10月20日(火) 晴れたり曇ったり
〈秋の天気について〉
Vergaser(キャブレター)が届いていたので、午前中に車を修理工場に出す。車の調子はようやく平常に戻ったが、高速から急停止するとそのままエンジンがすとんと落ちる癖が今度は出てきた。やれやれ。すぐ再始動できるので問題はないが、交差点でエンジンを始動させるというのは格好がよくない。修理工場に問い合わせると、部品を変えたのでしばらくは仕方がなく、そのうちによくなると言う。プラグの掃除をいつもきちんとすることが一番大事だと諭された。なるほど。中古車ならぬ「古古車」は日ごろの手入れが一番たいせつなのである。世話のやける車と巡り合ったものだが、それでもよく走ってくれるので、愛着もわいてきた。残り1ヵ月はせっせと手をかけて上機嫌に走ってもらおう。
ヨーロッパの秋は天候が不順なことが多い。ケルンでは9月に入ると急に涼しくなり、コートが手放せなくなった。朝晴れていても、たちまち暗い雲に覆われて気温が急降下することもある。曇天の日や風のある日は初冬の感じが漂う。冷たい風に追い立てられるかのように木の葉が歩道に舞い上がり、街の風景は急速に冬景色へと衣替えしていく。秋には咲く花もほとんどなく、木々は裸の枝ばかりとなって、寒々とした風情に一変する。
この時期は、北海に低気圧が居座って、ヨーロッパ大陸をめがけて次々と波状に寒気を送りこむ。天気図を見ると、たいていイギリスの近辺に低気圧が居すわり、そこを中心に雲の塊がビスケー湾から上陸し、フランス、ドイツ、東ヨーロッパへと、時計と逆周りに周回している様子がよくわかる。気象上はもう長い冬の到来である。移ろいやすい秋の空は北ヨーロッパの名物でさえあって、そんななかで日本の秋を経験したことのある人は、口をきわめて日本の秋空の青さのすばらしさ、紅葉の美しさをほめたたえる。北欧の人たちは自らのメランコリックな気質を秋から冬にかけての曇天のせいだと思っているのかもしれない。春は秋とは対照的にすばらしい好天が続いた。天候は安定し、陽は長く、街も野山も色とりどりの花で満ち溢れていた。3月から7月まで花の途絶えることはなかった。春の陽と秋の陰、ヨーロッパを旅行するなら春に限る。
10月21日(水) 晴れたり曇ったり、一時雨
〈バロック音楽について〉
本屋さんたちとケルナー・フィルハーモニーにバロック音楽を聴きに行った。ブリュッヘンF.Brüggen指揮の「18世紀オーケストラ」である。曲目はラモー、バッハなどで、まずまずの演奏だったが、2階最前列の席のよい席だったが、身長のためか前の手すりがちょうど舞台を遮り、背中を伸ばしたり、手すりの下から舞台を覗いたりしなければならなかった。どうしてこんなに手すりが高いのだろう。
これまでケルンではほとんど演奏会を聴きに行かなかった。バロック音楽の愛好家を自認しているのに、ケルンで演奏会に行かないのは自分自身でも意外だったが、おそらくこれという情報をキャッチしなかったのと、週末旅行に忙しくて演奏会にまで行くゆとりがなかったからであろう。当初、ムジカ・アンティカ・ケルンの演奏が聴けるものと楽しみにしていたのだが、ついに案内を目にしなかった。
最近の私の音楽関心はほとんどバッハ一人に絞られているが、バッハへの思い入れはドイツに来ていっそう強まった。バッハこそはドイツ・プロテスタンティズムをそのまま音楽にしたようなものだと思う。バッハの中にはドイツ的精神とプロテスタンティズム精神とがもっとも純化された形で息づいている。音楽は人間精神の自己表現である。音楽はもっともよく人間精神に肉迫し、それを形に表す。音響として響いているのは作曲家自身の心の形である。ベートーヴェンの曲からは彼の精神が響いて来、ワーグナーの曲からは彼の事大主義的な精神状態が芬々と漂ってくる。19世紀のロマン派音楽を好むものは、この時代のロマン主義的精神状況をよしとしているのである。バッハにおいてドイツ・プロテスタンティズムはその最高の自己表現を得た。とすれば、私のバッハ愛好はドイツ・プロテスタンティズム愛好、18世紀ドイツ愛好なのかもしれないと、半ば本気で思えてくる。少なくともバッハとは精神状態の波長がよく合うのである。
