mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風33 ~ 私の遊歩手帖14 ~

 怨恨的復讐心か共苦か3

 高橋和巳は高校時代ニーチェショーペンハウアーキルケゴール等を耽読したそうだ。彼の指摘した「前衛者意識‐怨恨的復讐心‐権力欲望の暗き三位一体(トリアーデ)」がニーチェからの大きな刺激の下に生まれてきた視点なのかどうか、これは今のところ私には確かめようがない。

 だが、以下紹介するニーチェの視点との間には期せずしての一致がある。
 これは確かだ。ニーチェの『道徳の系譜』に次の一節がある。

 (前略)これに反し、ルサンチマンの人間が思い描くような<敵>を想像してみるがよい。──そこにこそ彼の行為があり、創造がある。彼はまず<悪い敵>、つまり<悪人>を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像として<善人>なるものを考えだす、――これこそが彼自身というわけだ![1]

 以下は拙著『フロムと神秘主義』でおこなった私の解説。
―― 必要は発明の母である。ここにニーチェが描きだしている問題とは、《怨恨的人間》とは《敵》を自分のために必要とするがゆえにそれを創りだす人間であるということだ。《怨恨的人間》においてオリジナルな点、彼にとっての真の「行為」、つまり「創造」とは、《敵》の創造=捏造にある。では、何故に《怨恨的人間》は《敵》を創造=捏造しなければならないか? それは、《怨恨的人間》は自分の意識の前に自分を《敵》に圧倒的に道徳的に優越した存在たる〈善人・正義人〉として登場せしめる必要があるからだ。彼の自己意識の核は劣等感にある。だからこそ、完璧なる劣等性・道徳的劣性と一つに撚り合わされた〈悪〉としての《敵》という存在が必要となる。自己の圧倒的道徳的優越の意識が、これまで自分に貼りついていた自分の劣等感を拭い去り、この道徳的に見下せるという意識の優位がいまだ果たせぬ《敵》への復讐を耐え忍ぶことを可能にさせる。(機会を得れば、その復讐心は一挙に暴発へと直行しよう)。つまり逆にいえば、自分に〈善人・正義人〉という表象を与えることが絶対に必要となる。その場合この表象の案出は〈悪〉としての《敵》という表象の創造と背中合わせになっている。ここで《他者・異者》の概念を導入して右のニーチェの把握をもう一度なぞるならこうだ。

 ――「悪人」はもちろん「善人・正義人」の《他者・異者》である。しかもマニ教的観念においてはこの他者性・異者性は絶対的なものである。つまり、まったき《他者》、頭の先からつま先まで自分とは異なった存在、《彼のなかに我を見、我のなかに彼を見る》いかなる相互性も発見し得ない相手、異邦的存在、「反=人間で異種族」・「絶対他者」である。とはいえ、この「絶対他者」が「基本概念」なのであり、そこから出発して自分がその「対照像」として把握されてくるのだ。つまり、善人・正義人たる我は、我の《他者・異者》たる悪人のその《他者》として把握される。また善人・正義人がこの基本概念たる悪人の「摸像」だというのは、悪人がまったき悪の化身と捉えられたことと同じく、善人・正義人はまさに悪の要素を一分たりと含まないまったき善と正義の化身として構成されてくるからだ。(かかる善悪二元論は「マニ教主義的善悪二元論」と呼び得る)

 ついでに次のことも指摘しておこう。サルトルは『弁証法的理性批判』において、右に紹介したニーチェが抉り出した怨恨的人間が採る自己把握の回路を「他性(アルテリテ)」の回路と呼び、それが個々の暴力的事象の発生源となる基盤的関係性(昨今の社会学用語を用いれば「構造的暴力」)にほかならないとした。いわく、 

