mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風31 ~私の遊歩手帖12~

 怨恨的復讐心か共苦か1

 その日のおよそ1ヶ月前であった。私の『高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り』が世に出たのは。

 その日とは、2020年5月25日、アメリカ合衆国ミネアポリスでジョージ・フロイドという黒人男性が偽ドル紙幣の使用容疑で白人警官に拘束され、路上に引き据えられたうえで、頚部をこの警官の膝で約8分間押さえつけられ、「助けてくれ、息ができない」という必死の懇願もむなしく惨殺された事件が起きた日のことだ。フロイドの反応が見られなくなっても3分弱警官はそのまま彼の頚部を圧し続けたという。周知のようにそのあと各地でこの惨殺に抗議する黒人の暴動が起きた。商店や駐車中の自動車からの略奪や放火もまたそのなかで為された。警察隊との激しい衝突には火炎瓶も使用された。

 フロイドの死を悼む葬儀集会の模様を私はテレビのニュースで見た。パソコンを操作して確認したくなった。ウィキペディアを通して確認することができた。テレビに流れた二人の言葉を。彼のガールフレンドのコートニー・ロスはこう語っていた。「火には火で戦えない。すべてが燃え上がるだけだ。一日中見てきた、人々は憎み、怒り狂っている。フロイドはそれを望まないでしょう」と。また彼の弟のテレンスは「暴力的な方法ではなく平和的な解決を」と強く訴え、「あなたたちがやっていることは何にもならない。そんなことをしたって、兄は戻ってきません」、「左に平和を、右に正義を」と叫んでいた。

 知っての通り、彼の殺害に抗議する大きな平和デモのうねりが、暴動のあと全米の各地で起きた。デモのなかには「ブラック・ライヴズ・マター Black Lives Matter 」(黒人の命をにするな)のプラカードが林立した。ウィキペディアで初めて知った。この言葉が、まさに黒人に対する警察の差別意識に凝り固まった蛮行に対する市民的不服従を唱え、合衆国で2013年にアリシア・ガーゼら三人を設立者として誕生した運動組織BLMの正式名称であったことを。

 ウィキペディアを私は遊歩した。私は幾つかのことに初めて出会った。一つは、「ブラック・ライヴズ・マター」をどう訳したら、このスローガンが現地で孕む意味のニュアンスを最も巧みに日本語として表現できるか、この問題をめぐって熱心な議論が生まれていることを知った。また、それと関連して、アメリカの白人の保守派、いわばトランプ派からはすかさず、上げ足を取るように、厚顔無恥にも、「オール・ライヴズ・マター All Livs Matter」のスローガンが掲げられたという事実を。

 そしてリンクしてある二つのビデオも見ることができた。その二つは、幾人かの音楽評論家が、BLM運動を突き動かす感情と背景を最も見事に表現する二人の黒人ヒップ・ホップ歌手の代表曲のビデオとして推薦していたものだ。ケンドリック・ラマ―の「Alriight」(2015年)とチャイルディッシュ・ガンビーノの「This is America」(2018年)だ。この二曲はくだんの事件の数年以前にリリースされた。まるで一個の予言のように。

 前者では、警察に追われたラマーが遂に上空に舞い上がり、追跡を振り切り、街を大きく上下左右に遊泳した果てに、湾沿いのハイウエイの脇に立つ巨大な街路灯の、そのライトを吊るす横枝の上に一羽のカラスのようにとまり、向こう遥か高層ビル街を見ながらラップを踊る。滑落すれすれのラップを。追いかけてきた警官の老人の一人が、それを見上げながら、なかばおどけて右手でピストルを象り、パン!と撃つ。撃ち抜かれたガンビーノは横木の上でのけぞる。首から噴き上がる血しぶきが虚空に鮮やか。彼は真逆さまに下の泥地に墜落する。カメラは墜落する彼の顔をアップで追いかける。だが墜落しながら、なんと彼は幸福そうだ。そして彼は、打ちつけられた泥地の上で白い歯を剥いて笑う。「大丈夫、勝ったぜ!」とばかりに。そして絶命する。

 歌詞の和訳を見つけた。サビの何度も繰り返されるリフレインは、「みんな、平気だ、心配すんな、大丈夫なんだから」だ。タイトルはこの「大丈夫Alright」から採られている。そのラップには、「ストリートでは今でも警察の奴らは俺らを殺す」とか、「いつも酷い目にあってきたから、自分に自信が持てねんだ」とかのフレーズが火花のように木霊する。そして決め台詞は例のリフレインだ! 振り返れば、歌い出しは、「こうして生きてる限り戦いてもんは止められねえよな」だった。


Kendrick Lamar - Alright

 後者のビデオには白人も警官も誰一人登場しない。登場するのは黒人だけだ、白服の大男のギタリスト、五、六人の男女の高校生、教会の聖歌隊の男女、ガンビーノは短髪にしたアフロヘア―に濃い口髭と顎髭をはやし、上半身の裸の白ジーンズ姿で現れる。しかし見終わって、気付く。まるでガンビーノは警官を身半分気取っていたかのようだった、と。

