mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより72 ナズナ

  チャンスを待っていつでも発芽  小さな花の知恵

 あたたかな日差しのなか、道端の草花たちが冬の寒さから解放されたように生き生きしています。見ると放射状に広げた葉の間から、ナズナの花のつぼみがのぞいています。もうすぐ白い米粒のような花がいっぱい咲き出すことでしょう。

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       光の春を感じて  ナズナは花茎を伸ばし咲き出します。

 ナズナの花を見ると、宮城の国語教育の実践家だった門真隆先生のことを思い出します。亡くなられたあと、共に学んだ民教研やサークルの仲間の手で、「こどもと生きて-門真隆 ひとと仕事」(1996年・きた出版)という遺稿集がつくられました。(センター通信別冊19号では、宮城の教師「門真隆と子どもたち」を特集しています。)
 その遺稿集の編集会議で、読ませてもらった学級通信の名が「なずな」でした。
 門真先生が1年生を担任したときのもので、ガリ版印刷した1枚ごとの通信が、4冊の分厚い冊子に製本されていました。
 第1号には、新学期のこどもたちとの校庭めぐりの様子が書かれています。

 とてもあたたかい日、校庭めぐりをしました。今の学校の女王さまはクロッカスのようです。白に紫にだいだい色にならんで咲いていました。・・・・校庭のすみの方の観察園の方へまわっていきました。そこで小さな花たちを見つけたのです。・・・はこべ・・おおいぬのふぐり・・のぼろぎく・・。そんな中に5センチぐらいの草たけで先に小さな小さな白い点々とつけたものがあったのです。よく見ました。なずなでした。子どもに「なずなだよ。ペンペンぐさってもいうよ。」というと、まさとくんが「ぼくしってる。からからってなるんだよ。」と話してくれました。つぎの朝、順子ちゃんが銀紙で花たばのようにして、なずなと何かの花をもってきてくれました。・・・・
 春の花壇はまもなくクロッカスからけんらんと咲くチューリップにかわるでしょう。そうなれば、なずななどもうだれの目にもとまらなくなるでしょう。でも、なずなは「よく見れば」しずかに美しくさいているのです。・・・・・・
 小学校の第一週目の感想を言えた子はクロッカスであり、水仙であり、桜じゃないのかな。「言わなかった」子は、なずなの花じゃあないのか。「言わなかった」と言う花をさかせているのではないのかなと思いました。はなやかな子もいますが、静かな子も美しいのです。・・・・・。

 はなやかな子もいるが、静かな子も美しい。学級通信のタイトル「なずな」には、門真先生のこども観と教育観がこめられていると感じたのでした。

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     クロッカスやチューリップの花壇にも  姿をみせるナズナ

 ナズナアブラナ科ナズナ属の越年草で、西アジアが原産です。日本へは麦が伝えられたときに、その種子とともに日本に渡来した史前帰化植物の一つと考えられています。
 ナズナはよく見ないと、本当に気づかないほど、存在感のうすい草花です。でも、古くから日本の各地に分布していて、「春の七草」の一つに数えられ、平安時代ころからは、「七草がゆ」にして食べられてきました。
 冬でも緑なので、生命力が強く邪気を払うと信じられ、菜の花と同じアブラナ科なので栄養価が高いので、冬季の栄養不足を補う役目もしていたようです。
 今も正月の1月7日には、「年の初めに体を労わり、邪気を払う」ということで、七草がゆを食べる習慣が受け継がれています。
 トントンという包丁がたたくまな板の音とともに、幼い頃に母から聞いた「七草はやし」は、こんな歌でした。
 “七草ただげ 七草ただげ 七草なずな 唐土(とうど)の鳥と いなかの鳥と
 通らぬ先に 七草ただげ”
 この「おはやし」にも「七草なずな」と韻をふみ、ナズナが歌われていました。

 ちなみに、ナズナの名前の由来には、切り刻むという意味の「ナズ」に菜がついてナズナになったという説、春、秋、冬には生え、夏には生えて無いという意味から「夏無」が転じてナズナになったという説、撫でたいほど可愛い花という「撫菜」が転じてナズナになったという説など多くあります。確証はなく、いろいろな人が「由来さがし」を楽しんでいるようです。

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     野原では、ヒメオドリコソウオオイヌノフグリなどと共存しています。

 正月には重宝されるナズナですが、荒れ地などのやせた土地でも生えるので、農地などに生えていると、ナズナと呼ばれないで、貧乏草、ぺんぺん草という別名で呼ばれてバカにされます。諺に「ぺんぺん草も生えない」というのは、それほど荒れ果てた土地のことをいいます。ぺんぺん草とは、小さな実が三味線のバチのようで、三味線をひく音が「ぺんぺん」するから。それで別名にシャミセングサ(三味線草)というのもあります。

 ナズナはふつう秋に芽生えて、葉を地面に放射状に広げる「ロゼット」と呼ばれる姿で冬を越します。葉を地面にはりつかせると、地面は温かく、地上を吹く風もやり過ごせるのでしょう。広げた葉は冬でも光合成ができるので、冬の間もせっせと根に栄養分を蓄えて、春の開花に備えています。

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  冬越しのロゼットの姿        春を感じ、花茎を伸ばし開花する姿

 ナズナは、春の兆しを感じると花茎を伸ばし、短くてもその先に花をつけます。花茎をぐんぐん伸ばして下から上へと花を咲かせ、下の方の花が終わって種子が形成される間も、先端部では次々とつぼみをつくり開花していきます
 小さな花の直径は、3mmほど。白い花びらが4枚、雌しべが1、雄しべが6こあって、虫のいない時期は自家受粉で種子をつくります。

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 上部には花、下の方は実   中心部は花のつぼみ     アブラナ科特有の十字花

