遺跡が広がっている。一つの古代都市が溶岩(火砕流)に埋もれてしまったのだから、1km四方近くの広大さはある。ヴェスビオス火山はポンペイの西方約4kmも離れた所にある。ポンペイから眺めるヴェスビオス山は高さも山の形も泉ヶ岳に似ている。 ここまで火砕流が流れてくるとはポンペイの人たちは夢にも思わなかったであろう。
発掘された古代ポンペイは見事な古代都市である。街は碁盤状にきちんと区画され、各通りは大きな石畳で舗装され、排水路も整っている。通りにはレンガや石の、さぞや美しかったであろうと思われる家々がびっしりと軒を連ねている。街の中央にはいくつもの神殿やバシリカ、劇場、浴場、市場、広場がある。見事な眺めだ。多くの建造物は崩れ落ちて、壁や柱が残っているだけであるが、いくつかの家は名前がわかっており、部屋の様子や壁画(有名なポンペイの赤い壁画)が運よく燃えることなく原型を留めている。主な通りを歩いて観て廻るだけで足が痛くなるほどの距離である。2時間も歩き回ったところで閉場のアナウンス、大急ぎで街のはずれにある体育館と円形競技場に立ち寄る。ポンペイの古代都市遺跡にふれて、その街並みの精巧さと美しさに驚嘆させられた。現代の都市ではとても及ばない華麗さであったろうと思われる。ここを訪れる人は文明の進歩を忘れ、古代都市の驚くべき「高品質」に不可思議の念を抱くに違いない。
12月2日(水) 晴れ
〈イタリア シラクサ1〉
イタリアでは国鉄の利用はトラブルに振りまわされて大変だ。夜行列車でシチリアに行くため、ナポリに戻ろうとしたらポンペイからナポリ行きの列車は特定便だけのストである。サレルノ行きの便は運行していたので、列車に飛び乗った。サレルノからもシチリア行きの夜行列車に乗ることができるはずである。
サレルノSalernoはヒポクラテス医学の町である。中世期に医学校が創設されており、当時は西洋における医学の最先端を担っていたのである。ヒポクラテス医学は「予防」と徹底した「観察(診察)」にその特徴がある。有名な「サレルノ養生訓」は日ごろからの健康法を説いたものだが、現代でも通用する格調の高い詩文である。「もし医者が身近にいないなら、次の3つをあなたの医者とすべし。すなわち、陽気な心と休息と節度ある食事である。」
夜のサレルノの大通りを少しばかり散歩して列車を待った。またまたダイヤがおかしい。10時半にホームに上がり、列車を待っている人に聞くと、その人は朝の6時半の列車を待っているのだと言う! 心配になり、切符売場で聞くと、私の乗ろうとしてしていた1時半のシラクサ行きは来ないから、別の列車で乗り継いで行けと言う。なんということだ。こんな様子なので時刻表が信用できなくなり、ともかくシチリア方面の夜行列車が来れば飛び乗ろうと放浪を覚悟する。1本目はどこ行きだかわからないから見送り、1時半ごろ来たパレルモ(シチリア)行きに乗った。寝ているうちに海を渡ったようで、翌朝7時にシチリア島の入口、メッシーナに着き、乗り換えようとホームに降りると。1番前の1輌だけ「Siracusa」と書いてあった。再びその車両に乗り、9時半にちゃんとシラクサに着いた。どうやら、駅員が来ないと言ったその列車だったらしい。
シラクサはシチリア南東部にある古代都市である。ヨーロッパでもっとも南の地である。困難を乗り越えてはるばるやってきたものだ。古代ギリシャ時代にはシラクサはギリシアの最大の植民都市であった。プラトンはシラクサの僭主デュオニシウスの息子ディオンに哲学と帝王学を教え、シラクサの地に自らの理想国家を建設するという夢をディオンに託すべく、70歳を過ぎてから3度、シラクサを訪れている。2度目の時は捕らえられて危うく奴隷にされそうになった。そして夢を託したディオンは政略に落ち、殺害された。プラトン晩年の最大の出来事である。その現地を自分の目で見ることも私の夢だったのである。シラクサはまたアルキメデスの生まれた地である。彼は寝食を忘れ数学と物理学に没頭し、浴槽で「アルキメデスの原理」を発見したときは、「ついに見つけた!」と叫びながら裸で街のなかを走り回ったという逸話がある。
