mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

八島正秋さんのこと(その1)

 八島さんは私より6歳上なのだが、なんと、亡くなってもう35年にもなる。あまりに早すぎた。
 意気地のない言い方になるかもしれないが、今になっても(ここに八島さんが居てくれたら)と思うことが何度もある。
 八島さんと初めて会った時のことははっきりと思い出せない。その時を探ってみるために、八島さんの書いたものなどを読んでみた。次は、八島さんの書いた「教師の自己形成のあゆみ」の一部である。

 ~~鈴木市郎さんのことは、大分前から知ってはいた。雑誌の誌上で名前を見たり、民教研の集会で顔を見たりした。が、直接話をしたことはなかった。東北民教研に顔を出したり、算数教育関係の雑誌などを読んだりはしていたが、サークルに所属したこともない私は、いつも会場の片隅で黙って聞いて、ひとりで帰っていた。雑誌にものを書くようなえらい先生とことばをかわしたりすることは、とてもできなかった。私が初めて鈴木さんとことばを交わしたのは第11次県教研で、1961年の秋のことであった。支部代表で県教研に参加した私は、この年の全国教研に参加することになり、助言者だった鈴木さんにレポート作成の指導を受けたのが、話をした最初だった。
 彼は温厚な人だが、実践や理論には厳しい人だった。全国教研に参加が決まった年の、県冬の学習会にレポート提出を依頼された。「比例の実践はあるが、よくわからないところもあって自信がない」と言うと、「それでいい、よくわからないことは、ぼくらも応援しますよ」というので、私は参加した。(鈴木先生が助けてくれる)、そう思って参加したのだったが、鋭い質問を浴びせたのは鈴木さん自身だった。(約束がちがうではないか)とひそかに思ったが、彼はそんなことにいっこう無頓着のようだった。「応援する」ということばを私は、わからないところもわかったようにしてその場をとりつくろうことと解釈していたのに対し、鈴木さんのは、それと真逆に、わからない点をハッキリさせ、それをみんなで解明することだった。私には驚きだったし苦しかったが、さわやかな気持ちになったことは、今もハッキリ覚えている。~~
                                 (「日本の学力 16 教師」日本標準社発行)

 この時、八島さんは教師生活3年目、勤務校は桃生郡小野小学校であった。
 八島さんの動きは、この時を機により広がっていったようだ。全国教研への参加と前後して、これも鈴木市郎さんの推薦で、県教組が発行していた「夏(冬)休み学習帳」の編集委員になり、算数を担当することになる。
 実は、数年後になるが、私も、「国語の担当者がやめることになったので、夏(冬)休み学習帳の中学校国語の編集委員をやってくれ」との連絡を受け、何もわからないまま安請け合いをしてしまった。この学習帳は宮教組が発行、当時は県内の小中学校のほとんどが使用していたように記憶する。

 編集委員会はホテル白萩の前身白萩荘でもたれた。八島さんとの初めての出会いはここだったと思う。八島さんはもう編集委員会の中心として動いていた。編集長は鈴木市郎さん。初任で何もわからない私は、国語の編集実務のことを鈴木さんから直接指導を受けた。鈴木さんは数学が専門と聞いていたが、どの教科担当者とも対面で話し合っている様子を目にしながら、(このような力をもった教師が県内にいるんだ!)と、大いに驚いた自分が今でも鮮明に残っている。ありがたいことに私の世界が広がる仕事をさせてもらった。

 「組合で学習帳?」と、今ではとても考えられないことであるが、学習指導要領が拘束力を持つようになった1958年以降でも、変わることなく自主編成の学習帳をつくりつづけたということで、力のない私などにとっては大きな学習の場になったのである。とは言うものの、あっという間に世の波に押し流され、編纂を止めざるを得なくはなったのだが・・・。
 1962年に勤務地が仙台になった八島さんは、県数学教育サークル、仙台算数サークル結成の中心となり、高橋金三郎さんの応援をうけながら、仙台算数サークルの中心になって動きつづけた。その流れのなかで、八島さん自身が、八幡小学校で授業実践検討会のための算数の授業(6年生)を公開し、算数教育について広く提案している。

 私が仙台に入った(1969年)とき、当時の県教組相澤教文部長から「仙台に来たのだから、『教育文化』の編集の手伝いを頼む」と言われ、何もわからず参加した編集委員会にも八島さんはいた。
 当時、「教育文化」の編集会議にはいろいろな方が出入りをしていた。週一の編集会議は出入り自由の場になっており、大学の先生たちも入れ代わり現れ、そのほかに他県の方や取材とは関係なく話し合いに興味をもつ記者などまで顔を出すことがあり、私は後々までお世話になる方たちとの出会いの多くが「教育文化」編集会議の場になった。
 月刊の次号編集が主たる仕事でありながら、集まった方々が、それぞれ勝手にしゃべり、時間が来ると散っていくという感じの繰り返しのなかで、32ページの「教育文化」誌は毎月姿を見せつづけた。