 ナズナの花が終わった後には、花序は長く伸びて独特の実ができます。実は逆さにした三角形の平べったいもので、先端は少し凹んでいて、三味線のバチに似た特徴のある形をしています。
 実が膨らんだころ、実の柄をひとすじ残して引き下ろして垂らし、でんでん太鼓のオモチャのように、耳元でそっとゆらすと、しゃらしゃらとやさしい音がします。
 門真先生のクラスのまさとくんが、「ぼくしってる。からからってなるんだよ。」と話していたのは、この草花遊びでした。

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     伸びた花茎にはたくさんの実が連なります。     ナズナの草花遊び

 ナズナの実は熟してくると、2つに割れてなかの種子がこぼれ落ちます。落ちた種子はその場に落ちるだけでなく、雨や土の水分でぬれると、ネバネバの液体を出して人のズボンや靴の裏などにくっつき、遠くの地に運ばれます。人は知らず知らずのうちにナズナの種子の運び屋をしているわけです。オオバコの種子もそんな方法を使っていましたね。(季節のたより11 オオバコ

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  下からできる実     2部屋に分かれる実   熟すと、実は緑から褐色に変化

 ナズナは秋に発芽し、ロゼットで冬を過ごし春に花を咲かせるのが普通ですが、観察してみると、春から夏の間でも発芽して、いつも切れ目なく花を咲かせていることに気がつきます。

 ナズナの生えている所は人里に近い環境です。そこはたえず地面が耕されたり、工事で掘り起こされたりする不安定な自然環境です。他の植物との競争を避けて、あえてその場を選んでいるところは、ハコベと共通しています。(季節のたより70 ハコベ)明日何が起きるかわからない自然環境では、どんなに順調に生育していてもいのちの保証はありません。だから、ナズナは、秋に限らず、春でも夏でも芽を出し、とにかく大量の種子をつくって生き延びようとしているのです。

 ナズナの種子は地面に落下後、約3ヶ月で発芽が可能な状態になります。発芽適温はおおよそ10℃から25℃で、発生深度は比較的浅く条件さえ合えばいつでも発芽します。しかも、人為的に土地がほりおこされて、土壌が攪乱されると発芽率が高くなるというのです。地面の下での種子の寿命は比較的長く、膨大な量の種子が眠っていて、チャンスがあれば、いつでも、いくらでも、発芽できるようになっています。目立たない小さな花のたくましい知恵を見る思いがします。

 ナズナのほかに、ナズナの名がついている植物に、グンバイナズナ、イヌナズナシロイヌナズナがあげられます。

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  グンバイナズナ      イヌナズナ        シロイヌナズナ

 おもしろいのはシロイヌナズナです。シロイヌナズナは他のナズナと同じぺんぺん草あつかいでしたが、植物の遺伝子レベルの研究の進歩とともに、遺伝子研究に最適の植物と注目されたのです。2000年に初めて全ゲノムが解読されるなど、今では世界で最もくわしく研究されている植物になっています。
それぞれの植物に、どんな可能性が秘められているのかは、あとになってから
わかることです。

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     栄光も喝采もなく人の逝くぺんぺん草は野辺に光れり   小川千賀子

 ナズナは人に「雑草」あつかいされる植物ですが、人の利益とは無関係に、この地上に生まれて、進化の歴史を重ねながら、今を生きています。
 人に役に立つ薬草と呼ばれる植物は、約5万種から7万種発見されているそうです。これらの植物が持つ薬の成分は、人の役立つためではなく、その植物が生きるために必要なものとして生み出されたものです。
 人間はその植物を人に役立つように利用すると考えるか、それとも植物の恩恵を受けていると考えるかで、自然のいのちへの向き合い方も違ってくるでしょう。
 「生物多様性条約」が作られたとき、前文の原案にあったのは次の文章です。
「人類が他の生物と共に地球を分かち合っていることを認め、それらの生物が人類に対する利益とは関係なく存在していることを受け入れる」
 この文章は、最終的に削除されてしまいました。多様な生きものたちのいのちが「人間のためだけに存在している」という考え方が、世界のなかでも根深く残っているということに、気づかされたできごとでした。(千)

◇昨年3月の「季節のたより」紹介の草花 

西からの風36 ~ 私の遊歩手帖15 ~

  ハイデガーの「故郷喪失」論1

 最近、ハイデガーを読み直している。今取り組んでいる『格闘者 ショーペンハウアーニーチェ』を完成させるためだ。その予定する下巻『様々な照明の下に』の冒頭を飾る「ニーチェ主義者としてのハイデガー」を書き上げるために。

 「故郷(ハイマート)Heimat」という独語が私のなかに飛び込んできた。「故郷喪失(ハイマートロージッヒカイト) Heimatlosogkeit」というテーマとともに。

 途端に、私の思考は遊歩しだす。

 一方では、まがりなりにも哲学研究者である私は、ハイデガーがどういう思考の文脈のなかで、如何なる意味の連なりのなかで「故郷」を語り、その「喪失」を問題にしようとしているか、まずそれを彼に即して精確に理解しようと試みる。だが、他方では、たちどころに自分が次の問いに食らいつかれたことを知る。

 いったいそもそもお前には「故郷」という時空、存在があるのか? 「故郷喪失」を問うほどの「故郷」がそもそもあるのか? お前の親は転勤族の草分けだった。お前は父が職を得た大阪で1949年に生まれ、2年半、そこに暮らしたが、そこは両親にとってももはや故郷ではなかった。次いで、お前は東京に親とともに移った。まず2年近く北区の小さなアパートにいて、次に幼稚園児から小学校を卒業するまで目黒区の団地のなかで暮らし、中学生の3年間は杉並区の団地、高校生は中野区の団地、つまりもともとお前は「故郷喪失者」である。とすれば、かかるお前にとって、そもそもハイデガーの問いはお前には無縁ではないのか?と。