シュッツやバッハ、ヘンデルなどの曲を指してバロック音楽と呼ぶことに、私はつねづね疑問を感じている。音楽史的にこの時代(17、18世紀)の音楽を「バロック音楽」という用語で一まとめにすることは適切でないであろう。むしろ「18世紀音楽」とか「ドイツ前期古典音楽」と読んだ方がよいと思われる。
私はドイツ音楽はバッハとモーツァルトとの間に断絶があると考えている。音の性質が急変するのである。モーツァルト以降のいわゆるクラシック音楽は、フランス革命とその反動の時代、ドイツの国家統一と産業化の時代へと流れていく19世紀の歴史の流れと正確に対応しているように思われる。古典派からロマン派へ、そして事大主義と民族主義の音楽へ、という変遷は、それぞれの時代の形に不思議なまでに一致している。音楽はあらゆる芸術のなかでもっともよく国民精神と時代精神とを映し出す鏡である。ドイツ音楽はドイツ精神の自己表現だと思う。私はベートーヴェンからドイツ・ロマン派、そして19世紀後半の国民楽派へという音楽の流れは、ドイツや西欧世界の歴史的変遷の流れによく対応しており、その全体が「ドイツ19世紀音楽」という呼び名で言い表すことができると考えている。
バッハまでの音楽とモーツァルト以降の音楽は、それぞれにドイツの18世紀と19世紀の精神を代表しているのである。18世紀の末に文化的・精神的な断絶が生じたこと(フランス革命)、ドイツでは18世紀末から19世紀の初め3分の1の時代に最も大きな精神的高揚があったこと、この歴史的軌跡が音楽と、そして哲学にそのまま映し出されている。私のバッハ回帰は、私自身の精神的なものへの愛好が19世紀から18世紀に遡ったからだと考えている。
10月22日(木) 曇り
〈ウィーン紀行1〉
本屋さん親子をフランクフルト空港まで送る。気候にはあまり恵まれなかったが、多くのドイツの思い出を持って飛行機に乗り込まれたことであろう。これまでいく人もの日本からの来客があり、この空港にも迎え送りのために毎月のように訪れている。 それぞれの人がドイツという世界に強い印象を刻印されて、たくさんの思い出を詰め込んで帰っていった。この次、この空港に来る時は私がドイツを離れる番である。屋上に上がり、冷たい風に吹かれながら、広い空港を眺める。フランクフルトの南の空には空港に着陸しようとする飛行機が一直線に並んでおり、次々と降下してくる。
夕方にフランクフルトを発ち、混雑するアウトバーンを南下して、オーストリア・ウィーンへの旅に向かう。 オーデンの森林地帯を抜け、約200km走った所でエアランゲンErlangenの街に着いた。エアランゲンはニュルンベルクNürnbergの少し北にある小さな大学都市であるが、多くの科学者を輩出し、ドイツ史のなかでも重要な役割を果たしてきた都市である。夜の街に立ち寄ったので、街路の様子がよくわからない。一方通行に妨げられて大学のキャンパスもAlt Stadt(旧市街地)もわからない。むしろ典型的なドイツの小都市の佇まいだ。戦前のままの、やや哀愁を帯びた街並みが狭い道路の両側に続いている。教会と広場のある街の中心地らしいところに大きなスーパー・マーケットがあった。夜の8時を過ぎてもまだ営業しており、駐車場は出入りする車でごった返していた。閉店時刻の厳格なドイツでも夜の営業はありがたいのであろう(木曜日のみ、夜8時半まで営業する店がドイツ各地にある)。とにかく大変な混雑である。食料品などを買い込み、結局買い物をしただけでエアランゲンを離れた。
さらに170km、南東方向に走って、レーゲンスブルクRegensburgへ向かった。長く憧れていた南ドイツのこの街に着いたときはもう11時過ぎであった。レーゲンスブルクはドナウ川河畔の、中世の面影を残した美しい教会都市であり、ドイツの情緒がよく残された街である。ケルンからは国内でもっとも遠く離れた都市の一つであり、約600km離れている。ウィーン方面に旅行するときに立ち寄ろうとかねてから考えていたのである。旧市街地入り口のドナウ川沿いの駐車場に運よく車を駐めることができた。しばらくドナウ川の風にあたり、夜の街の佇まいを眺めて、寝袋にもぐりこんだ。アウディは全席を倒せばフラットになるので、いつも寝袋を積んでいるのである。
10月23日(金) 曇り時々晴れ
〈ウィーン紀行2〉