 その場のひとりになった私にとって、それまで考えることもしなかった話題で盛り上がる会議は、身を縮めて聞き入ることがほとんどだったが、何がとびだすかわからない編集会議はそれまで得ることのなかった楽しみの場になった。
 八島さんは私とは違っていた。既に宮城で提案されていた「教育実践検討会」算数の授業提案者のホープであっただけでなく、教育全体についての話し合いではいつも座の中心になっていた。
 「教育文化」に関係するようになってから私は、冊子をつくる意味の大きさも感じるようになり、「教育文化」を発刊した菊池鮮さんは、「自分が書きたいから発行した」とよく言っていたが、それが本意だとしても、今考えても宮教組のためにはかり知れないものを残したと思う。
 編集会議を終えると、八島さんと帰る方向が同じなので、免許取りたての車に乗せてもらい、話は車中でもつづくのだった。そのたびに、(お前、まだまだだぞ!)と言われているように感じることもしょっちゅうだった。

 県教組相澤教文部長の後任に八島さんを推すことになった。もちろん、私たちの周りでは誰も異論はなかったから、八島さんも決意せざるを得なかった。1971年から3年間の任期である。
 立候補を決意した八島さんは、組合新聞に、次のような抱負を書いた。

         教室に真実を 職場に自由を

 このたびの役員選挙に立候補を決意するまで、長い間悩みました。この重大な責務を、私ごとき者が果たし得るものかどうか、自問自答を繰り返してきました。
 特に、民主的な教文運動を実りあるものにするためには、自身の教育実践を真剣に問い返してみなければなりませんでした。単なるかけ声や口先だけではなく、日教組が20年の間かかげてきた「平和を守り、真実をつらぬく民主教育の確立」という理想を、教室の子どものなかに、厳然たる事実として創り出してきたのかどうかを、厳しく問い返してみなければなりませんでした。そうでなければ、これからの教文運動を推進することなどは、とてもできない相談だからです。
 家永裁判の第一審判決が出たとき、私は泣きました。うれしくてしようがなかったのです。なにが真実なのか、どう教えることが子どもを本当に幸せにすることなのか、私なりに真剣に取り組んできたつもりでした。自分なりに納得できることを教えてきました。当然圧力がかかりました。しかし、この教育の自由は、到底譲り渡すことのできない教師の権利です。それが、この判決で公然として認められたのです。家永さんの勝利は、私自身にとっても勝利だったのです。
 しかし、家永裁判は、勝った負けたといった次元でとらえるべきではありません。判決にうたいあげられた精神は、私たち日教組の20年来の課題でもあります。そしてそれは、今後も営々として、私たちが職場の中に、「事実」として創りだしていかなければならないものだと思います。
 この重大な仕事に微力ながら、全力を尽くしたいと思います。

 ここで八島さんが取り上げている「家永裁判の第一審判決」は、家永三郎さん(東京教育大学教授)が起こした高校日本史教科書不合格処分取り消しを求める裁判での東京地裁判決(杉本判決)を指す。1970年7月17日、「子どもの学習権を中核とする国民の教育権を憲法26条の保障内容と認めて『国の教育権』を否定」したものである。
 この判決直後になる8月5日からの東北民教研の鳴子集会は、教科研全国集会などとの合同集会だったが、東北民教研史上最大の2,500人の参加者で鳴子の旅館を埋め、3日間の集会はこれまでにない参加者の明るい活気のある集会になったことが思い出される。
 翌年の1971年4月から八島さんは専従として宮教組教文部の仕事を担当することになった。ーつづくー( 春 )

『こくご講座・冬 ~ウっシっ詩~』 (その2)

◆ Kさんの考える詩の授業

 目の前の子どもに合わせてどんな詩を選ぶのかが大事になります。どのような詩であれ読む人間の心を動かすものでなくてはなりません。子どもの心を豊かにしたいと願うからです。今回提示された「うんこ」という詩は、ふだん子どもたちが持っている既成概念を取り払い、解放したいということでした。ものを考えるときには、一つの価値観に縛られることなく柔軟で自由な見方が大事だということをこの詩で伝えたかったのです。