 1966年、彼は、彼の哲学者としての健在ぶりを世間に焼き付けたドイツの雑誌『シュピーゲル』の編集部との長時間対談のなかでこう語った。

技術が人間を大地からもぎ離して無根にしてしまうということ、これこそまさに無気味なことなのです。(中略)人間を無根化するためにべつに原子爆弾などはいりません。人間の無根化はすでに存在しているのですから。われわれはかろうじてただ全く技術的な諸関係だけを持っています。(中略)ここで進行している無根化は、もし思惟と詩作とがもう一度暴力なき威力に達するということがないならば、もうおしまいです[1]。(太字、清)

 右の一節にいう「無根」とは「無故郷」と同義である。つまり、「無根化」とは「故郷喪失」のことにほかならない。だからまた、「故郷」といっても、人間各自の経験のなかに息づく経験的「故郷」のことではなくて(しかし、その経験こそはそこに通じるかけがえのない精神的通路になるにせよ)、ここでの「故郷」とは、彼にいわせれば〈存在〉の形而上学的「故郷」であり、別な表現では、「思惟と詩作」だけが立ち会える「〈存在〉の開けゆく明るみ」とも名づけられる時空のことだ。

 とはいえ、あらゆる哲学者において形而上学は常に経験論へと通じ、往還の絆を生きる。あるいは、一切の経験論は形而上学的超越を生き、そして己へと帰る。両者のあいだの、それこそ往きて還る「遊歩」が「哲学的思索」の冥利である。だから、上の一節に関しては、まさに「今とここ」において、当然、次の解釈の提案が成り立つ。

 すなわち、まさにこのコロナ・パンデミックの只中にある21世紀の20年代の視点からいえば、ここで彼の言う「技術」とは、まさにこれまで自然の奥に秘かなる彼ら自身の生を営んでいたコロナウイルスを、無理やり人間の最新文明地の只中へと引きずり出し、なおかつ劇的な地球温暖化と、それによる未曽有の気候変動に人類を投げ込んだところの、20世紀から今日に至る「現代技術」の――やみくもなる資本主義的営利追求によって盲目化に陥った――自縄自縛的在りようを指し、「〈存在〉の故郷」とは、一言でいえば、それを毀損しては、人類の生存そのものが立ちゆかなくなる最深部の「エコロジー的存在連関」のことだ、と。かつおそらく、それと最深部では連結しているところの、人類の生意欲そのものを支える人間的実存の最深部に宿る「精神的=身体的な存在連関」(自然との、そして人間の他者との)を指すにちがいない、と。

 実は、この「無根化」=「故郷喪失」との対決者として、ハイデガーは戦後まもなく公刊した書簡『「ヒューマニズム」について』のなかで、マルクスをこう評してもいた。(戦前、1933年にフライブルク大学学長に就任した際の就任演説で公然とナチスを賛美した彼が!)。

マルクスが、ある本質的でまた重要な意味において、ヘーゲルを継承しながら、人間の疎外として認識した事柄は、その根を辿れば、近代的人間の故郷喪失のうちにまで遡るのである。(中略)それゆえに、歴史に関するマルクスの主義的な見方は、その他のあらゆる歴史学よりも優れているのである[2]。(太字、清)

 さらにまた、ハイデガーはこう続けもした。

 彼は、「唯物論の本質は、技術のうちに秘め隠されている」と指摘したうえで、その「本質」を、古代ギリシアの「技術(テクネ―)tecné」の意味での「技術」、すなわち「忘却のうちに眠る〈存在〉の真理」を「覆いを取り除いて」、人間たちの前に「現前化」せしむることで、同時に人間たちを「〈存在〉の開けた明るみに住まわせる」ところの技術、そのなかに見る、つまり、そのようにして近・現代が運命的に抱え込む「存在忘却・故郷喪失」と対決し、まさに「〈存在〉の真理」たるかの「故郷」(「〈存在〉の開けた明るみ」)への人間の帰還を導く「技術」、これを提示しようとすることこそマルクスの真の意図である、と[3]。まさに「疎外」を克服し、真の自己実現、つまり己の〈存在〉実現へと導く「技術」なのだ、と。

 実にこの点で、ハイデガーは次のように念を押しさえする。――多くの人はマルクス共産主義を「ただ『党派』としてのみ、あるいは『世界観』としてのみ受け取り」、これまで自分が指摘してきた「〈存在〉の真理」の開闢ないしそこへの帰還に仕えようとする思想としては評価しない誤りに陥っている、と[4]

 ここで、遊歩者たる私は、先の自問自答に戻る。そして呟く。

 ――なるほど、ハイデガーは俺を見越していたのかもしれぬ。然り、もはやお前は既に根っからの「故郷喪失者」である。戦後まもなく、1949年に生まれたお前は。そしてその幼年期の片足を既にかの高度経済成長期に突っ込ませていたお前は! いうまでもない、お前の子供たちも、そのまた子供たちも、お前よりもいっそう「故郷喪失者」であるほかないことは!

 そして私は、私の思考に「遊歩」を誘う寄り道への指示を現今の流行りのキーワード、「三密」のなかに発見する。
 そしてこう自問自答しだす。近しく集まる空間、人間が親しく集まることそれ自体、そこでの会話の親密さ、もしそれを、生存の必要上、つまりコロナ感染を回避するために、われわれが失わなければならないとしたら、まさにそれはハイデガーにいわせれば「故郷喪失」という形而上学的事態そのものへと通じる通路が通貫した、開け放たれた! ということではないのか?