シラクサの遺跡は街の北部の高台「考古学地区」にある。ギリシア劇場、ローマ劇場、ネクロポリス、そして「天国の石切場」(神殿造営のための採石場)、「ディオニシウスの耳」(牢獄として使われた洞窟、入口が猫か小トトロの耳の形をしている。高さ36m、幅15mほどの大洞窟。プラトンの「洞窟の比喩」はあたかもこの洞窟をモデルにしたかのようだ)などが並んでいる。遺跡にはほとんど訪れる人もなく、鳥のさえずりを聞きながら明るくて白い大地を歩きまわっていると、すっかり心がはればれとし、プラトンのこともすっかり忘れてしまった。レモンの木(大きな樹木である)に実がいっぱい稔っていた。考古学博物館で出土品を見た後、街の南にある旧市街(オルティージャ島)に行き、DUOMO広場などを散策した。
12月3日(木) 晴れ,初夏の陽気である
〈イタリア シラクサ2〉
サン・ジョバンニ教会S. Giovanniは考古学博物館の隣にある。ここにはローマに次ぐカタコンベがある。カタコンベは地中深くはないが、ほぼ300m四方の広大なもので、内部はゆったりとしており、直径15mほどのドーム状の礼拝堂がいくつかあって、開放的な感があり、ゆとりが感じられる。ところどこに明かり取りの穴が開けられており、空気の動きも感じられる。ローマのカタコンベは地中深く、通路は狭く、真っ暗な迷路が交錯していて、いかにも迫害されたキリスト教徒の苦難の跡を感じさせたが、シラクサはカタコンベにまで南国らしい「のどかさ」を感じさせる。なかなか凝った地下霊廟であり、ドームは美しく、楽しんで造っている風ですらある。目の前に見ていると人間の意志と執念、そして信仰心の激しさが伝わってくる。カタコンベは、通路の壁にかまぼこ状の穴を掘り、その中に墓を数個並べるという形である。おそらく1つの穴が1家族の分なのだろう。確かにこれはキリスト教世界の原点を表しており、信仰の姿を教えてくれるとともに死者を葬ることの意味をも教えてくれる。
シラクサから少し北方にメガラMegaraの遺跡がある。鉄道で3つ目の小さな駅の近くにあるが、あいにく午後の列車がない。4時近くまで待ってとにかく行ってみることにした。ところがこの辺りは石油コンビナートの只中で、駅は大工場に取り囲まれ離れ小島のような状態だ。駅員に教えられるままに畔道を海の方へ歩くが、これと思った小径は畑や変電所で行き止まりとなった。結局、何も見つからないまま(道を1本間違えたようだ)しばらく海の風にあたり、もう暗くなったコンビナートの風景を眺めて駅に戻った。
12月4日(金) 晴れのち曇り
〈イタリア アッシジ〉
夜行列車でローマに戻る。帰りの列車はユーレイルパスと1等寝台券で快適に眠ることができた。ローマのテルミナ駅で乗り換えて、アッシジへの列車に乗る。アッシジはイタリアの聖地であり、サン・フランチェスコ教会St. Francescoのある地である。