  う ん こ
            たにかわ  しゅんたろう

 ごきぶりの うんこは ちいさい
 ぞうの うんこは おおきい

 うんこというものは
 いろいろな かたちをしている

 いしのような うんこ
 わらのような うんこ

 うんこというものは
 いろいろな いろをしている

 うんこというものは
 くさや きを そだてる

 うんこというものを
 たべるむしも いる

 どんなうつくしいひとの
 うんこも くさい

 どんなえらいひとも
 うんこを する

 うんこよ きょうも
 げんきに でてこい

◆ Oさんの言葉遊び

 「とる」という動詞にもいろいろあるんだなあ、ということに気付いたら、子どもたちに作らせ、それを交流するそうです。声に出しても楽しい詩です。

  と る
           
川崎  洋

 はっけよい
 すもうとる
   こんにちは
   ぼうしとる
 てんどん
 でまえとる
   セーターの
   ごみをとる
 のらねこの
 しゃしんとる
   かんごふさん
   みゃくをとる
 おはなみの
 ばしょをとる
   はんにんの
   しもんとる
 コーラスの
 しきをとる
   たんじょうび
   としをとる
 りりりりり
 でんわとる

 子どもたちが「かく」で作ったのが下になります。

  か く
    〇〇小三年生

 カタカナで
 文字をかく
   大空の
   絵をかく
 カにさされ
 うでをかく
   運動で
   あせをかく
 お父さん
 いびきかく
   えらそうに
   あぐらかく
 寒い冬
 雪をかく
   バタフライ
   みずをかく
 おこられて
 べそをかく
   おならして
   はじをかく

 この後、出てきた「かく」を漢字にしてみるなどということは、教師根性のきわみでしょうか。漢字の持つ役割がはっきりするようにも思いますが、声に出して楽しめればいいのでしょうね。

◆ 教科書の詩をどう扱ったらいいのか

 この問いに、レポーターの先生方は次のように話しました。

① 教科書の詩を読んでみても感じるものがなかったら、同じ作者の他の詩をいくつ
  か当たってみる。そうして、これならと思った詩を教科書に載っている詩と並列
    して扱う。もちろん読み合いたい詩に時間をかける。
② 子どもと共有するための原則として、教師がいいと思わなければ何も伝わるもの
     はない。これは詩に限ったことではなく、全ての教科・教材に言えること。だか
     ら、自分がいいと思った詩をやる。

◆ 子どもたちへの詩の書かせ方が分からないのですが

 残念ながら、この点についての話し合いはできなかったので、東京・青梅作文の会の金田一先生の実践「自分の悩みや思いを表現できる場を」から生まれた子どもの作品を紹介します。

  知っている
         小学四年

 ぼくは知っている。
 サンタがいないことを。
 理由はすぐにわかった。
 弟がサンタからもらったスイッチを
 こわしたときだ。
 そのとき、お父さんが、
 「あれ、高かったんだぞ。」
 と言ったから。
 ぼくは、サンタがいないことを
 知っている。

 *この詩を職員室の先生方の前で読んだところ、大爆笑だったそうです。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  いもうと
        小学1年

 いもうとと あそんでいたら、
 ぼくの手に
 ちゅぱちゅぱした。
 ごはんを たべてたら、
 ぼくのあしを なめてきた。
 ぼくは、
 「きゃー。」
 と、いった。
 まだ、0さいだから、
 かわいくて、チューをした。

 *この愛らしい光景、ほんとうにいやされます。

 ◆ おわりに

 講座では、詩の授業をすることで、子どもたちのなかに何が生まれ、教室がどのように変化していくのか。つまり、子どもの育ちにとってどんな意味を持つのかなどについて十分議論できませんでした。次回以降の課題にしたいと思います。(おわり)

『こくご講座・冬 ~ウっシっ詩~』 (その1)

 1年の始めや終わりに、子どもたちと読みたい詩
                 ~ 学習会での話を中心にしながら ~

 3月入ると、どの教科も復習やまとめの単元となり、これまで足りないと感じた部分を工夫しながら授業することになると思います。なかなかまとまった時間をつくっての詩の授業はできないかもしれませんが、ちょっとした時間や授業の工夫で詩を子どもたちと楽しむことはできそうです。
 一つの授業として取り組めなくとも、みなさんが知っている詩を読んでやったり、音読したりするだけでもいいのではないでしょうか。『こくご講座・冬~ウっシっ詩~』の内容を中心にしながら、詩の学習についてまとめてみました。(正)

