mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

映画『すばらしき世界』と、「四つ葉のクローバー」

 映画「すばらしき世界」は、人生の大半を刑務所で過ごした元殺人犯の三上が刑期を終え、今度こそまっとうに生きていこうと悪戦苦闘する姿を描く。その三上を見ていると、なぜか吉野弘さんの「四つ葉のクローバー」が気になり始める。

 クローバーの野に坐ると
 幸福のシンボルと呼ばれているものを私も探しにかかる
 座興以上ではないにしても
 目にとまれば、好ましいシンボルを見捨てることはない

 四つ葉は奇形と知ってはいても
 ありふれて手に入りやすいものより
 多くの人にゆきわたらぬ稀なものを幸福に見立てる
 その比喩を、誰も嗤うことはできない

 若い頃、心に刻んだ三木清の言葉
 〈幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか〉
 を私はなつかしく思い出す

 なつかしく思い出す一方で
 ありふれた三つ葉であることに耐え切れぬ我々自身が
 何程か奇形ではあるまいかとひそかに思うのは何故か

 何が気になるのかといえば、それは「奇形」の四つ葉と「ありふれた」三つ葉だ。三上は一般社会では生きてこられなかったアウトロー、つまり「奇形」の四つ葉。一方、この社会のなかで「ありふれた」生活を送る私たちは三つ葉

 三上は、堅気の世界の一員になろうと必死にもがく。三上にとって「ありふれた」私たちの生活は憧れであり、いわゆる「三つ葉」の一員になろうとすることは、幸福を求める良心的なものだとも言えよう。しかし社会は、三上をなかなか受け入れようとはしないし、また三上自身もその世界の一員になろうとするものの、そこに生きづらさを感じてもいる。一方、「ありふれた」生活をしている私たちは、今の生活や自分のあり方にどこか物足りなさを感じ、贅沢な生活や自由気ままな生活を夢見たり、人とは異なる自分らしさをさがし求めてみたりする。しかし「三つ葉」である私たちは、「奇形」の世界へと真に身を投じるかと言えば、決してそうではない。私たち大多数は小心者なのだ。このような矛盾に満ちた心情を生きる人間存在のおかしさを、吉野さんは白黒つけることなく私たちの前に広げて見せる。吉野さんのこのようなまなざしは、「四葉のクローバー」に限ったことではない。詩集『消息』の無題の「序詩」や「モノローグ」に、あるいは『北入曾』の「SCANDAL」などに見出すことができる。

 そして映画『すばらしき世界』を通して私たちは、「奇形」の三上が「ありふれた」三つ葉になろうとする姿を通じて、われわれ「三つ葉」の世界の「奇形」を感じ、また三上の「奇形」に幸福を求める「良心」の欠片を垣間見る。(キヨ)