mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風35(葦のそよぎ・「本来的自己」の逆説)

疎外は抑圧の諸帰結の一つであるどころか、疎外は抑圧の一つの因子である。疎外ということで、われわれは、人間が自己自身、他者、および世界とのあいだに導入する諸関係のあるタイプを理解する。すなわち、疎外においては、人間は「他者」の存在論的優位を定立するのである。〈他者〉とは、特定の人間のことではなく、一つのカテゴリー、あるいはそういいたければ、一つの次元、一つのエレメントである。〈他者〉として考察されるべきなんらかの特権化された対象ないし主体というものは存在しない。まさに、あらゆるものが〈他者〉となりうるし、〈他者〉はあらゆるものでありうる。〈他者〉とはまさに一つの存在様式なのである。・・・・・・〈他者〉の上にもっぱら立脚している世界観のなかでは主体はみずからのあらゆる投企や実存を彼でないところのものから派生させるのであり、彼のものとしては存在していないものからそれらを引きだすのである。〈他者〉が実体であり、〈自己〉は偶有的なもの、ないし現われとなる。
                    (サルトル『道徳論ノート』より)
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 われわれが「解放を求めて」という場合、それはある価値なり意味の実現を求めてのことだろうか、それとも反対に、まずもって価値なり意味の支配からの離脱こそを解放と呼ぶべきなのか。これは簡単に答えられない。しかし、解放とはそもそも何であるかと問う場合避けては通れない一つの本質的問題がある。

 われわれは「意味ある人生を、価値ある人生を」と言う。哲学者はこう言う。人間とは意味を欲求する動物であると。この言葉にあっては解放とは自己実現のことだと、そう了解されている。もとより、実現されるべき自己を問題にするのはやはり自己、この私である。つまり私は自分を、この言葉において、実現されるべき価値としての自己とそれを欠如するが故に欲するところの自己とに分かったうえで、前者によって後者を意味づけるわけである。この価値としての自己が自己の意味であり、自己を正当化するものであり、自己に存在の権利を与えるものであり、かくてそれは「本来的自己」とも呼ばれる。この本来的自己の実現への非本来的自己を離脱することが解放であると、そう了解される。

 だが、それにしてもこの「本来的自己」とは何であるのか、それは実現の暁には完成され完結した一つの存在となるものであろうか。ないしまた、それは内容的に明確に規定されるある存在なのだろうか。

 ところが、ここで視点をかえて、この「自己実現」という解放の意識が生きることになるその関係性の構造自体を問題にするならば、そこにはどんな問題が浮かび上がるだろうか。その時われわれはそこに一つの権力関係をとらえることにならないだろうか。つまり問題とはこうである。——たとえ「本来的自己」が何であるにしろ、この自己実現という意識においては私は関係性としてはこの「本来的自己」を私にとって一つの権力として見出しはしないか、ということである。あるいは、この関係性はそれ自体としては抑圧的性格を宿すものではないか、ということである。
 というのも、サルトルの言い方を借りれば、この「本来的自己」との関係において私は私を「他者の他者」としてとらえることになるといわねばならないからだ。「本来的自己」は私がいまだ実現していない自己として私にとって他者である。そしてこの場合、この他者こそがわたしの本質をなし私を意味づけるものとして、私がそこから出発して位置づけられるものであり、その意味で私は私をこの他者の他者として(つまりこの他者の優位性の下に)とらえるのである。いいかえれば私は私をこの「本来的自己」に支配され服すべきものとしてとらえるのだ。

 「本来的自己」という観念が曲者である。というのも、この観念はそれが「非本来的自己」に対する時は否定性の運動として、したがってまた解放の運動としてあらわれるが、みずからを積極的に立てる時は、いいかえれば他者として立つ時は私がそこに到達することを待っている既に完成済みの存在、所与としてあらわれるからだ。そのことで、この観念は出発点において要求した私の解放努力、いいかえれば自由な創造という企てを結局無効にしてしまうのである。それは、私に価値と意味を授けるものとして、むしろ私がそれへと強制されてしかるべきものとしてあらわれ、私の創造的自由に嫌疑のまなざしをむけるものとなるのだ。
 「本来的自己」という言葉がいかに倫理的に高潔な響きをもとうと、またひとが各々この言葉になにを託そうと、この観念自体が呼吸している関係性にはそれ自身の力学がひそんでいる。それで、この言葉は、往々にしてその機能においていわば自分でも思ってもみない仕方で抑圧の言葉になりもするのである。

 人間はなるほど意味を渇望し欲求する動物である。だが、だからこそこの渇望のなかで与えられた価値や意味にたやすく飛びつき、みずからをそれによって呪縛することを欲しもするのだ。「本来的自己」という言葉はその意図からすればそうした所与の価値や意味にむけての人間の身投げを批判し否定する言葉だが、それ自身が紡ぎだす関係の力自身によって、自分が否定しようとした当のものへと逆転する危険を孕んでもいる言葉なのだ。

 サルトルは自由を定義して、それは人間が自己の存在を不断に問題にかえること以外ではないと主張する。いいかえれば、彼の観点からすれば人間は意味と価値から疎外されるに先立ってそうした疎外が成立つ前提として、まず意味と価値へと疎外されているのであり、この疎外からの回復として不断に自己を問題化する自己を得なければ、意味と価値からの疎外を脱しようとする努力は絶えず意味と価値への疎外に急転する運命を免れえないのである。サルトル的自由の否定的性格がもつ効力、それは「本来的自己」なる理念的言葉の孕む抑圧性に対する感受性と相関する。(清眞人)

※ なお Diary の【 空を想った、映画『すばらしき世界』】と、【映画『すばらしき世界』と、「四つ葉のクローバー」】、そして今回の【「本来的自己」の逆説】は、私にとって一つながりの連想のなかにあります。(キヨ)