mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

「林檎」が結ぶ、二つの像

 先日の春さんのdiary(『戦争語彙集』)に、キーウ在住のアンナさんの話が「林檎」というタイトルで紹介されている。その文章からいろんなことを想像し連想し、また妄想した。それらは、ばらばらで一つにまとまらないが、アンナさんの「林檎」の話が触媒になって、心のなかで明滅している。

 爆撃から身を守るためのバスタブでの寝起き。遠くであるいは近くから聞こえてくる爆発音、それらの現実の厳しさが、バスタブ同様に寝心地悪い山小屋のベットで過ごした若き日の「燃えるような恋」を呼び覚ます。熟れた林檎の果実が「とすっ、とすっ」と木から落ちていく、その音とともに灯る「わたしの幸せ」な時間。「林檎の実だけがわたしたち皆のもとに落ちてくれればいい」との願いと祈り。「林檎」が身悶えするような生きることのすばらしさや幸せを、それとは裏腹の現実のなかで像を結ぶ。

 「林檎」という言葉に重なって、ふいに1945年の敗戦のその年に発表され歌われた「リンゴの唄」が頭に浮かぶ。戦後の不安と混乱の中にありながらも、戦争による死の恐怖からの解放感や生きる希望がそこにはあったに違いない。国や時代を異にしつつも、同じリンゴに託された共通の願いを感じ、その不思議を思った。

 そんな不思議を思うのもつかの間、アンナさんの幸せの「林檎」が、突然私の目の前でさく裂し飛び散っていく。林檎の「赤」と血の「赤」が重なって、キーウの空から血の雨を降らしはじめ染めていく。「とすっ、とすっ」という林檎の落ちる音が、キーウの街に降りそそぐミサイルの爆発音へと変貌していく。「林檎」が、平和や幸せの像を結ぶ一方で、そんな願いや思いを木っ端みじんに打ち砕いていく。

 春さんのdiaryにあるアンナさんの文章を読みながら、私はこんな相反する二つの像に引き裂かれている。 (キヨ)