mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより128 ヤブカンゾウ

  古名は「忘れ草」   しべ(蕊)を花びらに変えた花

 郊外の田んぼ道を歩くと、稲の緑が一面に広がる水田のなかに、赤オレンジ色の花が咲いていました。ヤブカンゾウの花です。
 咲いているのは田んぼのあぜ道。草むらからすっと勢いよく立ちあがるようにして咲いています。明るい色彩の花がきわめて少ないこの季節に、草むらに咲くこの花がくっきりと目立って鮮やかです。


       夏、独自の存在感を見せて咲く ヤブカンゾウの花

 ヤブカンゾウ(藪萱草)は、現在ツルボラン科ワスレグサ属に分類されています。従来はユリ科でしたが、新しい分類体系(APG)ではススキノキ科に分類、さらにAPG分類第4版(2016年~)からはツルボラン科に変更されました。
 これに対して「植物和名ー学名インデックス」(略称:Ylist)では、ススキノキ科やツルボラン科は日本では自生がなく、なじみの薄い分類群のため「ワスレグサ科」という和名が提唱されています。科名が落ち着くまでにはしばらくかかりそうです。

 ヤブカンゾウは、日本では、北海道、本州、四国、九州に自生し、人里近くの道端や土手、田のあぜなどにごく普通に見られる植物です。ヒガンバナと同じように有史以前に中国から渡来したものが野生化したものといわれてきましたが、中国ではヤブカンゾウは自生せず、逆に日本、朝鮮が原産ではないかともいわれています。原産地の由来は今のところ明らかになっていません。

 ヤブカンゾウの学名は「Hemerocallis fulva var. kwanso」です。
 属名のHemerocallis(ヘメロカリス)は、ギリシャ語のhemera(1日)とcallos(美)が語源。美しい花が1日でしぼむところからきています。
 実際の観察では花は2、3日持つものもあり、単純に一日花とは言い切れないようです。種小名のfulvaは「茶褐色の」、varは「変種」ということで、kwansoは日本名の「カンゾウ」を意味しています。


       ヤブカンゾウの花は、田んぼのあぜ道に多く見られます。

 春先に野原や田んぼのあぜ道を歩くと、ヤブカンゾウの細長く柔らかい葉が、ツクシなどを押し退けるようにして芽生えてきます。冬枯れの大地に芽吹く若緑の萌芽を斎藤茂吉は歌に詠んでいます。

 萓ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ  (『赤光』)

 この新芽は茹でるとぬめりがあって美味しく、さっと茹でておひたしにしたり、薄めの衣でからりと天ぷらにしたりしてフキノトウと同じように食べられ、春先の山菜料理に使われています。

 
       春先の芽生え           ふくらみ始めたつぼみ

 7月頃に細長い葉だけだったヤブカンゾウから勢いよく花茎が伸びて、50㎝~1mほどの長さになります。花の時期は7月~8月。やがて、その先にいくつもの細長いつぼみをつけて、赤オレンジ色の花を次々に咲かせます。
 この花を遠くで見るとそれほど感じないのですが、近くで見ると、花びらが2重、3重に複雑に重なりあっていて、ふつう見慣れた花の形とはかなり違っています。
 ヤブカンゾウと同じ仲間で、野原や田んぼで少し遅れて咲き出すのがノカンゾウ(野萱草)です。葉だけ見たのでは同じですが、花の姿を見るとその違いがわかります。

 
       ヤブカンゾウの花         ノカンゾウの花(画像:写真AC)

 ヤブカンゾウは八重咲きの花で、ノカンゾウは一重の花を咲かせます。ヤブカンゾウは花びら(花被片)の数や形が不規則でおしべとめしべの姿もよく見えませんが、ノカンゾウは花びらが6枚で、おしべとめしべもはっきりしています。
 ヤブカンゾウの花は、おしべとめしべの一部または全部が花弁化(花びらに変化)していて、それで八重咲きの花になったものだといいます。
 花のなかを見ると、おしべの姿が残っているもの、変化した花びらの先に葯があるもの、おしべとめしべが完全に花びらに変化しているものなどさまざまです。ヤブカンゾウの花の姿を見ると、ひとつとして同じ形のものはありません。
 しべ(蕊ーおしべとめしべの総称)の花弁化が多様で、全く自由にデザインされた花が生まれているのです。


    おしべが残る花     花びらの先に葯がある花     しべが花びら化した花

 ヤブカンゾウの花は、たとえおしべとめしべがあったとしても、ヒガンバナと同じ染色体が3倍体で、減数分裂がうまくできず、種子をつくることができない植物なのです。
 種子のできないヤブカンゾウは、根茎から横につる枝(ランナー)を出して栄養繁殖のみで仲間を増やします。そのため、自力で遠く離れた場所で繁殖することは難しくなります。
 ヤブカンゾウは河川の氾濫で根茎が流されてたどり着くような場所に咲いていることもあります。でも、多くは田んぼのあぜのくろぬりや土手の普請作業などで、根茎が切り取られたものが運ばれて分布を広げています。ヤブカンゾウの「藪」は「野」よりも人家の近くにあることを表しています。ヤブカンゾウは、人の暮らしと結びつき、里山の環境のなかで生存してきたのです。