車窓の風景が田園の平野から緩やかな丘陵となり、丘の斜面に白い家の集落などが見えるようになる。アッシジの教会もまた丘の上にある。斜面に沿ってせり上がる石の家々の淡い白色はとりわけ美しい。ひときわ大きな城塞のような建物はサン・フランチェスコ教会である。駅からバスで丘に登る。アッシジの街はサン・フランチェスコ教会から丘の斜面に沿ってゆるやかに下る門前町であり、街全体が城壁で囲まれている。アッシジの街の清らかさと美しさは形容のしようもない。地上にこのような清楚な処があることが信じられないほどだ。建物はすべて淡いグレーとピンク色の自然石を積み上げた石造りであり、屋根は淡い褐色である。街全体がパステルカラーの濃淡で彩色されているかのようである。街のなかは中世世界そのままだ。華やかな飾り付けも看板もなく、石畳の道にはゴミひとつ落ちていない(イタリアでは信じられないことだ)。オフシーズンで人通りの少ない道をときどき黒衣の僧侶が通りすぎる。石壁にはさまれた坂道や石段を登り下りしていると、フランチェスカンの心が伝わってくるようだ。
サン・フランチェスコ教会は真っ白なすっきりとした建物である。壮大な伽藍を想像していた私は、意外なほど簡素で小ぶりで、そして見事な構図を持った建物に驚く。礼拝堂は上と下との2つの建物に分かれており、下の建物の方がやや古く、美的にすぐれている。下の礼拝堂は、中に入ると緊迫した空気がぴんと張り詰め、聖地らしい厳粛さを保っている。しかし、同時に包み込むような優雅さを感じる。私がこれまで見たどのDOMともまったく異なり、しかも美しさの点では群を抜いている。低いアーチ状の天井がまた美しい。藍色に塗られ、星が散りばめられ、天空のすぐ下に立っているような効果を醸し出している。
しかし、この礼拝堂を特別のものにしているのは、ジオットによって描かれたフレスコ画である。祭壇近くの壁や天井ドームに10数枚の宗教画が描かれている。いずれもジオットの代表作である。「小鳥に説教する聖フランチェスコ」はじつに愛らしい作品である(同名の作品が上の礼拝堂にもあり、いずれもよい)。「聖母マリア」は不思議な色の取り合わせが特異な効果を生み出している。ジオットの作品には夢と「無重力」、無限の優しさがある。これらは後世の誰の追随をも許さない。彼の描く人物のデフォルメされた姿と顔には特徴がある。目にアクセントがあり、細く伸び、少しつり上がっている表情は絶妙である。普通なら下品になるところだが、ジオットの手にかかれば逆に高い宗教性に変わる(彼の技法は中世後期の宗教画に大きな影響を与えた)。その目はものを眺めている目ではなく、人の心を見つめているかのようである。彼の絵の多くには天使が人物の周りに描かれている。これがまたすずめのようで、じつにかわいい。彼の描く天使はいつも足がなく、雲のような尻尾になっている。悲しさの周りにはこのすずめの天使が飛びかう。「ジオットの青」は最高だ。フレスコ画特有の淡さをもち、作品の全体を静謐なものにしている。彼は写実画家ではなく、心象画家だと思う。その澄み切った心の表現はあらゆる画家のなかで一番天に近い。聖フランチェスコの教会がジオットによって飾られていることは見事な調和を生み出していると思う。
祭壇の地下には聖フランチェスコの墓がある。フランシスカンにとってはもっとも神聖な場である。私が下に降りると、2人の信者が身じろぎもせず祈り続けていたので、墓に近寄ってみることははばかられた。
中庭を囲んでいる回廊を抜けて上の礼拝堂に行く。ここにも両側の壁に16枚のジオットのフレスコ画がある。さながらジオットの聖堂である。聖フランチェスコの生涯を描いたものだが、彼の連作としてはパドヴァの方が優れていると思う。
教会を出ると、もう陽は落ちようとし、風は冷たい。暗くなりかけた家の壁の美しさに魅せられながら丘を登り、遺跡の要塞に立ち寄った。丘の上から見下ろすアッシジの街、そしてその向こうに広がるトスカナ地方の自然が暮色のなかに静かに沈んでいった。
(太田直道)


















