茅原は日本の原風景 農家の生活を支えてきた植物
ススキの白い穂が野原でゆれています。「すすきのほ」という語感から、詩人はこんなイメージを見せてくれます。
初冬に立つススキの穂
ススキは『万葉集』(783年)では秋の七草として数えられ、古くから和歌にも詠まれてきました。人々の暮らしとも結びつき、ススキの群れ生える茅原(かやはら)は、日本の懐かしい原風景の一つになっています。
茅原のカヤ(茅・萱)ということばは、植物の名前ではありません。イネ科のススキ、ヨシや、カヤツリグサ科のスゲなどを総称することばで、昔から、いわゆる茅葺(かやぶき)屋根の材料として使われてきた植物のことをいいます。その茅原の代表的な植物がススキです。
ススキはイネ科ススキ属の多年草で、日本各地に分布し、日当たりの良い山野や草原のどこにでも見ることができます。
ススキは冬になると地上部は枯れてしまいますが、地面の下では根茎や根が生きていて、春がくると茅原で芽を出します。
春に茅原で芽を出し、成長するススキ
ススキの生える茅原は、日当たりがよいので、タチツボスミレ、キジムシロ、ノアザミなどの草丈の低い春の植物も一斉に芽を出し、花を咲かせて、急いで実を結んでいきます。ススキは、春の植物たちの背丈を追い越して、伸びていきます。
ススキはすくすく伸びて、やがて梅雨を迎えます。降り続く雨はススキの成長を助け、茅原ではススキの長い葉がしだいに目立ってきます。
梅雨から夏にかけて、ススキの成長は旺盛です。
夏になると、草丈はさらに高くなります。茅原では、オカトラノオ、シシウド、コオニユリなどの草丈の高い夏の花たちも伸びて花を咲かせます。
ススキはこれらの花を追い越して成長し、茅原は緑の海のようになります。
夏の盛りが過ぎ、茅原に秋の風が吹きわたるころ、ススキの花穂が伸びてきます。花穂を出し始めのころは、真っすぐ立ちあがり、しだいに横に開いて、小さな花を咲かせる準備をします。花穂がしなやかに風にゆれる姿は美しい眺めです。
最初はまっすぐ しだいに開いて もっと開いて 穂には小さな花が
秋の七草の始まりは、『万葉集』にある山上憶良の歌に由りますが、ススキは「尾花」の名で詠まれています。
萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(を
みなえし)また藤袴(ふぢはかま) 朝貌(あさがほ)の花
山上憶良(万葉集巻8-1538 )
ススキの花穂や綿毛の種子の穂から、当時の人々は狐や狸などのけもののしっぽを連想していたのでしょう。
花穂を広げたススキ 晴れた日のススキの光景
ススキの花は花びらもガクもなく、風の力で花粉を運んでもらう風媒花です。
雄しべと雌しべは、苞頴(ほうえい)と呼ばれる殻に包まれていて、そこから姿を現します。
1つの花には雄しべは3つ。ごく細い糸につながる黄色いものが雄しべの葯です。葯には花粉がたくさんつまっています。白いブラシのようなものが、雌しべの柱頭です。
ススキの花 茶色のものは花粉を出し終えた葯でしょうか。
ススキの花穂を見ていると、黄色がかったススキと、紫色を帯びたススキがあることに気がつきます。ススキの穂全体が紫色を帯びているものは、ムラサキススキと呼ばれているようです。
紫色のススキの花穂が突然風にゆれて、大量の花粉が飛び散りました。しばらく空中を漂い、あたりに吸い込まれるように消えていきました。
1つの花穂から飛び散る花粉は大変な量です。1本のススキだけでどれだけの量の花粉を飛ばすのでしょうか。風媒花の花は花粉をつくるためにすべてのエネルギーを注いでいるという感じがします。
