怨恨的復讐心か共苦か 2
ほんとうに驚きだった、あの2本のミュージック・ビデオは。あの逆説性のセンスは。
「Alright」ではこうだ。――警官たちに追われ追われ、遂にハイウエイの巨大な街路灯のサーチライトを吊るす横木の上に辛うじて逃げ切ったラマー。その虚空に独り喘ぐように立つ姿は、「自分に自信が持てねんだ」ってことの「姿」そのものだ。とてもじゃないが「Alright」のはずがない! とどのつまりは、白人の老いた警官の軽い手遊びの「パン!」で撃ち落とされるという惨めな素寒貧のThe End。
墜落してゆく撃たれたラマーの笑顔のメッセージ、「みんな、平気だ、心配すんな、大丈夫、大丈夫」の何たるジョーク性! その反語性!
敗残の惨めな孤独死が「大丈夫」のはずがない! 射的遊びの的として殺される屈辱が「大丈夫」のはずがない! ジョークに託して、ビデオ「Alright」が告発するのは今日のこの現実だ。黒人の生命の軽さ、ゴミ同然の!(2020年9月12日現在、アメリカ合衆国のコロナ感染者数は約639万7,000名、死者数約19万2,000名。遡って6月時点で、たとえばシカゴでは死者の6割が黒人、黒人とヒスパニックの死亡率は白人の6倍以上、米ブルッキングス研究所)。とはいえ、逆説性は実は二枚重ねだ。まさに反語的に表現されたその素寒貧の現実を、もう一度「みんな、平気だ、心配すんな、大丈夫、大丈夫」と笑い返す、絶命寸前のラマーのメッセージ! 合衆国建国以来、黒人はそれを歌い返し、踊り返し、ふてぶてしくやってきた、決して負けることなく、「みんな、平気だ、心配すんな、大丈夫、大丈夫」!
音楽とは魂のパワー、躍動そのものだ。黒人音楽のパワーなくしてジャズとロックの誕生なし! パワーをもらったのは白人で与えたのは黒人だ!
こうした逆説性の構造は「This is America」にも顕著だ。
そこには白人は一切登場しない。ガンビーノは同胞の黒人をまったく問答無用冷然と殺しまくる。しかも、平和、愛と友情、そして魂の自由の象徴としての音楽とダンス。この三者の特別仕立ての場であるパーティー会場で。あり得ない殺人! しかもその問答無用と素っ気なさ。殺すことを何とも思わぬ殺人。殺すことに自分は傷つくことのない殺人。黒人の世界では、おそらく白人の世界でも、あり得ないそんなクールな殺人。だが、それを、白人は相手が黒人なら平気でやってるということ、ここがポイントだ! 人間同士のあいだではあり得ない問答無用の冷然さ。そうさ、黒人は白人にとっては人間ではないのさ。だからあの殺し方ができるんだ! 「警察はイカレちまっている。俺の街は銃だらけさ」!
この反語的メッセージが「This is America」だ!
突然、私は思い出す。前回書いたことだが。BLM運動のニューヨーク地区責任者の言葉。「アメリカが我々の要求に反応しないなら現在のシステムを焼き払う。(中略)比喩的な表現か、文字通りの意味かは、解釈に任せる」。
そして、次のことに気付く。この2作のビデオに出会ったそもそものきっかけは、白人警官に殺されたジョージ・フロイドの葬儀の集会で、彼のガールフレンドのコートニー・ロスと彼の弟のテレンスの発言を確かめたかったことにあったことを。
ここで、なのだ。私が、前回取り上げた高橋和巳の小説『憂鬱なる党派』に登場するあの言葉を引きたくなるのは。ロスとテレンスの言葉が発せられる場、それは、高橋が藤堂という人物に語らしめるあの場、つまり「何十億となく生きている人類の中の、どうした偶然からか、ふと知り合った少数の人々との交情」の場である。運命がフロイドに与え、故にまたロスとテレンスに与えた、彼らの「交情」の場である。高橋にいわせれば、その場は、「共苦の観念――いや感情」を彼らに「日常性の泥沼の中に咲くただひとつの蓮の花であり、思想の花」として贈与する場なのであった。
そこでは一個のかけがえのない取り換え不可能な実存者として、固有名詞としてのフロイド、ロス、テレンスの三人が「交情」しあうのであり、振り返れば、この「交情」の場こそ、かの2作のビデオが意識的にラマーとガンビーノから剥奪した場なのである。ラマーもガンビーノもそこでは完璧な孤独者として登場する。ラマーの喘ぎ喘ぎの空中遊泳と撃ち落とされての墜落死は徹底的な孤独者のそれだし、ガンビーノの犯す銃撃の問答無用の冷酷性は彼の徹底的なる孤独性と一つのものだ。彼らは無関係という関係しか生きることのできない孤独者である。つまり高橋的に言うなら、そこには《共苦し、共苦される》という関係性はどこにも登場しない。だから、それが「思想の花」となって咲く可能性、つまり、「共苦」という関係原理がその人間の「生き方」となり、世界、他者、そして自己自身に対して採る、その人間の根幹の「態度」・「向きあい方」にまで成長し確立するということがない。
ここで高橋が藤堂に語らしめた「〈廃墟〉を見てしまった人間」という言葉を引っ張り出すなら、アメリカ合衆国において黒人は、誰もかれもが、多かれ少なかれ「〈廃墟〉を見てしまった人間」という側面を白人の数倍する濃度で抱え込んできた人間たちである。
そして、かの2作のビデオが前景に押しだすのは、高橋の言うかかる人間に許された「三つの生き方」のうちの二つ、すなわち、「廃墟を固執し、一切を廃墟に還元する破壊的な運動に身を投ずるか、さもなくば、廃墟のイメージを内面化し自己自身を無限に荒廃させてのたれ死にするか」、この二つである。