◆ 季節を感じる

 はるを  つまんで
      宮沢 章二

はるを つまんで とばしたら
しろい ちょうちょに なりました
もいちど つまんで とばしたら
きいろい ちょうちょに なりました

しろい ちょうちょは あおぞらの
くもと いっしょに きえました
きいろい ちょうちょは なのはなに
かくれて みえなく なりました

はるを つまんで とばしたら
しろい ちょうちょが そらいっぱい
もいちど つまんで とばしたら
きいろい ちょうちょが のにいっぱい

(『詩のランドセル 2ねん』らくだ出版)
   *声に出して読み合いたいですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

  
    安西 冬衛

  てふてふが一匹 韃靼海峡を渡って行った

この詩の初出は、

てふてふが一匹 間宮海峡を渡っていった
 軍艦北門ノ砲塔ニテ

となっています。「間宮」を「韃靼」に直し、詞書きを削り取っています。「ちょうちょう」と書かずに「てふてふ」です。その違いがイメージをどう変えるのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

 小学生
     堀口 大学

  先生
植物学はうそですね
樹木もやはり笑うもの
梅が一輪咲きました

*なんてかわいい子どもでしょうね。こんな子を育てたいものです。

◆ T さんが、高学年なら最後に取り組みたいという詩 

  1年間積み重ねてきた力を使ってこの詩に向かわせたいと、Tさんは言います。そして、取り上げる意図を次のように語りました。

 簡単に「死ね」とか「自殺する」と口にする現在の子どもたち。この詩の授業を通して親が子をどういう想いで生み育ててきたのか。親の子への愛情と「死」というものの持つ意味について子どもたちに考えさせたいのです。授業参観でこの詩を取り上げることで、親と子の対話(生み、育ててきたことについて)をお願いするのです。

  靴  下
       室生 犀星

毛糸にて編める靴下をもはかせ
好めるおもちゃをも入れ
あみがさ、わらぢのたぐいをもをさめ
石をもてひつぎを打ち
かくて野に出でゆかしめぬ。

おのれ父たるゆゑに
野辺の送りをすべきものにあらずと
われひとり留まり
庭などをながめあるほどに
耐えがたくなり
煙草を噛みしめて泣きけり

◆ 4月のスタートは、これという S さん

 「主に6年生を持った時だけの限定です」と断ったうえで、毎朝続けている詩の学級通信の話をしてくれました。例えば、4月10日 NO.1に次の詩を取り上げていました。この詩を読んでやりながら、Sさんが日常の中で気付いたことや感じたことを語りかけるそうです。決して訓示ではありません。子どもたちは卒業までに192の詩と出会うことになります。文化を通した対話が1年間続くのです。

 支  度
     黒田三郎

何の匂いでしょう
これは

これは
春の匂い
真新しい着地の匂い
真新しい革の匂い
新しいものの
新しい匂い

匂いのなかに
希望も
夢も
幸福も
うっとりと
うかんでいるようです

ごったがえす
人いきれのなかで
だけどちょっぴり
気がかりです
心の支度は
どうでしょう
もうできましたか

『新選黒田三郎詩集』思潮社

◆ 4月の授業参観は、これというOさん

 緊張する最初の授業参観。しかも6年生。タイトルと赤字のことばを隠し、1行目だけ提示して「ビールには何が合うと思う?」と教室の空気を一変させます。もちろん、保護者も巻き込むので笑いも起こります。何とか「枝豆」を引っ張り出したら、つぎの「カレーライスには?」と進んでいきます。ある種6年生の語彙力が試される部分もあるのでしょう。そうして、最後の「ほほえみには?」で、Oさんのこの学級への願いが語られるにちがいありません。
 しかし、このような言葉遊びはあくまでも導入で、子どもと向き合わせたい詩の授業を1年間の中に準備していくそうです。

 ほほえみ
      川崎  洋

ビールには 枝豆
カレーライスには 福神漬
夕焼けには 赤とんぼ
花には 
サンマには 青い蜜柑の酢
アダムには いちじくの葉
青空には 白鳥
ライオンには 縞馬
富士山には 月見草
塀には 落書
やくざには 唐獅子牡丹
花見には けんか
雪には カラス
五寸釘には 藁人形

ほほえみ には ほほえみ

            (次回に、続く)

「災害は忘れた頃にやってくる」

 3月3日の「天声人語」は、10年前の3.11大津波の時、三陸町の吉浜地区で1933年(昭和8)の三陸津波の記念石が津波にえぐられた斜面から発見されたこと。そして当時の住民が職住分離に努めたことで、3.11では「奇跡の集落」と呼ばれたことを紹介していた。そして結びでは寺田寅彦の随想『津波と人間』を引用し、津波被災地の高台移転について「5年たち、10年たち、15年20年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人間は移って行く」、さらに災害記念碑もついには「山陰の竹藪の中」に埋もれてしまうと予言した、と紹介していた。3月1日のNHK番組「100分de名著」 で寺田寅彦の『天災と日本人』を取り上げ、番組を観てテクストを読んだ直後だったこともあり、天声人語子が訴えたいことがストンと胸に落ちた。