暴力とは、(中略)人間の諸態度の恒常的な非人間性のことであって、要するに、各人が各人のうちに〈他者〉および〈悪〉の原理を見るようにさせるものなのである。それゆえ(中略)殺戮または投獄といった、目に見える実力行使のおこなわれることは必要ではない。それどころか、実力行使の企図の現前する必要さえもない。生産諸関係が不安と相互不信の風土のなかで、『〈他人〉は反=人間で異種族にぞくする』と信じようといつも身構えている諸個人によって打ち立てられ、追求されさえすれば、換言すれば〈他者〉はどんなものでも〈他者〉たちに対して〈先に手をだした者〉としていつもあらわれることができるのであれば、それで十分なのだ(傍点、清。上記の一節を、たとえば「『〈黒人〉は反=人間で異種族にぞくする』と信じようといつも身構えている白人たち」と読み換えれば、サルトルのいわんとすることは明白となろう)[2]

純粋な相互性においては、私と別な者(他者)も、また私と同じ者である。ところが稀少性によって変容された相互性においては、その同じ人間が根本的に別の者〈他者〉(つまり、われわれにとっての死の脅迫の保持者)として現れるという意味において、その同じ者がわれわれに反=人間として現れる[3]

なお付言しておこう。ここにかの「共苦」という言葉を持ちだせば、「共苦」こそは、人間の抱える苦悩を焦点にして、この「彼のなかに我を見、我のなかに彼を見る」という「純粋な相互性」への感受性が発動したときの、その姿にほかならない。だからこうもいえる。共苦と共歓は表裏一体であり、互いに相手を支えあう、と。生の歓喜を知るからこそ生の苦悩に想いを馳せ、またその逆でもあるところの、互いを掘り下げあい相乗の関係にもたらす営み、これこそ古来民衆が彼らの生活の実践の不可欠なる精神的・文化的契機としてきた民衆歌謡・舞踏・祭儀の原点にほかならない、と。(前回「Alright」の反語性について述べたとき指摘したように、この面においても黒人のそれは二十世紀のアメリカ史にとって象徴であった)。

 なおここで高橋については次のことを指摘しておこう。

 実は彼は日本最大のスラム地区といわれる大阪西成の釜ヶ崎に近接する地域で生まれ育った人間であった。彼の生来の頭脳の良さと中学生の時疎開先で偶然覚えた読書の興奮と耽読の習慣は彼を後にとんでもないインテリへと形成したが、彼の家庭自体は決してインテリ家庭ではなかった。元は篤農家であった彼の祖父は、村を捨て、何故か西成に出てきて町工場を開き、人生を一変させる挙に出て、孫の彼は西成で生まれ育つ。彼はその生育の過程を通して得た観察に立ってこう述べている。その時彼の念頭にあるのは、被差別への怨念が被差別者をしてより下位の者への共苦者に変えるどころか、強烈なる差別者へと変貌させる「抑圧の下方移譲」の心理機制(メカニズム)にほかならない。

私の釜ヶ崎の経験から申しますと、未解放部落の人、朝鮮の人、それから日雇い極貧層、それから、そこからはい上がっていく少数の努力者とですね――私のおやじははい上がっていったようですけど――、そういう四つどもえのものすごい憎悪関係があるんですよ。(中略)ここのところをよく知ってないと、差別の問題をとらえそこなうと思うんですけどもね。非常に近しい状態にある者同士が激烈に憎悪差別をしあうということを、どうするかということですね。[4]

 この視点を先の白人警官によるフロイド殺しに援用すればどうなるか? プワー・ホワイトこそは黒人への最も強烈なる差別者であることは、アメリカ黒人差別問題史のいわば定石的認識であろう。かの白人警官がプワー・ホワイト出身である可能性は十分にある。彼が、白人社会でプワー・ホワイトとして抱え込んだ怨恨を耐え忍ぶために、「黒人」という「敵」を創造することで己を己の前に「正義の代理人」として登場せしめ、そうすることによって白人社会ではついぞ手に出来なかった「権力」を少なくとも黒人に対しては手にし、だからまた常に黒人を己の権力行使の対象として必要不可欠とする「権力欲望」権化に成り果てたのではないか? その「権力欲望」の充足快感が彼をして己の膝によるかのフロイドの頚部圧迫の8分間へと誘ったのではなかったのか?