 実は、ハイデガーにあって、この「故郷喪失」というキーワードにはもう一つのキーワードが重なる。それはほとんどの邦訳文献では「不気味さ」と訳される言葉だが、ドイツ語原語は「Unheimlichkeit」であり、直訳的に訳せば「無故郷的・没故郷的」である。
 最初に紹介した一節の冒頭に、こうあった。「技術が人間を大地からもぎ離して無根にしてしまうということ、これこそまさに無気味なことなのです」と。そこにいう「不気味なこと」とはこの「Unheimlichkeit」である。

 私は先にこう言った。私は根っからの「故郷喪失者」である、と。ただし、こうは言わなかった。「私は家族喪失者である」とは。独語「故郷 Heimat」の語源をなすHeimは英語のhomeに等しく、「我が家」の意味である。私には、「故郷」と呼ぶべき時空はもはやなかったが、まだ「家族」は生きて存在している。父と母と妹は既に鬼籍に入っているとはいえ。また幼少期、思春期、青年期を「共に」した「友人」たちの〈存在〉も私の〈存在〉のなかに埋め込まれ、今も生きている。彼らとは〈存在〉と絆が今も結ばれている。

 今朝の朝刊に出ていた。
 或る女子中学生がラインでの仲間外しと苛めを苦に自殺を図った、と。学校での「三密」自粛、友達との「三密」自粛は彼女にスマホのラインの世界だけを残した。だが、その友との唯一の「関係性」となったラインで彼女は仲間外しと苛めの刑に処せられた。
 毎日の新聞が伝えている。学校での、また友達との「三密」自粛は多くの少年少女に帰宅を強いた。実は或る者たちにとっては、「家族」・「我が家」の時空から逃げることが唯一の生の活路であった。そこからの逃げ場が閉ざされ彼らは帰宅へと追い詰められた。毎日出会わされる親の夫婦喧嘩の修羅場、あるいは親からの虐待、ネグレクトの只中へと。しかも今では通説となっている。子を虐待する親はかつて親に虐待された子供であったこと、そういう虐待の連鎖が親と子とをその暗黒な無意識の層において支配していることは。「故郷喪失」ならぬ「我が家喪失」が既にして「故郷喪失者」となった我々を襲いだしたのである。

 この喪失は「無故郷性・没我が家性」としての「無気味」さの「深淵」の口を開けることである。これがハイデガーの洞察である。

 今では、都会ではもう闇というものがない。外灯のみならず様々なイルミネーションの洪水が都会の夜を貫く。だが、昔は、否、大昔はというべきか⁉闇夜があった。山の峠から、海岸の縁から遠くに視線を放てば、ほのかに明るむ「我が家」が、また同胞たちの家々とが共にする明るみが見える。「開けゆく明るみ」はこの「共に存在する Mit-sein」ことを照らし出す明るみにほかならなかった。ところが、道を一段下れば、あるいは半回りするや、その明るみが消える。世界は暗夜のなかに沈む。すると「物の怪」が蠢く。一挙に「不気味さ」が闇の奥底から湧き出す。「無故郷・没故郷」とは「物の怪」の蠢く闇の到来である。

 実は、ハイデガーのかの〈存在〉の「故郷」には、思いもかけないことだが、この闇夜の深淵の側面が潜む。かの「近代的技術」とは全く異なる古代ギリシアの「技術(テクネ―)techné」、まさに〈存在〉の「故郷」・「開けゆく明るみ」に我々を帰還せしめるとされたそれについて、しかし、彼の『形而上学入門』には次の思いもかけぬ一節がある。いわく、 

芸術は一つの特異な意味で、<存在>を作品の中で登場人物として存立と現前とへともたらすゆえに、(中略)芸術は知であり、そしてそのゆえにtechnéである。芸術がtechnéであるのは、それを成し遂げるのに「技術的」な熟練や仕事の道具や仕事の材料が必要だからなのではない。そうしてみると、なるほどtechnéはdeimon(デイモン、鬼神、悪魔、清)すなわち暴力‐行為的なものの特徴を、それの決定的な根本の動向において言い表している[5]。(太字、清)

 右の一節に出てくる「deimon」についてはこうある。 

deimonは暴力Gewaltを使用する者という意味で暴力的なgewaltigものを意味する。その暴力的なものとは(中略)その者の行為のみならず、その者の現存在の根本の動向であるという意味で暴力‐行為的であるような、そんな暴力的なものなのである。(中略)人間は特別の意味で暴力‐行為的なものであるゆえにdeimonである[6]

 今、ハイデガーに向かう私の「遊歩」は始まったばかりである。「今と、ここ」、このコロナ禍の下で。(清眞人)

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 [1]シュピーゲル対談」所収、ハイデガー形而上学入門』川原栄峰訳、平凡社
  ライブラリー、1994年、386~387頁。

[2] ハイデガー『「ヒューマニズム」について』、渡邊二郎訳、ちくま学芸文庫
   1997年、80~81頁。

[3] 同前、80~81頁。

[4] 同前、82頁。

[5] 同前、262~263頁。

[6] 同前、246~247頁。

2021春の教育講座・案内 ~ 今年はやります!~

 毎年、新年度はじめに教職員組合のみなさんが取り組んでいる《春の教育講座》ですが、昨年は残念ながらコロナウイルスの感染拡大で中止せざるを得ませんでした。

 でも今年の春は、コロナウイルスの感染防止につとめながら、新年度の始まりにふさわしい様々な学習会を県内各地で行う予定とのこと。
 日ごろからご協力いただいている教職員組合の企画です。素敵な仲間との出会いのなかで、新年度のスタートを切ってみてはいかがですか。 ご案内します。

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西からの風35(葦のそよぎ・「本来的自己」の逆説)