 倉庫街のなかの、或る巨大な空き倉庫が舞台だ。荷物の一切ない殺風景そのものの、内側を白く塗られた倉庫。駐車場を兼ねたエリアがあり、そこにはパトカーの姿も見える。
 冒頭、倉庫の真中にギターが立てかけられている椅子がある、白服の大男がやってきて、座る。ギターを弾きだす。するとそこへガンビーノがやって来る。彼は後ろから大男に近付き、至近距離でいきなり、まったく無言で、真後ろからピストルでこの大男の後頭部を撃ち抜く。血しぶきが上がり、男は前のめりに倒れる、また或るシーンでは倉庫の小部屋を合唱の練習舞台とした黒人男女の聖歌隊に、彼は挨拶に赴く。否。そう見せかけ、横手から差し出された自動小銃を受け取るや、次の瞬間彼は無言で彼ら全員を一瞬のうちに銃でなぎ倒す。一事が万事、銃による問答無用の殺害、これがテーマだとすぐわかる。その場面展開の節々、タイトルともなった「これがアメリカさ!」というサビのフレーズが繰り返される。ラストは、警官たちに追われ倉庫の暗闇の通路を必死で走るガンビーノの顔、そして暗闇のなかでのフェイドイン。

 歌詞自体はごく単純だ。「パーティがしたい。金が要る。足元をすくわれるなよ! てめえの金を稼げ、黒人よ」の繰り返しのような歌詞。しかし一瞬、「警察はイカレちまっている。俺の街は銃だらけさ」というフレーズが入る。そしてさっき述べたように、表情を消した無言の主人公のガンビーノは、銃で、白人ならぬ自分の黒人たちを、問答無用、あっさり始末するために倉庫を歩き回る。

 彼の役回りの、その奇妙な二重性はなんとも印象的だ。彼は黒人の皮を被った、白人の黒人殺しの暴力のパロディー的象徴なのか? それとも、黒人の心底にも潜む問答無用の人殺し暴力の象徴なのか? その両方なのか? This is America!


Childish Gambino - This Is America (Official Video)

 その日、遊歩は最後に私を次の言葉に出会わせた。
 News Weekの日本語版の次の記事に出会った。BLM運動のリーダーの一人であるニューヨーク地区責任者が六月二四日のテレビ番組「FOXニュース」に出演し、こう発言したという.

 アメリカが我々の要求に反応しないなら現在のシステムを焼き払う(中略)
 比喩的な表現か、文字通りの意味かは、解釈に任せる。

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 私のなかに拙著『高橋和巳論』で取り上げた言葉、彼の文学のキーワードだと私が指摘した言葉が浮かび上がった。私はこう書いた。引用させてもらう。

 ―― すなわち、『憂鬱なる党派』のなかで、高橋は西村の親友として登場する藤堂に次のように語らせる。彼は西村を「〈廃墟〉を見てしまった人間」と名づけたうえでこう言う(いうまでもなく、そのとき〈廃墟〉は一個の隠喩・メタファーにまで抽象化され拡張されているが)―― と。

  〈廃墟〉を見てしまった人間には三つの生き方しかない。廃墟を固執し、一切を廃墟に還元する破壊的な運動に身を投ずるか、さもなくば、廃墟のイメージを内面化し自己自身を無限に荒廃させてのたれ死にするか、――そして今ひとつ、廃墟の中にも営まれてつづけた悲劇でもない喜劇でもない日常茶飯(中略」の形式を頑固に守りつづけること。(中略」その日常性の地点から、他の者がおかされつつある虚妄の掛け声、虚妄の理想、虚妄の希望と絶望を批判し拒絶することだ[1]

 また上の引用のあと私はこう続けた――そして藤堂は、「西村が共苦の観念――いや感情を固執し、何十億となく生きている人類の中の、どうした偶然からか、ふと知り合った少数の人々との交情を運命として受けとめ、それを大切にしつづける態度」に注目し、それをこう評す。西村にとっては「その交情こそが、日常性の泥沼の中に咲くただひとつの蓮の花であり、思想の花であるからだ」(傍点、清)―― と[2]

 なお、ここで出てくる「共苦」という言葉は、ドイツ語のMitleidenあるいはMitleidに高橋が当てた訳語であり、従来日本では「同情」と訳されるのがつねであった。付言すれば、フォイエルバッハの翻訳家として名高い船山信一は、これをわざわざ「同情・共同苦悩」と訳した[3]

 そして私は、別な個所で、こういう一節を彼の『悲の器』から引いた。それは同小説の主人公である典膳が、学生運動活動家を観察してのそれだ。いわく、

成功しなかったとき、払った犠牲の大きさが、とりもどせない人生の一回性の重みを加えて眼前に拡大され、その人を怨嗟的人間にする。多くの失敗者が憎悪のかたまりになっていったのを私はみている。不幸にして、私はときおり、事あって職業革命家を志す諸君にあうとき、その人々の三人のうち二人には、その瞳のうちにすでに失敗者・落伍者の乳濁の色のあるのをみせつけられる。(中略)そういう人々が醜い権力欲にとりつかれて人をおとしめようとするのだ[4]

 今紹介した二つの節が私のくだんの「ブラック・ライヴズ・マター」をめぐる遊歩のなかで私が初めて得た知識とどういう意味の文脈の交差を形づくったか、それを次回語ることとしよう。(清眞人)

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[1] 高橋和巳『憂鬱なる党派』、高橋和巳全小説4、河出書房新社、1975年、
  316頁。拙著『高橋和巳論――宗教と文学との格闘的高橋和巳論契り』藤原書
  店、22頁。

[2] 同前、317頁。同前、23頁。

[3] たとえば、フォイエルバッハキリスト教の本質 上』船山信一訳、岩波文
   庫、133頁。

[4] 同前、142頁。同前、74‐75頁。