ススキの花は、雄しべが花粉を出し終えてからブラシ状の雌しべの柱頭が成熟し、雄しべと雌しべの成熟時期をずらすことで、自家受粉を防いでいるのだそうです。
紫色を帯びたススキ 飛び散る花粉 紫色の花
ススキが穂を出し始める時期に、ススキの根元で紅色の花を見つけたことがありました。ススキの根に寄生するナンバンギセルと呼ばれる一年草の花でした。
ナンバンギセルの種子はとても微細で、風に浮遊し広く飛んでいきます。寄生植物という性質上、ススキなどの宿主の根にたどりつかなければ発芽できません。幸運にもたどりついた種子はその根から栄養をもらって成長し、花の時期になると、突然地上につぼみを伸ばして、花を咲かせます。
ナンバンギセルの花(草丈20㎝ほど) ススキの根に寄生
『万葉集』ではただ一首「思ひ草」という古名で詠まれている歌があります。
現在、これがナンバンギセルであるとする説が有力です。
道の辺の 花が下の 思ひ草 今さらさらに 何をか思はむ
作者不詳(万葉集巻10-2270)
ススキの下に人知れずひっそりと咲く「思い草」。愛しい人を陰ながらに思う一首のようですが、このころからナンバンギセルがススキに寄生することが知られていたのでしょうか。
ナンバンギセルは「南蛮煙管」と書きます。桃山時代に南蛮からタバコとともに渡来したキセルの雁頭に花形が似ていることに由ります。俳句の世界では「南蛮煙管」や「きせる草」ともに、今でも「思い草」ということばは、季語として生きています。
風になびくススキの穂
ススキの花が終わると種子ができます。種子は熟すと白い毛が生えて、穂全体が白銀色の穂になっていきます。
ススキの種子には綿毛があって風に乗って飛んでいきますが、簡単に穂からは離れません。強風の時を待って少しずつ離れていきます。日によって変化する風向きを利用して、できるだけ遠くに広範囲に飛ばすことをねらっているのでしょう。
種子の旅立ちのために、ススキの親がしていることは、きわめて合理的で自然のしくみにかなっています。
白銀色に輝く種子 遅くまで残る種子 種子の形
ススキなどが生える茅原は、かつては農家の人々にとっては大切な場所でした。
牛や馬を飼うための放牧地になり、ススキは年に数回は刈られて、栄養のある飼料になりました。畜舎に敷かれたススキは堆肥として使われ、田畑の貴重な有機肥料となりました。
山で炭焼きが行われると、ススキは炭俵の材料となり、そして何よりも茅葺(かやぶき)屋根に使う材料として使われていました。
茅葺き屋根の家屋は、断熱性と通気性があって、夏に涼しく冬に暖かいため、四季のある日本の風土に適していたのです。
ススキの草原は、毎年草刈りや野焼きが行われることで維持されてきました。
冬の終わりごろに、ススキの茅原には火が放たれ、野焼きが行われます。枯れ草や小さな樹木は残らず燃えて一面の焼け野原になりますが、焼け跡の灰は肥料になり、地面は日当たりがよくなります。ススキは地面の下では根や地下茎が生き続け、ススキの新たな再生が始まります。
茅原を放置すれば、しだいに樹木が生えて森林へと遷移し、ススキは姿を消していきます。農家の人々は草刈りや火入れを定期的に行いながら、茅原の状態を維持し、ススキを暮らしのなかに生かしてきたのです。
ススキの生える茅原は里山や田園風景と同じように、人の生活に密着した二次的な自然の風景です。本来の自然とは異なりますが、その地に生きる人々の、自然を敬い、その恵みに感謝し、自然の循環のしくみにそった暮らしがつくりだした風景です。私たちが日本の原風景に出会って、心安らかさを覚えるのは、そこに自然に対する人間の謙虚で誠実な暮らしの営みを感じるからなのかもしれません。(千)
◇昨年11月の「季節のたより」紹介の草花