mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

春さんのdiaryを読んで ~ もう一人の自分 ~(2)

 前回のdiaryに続けて書いてもよかったのですが、そうするとあまりにも文章が長くなると思い、今回とに分けることにしました。

 引き続いての内容なので、新たに何かまったく違う内容をということではありません。前回は春さんとE子さんとの話でしたが、今回は小学校を卒業して、中学1年生になった田中京子さんが春さんに宛てた手紙を紹介します(なお、この手紙は以前に『カマラード』に掲載されたものです)。

 中学校での今の自分と、今の自分に納得いかないもう一人の自分、そのはざまで揺れ動く彼女の思いが、あふれるように綴られています。
 中学1年生の田中さんの文章力と、自己分析を含めた国語の授業への言及には驚かされます。田中さんもE子さん同様に、手紙を書かなくては自分がパンクしてしまいそうだったのだろうと思いました。
/////////////////  /////////////////   /////////////////  /////////////////

 考えない私になってしまいそう

 国語大好き人間だった私なんだけど、中学の国語は大嫌いです。本当に、9科目の中で、唯一嫌いなのが国語です。使っているのは光村図書の “ 国語Ⅰ”というのだけれど、とにかくぶ厚い。地理の教科書よりか、ちょっと厚いくらい。そんなぶ厚いのを1年でやるなんて、不可能です。絶対に・・・・・・。真剣にやれば『ヒロシマのうた』のように十数ページに何時間も時間が必要なのです。小学校のうすい教科書でさえ、ギリギリでおわったのに、忙しい中学生に、なぜ、6年の教科書の上・下かんあわせてもあと1冊分のよゆうのあるような教科書を作らなくてはいけないのでしょうか・・・・・・。

 そんな教科書を使いながらの勉強は狂っています。期末の前なんかメチャクチャです。国語の教科書の中に、フィリパ・ピアスの『水門で』という話がのっています。まえにこの人の書いた『トムは真夜中の庭で』という本を読んだ時に興味を持っていたので、けっこう楽しみだったんだけど、“ 運悪く” 期末の直前にやることになってしまったのです。さてこの『水門で』をどの様にやったと思いますか? 学校から配られたワークブックを手がかりにやっていったのです! 先生がワークブックの設問を読む。みんなが、それを聞いてワークブックに答えを書く。先生が正解を言う。こんなことは、だれだって一人でできます。うちでだって、休み時間にだって、給食中にだってできます。私はものすごく頭にきて、血がのぼりました。目に涙がうかびそうになりました。だけど、ワークブックをやらなくては、テストでいい点がとれない・・・・・・。そう、ワークブックの問題から、テストはできているのです。

 中間で国語が悪かったのは、私がワークブックをやらなかったからでした。ワークブックには答えのコツがいっぱい書いてあります。だから、そんなに考えなくても、スラスラ問題が解けます(答え方はちがっていても)。そんな所が、私がワークブックを嫌いな原因でした。本来、自分の頭の中にある全てを動員させて、必死で考える自分を「いいナー!」って思っていたのに、テストの点だけのために、だれかの考えを参考に簡単に考える自分の姿がいやだったのです。だけど、そのワークブックをやらなかった事で、点数が悪かった自分にいや気がさして、私は、自分を捨てて、簡単に答えのでるワークブックをたよりました。国語だけは「いつもよくできた」と自分で一番自信のある科目なので、それが壊されていくのがいやだったのです。答え方やぬきだす場所がちょっとずれていたくらいで、1点引かれたり✕になる自分のテスト用紙がいやだったのです。だけど、いくら私が自分を捨てても、授業でワークブックを使う事だけは許さない・・・・・・。そう思った私は『水門で』のワークブックを、全部うちでやってきました。学校では2,3回にわけてワークを使って授業したけど、私は絶対に、仲間に加わりませんでした。ワークを見てるふりをして、教科書の面白い話を読んでいたり、絵を書いたりしていました。完全に、授業は聞いていませんでした。ただ、答え合わせはちゃんとしました。だって、期末のことがいつも私の頭にあったからです。

 答えはほとんどあっていました。「このことから読取れる事を2つ書きなさい。」こんな問題、本当に答えが2つだけなんてことはないはずです。前の文とかかわっていない文はないはずだから、いろいろあるはずです。だけど、2つと書いてあるのだから仕方がありません。一番ちょうどいいことを書きます。書いてあるそのまんまを書きます。そうすると当たるのです。いろいろ考えた末、やっとこみつけた答えを書くと✕になります。「文章中にある言葉を使っていない」とか「字数が多い」とかで。いつのまにか私にも、そんな都合のいい答えの見つけ方が身についてしまいました。そのかわり、本当に思っている自分の考えの表現の仕方を忘れてしまいそうなのです。作文もそうです。「遠足のこと」とか、そういう一般向けは書けるのに、自分の心から思っている事、感動した事を書く機会がないので、本当に書けなくなってしまいました。実はこの日記の前に、もう3つ日記があったのです。Tの事、イラクの事、そして今私たちのクラスでやっている勉強を教えあう会の事・・・・・・。でも、書きなれていなくて、どれもめちゃくちゃな文になっていて、書いた私でさえも、何を言いたいのか分からない文章になってしまったのです。その時、初めて気づきました。中学校の国語の恐ろしさを。

