mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風34(葦のそよぎ・カタコト)

 今、ぼくは会話に凝りだしている。「会話」とあえていうからには、もちろん外国語によるそれだ。ぼくの場合はドイツ語と英語のそれだ。

 現在ぼくは週に二回大阪市内にあるドイツ語学校に通っているし、またぼくの勤める短大には外国人の英会話教師が十人ほどやってくる。環境十分というわけだが、それとは別にぼくの個人的な思い入れもある。というのは、ぼくは子どもの頃から自分の音楽的素質と演劇的素質にはほとんど絶望していたから、辞書を片手にひとりで外国語を読むことならともかく、外国語を聞き取り、かつ、生身の相手にこちらから割って入るようにして外国語をはなしかけるなどということは、これまでぼくは想像の範疇外のことだったのだ。ある種の自己変革——今では死語になった感のある言葉だが——なしにはぼくには外国語会話は身につかないと思われたし、事実それはそうなのであり、だからまた外国語会話に取り組むことはひとつの自己変革をぼくにもたらすに違いない、というのが実はぼくの思い入れの中味だ。

 ところが、いささか突拍子もないのだが、ぼくはこの自分のなかに兆しつつある会話熱について考えだしながら、ふと昔読んだある日本のアナキスト詩人の詩論の一節を思いだした。彼はクロポトキンの自伝を引きあいにだして詩の本質を論じていた。クロポトキンの回想によれば、当時ジュネーブはロシアの革命家達の集結点であり、当然そこにはツアーの政府から実に高度な訓練を受けたスパイが彼らの動向を探るべく送り込まれたのだが、たいてい数カ月してスパイ達は正体を見破られることとなったというのだ。高度に訓練を積んだスパイ達はもちろんその政治的な言動においては革命家達と見分けがつかなかった。にもかかわらず、たちまちその正体を見破られてしまったのは、スパイ達はその感性や美意識までは革命家達を真似ることができなかったからなのだ。そして感性や美意識はむしろ何気ない日々の暮らしのちょっとした出来事や風物に触れておのずと発露されてしまい、確かめられてしまうものなのだ。かの詩人が言うには、詩こそはこの感性や美意識の地層における境界線を体現すべきであり、それに触れるやたちまちその人間の感性や美意識のなんたるかが暴露されるような試金石でなければならぬのである。

 で、なぜぼくは今この詩人の議論を思いだしたのか。それは、ぼくのなかに兆している会話熱にはなにかこのクロポトキンの回想と相通じる点があるように思えてきたからなのだ。
 およそ会話には素質的に不向きと思われるぼくであるにもかかわらず、次第にそのぼくをすら会話に熱中させるようにしむけるものとはなにか。それは、片言隻語をとらえての、それを仲立ちとしての、おたがいの精神と感性のコンテキストの直感的把握の面白さ、醍醐味といったものではないかと、最近つとにぼくは思えてきたのだ。というのも、まさにぼくの為しうる会話は今のところ、また将来を見越しても、およそカタコトの域を出ないであろうから。にもかかわらず、会話への意思をぼくに放棄させないものは、その拙い会話のもつ独特な喜び、カタコトにもかかわらず、というより、カタコトだからこそ可能となる、たがいの精神と感性のコンテキストを直感的に把握できたときの面白さではないかと思われるのだ。

 先の詩人の紹介するクロポトキンの回想が裏返しに伝えるのはいかに当時の革命家達が一つの緊密な精神と感性の共通したコンテキストを共に生きていたか、ということだ。このコンテキストの共通地盤のうえでは、ちょっとした目配せ片言隻語がすべてを語りえるのだし、誰が取り決めたわけでもない一種の暗黙の暗号のごときものとなるのだ。他方、この地盤を共有することのない者との間では片言隻語はまさに片言隻語以外のなにものでもないのだ。そして、詩とは説明的な散文と比較すればある種のカタコトではないのか。そこでは、投げ出された言葉がコンテキストのそれぞれの節を一心に凝結したようなぐあいに存在することが、そうすることによって一つ一つの言葉の連なりにとらわれることなく、読み手がコンテキストそのものへの緊張をみずからに喚起できるようになることが、絶えず求められるのではないのか。
 もちろん、今言ったことはひとつのアナロジーの域を出ない。ぼくの貧しいカタコトを詩の働きに比肩するなら、それはとんだお笑い草というものであろう。

 ぼくの通うドイツ語学校のドイツ人教師は常に繰り返す。問題はコンテキストだ、一々の言葉ではないのだ、と。そして彼女はこうつけくわえる。おたがいに人間なのだからコンテキストは共通しているのだし、その共通なコンテキストをつかんで離さないことが、会話上達の秘訣なのだと。ぼくはその彼女の言葉を実感をもって受けとめるが、しかしなおそれに付け加えて、そうした人間的な普遍性の体験の地盤の上でなお会話の鋭い喜びを形づくるのは、たがいの個性に根ざすコンテキストのふとした重なりあいについての独自な発見であると考える。あるいは、その重なりがそれを通じて再び解きはなつ普遍的なものの発見にある、と。そして、この普遍的なものはたんに日常会話を司るたんなる人間的な共通性としての普遍性ではなくて、この現代を民族を異にするとはいえ、紛れもなく同時代人として生きているという連帯感が醸しだす普遍性である。

 ぼくは次第にカタコトを恐れなくなってゆく。直感的なものへと自分を投げ込んでゆく醍醐味は全身的な姿勢を要求し、それは、ぼくが長らく自分に欠落しているものと感じてきた音楽的あるいは演技的な力を、ぼくに与えなおしてくれるものと感じられるのだ。(清眞人)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今月13日の『こくご講座』では、詩を取り上げた。清さんの「葦のそよぎ」のなかに詩に触れて書かれたものがないか読みなおしていたら、タイトルの「カタコト」を見つけた。これまで特に目を惹いたわけでも感動したわけでもないある詩が、あるとき、自分にとってかけがえのないものになることがある。それはどうしてなのだろう。そこには、その人の生きる経験のコンテキストと詩との出会いがあるからだろう。

 今日、学校だけでなく様々な場で対話やコミュニケーション教育の必要性が語られている。清さんの「カタコト」は、対話やコミュニケーションがもたらす醍醐味とはなにか、そのために何をこそ大切にすることが必要なのかを問いかけているように思った。

(※)なお「カタコト」はずいぶん前に清さんが書いたもの。この後、清さんは自ら絵を描き始めその絵をかついで一人イタリアへ旅に出たり、学生たちと音楽に興じたりと、まさに自己変革の途を突き進んでいる。(キヨ)