mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風28(葦のそよぎ・雨の連休)

 五月の連休に、ぼくは二人のこどもを連れて、テントを肩にかつぎ南紀をまわった。紀伊半島を勝浦まで列車で南下し、そこから捕鯨の発祥地として有名な太地に遊覧船で渡り、そこでキャンプをはった。つぎの日、新宮から十津川をバスでさかのぼり熊野本宮に宿をとって、三日目、さらに十津川を奈良の五條までたどって大阪に帰った。こうしてぼくたちは紀伊半島のちょうど左半分を線でなぞる形でまわってきたのだ。

 が、このキャンプ旅行は生憎と雨にたたられた。一日目の夜から雨が降り出し、ぼくたちは浸水を恐れながら、万が一のことを考え電池の消耗を避けて懐中電灯の明かりも早々と消し、雨の夜を暗闇のテントのなかで過ごした。二日目は一日雨が降った。キャンプをする気力の失せたぼくたち親子三人は、急遽計画を変更し、熊野本宮の宿坊にかけ込んで宿をとった。

 とはいえ、実のところ、ぼくはこの雨をそれほど恨みはしなかった。父親に強引に連れ出された果てに雨に降られてすっかりふくれているこどもに、「しようと思ってもできるものじゃない、これもいい体験さ」と負け惜しみをいったぼくだが、負け惜しみばかりではなかったのだ。連休が終わって職場に出ていくと、同僚たちはぼくたちのこの旅行の話に、異口同音に「それは生憎のこと」といったが、それほどに「生憎」のことではないと、ひそかにぼくは思ったりもしたのだ。

 雨にけぶる十津川の情景は素晴らしかった。南紀の山は高くはない。だが、決してなだらかではなく、低いとはいえ垂直に切り立った山々が幾重にも折り重なって、激しく蛇行を重ねる十津川に沿って限りなく続いてゆくのだ。もやがかかり、雨空のしたに連なる山々の中腹には一筋また一筋と白雲がたなびき、その重畳する山なみを縫って十津川はさらに奥へ奥へと続いてゆく。三日目は嘘のように快晴となったが、ぼくにはこの雨の日の十津川のほうがはるかに美しく、印象的であった。

 この日の印象を記憶のなかにたどりながら、必ずしも「生憎」とは思わなかったそのぼくの気持ちの理由を振り返っていて、ふとぼくのなかに甦ってきたのは、「いっさいが美しくそして良い」という、かつてあるドイツの有名な女の革命家が述べた言葉であった。

 この言葉はそれを読んだとき以来ぼくの記憶を去ったことがない。革命家である彼女にとって、「いっさいが美しくそして良い」などということがありうるのだろうか。にもかかわらず、彼女はそういい切る。「私は本能的に、それが人生をうけとるただひとつの正しいしかたであると感じます」とつけくわえながら。ぼくはその彼女の世界感覚にひかれた。そこにはぼく自身を得心させるある何かがあった。と同時にぼくにはそれ以来、そうした世界感覚を人はどこから、どのようにして、手にすることになるのかということが気になった。

 この言葉が前後の脈絡もなく今ぼくのうちに甦ってきたのは、かの日の印象をたどっていて、万象としての自然にこそ「いっさいが美しくそして良い」という世界感覚は向けられているのだと、そうふと感じたからなのだ。またぼくはこうも感じた。「固有なもの」への愛着の情は万象としての自然においてはじめて成立しているのではないかと。

 たとえば、絶え入る直前の、たちまち夜へとすべり落ちてゆこうとしながらもその気配のなかに落日の残照をまだほのかに残している夕闇、そのなかにふと、すでにその半身を夜の闇に浸しながらもかすかに光りを放って浮かび上がっている道端の花々を認め、その光景にしばし帰宅に急ぐ足を止めること、それは偶然がもたらすかけがえのないひとつの喜びである。花は決して晴れの日にだけ、また明るい昼間の光りのもとでだけ美しいわけではないのだ。

 ぼくたちが自然の美しさにふとあらためて打たれ、それを享受するとき、ぼくたちはその美に打たれるだけではなく、同時に自然の美の無限とも思われるその多彩さに打たれ、美の体験とは常に対象の固有性の体験にほかならないことを再び心に刻むのではないだろうか。そしてこの場合、固有であるとは、古めかしい言葉づかいを用いれば、「一期一会」の出会いの固有性なのだ。夕闇に浮かび上がる花の美しさは、はや夜の情念をたたえだした空の暗い青、そこにまだその白さを消さずに浮かんでいる雲、あるいは人通りの途絶えた道に吹き出した夜風や、暗い影をかぶせ始める家並みのシルエットとの、一度かぎりの出会いがつくりだすひとつの全体、それが成立させる固有性なのだ。万象としての自然においてはいっさいが美しく、いっさいがその美しさに参与し、いっさいがその固有な美を許されている。こうした直観、それこそはぼくたちが自然を美として享受するときの根源に横たわる直観ではないだろうか。

 だが、そうであるならば、今のぼくたちの享受する感覚は余りにも人工化されている。気ぜわしげな観光見物は晴れの日以外に楽しみを見出さない。雑誌を飾るグラビアの大半は晴れの日の花しか写さない。美はただ晴れの日とだけむすびつき、なんの陰りも憂愁も暗い情念の光りも知らぬお菓子のような「幸福」のイメージとだけむすびつけられている。が、そのことによって美は、美だけがもつあの力、苦悩のただなかにあってさえ人間をして世界と和解せしめる力、「いっさいは美しくそして良い」と人間に言わせるあの力を失う。美は人間をコスモスへと解放せず、不機嫌にする。雨のなかに、雲の鬱屈のなかに、人は美を見つけにゆくのではなく、せっかくの金が無駄になったと不機嫌になる。固有なものは価値をもたない。むしろぼくたちの美はそれを駆逐する。かくてぼくたちは晴れやかな美のただなかで美を失う。別れ難い出会いをしながら、別れねばならぬことの痛切さが解体する。(清眞人)