 ついでに私はこう付言したい。私の記憶のなかでは、アリス・ウオーカーの小説『カラーパープル』(スピルバーグによって映画化)、またマイケル・ジャクソンの自伝的証言(父のとんでもない暴力的なステージ・ファーザー振りについての)と彼のショート・フィルム「君を感じる道」や「Bad」は、白人に抑圧された黒人男性の怨念が、たとえば妻や子に対する激しい家庭内暴力として、あるいはすぐに街角での仲間内の喧嘩沙汰へと激発するという悲劇、これへの悲しみの証言なのである。くりかえせば、彼らは抑圧され続けてきた人間であるが故に、怨念がどういう歪んだ自己正当化欲望と一つとなったねじ曲がった暴力となって発現するか、それを我が身に即して知る者でもあるのだ!

 遊歩の途中でテレビからニュースが入る。
 民主党のバイデン大統領候補ならびにその片腕たるカマラ・ハリス副大統領候補が大統領選に臨む彼らの精神的合言葉、いいかえれば反トランプの合言葉として、「分断に反対し共感を!」のキーワードを掲げたという報道が。

 まさに期せずして。然り、然り!
 「分断」に断固反対する! アメリカを「分断」してはならない!
 では、「分断」推進のメンタリティーとは何か?

 まさにそれは、あのニーチェが鋭くも分析してみせた、あの「我こそは正義なり!」の独善的自己正当化の欲望が生む、自閉化と一つになった頭ごなしの他者憎悪、まさにあのトランプスタイルに凝縮されるメンタリティーではないのか! 

 この「分断」のメンタリティーに合衆国の人々それぞれが陥り呪縛されるに至ったならば、それはまさに「合衆国」という理念自体の、世界に冠たる「サラダボール社会」たる国民的自負の、自己崩壊にほかならない!
  そしてだからこそ、バイデンとハリスは「分断」のメンタリティーに真っ向から対抗するメンタリティーとして「共感」を掲げたのではなかったのか? サルトル的にいえば、あの「純粋の相互性」のヒューマニズムを。彼らは、その力の再獲得こそが、今日のアメリカの精神問題の中核であると問題提起したのだ。
 「共感」のいわば震源地、最も身に迫ったその感情の支柱、そこにこそ「共感」が向けられ届いて欲しいその感情とは、「苦悩」だ。 

 つまり彼らが掲げた「共感」の核心は「共苦」にある。「共感」力とは何にもまして「共苦」力である。
 周知のようにハリスは、父を黒人とし母をインド人とする。世界最大のコロナ感染者を産み出した合衆国において、その死者の6割は黒人ならびにヒスパニック系に集中しているという事態、そこに渦巻く苦悩への「共感」・「共苦」、それを象徴する人物として彼女は登場する。またバイデン候補はかつて交通事故でその妻と娘を一挙に喪い、また二人の息子はかろうじて生き残ったにせよ重症を負ったそうだ。そしてバイデンは、回復した彼ら二人を毎日自ら車で往復4時間かけて学校に通わせ続けたそうだ。両候補は自らが苦悩のなんたるかを痛感してきた人間だからこそ、「共苦」を己の政治的倫理の根底に置くことができる人物として登場する。

 歴史はおのずとその主人公を生むという。その核心をなす選択を真っ先に問いかけ、真っ先に生きてみせる主人公を。その選択を指示する言葉とともに。

 アメリカ合衆国は煮詰まりだした。
 では、我が日本は?
 「煮詰まる」という言葉はまだ我々の言葉ではあるまい。
 アメリカを片目で見ながら、またしても遊歩に突き戻される。(清眞人)

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[1]善悪の彼岸道徳の系譜』、ちくま学芸文庫、397頁。

[2]サルトル竹内芳郎矢内原伊作訳『弁証法的理性批判』Ⅰ、人文書院、1962年、173頁。拙著『実存と暴力――後期サルトル思想の復権』第三章「暴力論としての『弁証法的理性批判』」、御茶の水書房、2004年。『サルトルの誕生――ニーチェの継承者にして対決者』第Ⅱ部・第六章「サルトルの暴力論の源泉としてのニーチェ」、藤原書店、2012年。

[3]同前、152頁。

[4] 高橋和巳「文学の根本に忘れ去られているもの」、所収『暗黒への出発』徳間書店、135頁。