mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風21(葦のそよぎ・好きになれたら)

 今年もあと少しで終わりだなあ~などとしみじみ感慨にふけってみたいものだが、そうはいかない。今は次号の「つうしん97号」をどうするかで頭を悩ませている。今回は「授業」をテーマにしようと決まったのだが、その具体的な内容と執筆をどうするか・・・、そこが問題だ。

 授業実践(教育実践)といえば、一般的にいわゆる小学校、中学校、高校が思い浮かぶが、大学だって学生を育てる教育の場であり実践の場だ。地元仙台の宮城教育大学は、まさに教員養成という観点から大学改革に乗り出し、学生たちの学びをどう組織し、育てていけばよいのかを真剣に考え実践した先駆的な大学であったはず・・・。

 今回は「つうしん」に先んじて「西からの風」の清さんが、大学の教師として取り組んだ授業(実践)への思いと構想を語った一文を紹介します。
 清さんはこれ以外にも大学での取り組みについて書かれた文章があるので、それらについても、おいおい紹介していきたいと思います。(キヨ)

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  ◇好きになれたら

 妹から、ぼくの息子へ中学進学のお祝いにこんな言葉を書き込んだカードが送られてきた。

  「今、大好きなことを もっともっと好きになれたら・・・
   その数を 二倍三倍にも ふやすことが出来るのなら・・・
   でも 本当は たった一つ大切なものを
   みつけられたなら
   そして そのたった一つを いつまでも かわらず
   好きだと言い続けられたら どんなにか
   素敵だろう」

 数日たって、ぼくの短大でも四月の新学期が始まった。今年のぼくのゼミの前半期のテーマは詩だ。詩人の茨木のり子が中・高校生のために書いた『詩のこころを読む』を声を出して輪読してゆく、それにくわえて、そのなかに収録されている、著者が自分の心のコレクションから選び出した詩を、これまた担当を決めて朗読することにしようというのが、ぼくの計画。

 その本のまえがきに詩人はこう書いていた。

 「あらためて私の好きな詩を、ためつすがめつ眺めてみよう、なぜ好きか、なぜ良いか、なぜ私のたからものなのか、それをできるかぎり検証してみよう、大事なコレクションのよってきたるところを、情熱をこめてるる語ろう、・・・・・・」と。

 今学期の初めてのゼミが開かれる前の晩、ぼくはひさかたぶりにノートをだして、ゼミ開講にあたっての一場の演説をぶつべく、その粗筋を考えようと机にむかった。

 テーマは「好きになれたら」。

 ——これからぼくたちが声を出して輪読してゆく、この茨木のり子の本の始まりの頁に書かれてある、この詩人の「あらためて私の好きな詩を」というところの「詩」という箇所に、もちろん好きな詩があるのなら「詩」でいいわけだけれど、なんでもよいから、とにかく自分がためらいなく今「好きだ」といえるものの名前を入れて、もう一度この一節を自分の胸の中で繰り返すことから、始めてみたい。そして、一人ひとりが自分にむかってこの詩人を真似て三つの「なぜ」を発してみよう。

 ただし、この「なぜ」は、数学の試験で時間にせきたてられながら方程式を解くような具合にでは決してなく、ゆっくりとした時間の流れのなかで植物がそのつぼみを次第にもたげ花開いてゆくように、答えが開示されてくる、そうした種類の「なぜ」だということは、やっぱり確認しておこう。

 「ためつすがめつ」というような時間のかけ方、「るる語る」というような時間の捧げ方、そういう時間の送り方がぼくたちの生活のなかで絶えて久しいということを思い出しながら、そのぼくたちの「貧しさ」や「痛み」への慰めとして、せめてこの本を輪読するときは、少しゆっくり過ぎると感じられるほどのテンポで、句点、読点は十分すぎるほどの間合いをとって、一語一語噛みしめるような具合に、しっかりと声を出して読んでゆこう。

 ある哲学者の言葉にこうある。「まさに時間とは愛にとって成立するものである。私が時間を捧げる事柄に、私は愛を捧げるのである。暴力は手早く事柄を片付ける」、と。

 正しい言葉、真実の言葉というものは不思議な働きをするものだ。「暴力」という言葉はそれだけを取り出してみると、ぼくたちの生活には無縁な言葉に思える。ぼくたちは別段毎日を確かに殴られるとか、殺されかねないとかの恐怖のもとで送っているわけではなく、ぼくたちの日常は実に退屈すぎると感じられるほどに「平和」だからだ。

 しかし、この哲学者の言葉をライトにして生活を照らしてみると、ぼくたちの暮しぶりがここでいうような意味で「時間を捧げる」余裕をもたない種類のものだということは、もうそれだけで、いかにぼくたちの生活が「暴力」に脅かされ、蝕まれているかを示しているのだ。この言葉がサーチライトとなってぼくたちの暮しを照らす。すると、なんだかぼくたちの暮しは「暴力」で一杯になっているように感じられてくる。

 詩人の言葉の働きも同じだと、ぼくは考える。それは生活を飾るための言葉ではなくて、〈真実〉を回復するための言葉だ。生活の正しい認識を確立するための言葉だ。

 先の「なぜ」という自問自答の——ただし、決して気ぜわしくはない——追究のなかで、ぼくたちは同時に二つのことを発見してゆくのではないか。つまり、ぼくたちをしてそれを好きにならせる、そのぼくたちが好きなもの(対象)に宿る或る特質、それが何であるかということと、同時に、それを好きになるぼくたち自身の存在の或る特質とを。

 ここでまたある別な哲学者の言葉を引きたい。「或る主体が本質的・必然的に関係するところの対象となるものは、この主体の独自な、しかし、対象的な本質にほかならない。・・・人間はその対象において自らを意識するものである」、と。

 ぼくたちは自分が好きになるもの(対象)をとおして、それを好きになることのできる力(生命)としての自分を、はじめて把握するのだ。ぼくたちは自分が何であるかを知るためには、まず前方に向かって飛ばなければならない。つまり、何かを好きになっていなくてはならない。好きなものがないということは、自分がないということにほかならない。

 詩人はものが好きでたまらない人間だ。好きになるということがどんな人間的体験なのかを身を挺して語ろうとする人間だ。そう信じて、彼らの言葉にひとまず自分を委ねてみたい。つまり、それを声を出して読んでみたい。

 ——以上が、ぼくの演説の粗筋。(清眞人)