疎外は抑圧の諸帰結の一つであるどころか、疎外は抑圧の一つの因子である。疎外ということで、われわれは、人間が自己自身、他者、および世界とのあいだに導入する諸関係のあるタイプを理解する。すなわち、疎外においては、人間は「他者」の存在論的優位を定立するのである。〈他者〉とは、特定の人間のことではなく、一つのカテゴリー、あるいはそういいたければ、一つの次元、一つのエレメントである。〈他者〉として考察されるべきなんらかの特権化された対象ないし主体というものは存在しない。まさに、あらゆるものが〈他者〉となりうるし、〈他者〉はあらゆるものでありうる。〈他者〉とはまさに一つの存在様式なのである。・・・・・・〈他者〉の上にもっぱら立脚している世界観のなかでは主体はみずからのあらゆる投企や実存を彼でないところのものから派生させるのであり、彼のものとしては存在していないものからそれらを引きだすのである。〈他者〉が実体であり、〈自己〉は偶有的なもの、ないし現われとなる。
                    (サルトル『道徳論ノート』より)
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 われわれが「解放を求めて」という場合、それはある価値なり意味の実現を求めてのことだろうか、それとも反対に、まずもって価値なり意味の支配からの離脱こそを解放と呼ぶべきなのか。これは簡単に答えられない。しかし、解放とはそもそも何であるかと問う場合避けては通れない一つの本質的問題がある。

 われわれは「意味ある人生を、価値ある人生を」と言う。哲学者はこう言う。人間とは意味を欲求する動物であると。この言葉にあっては解放とは自己実現のことだと、そう了解されている。もとより、実現されるべき自己を問題にするのはやはり自己、この私である。つまり私は自分を、この言葉において、実現されるべき価値としての自己とそれを欠如するが故に欲するところの自己とに分かったうえで、前者によって後者を意味づけるわけである。この価値としての自己が自己の意味であり、自己を正当化するものであり、自己に存在の権利を与えるものであり、かくてそれは「本来的自己」とも呼ばれる。この本来的自己の実現への非本来的自己を離脱することが解放であると、そう了解される。

 だが、それにしてもこの「本来的自己」とは何であるのか、それは実現の暁には完成され完結した一つの存在となるものであろうか。ないしまた、それは内容的に明確に規定されるある存在なのだろうか。

 ところが、ここで視点をかえて、この「自己実現」という解放の意識が生きることになるその関係性の構造自体を問題にするならば、そこにはどんな問題が浮かび上がるだろうか。その時われわれはそこに一つの権力関係をとらえることにならないだろうか。つまり問題とはこうである。——たとえ「本来的自己」が何であるにしろ、この自己実現という意識においては私は関係性としてはこの「本来的自己」を私にとって一つの権力として見出しはしないか、ということである。あるいは、この関係性はそれ自体としては抑圧的性格を宿すものではないか、ということである。
 というのも、サルトルの言い方を借りれば、この「本来的自己」との関係において私は私を「他者の他者」としてとらえることになるといわねばならないからだ。「本来的自己」は私がいまだ実現していない自己として私にとって他者である。そしてこの場合、この他者こそがわたしの本質をなし私を意味づけるものとして、私がそこから出発して位置づけられるものであり、その意味で私は私をこの他者の他者として(つまりこの他者の優位性の下に)とらえるのである。いいかえれば私は私をこの「本来的自己」に支配され服すべきものとしてとらえるのだ。

 「本来的自己」という観念が曲者である。というのも、この観念はそれが「非本来的自己」に対する時は否定性の運動として、したがってまた解放の運動としてあらわれるが、みずからを積極的に立てる時は、いいかえれば他者として立つ時は私がそこに到達することを待っている既に完成済みの存在、所与としてあらわれるからだ。そのことで、この観念は出発点において要求した私の解放努力、いいかえれば自由な創造という企てを結局無効にしてしまうのである。それは、私に価値と意味を授けるものとして、むしろ私がそれへと強制されてしかるべきものとしてあらわれ、私の創造的自由に嫌疑のまなざしをむけるものとなるのだ。
 「本来的自己」という言葉がいかに倫理的に高潔な響きをもとうと、またひとが各々この言葉になにを託そうと、この観念自体が呼吸している関係性にはそれ自身の力学がひそんでいる。それで、この言葉は、往々にしてその機能においていわば自分でも思ってもみない仕方で抑圧の言葉になりもするのである。

 人間はなるほど意味を渇望し欲求する動物である。だが、だからこそこの渇望のなかで与えられた価値や意味にたやすく飛びつき、みずからをそれによって呪縛することを欲しもするのだ。「本来的自己」という言葉はその意図からすればそうした所与の価値や意味にむけての人間の身投げを批判し否定する言葉だが、それ自身が紡ぎだす関係の力自身によって、自分が否定しようとした当のものへと逆転する危険を孕んでもいる言葉なのだ。

 サルトルは自由を定義して、それは人間が自己の存在を不断に問題にかえること以外ではないと主張する。いいかえれば、彼の観点からすれば人間は意味と価値から疎外されるに先立ってそうした疎外が成立つ前提として、まず意味と価値へと疎外されているのであり、この疎外からの回復として不断に自己を問題化する自己を得なければ、意味と価値からの疎外を脱しようとする努力は絶えず意味と価値への疎外に急転する運命を免れえないのである。サルトル的自由の否定的性格がもつ効力、それは「本来的自己」なる理念的言葉の孕む抑圧性に対する感受性と相関する。(清眞人)

※ なお Diary の【 空を想った、映画『すばらしき世界』】と、【映画『すばらしき世界』と、「四つ葉のクローバー」】、そして今回の【「本来的自己」の逆説】は、私にとって一つながりの連想のなかにあります。(キヨ)

映画『すばらしき世界』と、「四つ葉のクローバー」

 映画「すばらしき世界」は、人生の大半を刑務所で過ごした元殺人犯の三上が刑期を終え、今度こそまっとうに生きていこうと悪戦苦闘する姿を描く。その三上を見ていると、なぜか吉野弘さんの「四つ葉のクローバー」が気になり始める。