 1日の番組で寺田の『天災と日本人』を紹介した若松英輔の言葉を引きながら、もう少し今日の問題として考えてみたい。
 治水技術によって大水を手なずけ、治山を奨めれば土砂崩れは防ぐことができると思っているが、昨今、頻発する集中豪雨では、河川の氾濫や土砂災害による被害が後を絶たない現実があります。このようなことを予見するかのように、寺田は「文明が進むに従って人間は次第に自然を征服しようとする野心を生じた」と書き、「風圧水力に抗するような造営物をつくり、自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻をを破った猛獣の大群のように、自然が暴れ出して高楼を倒潰せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を亡ぼす。その災禍を起こさせたもとの起こりは天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである」と記しています。
 また次の文も紹介しています。「現代では日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプが縦横に交叉し、いろいろな交通網が隙間もなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一箇所に故障が起これば、その影響はたちまち全体に波及するであろう」
 いずれも書かれたのが90年ほど前ですから、まさに見事な慧眼だと思います。
 そして私が最も興味深く読んだ箇所は、テクストの冒頭で寺田を紹介した部分です。
 物理学者として東京帝国大学の教授のほかに、理化学研究所、航空研究所、地震研究所にそれぞれ研究所をもち、その一方で夏目漱石門下の逸材・吉村冬彦としての生活を紹介しながら、次のように記していました。
 「優れた科学者であったために、科学の限界がはっきり見えていたのだと思う。科学の目は『事実』を認識するのは得意だが、『現実』を認識するのは不得手である。寺田はそのことに気づいていた。それが可能だったのは、彼が『科学者の眼』と『文学者の眼』を併せ持っていたからではないか。このような複眼の人は、災害はいつも、二つとない『いのち』の危機であることを決して見過ごすことがないのです。現実は、つねに人間と自然のあわいにある。そのことを想い出し、『自然と向き合う』のではなく、『自然とつながる』感覚を取り戻していく。その道程を照らしてくれるのが、寺田寅彦の言葉であり、彼の著作を読む意義ではないか」と。 
 長い番組紹介になってしまったが、コロナ問題も気候変動問題も、そして原子力発電の問題も、自然を経済的成長と利便性のために消費し続けてきた結果であり、災禍を起こさせたもとの起こりが「人間による細工」によるものと再確認する時間になりました。

  まもなく3.11から10年を迎えます。風化や忘却の問題がときおり指摘されます。なぜ人は災害を忘れてしまうのかについて、テクストの中で、可能性として語られる災害はつねに他人事だから。そして「いつか」「そのうち」来るとわかっていても、自分が遭遇することは、ほとんど想像できないからと指摘していました。そして生活の時計とは別の、ゆっくりと針の動く災害の時計を刻んで10年前を昨日のようにとらえる必要があると述べています。
 ちなみにタイトルの「災害は忘れた頃にやってくる」は、寺田寅彦の弟子であり、雪の結晶の研究で知られる中谷宇吉郎が、寺田が語っていた言葉だと紹介していました。
                                 <仁>

空を想った、映画『すばらしき世界』

 先日、映画『すばらしき世界』を見てきた。タイトルに「すばらしき」と銘打っているが、果たしてこの世界は本当に「すばらしい」のだろうか。見終わった後に考えさせられる。

 人生の半分以上を刑務所で暮らした主人公三上は、出所を機会に真面目に生きようとするが、彼にとって社会は冷たく、生きづらい。不器用でやさしく直情的な彼は、七転八倒しながらも、この社会で生きていこうとする。映画は、ヤクザの世界に生きる人間を特殊な人間としてではなく、この世界に生きるひとりの悩める人間として描く。

 映画で、一番印象的で心に残ったセリフは、姉御スマ子(キムラ緑子さん)の「あんたは、これが最後のチャンスでしょうが。娑婆は我慢の連続ですよ。我慢のわりにたいして面白うもなか。そやけど、空が広いち言いますよ。」というセリフ。