 期末のテスト、96点でした。ワークをやって、プリントをやって、その努力の結果です。だけど、ちっともうれしくありません。ワークをやったから分かった事であって、自分から苦労して考えて分かった事じゃないから、すぐに忘れるでしょう。国語の教科書の中でやった『大人になれなかった弟たち・・・・・・』も、いろいろ一生懸命考えたけど、ポイントは全部先生に教えてもらったから、あと1年もたてば忘れるでしょう。そんな、今だけの96点は、私にとってただの苦しみだけなのです。ズルです。カンニングです。何が学年で2番の成績ですか?! ワークの答えをカンニングして書いた答えを見て喜べるほど、私は落ちぶれていません。Tはワークをやっていません。それでも一生懸命、本当に考え、一つ一つ書いていったのです。私みたいに「あっ、これ、ワーク・プリントでやった問題だ!」と、答えをまるのみに書いたのとは天と地ほどの差があります。私、すごくTがうらやましかった。努力でかちとった60点と、他人が一生懸命に考えて出した結論をまるのみに暗記してとった96点と・・・・・・。もし、ワークをやらなかったら、私はどうなっていたでしょうか。自分の言葉を使って書いたり、抜き出すかしょがびみょうにズレていたりで、よくて76点くらいでしょう。自分がいやになります。本当にいやです。何でこんなこと、しちゃったんだろう。ワークを10回くらい見直した私は、エライ人間の部類から見ると「勉強熱心な良い子」でしょう。だけど、それは本当の人から見るとカンニングです。人の考えを自分のものとするひきょうな人間のこういなのです・・・・・・。

 本当にいやです。感じているのは私だけかも知れないけど、みんなも確実に考える力を失っています。国語の授業はいつも段落に分けて、各段落ごとに先生がポイントを書いて、それをノートに書いて・・・・・・。だから、どのクラスにいても、同じノートができあがります。だれも何かを言うチャンスはないので、ただ聞くだけ。期末をちゃんと考えている「いい子」はノートをとる。ただそれだけの授業。そんな国語の授業の息抜きは、意味調べです。国語辞典をひくと、いろいろな言葉に出会えます。たったそれだけの楽しみです。先生は「うそだ。」と思うはずです。6年の時、意味調べが大っきらいな私だったのにね。だけど、本当です。それしか本当に楽しみがないのです。

 そんな感じなので、確実に私だけでなくいろいろな人の考える力をなくしていきます。授業参観で『奈々子に・・・』をやりました。久しぶり、中学に入って初めての考える授業です。がんばって考えました。だけど、難しい所の答えは先生が言います。簡単な所はみんなに聞きます。なんか、ぶじょくされてるみたいで、私は1回も手を上げませんでした。ただ、指名された時は答えたけど。みんなもだれも手を上げませんでした。答えはみんな分かっていたと思うのです。だけど、みんなしらけてました。だれも全然授業にのりませんでした。それはそうでしょう。4月から、答えが分かっても先生が自分で言ってしまうので発言の仕方が分からなかったし、そういう形式の授業にもなれていないはずだもの。

 中学校に入ってから、みんなの考える力を国語の教科書はもっていってしまいました。
 弁論大会の作文が味のないものになったのは、きっと私に上べだけの文章を書くくせがついたからだと思います。私はどうなってしまうのでしょう。もう、一生『ヒロシマのうた』のように考えるのは無理なのですか?

 P.S こんなに書いたのは久しぶりです。すごくすっきりしました。手紙の中では、自分が自分でいられそうでウレシイです。
 だけど、やっぱり国語は大嫌いです。

/////////////////  /////////////////   /////////////////  ///////////////// 

 中1の京子さんのなかで大好きだった国語が嫌いになっていく。授業はこんなものじゃない、学ぶってこういうことじゃない。ワークブックをやっている自分が情けない。情けないと思いつつ、でも、それをやらないと国語大好きで一番自信をもてていた私が、そういう私が崩れていく。それは嫌だ。でも嫌だからといって、ワークブックをする自分も許せない。彼女のなかで怒りが、悲しみが炸裂する。その炸裂したものを吐き出さなければ、私はパンクしてしまう。

 こんなふうに中1で考える子は、特別な子かもしれない。そうだろう、きっと。でも学校や教師は、この子は特別だからと聞き流したり無視したりしてはいけない。だって、彼女は学校でみんなで学ぶってどういうこと、授業ってなに? そういう問いを向けているのだから。そしてそのことにこそ、学校も教師も応えなくてはならないと思うからだ。

 年度末を迎えて先生たちは、この1年のまとめに追われていることだろう。同時に、多くの学校では、新年度の春先すぐに行われる学力調査に向けて、1年間のまとめと称してのプリント学習などが、春休みを含めた取り組み・宿題として行われるのではないだろうか。

 ちなみに私のころの春休みは、休みの期間は短かったけれど宿題がなくて、春のうららかさと4月からの進級や進学に向けて期待や不安を感じながら、とってものんびりした時間のなかで、あれこれ思いめぐらしていた。そういう時間がなくなっているのかと思うと、今の子どもたちは気の毒だ。光陰矢の如しというような時間だけでない時間の豊かさ、多様さを感じてほしいと思う。そしてそういう時間が、新年度を迎える先生たちにも本当はあっていいのではないだろうか。( キヨ )