 クローバーの野に坐ると
 幸福のシンボルと呼ばれているものを私も探しにかかる
 座興以上ではないにしても
 目にとまれば、好ましいシンボルを見捨てることはない

 四つ葉は奇形と知ってはいても
 ありふれて手に入りやすいものより
 多くの人にゆきわたらぬ稀なものを幸福に見立てる
 その比喩を、誰も嗤うことはできない

 若い頃、心に刻んだ三木清の言葉
 〈幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか〉
 を私はなつかしく思い出す

 なつかしく思い出す一方で
 ありふれた三つ葉であることに耐え切れぬ我々自身が
 何程か奇形ではあるまいかとひそかに思うのは何故か

 何が気になるのかといえば、それは「奇形」の四つ葉と「ありふれた」三つ葉だ。三上は一般社会では生きてこられなかったアウトロー、つまり「奇形」の四つ葉。一方、この社会のなかで「ありふれた」生活を送る私たちは三つ葉

 三上は、堅気の世界の一員になろうと必死にもがく。三上にとって「ありふれた」私たちの生活は憧れであり、いわゆる「三つ葉」の一員になろうとすることは、幸福を求める良心的なものだとも言えよう。しかし社会は、三上をなかなか受け入れようとはしないし、また三上自身もその世界の一員になろうとするものの、そこに生きづらさを感じてもいる。一方、「ありふれた」生活をしている私たちは、今の生活や自分のあり方にどこか物足りなさを感じ、贅沢な生活や自由気ままな生活を夢見たり、人とは異なる自分らしさをさがし求めてみたりする。しかし「三つ葉」である私たちは、「奇形」の世界へと真に身を投じるかと言えば、決してそうではない。私たち大多数は小心者なのだ。このような矛盾に満ちた心情を生きる人間存在のおかしさを、吉野さんは白黒つけることなく私たちの前に広げて見せる。吉野さんのこのようなまなざしは、「四葉のクローバー」に限ったことではない。詩集『消息』の無題の「序詩」や「モノローグ」に、あるいは『北入曾』の「SCANDAL」などに見出すことができる。

 そして映画『すばらしき世界』を通して私たちは、「奇形」の三上が「ありふれた」三つ葉になろうとする姿を通じて、われわれ「三つ葉」の世界の「奇形」を感じ、また三上の「奇形」に幸福を求める「良心」の欠片を垣間見る。(キヨ)

震災の教訓を どう継承するか(震災のつどい報告)

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 「震災の教訓をどう継承するか」とのテーマで、【大震災から10年~第7回いのち・子どもと教育を考えるつどい】が、2月27日(土)開催されました。
 参加者のなかには《ぜひ、直接話を聞きたい》とはるばる関西からの参加者もあり、全体としては会場・オンライン参加をあわせると約170名ほどの参加となりました。

 第1部では、語り部として震災の伝承活動に取り組んでいる高校生と大学生からそれぞれの活動の経過や思いについて報告してもらい交流しました。
 七ヶ浜町の高校生たちでつくる「きずなFプロジェクト」は、幼稚園や小中学校での取り組みなど、この間の活動経過を報告しました。メンバーの一人は、語り部活動を通じて、震災を自分事として考えられるようになったと語ります。またメンバーの被災体験をもとにつくった紙芝居を会場で上演してくれました。
 大川伝承の会や「記憶の街」模型復元プロジェクト、3.11メモリアルネットワーク若者プロジェクトなど、さまざまな場を通じて震災と向き合ってきている大学生の永沼悠斗さんは、活動への原動力は《地震がきたらどうするかを事前に家族で話し合っていれればという後悔、悔い》だと言います。また《震災のことを考えたいと思っても、学校教育の中ではなかなか向き合う機会がなかった》と振り返り、震災の事実と教訓を伝える取り組みを、もっと同世代のつながりもつくりながら広げていきたいと今後の抱負を語りました。

 第2部「学校防災の未来」では、震災直後から被災校の聞き取り調査を行い、その事実にもとづきながら、今後の教育や学校のあり方について精力的に発言してきている研究センター代表の数見が、改めて今後の学校防災を考える視点や課題を提起しました。また若者が語り部活動に参加する意義についても「自己肯定感や自己有用感を醸成したりすることを通じての成長につながる」と述べ、若者たちの取り組みへの期待も語りました。

【参加者の感想から】
●自分と同じ、もしくは若い世代が活躍しているという現状を知ると、自分にもできることがあるのではないかと勇気づけられました。10年という時間が経ってなお記憶は残さなければいけないものだと改めて考えることができました。

●きずなFプロジェクトのみなさん、永沼さんのお話から、子どもたちのいのちを守るということは、地域を守り、生活(日常)を守ることでもあることを教えてもらいました。きずなFプロジェクトのメッセージ、永沼さんの活動の基盤にある「地域は自分の一部」ということからも、子どものいのちを守るためには、マニュアルの整備はもちろん、地域と共にある学校として、どのような学校づくりをしていくかが大切だと感じました。

●被災者です。忘れたいという思いが正直強かったのですが、近年ようやく伝えなければならない、むしろ伝えたいという思いが強くなってきました。自分の体験を伝えることから、今まで学んできたことを授業として実践していきたいと思います。若いみなさんの話を聞いて、ますますそういう気持ちを強くしました。

●10代、20代の子ども・若者の自主的・主体的な動きとともに、私たちが行動していくことが必要だと思います。センターの方々とは学会と共同して震災調査に協力して頂きましたが、聞きとりをした高校生どうしであっても被災の度合いの「差」がありました。いまや小学4年生以下は体験もなく、小5・6であっても記憶の濃さが異なるはずです。経験の濃淡は避けられませんが、それでも体験を綴りあうこと、語り合うことは欠かせないはずです。今回のテーマである「継承」のためにも、教育現場の実践にも目を向けていければと思いました。