 セリフを聞きながら、一つの思いが心に浮かんだ。なぜ人は、空を見上げるのだろうか。3.11のあの夜、惨禍のなかで星の輝く夜空を見上げたことを思い出していた。
 空を想う、人は空に何を想うのだろう。ひとつの祈り、ひとつの願い、空へと向けたまなざしは、その空になにを見ようとするのだろう、したのだろう。そんな思いが浮かんでは消えた。
 それから、幼稚園の子たちと歌った「空はどこまでも、空は一つだから」という一節も思い出す。空はどこまでも広がる一つの世界。それは三上が長らく過ごした刑務所の制限され区切られた不自由な世界との対比だろうか。

 映画は、印象的に空を映し出し、主人公三上の想いを空に投影しながら描いていく。それをどう感じるかは、見る者それぞれにゆだねられているのだろう。個人的には、さまざまな空の映像が、この映画のすべてを語っているようにすら感じた。ちょっと残念に思ったのは、最後の終わり方かなあ・・・。

 見終わって、誰かと話をしたくなった。ぜひ、よかったらみなさんご覧ください。お薦めします。(キヨ)

※ 映画のことを思っていたら、なぜか吉野弘さんの「四葉のクローバー」が心に浮かんだ。なぜなのか、よくはわからない。映画の内容と詩の内容がぴったり重なるわけではないが、映画全体から受けたイメージと詩のもつイメージが、どこかで共鳴したのだろう。

 クローバーの野に坐ると
 幸福のシンボルと呼ばれているものを私も探しにかかる
 座興以上ではないにしても
 目にとまれば、好ましいシンボルを見捨てることはない

 四つ葉は奇形と知ってはいても
 ありふれて手に入りやすいものより
 多くの人にゆきわたらぬ稀なものを幸福に見立てる
 その比喩を、誰も嗤うことはできない

 若い頃、心に刻んだ三木清の言葉
 〈幸福の要求ほど良心的なものがあるであろうか〉
 を私はなつかしく思い出す

 なつかしく思い出す一方で
 ありふれた三つ葉であることに耐え切れぬ我々自身が
 何程か奇形ではあるまいかとひそかに思うのは何故か

            ( 吉野弘さん「四つ葉のクローバー」)

   ポスター画像

季節のたより70 ハコベ

  人の住む不安定な環境に生きる  清楚な白い花

 地面があたたかくなってきたようです。島崎藤村が「緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず」(千曲川旅情の歌)と詠んだハコベが、茎を伸ばし青々とした葉を広げて、白い花を咲かせていました。
 ハコベは、古くから「はこべら」の名で親しまれ、春の七草の1つとして数えられてきました。もともとは、ユーラシア原産の植物で、農耕の広まりとともに日本にも伝わってきた史前帰化植物の1つとされています。

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          春の陽をあびて  咲き出すハコベの花

  木下利玄は、野の草花に愛着を持ち続けた歌人でした。

  わが顔を 雨後の地面に近づけて ほしいまゝにはこべを愛す   木下利玄

 ハコベの花を手折ってわが身に寄せて愛玩するのではなく、顔を近づけハコベに心を寄せる歌人。利玄は野に生きる花をわが身と同じ存在として向き合っています。
 利玄のように地面に顔を近づけのぞいてみると、大地に根を張り生きている姿が見えてきます。ハコベのたおやかないのちが、白く清楚な花を咲かせています。

 ハコベの仲間は、世界には約120種、日本には18種あるようです。道端や畑でよく見られるのは、主にコハコベ、ミドリハコベ、ウシハコベです。これらはふつうまとめてハコベと呼んでいますが、それぞれ異なる表情を持っています。

 よく見かけるのが、茎の少し紫色がかっているコハコベです。ルーペでのぞくと、花びらがガク片より少し短く、雄しべの数1~5本。雌しべの柱頭が3つに分かれているのが見えます。コハコベは勢いがあって、逞しさを感じさせるハコベです。

【コハコベ

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   茎が紫を帯びて、全体が逞しい感じ。      雌しべの先が 3裂

 茎が緑色をしているのが、ミドリハコベです。花びらとガク片の長さは同じぐらい。雄しべの数は、コハコベよりも多く8~10本あります。雌しべの柱頭は、コハコベと同じ3つに分かれています。群生しているミドリハコベは、明るい緑色の柔らかな雰囲気につつまれています。

【ミドリハコベ

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    茎が緑色で、全体が柔らかい感じ。       雌しべの先が 3裂

 特徴的なのが、ウシハコベです。茎は紫色を帯びてコハコベに似ていますが、コハコベやミドリハコベよりも大きく、葉の形も違って肉厚なので、牛にたとえられてウシがついています。雄しべの数は10本。雌しべの柱頭が5つに分かれているのが特徴で、柱頭の分かれた数を見れば、コハコベやミドリハコベとの違いはすぐに分かるでしょう。