朝のドナウ川河畔はピリッとした空気が冷たく、晩秋を思わせる雲模様の空からは今にも霧雨が降ってきそうだ。ドナウの水面はゆったりとしていて、人が歩くほどの速さで滔々と流れている。広い川幅の中をいくつもの流れが譲りあわずに線を描いて流域をつくっている。
旧市街にはDOMを始め、いくつもの教会が南ドイツらしい個性的なスカイラインを描いて林立している。DOMは12世紀の初期ゴシック様式の建物である。その美しい塔は街のどこからも見え、街のシンボル的存在である。午前中いっぱいをかけて旧市街を歩き周る。淡いピンク、水色、そして黄土色の壁の家々は明るく、軽いメランコリーを湛えている。屋根は赤茶色、南ドイツ・バイエルンの他の諸都市と同じような建物であるが、伸びやかさと静かなのどかさを感じさせるのは思い入れのせいか、あるいはドナウ川の大らかさのせいか。街角を曲がるたびに目の前に広がる家々の姿は本当に美しく、音楽的である。建物に厚く絡まっている蔦の葉が真っ赤に紅葉し、秋の深まりを奏でている。濁りを感じさせない澄みきった街をあてもなく右へ左へと歩き周る。足も疲れてきたのに、歩き足りるということはない。車に戻ってきたときに、ちょうど12時の鐘の音が街中に響きわたった。
レーゲンスブルクからほどない距離のところにパッサウPassauがある。パッサウはドイツ・オーストリア国境の街であり、ドナウ川中流の中洲に築かれた町である。対岸から眺める街の風景は川面に浮かぶ蜃気楼のようで絵画的だ。パッサウにも古いDOMがある。DOMのある街景色は本当に美しい。DOMの外観は少々ごちゃごちゃしていなくもないが、堂内はあっと驚くほどの天井絵画と装飾で、まるで宮殿のようである。フレスコ画の華やかさの代わりに窓のステンドグラスは無色で、よくつり合っている。入り口にここは教会であって博物館ではないとわざわざ書かれていたが、この華やかさは宗教的ではなく、美術館の方がよく似合う。
パッサウからはドナウ川沿いの田舎道を走って国境を越える。深い谷底のドナウの流れ、牧草地や森林のつづら折れの道、小さく優雅な村々、登りきった丘の広々とした見晴らし、まったく心ときめく光景が続く。一日に何台も車が通らないと思われる国境では、10分ほどもパスポートやトランクの荷物を調べられた。夕闇の迫るころリンツLinzの市街地に着いた。駅、新DOM、旧DOM、広場、そしてドナウ河畔と夜のリンツを散策した。今日は三つの街を実によく歩いたものだ。
10月24日(土) 晴れ
〈ウィーン紀行3〉
丘陵地隊の森の中を走るアウトバーンが下り坂にさしかかると、眼下にウィーンの街が広がってきた。森を抜け、次第に街の風景が広がり、やがて市街地に入る。市の中心Zentrumへの案内表示にしたがって車を走らせること約30分、突如右手にヴェルデベーレ宮殿が姿を表し、目的地に着いたことがわかった。ほどなくオペラ座に到着、地下駐車場に車を入れる。
オペラ座はウィーンのシンボルであり、ウィーン観光の起点である。ほぼ方形の、あまりにも堂々とした建物である。いかにも典型的な19世紀建造物だと思う。その威圧的な姿は、ウィーンが音楽の都であることを誇っているようにも見える。ベートーベンの「フィデリオ」でこけら落としをしたということだから、もう200年近く経っている。朝のオペラ座周辺は閑散としており、観光客の群れが次々と通り過ぎて行くのみである。オペラ座はリング・シュトラーセRing Straße(環状大通り)に面している。 リング・シュトラーセの内側がウィーン旧市街地である。
オペラ座から歩行者専用の大通りを歩いてシュテファン教会Stephan Kircheへ向かう。ウィーンの瞳とも心臓ともへそとも言われる壮麗な建物であり、街を締めくくる中心点のような存在である。ケルンのDOMほどには大きくはないが、周囲を睥睨するかのように堂々とそびえており、鋭く高い二つの塔を従えている。 大きな一枚屋根が特徴であり、瓦の派手なモザイク模様が大変印象的である。あまりにも有名な建物であるが、私にはバランスの悪さと過剰装飾が感じられ、数あるDOMの中で最高クラスに属するとは思いかねる。内部も予想したほど個性的ではない。二つの塔はまったく非対称だ。