mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風24(葦のそよぎ・読書感想文)

 ここに学生の書いてきた読書感想文の束がある。先の冬休みにぼくが教師の地位を利用して彼女達に無理強いしたそれら。ぼくは、いくつかの本を提示し、そのうちの一冊を読むことをあたかも単位に関わる冬休みの〈課題〉のように見せかけて強制したのだ。
 しかし、ぼくが願っていたのはこの強制が彼女達のなかで〈自由〉へと変じることであった。もし、彼女達に押しつける課題図書の選択が正しければ、つまりそれらの本が彼女達のなかの〈自由〉への欲求と一つとなり、それを燃え上がらせるはたらきを持ちうるものであるならば、そのことを通じてぼくのなした強制は彼女達のなかで溶解し〈自由〉へと変貌できるはずなのだ。
 そしてぼくはことさらにそこでは子供達が主人公である文学を、子供達を主人公にするがゆえに必然的に「若い読者」を持ちうる、そしてこの主題と読者の両面にわたる〈子供〉との関係において作者の文学的エネルギーと誠実さが目を見張る緊張に達する作品を、課題図書として選んだ。なぜなら、そうした文学は確実に彼女達にとって〈想起〉という時空を開くものとなるのだから。

「私がジェム程の年令の頃、公正ではない裁判にくやしくて泣き出したジェムやディルのように、どうしても、許せない大人に対し、抗議をして泣いたことがありました。(中略)でも今の私には、そういう熱っぽさがすっかりなくなってしまいました。他人に対して興味というものがなくなってしまいました。いつからかわからないけど何にでも興味を示す気持ちが冷めてしまっていました。
 この本を読んで他人のような、昔の自分を思い出しました。あんな気持ちをまた持つことは、もう無理だろうなとは思うけど、そういう感情を少しくらい持っていた方が絶対いいと思います。今のこの気持ちを忘れないでいたいと思います。」

 これは、ハーパー・リーの『アラバマ物語』を読んだある学生の感想文の結びである。これが素晴らしい感想文だというわけではもちろんない。もっと生き生きとしたいわゆる感動に踊っている感想文はいくらもある。だが、ぼくはこの学生の文章の末尾はいつまでもぼくの記憶に引っ掛かっているだろうと、そんな気がする。
「あんな気持ちをまた持つことは、もう無理だろうなとは思うけど、そういう感情を少しくらい持っていた方が絶対いいと思います」
 この貧しく寂しい感慨のなかに、しかし突き刺さっている「絶対いい」という断片、その「絶対」という言葉はぼくには生命の叫びのように感じられる。変な言い方だが、この「絶対」は、「そういう感情を少しくらい持っていた方が・・・・・・いい」という一つの文脈を地下から突き破るような仕方で生命の文脈が我を忘れて叫んだ、叫びに聞こえるのだ。もし、それさえ失えばもうおまえは生きてゆけないのだぞ、と。それは絶対の限界なのだぞ、と。
「他人に対して興味というものがなくなってしまった」、これは恐ろしい言葉だ。本当にそうであれば、彼女の存在は石のように冷え込んでしまう。それは〈物〉と化すこと、人間の死だ。

 昨晩ぼくはマルクーゼという哲学者の本を読んでいて次の言葉を見出した。
 ——「あらゆる物象化は忘却である」。芸術は化石化した世界に語らせ、歌わ
 せ、おそらくは踊らせることによって、物象化と闘う。過去の苦悩や喜びを忘
 れ去ることは、抑圧的な現実原則の下にある生活を軽くする。ところが、追憶
 は苦悩の克服と喜びの永続への衝動をかきたてる。しかし追憶の力は挫折し、
 喜びそのものが苦悩の影に覆われる。——
 ここに哲学者が述べた洞察の素朴とはいえ直観的な理解が先の学生の文章を貫いていると考えるのは、ぼくだけだろうか。そしてぼく自身はといえば、課題図書に子供達が主人公の文学をことさらに選んだその自分の直観が上の一節によって改めて裏付けられる思いがしたのだ。

 また、かの哲学者はこうも言う。
 ——かくして想起は、過去の黄金時代(一度として存在したことのない)、幼児
 期の無垢状態、原始の人間、等々についての記憶ではない。認識能力としての想
 起はむしろ、歪められた人間性や歪められた自然に見出される小片、断片を再度
 集めなおす総合の作用なのである。この再び集められ(想起され)た材料が想像
 力の領域となった。——
 そして、この再度集めなおす総合とは「既成の現実の中で歪められ否定されていた事物の真の形式の再発見」に他ならない。この哲学者の見解に導かれて、今またぼくが感想文の束のなかから選び出してきたのは別の学生の、希望と意志にあふれた次の一節である。

「もし、トムが、そして私が、今持っている夢が本当に大切な物なら、それを叶えるまでに感じたり知ったりした事などは全て、必ずどこかで、夢に、自分の本当に好きな物につながっているはずなのだ。あるいはもし、その夢が大切なものではなかったのなら、トムも私も、いつかそれよりもはるかに素晴らしい、と思えるものにめぐり会えるはずだ。」
 ナット・ヘントフの『ジャズ・カントリー』を読んで主人公のトムに感情移入したある学生はこう書いていたのだ。
 これは人生に対する美しい、そして真理でもある、正しい信念というべきものではないだろうか。世界を四散した断片の集合としてではなく、一つの有機的な全体と直観しうる信念のみが、この世界のうちに生の「真の形式」に他ならぬ〈意味〉というものを感受でき、生をこの世界に係留することができる。
 彼女達の素朴な直観力に対する敬愛をもしぼくが失わないでいられるなら、ぼくは自分のなす強制が彼女達のもとで〈自由〉に変じるというその希望を自分にまだ許していてもよいだろう。(清眞人)

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  12月4日のDiaryに、清さんの「葦のそよぎ・好きになれたら」(西からの風23)を掲載した。清さんの大学教師としての授業や学生への思いと構想を述べたものだ。今回の「読書感想文」も清さんの教師としての取り組み・企ての一つと言える。清さんの学生への信頼と、育てることへの思いを強く感じる。
 文章そのものは、ずいぶん前に書かれたものに違いないが、内容はまったく古びてはいない。今のような時代だからこそ、こういう取り組みが必要なのではないかと思った。

 と同時に『アラバマ物語』を読んだ学生の感想文を読んだとき、ふと春さんの教え子が書いた「考えない私になってしまいそう」が思い浮かんだ。国語が大好きで、考えることが大好きな自分ではいられなくなってしまう、そういう自分を失いたくないという思いが切々と綴られている。清さんの学生は二十歳前後、春さんの教え子は中学1年生だ。この世に生まれて20年足らずの間に、自分の中の大事なものを子どもたちの多くが失っているとしたら・・・。こういう思いを感じる中学生や若者は決して少数ではないだろう。そして、それが教育という営みを通じてなされてしまっているのだとしたら、教育とは一体何だろうと改めて考えざるを得ない。
 でも学生が「あんな気持ちをまた持つことは、もう無理だろうなとは思うけど、そういう感情を少しくらい持っていた方が絶対いいと思います。今のこの気持ちを忘れないでいたいと思います」と書き、春さんの教え子が大好きな今の自分を失いたくないと訴える、その疼きや気持ちがある限り、子どもたちや若者を信頼し、そこに希望があることを見出していいのではないだろうか。(キヨ)