【ウシハコベ

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    茎は紫がかっていて、全体が大型。       雌しべの先が 5裂

 ハコベの生えている地面は、ほとんどが道端や空き地、畑などの人の暮らしている所です。そこは、絶えず人の手によって土が掘り返されたり耕されたりする不安定な自然環境です。ハコベはどうしてそんな場所に生えているのでしょう。

 森や林など、草木が育つ安定した環境では、背丈の低いハコベは、光や養分の取り合いで他の植物に負けてしまいます。一方、絶えず土が掘り起こされる不安定な環境は、競争相手が少なく、他の植物より真っ先に発芽し生長して種子を残せば、そのいのちをつないでいくことができます。ハコベは、他の植物と競争になる前に子孫を残すことを考え、あえて不安的な環境を生育環境に選んでいます。そして、その環境に適応できる体のしくみや生活のしかたを進化させてきました。

 冬越しをする多くの植物は、ロゼットで冬を過ごしますが、ハコベは冬の間でも地を這うように分岐した茎に葉を広げ、立春を過ぎたころから花を咲かせます。 
 茎の先に花をつけると、その花の下から両側に2本の分岐を伸ばし、その分岐の先に花をつけると、また下から2本の分岐を出すというように、倍々に枝の数を増やします。そして、短期間で花を咲かせ種子をつくることができるのです。
 ハコベは、夏をのぞいて春から秋のおわりまで花を咲かせています。冬の間ロゼットで過ごし春に花を咲かせる植物よりも、ずっと多くの子孫を残すことで、いのちをつなごうとしています。

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 這うように広がるハコベ        分岐をのばして増える茎

 次々に伸ばすハコベの茎は、いっけん弱々しそうに見えますが、茎をそっとちぎってみると、中から筋が出てきます。柔らかい茎のなかに丈夫な筋があり、人の住む環境で踏まれても簡単に折れないようなしくみになっています。
 その茎をよく見ると、産毛のような柔らかい毛が無数に生えています。その毛は茎全体ではなく、片側に一筋の道を作るような不思議な生え方をしています。
 植物学者の稲垣栄洋氏によると、「ハコベの茂る冬場は雨が少ない。そこでこの細かい毛が繁った植物体についた水滴を根元に運ぶ」役割をしているということです。そして、「限られた水分を巧みに利用しているから、ハコベは冬でも青々とみずみずしいのだ。」そうです。(「身近な雑草の愉快な生き方」筑摩書房

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     茎のなかに筋があります。     やわらかい毛が一列に並んでいます。

 ハコベの花にも、しかけがあります。花びらを数えると10枚ですが、よく見ると5枚なのです。左下の写真を見ると、2枚の花びらが、ウサギの耳のように根元で1つになっているのがわかるでしょう。花を咲かせるのは、虫たちを呼び寄せ、花粉を運んでもらうためです。1つの花の花びらを2倍に見せて、その花をたくさん咲かせて華やかにし、虫たちを誘っています。
 それでも虫が来てくれないときがあります。そんなときは、夕方花を閉じる前に、雄しべが中央の雌しべに集まり、花粉を自分の雌しべにつけてしまうのです。
 花を咲かせたら他家受粉をめざし、それができなければ自家受粉のしくみを備え、ハコベは確実に子孫を残そうとしています。

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 ウサギの耳のような花びら    一斉に花を咲かせ、華やかに見せて、虫を呼びます。

 ハコベの花は上下運動をしています。花が咲いているときは上向きですが、咲き終わるとそっと下向きに垂れ下がります。自らは風雨を避け、受粉していない花は目立たせて受粉させようとしているようです。下を向いた花は、実が熟すと茎を持ち上げて、再び上向きになります。下向きでは実のなかの種子がその場に落ちてしまいますが、上向きになれば種子を広く散布できます。そういえば、タンポポの花や実も同じような動きをしていました。(季節のたより49 タンポポ
 こんな動きを見ていると、植物たちは人間とは違う時間のなかで、自らの意志で動いているような、そんな気がしてくるのです。

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  咲き終わると、下向きに垂れさがる花     熟して立ち上がる実

 ハコベの熟した種子は円形ですが、ルーペで見ると、表面に突起が見られます。コハコベやウシハコベの種子の突起は低く、ミドリハコベは尖っています。ハコベの種子はその場に落ちるだけでなく、この突起が土に食いこむので、土と一緒に農作業する人の長靴などについて遠くへ運ばれていきます。ハコベは、畑や道路など人の住む環境にあって、人の動きをうまく利用し分布を広げているのです。