西塔は途中で造るのやめたような中途半端な形であり、東塔はきらびやかな石組みがあまりにも強烈である。東塔は建物からはみ出して建てられている(私の知るかぎりでは他に例がない)。東塔に登ってウィーンの街を眺める。足元に広がる壮大なブルグ宮殿Hofburgが圧倒的だ。宮殿とリング・シュトラーセの外側にはどこまでも街が広がっており、それが次第に森の緑の中に吸い込まれていく。シェーンブルン宮殿Schönburnnはどのあたりで、ウィーンの森はどこまで広がっているのだろう。ベートーベンが遺書を書いたハイリゲンシュタットはどこだろう、ドナウ川はどちらの方向に消えていくのだろう。何もかも定かに確かめることを忘れ、ただ呆然と四方の街並みを眺めるばかりだった。
教会の横には馬車乗り場があり、たくさんの二頭立ての馬車が並んで乗客を待っていた。馬車はクラシックな本格的な造りのものである。この馬車の蹄の音が街中のいたるところで耳に入ってくる。シュテファン教会から市の目抜き通りのコールマルクトKohlmarktを通ってブルク宮殿へと行く。途中にもベスト塔やいくつもの教会、有名ショップなど見るべきところが多くあり、広い通りは観光客であふれかえっている。きらびやかな雰囲気が街を覆い、観光客の表情は嬉々とした喜びで輝いている。
ブルク宮殿はハプスブルク家の居城であり、神聖ローマ帝国の本拠地であったところだ。フランツ・ヨゼフ1世やマリア・テレジアの時代に宮廷文化は頂点に達し、ウィーンの街は華麗な文化と芸術の中心地となったのである。とにかく巨大な宮殿にあきれかえる。建物からは巨大化しすぎて自らを滅ぼした宿命すら感じられるほどだ。部屋数は2500室を越えると言われている。いまはその中に図書館、いくつかの博物館、教会、ホール、スペイン騎馬館などが入っている。宮殿をざっと一周りしてみる。延々と続く石の壁、彫像の置かれた屋根、中庭をとりまく数え切れない窓、列柱やテラス、何もかもがかつては宮廷の権威を象徴するものであったのだろう。教会は「崇高の文化」を、宮廷は「華麗の文化」を築き上げたが、どちらも人間の盲目的な衝動につき動かされたのであろう。人間の持つ力が一点の権威に吸収されて溢れ出たものがこれらの文化である。現代はもはやこのような文化を産み出すことはない。現代社会はこれらの身分制社会の文化を歴史の彼方に葬り去ったが、今日の有り余る力は一体何に結晶しているのだろう。高層ビルや高速道路がそれだとしたら、現代文化はかつての王朝文化よりもはるかに非文化的であるように思われる。
宮殿内部と王立図書館を見学する。図書館もまた信じがたいほどに華やかなホールであり、見事な書棚が2階建てになって周囲の壁に並んでいる。世界で一番美しい図書館だといわれるが、「美しすぎ」て違和感を感じてしまう。
リング・シュトラーセは19世紀に市の城壁跡を取り壊して建設されたウィーン旧市街の周回道路である。リングに沿って大規模な都市改造計画が実行され、壮大な建物が次々と建設された。オペラハウス、国会議事堂、マリア・テレジア広場とその両側の博物館(自然史博物館、美術史美術館)、市庁舎、ブルク劇場、ウィーン大学の六つの建物が王宮を取り囲むようにして並んでいる。それぞれの建物はよく考えて設計されており、堂々とした落ち着きを湛えているが、無用の誇大さを感じさせず、ウィーンの都市景観を大変な迫力で飾り上げている。19世紀末文化の大輪の花であろう。往時は耳目を驚かせる華やかさであったろうが、今は周りの緑の中に溶け込んでウィーンの歴史的遺産としてしっとりとした佇まいのなかにある。
夕方6時半にオペラ座に行く。当日券の発売開始の時刻である。すでに100人近くの人が並んでおり、列の後尾に立つ。ところが、売り場のカーテンが開くと同時に"Ausverkauft !(売り切れ!)"の呼び声。一瞬、唖然とし、ついでやっぱりと思い直し、オペラ座を出る。並んでいた人のなかにはあきめきれずに佇んでいる人もいる。オペラは毎晩のように上演されているが、今日は週末のために満席なのだという。その足で夜のウィーン散歩に出かける。旧市街を斜めに抜けて郵便貯金会館へ。この建物は世紀末建築の代表の一つであり、現代建築のきっかけをつくったものだとされている。しかしなんという陳腐な建物! 若干の装飾を除けば今では何の変哲もない普通のビルにすぎない。壁面にはふんだんにアルミの鋲が打ち込まれている。何のために? 当時は銀よりも高価だったというから新規な輝きを誇ったのかもしれないが、私には郵便貯金で貯め込んだコインが壁に貼り付けてあるように見える。19世紀は建築物からその美的精神的な意味をはぎ取ってしまったのであろうか。本来、建物空間とは心が住むためのものであったが、その近代化と巨大化によって身体の機能のための空間、さらに事務空間に変質してしまったのである。
