mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

空を想った、映画『すばらしき世界』

 先日、映画『すばらしき世界』を見てきた。タイトルに「すばらしき」と銘打っているが、果たしてこの世界は本当に「すばらしい」のだろうか。見終わった後に考えさせられる。

 人生の半分以上を刑務所で暮らした主人公三上は、出所を機会に真面目に生きようとするが、彼にとって社会は冷たく、生きづらい。不器用でやさしく直情的な彼は、七転八倒しながらも、この社会で生きていこうとする。映画は、ヤクザの世界に生きる人間を特殊な人間としてではなく、この世界に生きるひとりの悩める人間として描く。

 映画で、一番印象的で心に残ったセリフは、姉御スマ子(キムラ緑子さん)の「あんたは、これが最後のチャンスでしょうが。娑婆は我慢の連続ですよ。我慢のわりにたいして面白うもなか。そやけど、空が広いち言いますよ。」というセリフ。

 セリフを聞きながら、一つの思いが心に浮かんだ。なぜ人は、空を見上げるのだろうか。3.11のあの夜、惨禍のなかで星の輝く夜空を見上げたことを思い出していた。
 空を想う、人は空に何を想うのだろう。ひとつの祈り、ひとつの願い、空へと向けたまなざしは、その空になにを見ようとするのだろう、したのだろう。そんな思いが浮かんでは消えた。
 それから、幼稚園の子たちと歌った「空はどこまでも、空は一つだから」という一節も思い出す。空はどこまでも広がる一つの世界。それは三上が長らく過ごした刑務所の制限され区切られた不自由な世界との対比だろうか。

 映画は、印象的に空を映し出し、主人公三上の想いを空に投影しながら描いていく。それをどう感じるかは、見る者それぞれにゆだねられているのだろう。個人的には、さまざまな空の映像が、この映画のすべてを語っているようにすら感じた。ちょっと残念に思ったのは、最後の終わり方かなあ・・・。

 見終わって、誰かと話をしたくなった。ぜひ、よかったらみなさんご覧ください。お薦めします。(キヨ)

※ 映画のことを思っていたら、なぜか吉野弘さんの「四葉のクローバー」が心に浮かんだ。なぜなのか、よくはわからない。映画の内容と詩の内容がぴったり重なるわけではないが、映画全体から受けたイメージと詩のもつイメージが、どこかで共鳴したのだろう。

 クローバーの野に坐ると
 幸福のシンボルと呼ばれているものを私も探しにかかる
 座興以上ではないにしても
 目にとまれば、好ましいシンボルを見捨てることはない

 四つ葉は奇形と知ってはいても
 ありふれて手に入りやすいものより
 多くの人にゆきわたらぬ稀なものを幸福に見立てる
 その比喩を、誰も嗤うことはできない

 若い頃、心に刻んだ三木清の言葉
 〈幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか〉
 を私はなつかしく思い出す

 なつかしく思い出す一方で
 ありふれた三つ葉であることに耐え切れぬ我々自身が
 何程か奇形ではあるまいかとひそかに思うのは何故か

            ( 吉野弘さん「四つ葉のクローバー」)

   ポスター画像