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  花と実は一緒についています。     こぼれそうな実のなかの種子

 ハコベは人の住む環境にみごとに適応し、人の暮らしと結びついて、そのいのちをつないできました。そして人もまたハコベと関わりをもって暮らしてきました。
 ハコベ七草がゆにも使われるように、春先の柔らかい穂先の部分は食べられます。かつて飢饉のときは、貴重な救荒作物となりました。今でも健康食品の1つとしていろんなレシピが工夫され食べられています。
 人が利用するだけでなく、ハコベの柔らかい葉は、ヒヨコや小鳥たちの大好きな食べ物です。コハコベには、「ヒヨコグサ」「スズメグサ」という別名もありますが、ハコベの英名は、「ChikWeed」で、これも「ヒヨコの草」という意味です。世界でもハコベの仲間は小さな生きものたちのいのちを支えているようです。

 農園づくりをしている人は、ハコベが畑に生えると、植物と虫との共生関係が生まれ、土地の生態系が豊かになって来たしるしと考えるそうです。ハコベは人参や大根、キャベツと仲良く共存し、混植することで害虫を寄せつけず作物がよく育つということです。晩秋に突然霜がおりたとき、ハコベがカボチャを守ってくれたという話も聞きました。ハコベは畑では雑草といわれますが、ふだんは邪魔にならずに傍らにいて、いざというときに頼りになる存在のようです。

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 自然は美しいから、美しいのではなく、愛するからこそ美しい。(熊田千佳慕

 ハコベは漢字で「繁縷」と書きます。「繁」は草が茂るということ、「縷」は細い糸のようなものの意味で、茎が長く連なっていることを表現しています。ハコベのよく増える特徴を表していますが、その旺盛な繁殖力がアダとなり、庭や空き地では雑草あつかい、除草剤がまかれます。ハコベに限らず雑草といわれる植物が生きられない土地は死んだ土地、他の生きものも住めない土地です。まかれた薬剤は少量でも雨水でまわりの土地へ巡っていくことでしょう。
 もし、ハコベのような雑草が、地上でどんな知恵や工夫を働かせて生きているかを知ったなら、すべてのいのちが巡りのなかにあり、自らのいのちもまた、そのなかにあることを知ったなら、それでも除草剤はまかれたでしょうか。
 いのちあるものへの共感とそこから生まれる豊かな想像力は、私たち人間がこの地上で生きていくために絶対に失ってはならないものです。(千) 

コロナな日々を生きる ~ えっ、顔パンツってなに? ~

 職場でのお昼は、だいたいお弁当か外に食べに行く。先日もMさんと一緒に外に食べに行った。行きぎわに突然「あっ、ちょっと待って。顔パンツ忘れた」と言うので、「何それ?」と返すと、「マスクだよ、マスク」と返して、Mさんはそそくさと、その「顔パンツ」を取りに行った。

 そういう言い方が一般的になっているかはよく知らない。気になってパソコンで「顔パンツ マスク」と入れて検索すると、多くはないが出てくるではないか! 先の清さんのDiary「カタコト」に「同時代人として生きているという連帯感が醸しだす普遍性」とあるが、よもやコロナ禍で生きる同時代性が「マスク」を通じて連帯感を生み出し、「顔パンツ」なる新たな言葉まで創造というわけではないだろうに。

 Mさんは、今やマスクはパンツ同様。身につけていなければ居心地が悪いし、落ち着かないという。パンツと同列にしなくてもと思いつつ、この1年ばかりの間にマスクの存在は確かに大きく変わった。そう思っているうちに、妄想竹(だけ)がにょきにょき伸びはじめてきた。

 街を歩くと、今やマスクをしていない人はほぼ皆無に等しい。マスクをつけていないと不審がられたり、危険視される雰囲気さえ感じることがある。コロナ以前は、マスクをしている方が不審がられたりしたのに・・・。これは、マスクのコペルニクス的転回、いや大勝利ということか?
 さにあらず、マスクは今も以前も必要があってしているにすぎない。日常そのものが変わってしまって、マスクはその変化に対応しただけのこと? コロナが終息したら、元通りみな素顔になる?

 Mさんの「顔パンツ」発言は、小さな波紋を呼び起こす。コロナが落ち着いたとき、人々はマスクをどう感じ、どう扱うのか。もしも、落ち着かない、居心地が悪いにとどまらず、「恥ずかしい」と感じるようになったとしたら、それは明らかにマスクの「顔パンツ」化と言えるかもしれない。(キヨ)