夜の市民公園を散策する。リングに沿って広がる市民の憩いの森で、ここにはシューベルト、ブルックナー、シュトラウスの像があり、夏には毎晩ワルツWiener Warzのコンサートが催される。モーツァルトの像はブルク宮殿の前庭にある。像の前の芝生は大きなトーン記号の花壇になっていて楽しい。ベートーヴェンの像は楽友会館ホール(ウィーン・フィルの本拠地)の公園にある。ホールの音響は世界一の評価とか。日程に余裕があればぜひ行きたかったところだ。楽友会館の近くにウィーン分離派の画家たちが活躍した分離派会館Secessionがある。小さな建物だが、ウィーン世紀末芸術のシンボル的存在である。屋根の上に金色球形の飾りがあり、そのために「玉ねぎホール」とあだ名されている。ここにはクリムトの「ベートーヴェン・フリーズ」がある。地下の壁面には例の見慣れた絵が修復されて壁いっぱいに描かれていた。しかしこのフレスコ画は見れば見るほど魅力が消えていき、いただけない。画集で見た「フリーズ」の方がまだましである。たいした絵ではないと判断した次第。
10月25日(日) 雨、降ったり止んだり
〈ウィーン紀行4〉
シェーンブルン宮殿へ。ハプスブルク王朝の栄華の頂点を象徴するものとして知られ、世界でもっとも美しい宮殿の一つに挙げられる。早朝の落ち着いた雰囲気がまだ漂っている宮殿正面に立つ。あいにくの小雨の中、人影もまばらだ。少し煙るように見える宮殿は、両翼に延々たる付属の建物を拡げて悠然と建っていた。部屋数は全部で1400以上あるという。ため息の出るような広さだ。マリア・テレジアによって夏の宮殿として建てられたものだが、その名はウィーンの華やかさをこの上なく高めてきたのである。
ガイド付きで内部の各部屋を見学する。1時間ほどで歴史に知られた部屋を見て回る。シェーンブルンの魅力はむしろその広大な庭園にある。とくに幾何学的な刈り込みの美しさはよく知られている。丘に登るつづら道、丘のテラスから眺めるウィーンの街の見晴し、森の中の遊歩道、リスの戯れ、まっすぐな並木道、植物園、動物園など。歩き周ると約3時間はかかるだろう。宮廷庭園の教科書ともいうべき模範ぶりと整形ぶりに圧倒される。ヨーロッパ庭園の素晴らしさと一面性をよく伝えて余すところがない。
午後からはヴェルデベーレ宮殿へ。丘の上には新宮殿、下には旧宮殿があり、いずれも今は美術館になっている。新宮殿は改装工事中であるが、ウィーン世紀末美術の展示で知られている。クリムト、エゴン・シーレ、ココシュカなどの作品がそれぞれ10数点ずつ展示されているが、それほど多くない。庭園、旧宮殿を散策して小休止。降り始めた雨のなかウィーンを離れ、南へと向かうアウトバーンに入る。
途中から西へと向かう一般道に入り、ザルツブルクへと向かう。国道ではあるが細い田舎道で、走る車も少ない。のどかな田園風景が次第に丘陵風景に変わって行き、チロルの風情が色濃くなってくる。真新しいアウトバーンに出たかと思えば、再び山の中の険しい道に変わり、道は激しい登り下りを繰り返して少しずつ標高を上げていく。 途中から夕闇が深くなり、その上霧が漂い始めた。道の両側には積雪が見られるようになり、ついには15cmもの雪の中を走るようになった。曲がりくねり上下する道を走り続けて、ザルツブルクSalzburgに着いたのが夜の8時過ぎ。チロル地方の風景を堪能したが、深い山中に入ると山の様子は日本とも差して変わらない。
ザルツブルクもまた山の中の都市である。街の背後には断崖が迫り、その上には威圧的な要塞がライトアップを受けて浮かび上がっている。街を二分する川の流れは美しく、速く、清らかである。断崖と川に縁取りされた街は、雨の夜のため人影もなく、幻想的で、このような山中にあることが信じられない位だ。明かりに浮かぶ建物は美しく、メルヘンのようである。DOM、大学教会、市庁舎、警察署、コンサートホールなどのある旧市街地は他のどの都市でも感じることのできない緊迫感を漂わせている。大地の裂け目から忽然と街が湧き出したという感じさえする。