ガンビーノの冷酷無比の「無関係」を地で往く銃撃振りは合衆国における黒人に対する白人の差別主義者のいわば反語的表現であるとともに、同時に実は、アメリカ建国以来被差別に苦しんできた黒人の無意識のなかに隠された「廃墟を固執し、一切を廃墟に還元する破壊的な運動に身を投ずる」攻撃欲望の象徴表現でもある。ロスとテレンスがフロイドの名において拒絶した、あの「火には火を」の攻撃欲望のそれでもある。そして、射的遊びの的として撃ち落とされるラマーの孤独死は、「廃墟のイメージを内面化し自己自身を無限に荒廃させてのたれ死にする」もう一つの生き方の象徴表現である。
いうまでもない。他方、高橋の言う「第三の生き方」、「廃墟の中にも営まれつづけた悲劇でもない喜劇でもない日常茶飯」の生活のリアリティーに根を降ろし、そのリアリティーを「頑固に守りつづけること」が生むそれ、かの「共苦」の眼差しと態度こそはロスとテレンスが代表しようとするものだ。
そして彼らの暴動拒否の宣言は、高橋的にいえば、「その日常性の地点から、他の者がおかされつつある虚妄の掛け声、虚妄の理想、虚妄の希望と絶望を批判し拒絶すること」にほかならない。かの「火には火を」の、その「火」が己の金看板として掲げる「掛け声」・「理想」・「希望」・「絶望」を「虚妄」として批判し拒絶することに。
次の言葉も。私は前回紹介しておいた。高橋は『悲の器』という小説のなかで主人公の典膳の口を借りて、左翼学生運動の活動家たちを観察して得た彼自身の見解を吐露していた。くりかえそう。
成功しなかったとき、払った犠牲の大きさが、とりもどせない人生の一回性の重みを加えて眼前に拡大され、その人を怨嗟的人間にする。多くの失敗者が憎悪のかたまりになっていったのを私はみている。不幸にして、私はときおり、事あって職業革命家を志す諸君にあうとき、その人々の三人のうち二人には、その瞳のうちにすでに失敗者・落伍者の乳濁の色のあるのをみせつけられる。(中略)そういう人々が醜い権力欲にとりつかれて人をおとしめようとするのだ[1]。
私は。この観察はきわめて重要な視点であると考える。本格的な議論をする余裕はもちろんこの遊歩手帖にはない。断言することだけがここでは可能だ。私は拙著『高橋和巳論 宗教と文学との格闘的契り』において、上の典膳の言葉が指摘する心理連鎖を「前衛者意識‐怨恨的復讐心‐権力欲望の暗き三位一体(トリアーデ)」と名づけ[2]、後に或る文書に大略こう書いた[3]。
――二十世紀の革命運動を振り返る時、悲劇的にも、それはこの「暗き三位一
体」が形づくるいわば心理的罠の内面的克服に成功したことはほとんどなく、逆
にこの罠の虜となって自らを台無しにした事例ばかりが顕著である。いわゆるマ
ルクス・レーニン主義に基づく革命運動も、昨今のIS等のイスラム原理主義運動
も、およそ何らかの〈革命〉を呼号する運動はみなこの問題を抱え、悲劇的挫折
を繰り返している。
敢えていえば、今我々が眼前にしている合衆国におけるBLM運動もまたこの危険から自由ではない。ただし、さすが21世紀の「今とここ」で生じている運動として、上に記した悲劇的な自覚は20世紀よりはるかに強く運動参加者に分有されていると思われる。
ただし、これも繰り返しとなるが、BLM運動のリーダーの一人であるニューヨーク地区責任者はこう言い放っている。
アメリカが我々の要求に反応しないなら現在のシステムを焼き払う。(中略)比
喩的な表現か、文字通りの意味かは、解釈に任せる。
かつてエーリッヒ・フロムは『正気の世界』でこう指摘した[4]。
――危機の時期はまるでパンドラの箱を開けてしまったかのように、人間の無意
識のなかにしまいこまれていた様々の破壊的衝動・非合理的情念・怨恨的復讐心
等が噴出し、それまで、それなりに合理的にルールを重んじ運営されていたかに
見えていた社会的秩序を大きく動揺させ破綻に追い込む危険性が顕著に増大す
る、と。
また、人間の抱く、とりわけ破壊的情念の在りよう、つまりその形成の主なるパ
ターン、それが無意識の底へ隠される経緯とその形、逆にそれが発現する際の在
りよう、その切っ掛けや被る仮面の在りよう、破壊的情念へと人間が突き進む際
の自己欺瞞の特有のパターンの分類、等々、これらの諸問題の考察こそが精神分
析学の仕事である、と。
この点で、私は今「怨恨的復讐心」をめぐって上にフロムが指摘した精神分析学的考察が始まる経緯、その端緒が誰によって切り開かれたか、この問題に大きな関心を抱いている。私見によれば、その開始者はニーチェなのだ。
次回、私はニーチェへの私の遊歩を記すつもりである。(清眞人)
※「怨恨的復讐心か共苦か 1」は、こちら から
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[1] 高橋克巳『悲の器』(『高橋克巳作品集2』)河出書房新社、1971年、142頁。
拙著『高橋和巳論 宗教と文学との格闘的契り』、74‐75頁。
[2] 同前『高橋和巳論 宗教と文学との格闘的契り』328~332頁。
[3] 上の拙著の「総序」の「四 廃墟に次ぐ廃墟たる『二十世紀』、あるいは廃墟
となった『革命』」でも同趣旨の指摘を記した。