●Fプロの皆さんの活躍はマスコミ報道などでよく見ていましたが、実際に紙しばいを見たのは初めてでした。実話をもとにした話からは、被災した方の思い(心の傷)がよく伝わってきました。皆さんの学びは、防災の意義を伝えることを通して大きな社会参加につながっています。学びが持つ力の大きさを改めて感じさせられました。

●数見先生が震災直後から被災地をめぐり、検証していたことを知っていたので、今回聞くことができて勉強になった。現場の教員として、ゆるんだネジをしめていただいた思いだった。明日にでも起こるかもしれない自然の脅威に常に謙虚に向き合っていきたいと思う。

●永沼さんの実践の中で印象に残ったのは、大川地区の模型復元プロジェクトです。「記憶がモノやヒトに宿る」と言われるように、その地区を「復元」することは過去を取り戻すことにつながり、地区の皆さんを精神的に力強く支えることになったことと思いました。

●紙しばいに心が動かされました。プロではないのに、その声を発している背景や体験がにじみ出ていたからです。伝承の本質がそこにあり、津波を知らない人たちに間違いなく伝わってきたことを知りました。こういう活動をしているみなさんが、どんな人生を切り拓いていくのか、とても楽しみです。

●数見先生の膨大な資料をもとにした検証作業、本当にすばらしいと思いました。震災を経験した教員も、あの震災の中、沿岸部と内陸部では同じ宮城の教員でも大きな隔たりがあったのは事実です。積極的に学び、伝えていける力をやはり宮城の教員としてしっかり身につけなければと思いました。

●永沼さんの「苦しい記憶もあるが、楽しい記憶も伝えたい」という思いにハッとさせられました。大川地区の模型を作り、記憶を綴った「記憶の旗」を立てていく取り組み。今でも旗は増え続けるという事実が、この取り組みの意義を教えてくれていると思います。これから自分ができることを考える機会になりました。

季節のたより71 アセビ

  大和路に多い早春の花  花の準備は夏の頃から

 東北の春先は、突風をともなう猛吹雪が起こります。宮沢賢治の童話「水仙月の四日」は、その猛吹雪をモチーフに、自然の厳しさと優しさを描いています。
 嵐を引き起こす雪婆んご(ゆきばんご)に仕える雪童子(ゆきわらす)は、真っ青な空を見上げて、見えない星に向ってさけびます。

  カシオピイア、/ もう水仙が咲き出すぞ
  おまへのガラスの水車 / きつきとまはせ。

  アンドロメダ、/ あぜみの花がもう咲くぞ、
  おまへのラムプのアルコホル、/ しゅうしゅと噴かせ。

            (宮沢賢治全集 第11巻・筑摩書房

 天空は北極星を軸として1日1回転するガラスの水車。カシオペア座が水車を回すと、天の川も他の星々も一気に回転を始めます。
 「あぜみ」は賢治の故郷の方言で、アセビのこと。アセビの英名は Japanese Andromeda(ジャパニーズ・アンドロメダ)ということから、賢治には、群がって咲くアセビの花は小さなランプで、ランプが灯すアルコールの淡い焔はアンドロメダ座の大星雲に見えているのでしょう。

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      賢治によって、銀河系の星々に見たてられたアセビの花

 アセビツツジアセビ属の常緑低木です。世界では約10種あるといわれ、日本にも古くから固有種が自生していました。奈良時代の頃は人気の花で、万葉集に詠まれた歌が10首あります。
 現在も、本州、四国及び九州の、やや乾燥した林地や山の尾根などに群生しています。花が美しいので、庭や庭園に鑑賞用としても植栽されることも多く、ピンク色の花をつけるアケボノアセビのような園芸品種もつくられています。

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     白い色が基本のアセビの花      ピンク色の園芸種、アケボノアセビ

 アセビの花は3月頃から咲き始め、枝先に小さなランプのような花を群がるようにつけて春の到来を知らせます。
 アセビのつぼみは9月頃にはもう房のように並んでいて、今にも咲き出しそうに見えますが、そこから半年以上かけて開花の準備をするのです。
 ツツジの仲間は前年の夏頃に花芽を形成しますが、アセビは7月頃から花の準備を始めていて、これほど早期に花序を伸ばす花も珍しいようです。
 早春になると房状に並んでいたつぼみは、待ちかねたように順番に咲き出し、5月頃まで咲き続けます。

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     開花を待つつぼみ(12月)       開花間近のつぼみ(3月)

 アセビの花は遠目にもよく目立ちます。花の香りもつよく、独特の匂いで虫たちをよびよせます。花は花びらが合着した「つぼ型」と呼ばれる独特の形をしていて、5つに開いた花の入り口はせまく、花のなかがよく見えません。ルーペでのぞくと真ん中に雌しべの花柱が飛び出しています。奥に10本の雄しべが並んでいて、雄しべの先の葯の背面に何やら細く糸状のものがついています。
 アセビは下向きに花を咲かせています。虫たちを呼びよせても、花のせまい入り口を下から入って、うまく受粉の手伝いをしてくれるのでしょうか。

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    つぼ型の花が  下向きに咲く     花の口から見える  雌しべと雄しべ

 アセビの花は、花粉を運んでくれるパートナーを特別に選んでいるのでした。
 ストローのような口で蜜を吸うチョウの仲間は、花粉に触れないので受粉の役には立ちません。いろんな種類の花を渡り飛ぶハエやハナアブの仲間は、気まぐれなので頼りになりません。アセビの花は、これらの虫たちがやってきても、花の奥にある蜜を得られない花の形をしているのです。
 アセビの花がパートナーに選んだのは、ハナバチの仲間です。ハナバチは、記憶力があって個体ごとに巡回するコースを持っています。自分が訪れた花を覚えていて、アセビの花を訪れる可能性が高いのです。
 花の形もハナバチの仲間の体形にあうようにできています。やってきたハナバチは、下向きの花の入り口から潜り込めます。力があるので蜜腺にたどりつこうと這い上がると、雄しべの葯の背後の糸に触れ、糸とつながる雄しべが振動、花粉がこぼれてハナバチの体につくしかけになっています。