モーツァルトの生誕地にふさわしい街の雰囲気だ。美しい店が並ぶ通りの真ん中にモーツァルトの生家Geburtshausがあった。明かるい黄土色の、彼の曲を彷彿とさせるような佇まいだ。古い家が川沿いの狭い土地に肩を寄せ合うようにびっしりと建ち並び、美しく保存されていて、200年前にタイムスリップしたかのような見事なアルト・シュタットの世界を作り出している。ザルツブルクは「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった街でもある。確かに世界でもっとも音楽的な響きのする都市の一つかもしれない。対岸には小さな宮殿があり、美しい庭園が広がる。夜のザルツブルクは山間の冷気のなかで、静かに安らう幻想の街であった。夜の街を行く青年の顔は確かにモーツァルトに似ていた。
10月26日(月) 曇りのち晴れ
〈ウィーン紀行4〉
今日の夜、石畑さんが来宅する予定である。夕方までにケルンに戻らなければならない。距離があるのでまっすぐにアウトバーンに入り、ミュンヘンへと向かう。バイエルン地方の風景も何度も訪れたので、親しいものとなった。すっきりとした景色が少し「乱れて」、交通量も増えてくるとミュンヘンはもう近い。しかし街に接近しても、日本の大都市の郊外のように開発の手が伸びて緑が失われていくというようなことはなく、まったくのどかな農村風景が保たれている。ところがミュンヘンの周回道路に入ると交通が俄然混雑し、ついには緑の平原の中で大渋滞に巻き込まれてしまった。これがドイツのもうひとつの姿なのだ。家もほとんど見られない牧草地の中のアウトバーンを果てしない車の列が埋め尽くしている。思わぬ時間を消費して周回道路をようやく脱出、ふたたびのどかになったアウトバーンをウルムUlmへと走る。
ウルムもまたドイツではぜひ訪れておきたい街の一つであった。デカルトが11月の寒い一日を炉端で過ごし「Cogito ergo sum」を発見したのは、従軍でこの街の近郊に来ていた時であった。ウルムのDOMの塔は石造建築としては世界で1番高い(163m)。ケルンの塔は3番目(157m)である。街に車を止めるとまっすぐにDOMに向かった。ドイツ的なゴシック建築で堂々としているが、やや造りが単純素朴という印象を受ける。建物はいかにも古みを帯びているという感じで、石の破損が気になる。塔はケルンのように圧倒的な石の洪水という感じではなく、細く鋭角的で、天に向かって突き刺さるように伸びている。螺旋階段は狭くて急である。足元の明かり窓にはガラスもネットもなく、真下の町の屋根が本当に自分の足の延長線の先に見える。ほっそりとした塔を支える石組みは見事である。細い石を鉄骨のように組み合わせ、中心線に力が集中するように工夫してある。とくに尖端部の石組みは骨格構造そのものであり、その幾何学的な組み合わせは感動を誘うほどである。これだけの細さでよく倒れないものだと感心する。塔の上で冷たい風に吹かれ、ウルムの街と周りの緑をしばらく眺めて、車に戻る。時間がないので街の散策は省略。
今回の旅行の帰路にはテュービンゲンTubingenにもよる予定であった。とくにテュービンゲンはゆっくりと訪問したかったが、しかしそれも不可能となった。テュービンゲン大学はドイツ屈指の大学であり、、シェリング、ヘーゲル、ヘルダーリンたちが学んだことでも知られる。テュービンゲンは一日ゆっくりと来なくてはならないと思っていたが、先送りしすぎた。今回立ち寄らなければ滞在中にやってくることはもう不可能だろう。アウトバーンから小一時間も南に向かえばテュービンゲンの街に着くことはわかっているが、着いてもゆっくりと見て周る時間がない。いつの日かゆったりと滞在しに来よう。そう思い直してテュービンゲンをかすめ、シュトットガルトの市街地を疾走して、一路ケルンに向かった。延べ2200kmの行程だった。 (太田直道)

