 アセビは房に並んだ花を順番に咲かせ、長い期間をかけて受粉しています。全部の花が咲き終わるのを待つことなく、新しい葉の芽が伸び出し、若葉色の葉を広げていきます。花と若葉が一緒に見られるのも、アセビの特徴です

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       花が咲き終わらないうちに、新芽が伸びて若葉を広げます。

 6月上旬になると、若い実が育って、秋に向って成熟していきます。若い実が熟していくのと並行して、翌春の花となるつぼみの準備も始まります。
 花は下向きに咲きますが、褐色に熟した実は、上向きに向きを変えています。その方が種子の散布に都合がいいからです。熟した実は、冬から春にかけて、少しずつ開口部を広げ、長さ2ミリほどの細かい種子を順次散布していくのです。

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    実ができると上向きになる。   5裂した実と種子    実は遅くまで残る

 アセビは漢字では「馬酔木」と書きます。アセビの葉や茎には毒性があって神経に作用し、馬が食べると足がしびれて酔ったようになるからというのが語源です。
 でも、アセビは古来日本に自生していた樹木です。他の草食動物がアセビを食べても馬と同じになったはず。なぜ「馬」なのでしょうか。
 これについて、植物学者の前川文夫博士が、その著『植物の名前の話』(八坂書房)で研究者の立場から興味深い話を書いています。結論だけを要約してみます。

 日本で普通に見られていたアセビは中国では深い山に生える珍しい植物でした。
 かつて中国黄河流域で栄えた大陸文化をもった人たちが馬を携えて大和の国に移住してきたときのこと。中国では全くアセビを知らなかった馬たちは、アセビを有毒とする本能に欠けていて、盛んに食べて中毒する騒ぎが何度も起きたのだそうです。大切な馬の中毒に驚き、日本人に植物の名を聞くと、アセミとかアシミということ。そこで、この木に「馬酔木」の文字をあて注意をするようにしたというのです。前川博士は、「馬酔木」は「中国人が日本の土の上で作り出した、いわゆる漢字名」なのだと述べています。(アセビと馬酔木の名の話)

 春になると、奈良の春日大社奈良公園では、みごとなアセビの風景が見られます。前川博士によると、奈良にアセビが多いのは、昔から神の使いとして大事にされてきた鹿が、他の樹木は食べても、アセビだけはその有毒さを知っていて食べ残した結果だといいます。春の大和路の美しい風景は、長い歴史の中で鹿たちによって仕立てられたもののようです。

 鹿は4つの胃を使って食べ物を反芻して消化する草食動物です。葉っぱはもちろんのこと茎、花、実、根、枯葉から樹皮まで食べます。植物ならほとんど何でも食べますが、さすがにアセビだけは避けて残します。ですから、もともとは多様な植物が混生していた山地でも、鹿が増えるとアセビだけの風景が生まれます。

 広島の宮島の散策遊歩道の至るところに見られるアセビは、鹿が食べないで残ったものです。静岡の天城山には、山の稜線に400mも連なるアセビが群生し、頭上を覆うように枝がからみあうアセビのトンネルが見られます。現地では、年々増える鹿の食害でさらにアセビが増えているそうです。

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   自然のままだと5mを超えることも。   大きな木になると  花も豪華です。

 アセビは体内に毒成分を持つことで自己防衛しているわけですが、じつは鹿も食べないアセビの葉を好んで食べる昆虫もいるのです。
 ヒョウモンエダシャクという蛾の幼虫は、アセビレンゲツツジなどのツツジ科の有毒植物を食草にし、体に毒を蓄積して、毒は成虫になっても残るそうです。毒ありとは知らない鳥がこの蛾を食べてひどい目に遭うと、次は食べないでしょう。
 ヒョウモンエダシャクの成虫は、夜活動する蛾の仲間なのに、目立つ姿で昼に堂々と活動しています。このままなら、ヒョウモンエダシャクの大発生が起きるのでは。でもその様子はありません。ひそかにこの蛾を平気で食べる生きものがいるのでしょうか。ヒョウモンエダシャクの数を抑え、自然界のバランスを保っているのは何なのでしょう。多様な生きものたちが関わりあう自然界はまだまだ謎のままです。

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 ヒョウモンエダシャクを除いては、虫がつかないので庭園に好まれる理由かも。

 国内の鹿は年々数を増やしています。農林業への被害、生態系への影響もあるからと、数を減らして管理する取り組みも関係者によって行われています。
 野生動物を見つめ続けてきた動物写真家の宮崎学さんは、道路にまかれた凍結防止剤で塩分をとる鹿や猿を目撃、撮影してきました。「全国的なシカの激増と塩化カルシウムの散布は(時間的に)ぴたりと一致している」と感じるそうです。
 手入れされない森林に鹿が増えて、そのシカの死骸を食べてクマが増え、70年代に無人カメラにほとんど写ることのなかったツキノワグマが、今では「バンバン写る」ようになったといいます。(宮崎学・小原真史共著『森の探偵』亜紀書房
 環境破壊が進むと野生動物が減少すると思っていたのですが、現実には増加していてそう単純なことではないようです。
 「現実の自然というのは、人間が考えるほど弱くもろいものではなく、あくまでも人間の心理とは関係なく自然界の摂理にそって淡々と動いているのですよね。」(同著)と語る宮崎さん。地球上でわがもの顔にふるまっている人間という生きものも、所詮、自然界の摂理のなかにあることに気づかなければいけないのですね。
                                 (千)
◇昨年3月の「季節のたより」紹介の草花