 種子のつくらないヤブカンゾウは、昆虫を呼ぶ必要がないのに、おしべとめしべを花びらに変えてより華やかに花を咲かせています。ヤブカンゾウはすべて同じ遺伝子を持つクローンなので、何世代を経てもその性質は変わることがなく、意味のない花をこれからも咲かせ続けていくことになります。
 でも、花に意味を求めるのは人間だけで、ヤブカンゾウにとっては、花を咲かせ続けることが生きていることのあかし。「いのち」とは不思議なものです。

 
    河原の土手に咲くヤブカンゾウ。根が洪水で流されてきたのでしょうか。

 ヤブカンゾウは日本で古名を「ワスレグサ」(忘れ草)と呼んでいました。その名は漢名の「萱草」(戦前までは音読みでクワンザウ)に由来します。
 中国の詩文集『文選(もんぜん)』(530年頃成立)に「合歓蠲忿 萱草忘憂 愚知所共知也」の記述があります。これを読み下し文にすると、「歓(ねむ)は忿(いかり)を蠲(のぞ)き 萱草は憂を忘る 愚知(愚者と知者)共に知る所なり」となるようです。つまり、中国ではネムの花は怒りをしずめ、萱草の花は憂いを忘れさせてくれる花として一般に伝えられてきていたということです。
 中国では忘れるに「萱」の文字をあてることから大陸に広く自生する「シナカンゾウホンカンゾウともいう)」に「萱草」の文字をあてました。
 日本にはその漢名と共に「憂いを忘れる花」の言い伝えが一緒に伝わり、日本に自生していたヤブカンゾウを「萱草」とし「忘れ草」と呼んだと考えられます。

万葉集』(783年)には「忘れ草」を詠んだ歌が5首ほどあって、大伴旅人が赴任先の大宰府で詠んだ歌がそのひとつです

  わすれ草わが紐に付く香具山の故(ふ)りにし里を忘れむがため 
                                   (万葉集 巻3-334)

 旅人は年老いてから大宰府の長官に任命され、妻と一緒に筑紫に下りますが、まもなく妻を病気で失います。それからは故郷の香具山が恋しくてたまらなくなり、その辛さを忘れようと、忘れ草を衣の紐につけて耐え忍んだという歌です。
万葉集』のほかの歌も「忘れ草」は、花ではなく「恋しさや憂いを忘れさせてくれる草」として歌に詠まれています。

 立原道造の詩集に『萱草に寄す(わすれぐさによす)』というのがあります。
 詩集の編者の中村真一郎氏は文庫本の解説(角川文庫・昭和48年)で、「萱草」はノカンゾウヤブカンゾウとし、「詩人はこれを「夕萱(ゆうすげ)」と混同していたらしい」としていますが、詩人は自分の詩集の解説で「萱草はゆうすげである。」と語っていて(Blog鬼火 夏花の歌 2015/09/25)、混同ではなく、意識的に「ゆうすげ」を「萱草」(わすれぐさ)として詩に詠っていたようです。
「萱草」は主としてヤブカンゾウをさしますが、ときには同じ仲間のノカンゾウ、ハマカンゾウユウスゲニッコウキスゲなどを含んで「ワスレグサ」と呼ばれるようになり、現在のワスレグサ属の名につながっています。

 
 ユウスゲの群落(南伊豆)(画像:写真AC)    ユウスゲの花(画像:写真AC)

「ワスレグサ」の名とよく似ていて間違われるのが、「ワスレナグサ(勿忘草)」です。ワスレナグサはヨーロッパを原産とするムラサキ科ワスレナグサ属の多年草です。明治時代に観賞用として渡来し、花壇や鉢植えで栽培されていたものが戦後に野生化した帰化植物です。古典和歌などには登場してきません。
 花の名は中世ドイツの悲恋伝説に由来します。ある青年騎士が恋人のため河畔に咲くこの花を摘もうとして足をすべらせ、青年はそのとき、手にした花を彼女に投げて、『Vergiss-mein-nicht!(私を忘れないで)』との言葉を残して急流に消えたといいます。花の名はその言葉を直訳したものです。
 植物学者の牧野富太郎は、「『私を忘るなよ』の意味であるからワスルナグサと呼ぶ方が良いと思う。」と述べ、「忘るな草(わするなぐさ)」と名づけましたが、ワスレグサ(萱草)との混同を避けるためなのか、現在は別名として知られているのみです。

 
      ワスレナグサ(園芸種)         花の中心部は黄色

 俳句では「萱草」は晩夏の季語として詠まれます。『万葉集』や『古今集』(905年)などの古歌では、もっぱら「憂いを忘れる草」として詠われていますが、近世の俳句や短歌ではこの傾向はすっかり薄れてきて、野に咲く花の描写や自然のなかの心象風景として詠まれるようになっています。

 
  種子をつけないヤブカンゾウですが、どの地でも同じように花を咲かせ続けます。

 先に紹介した齋藤茂吉は、「萱草」の短歌を9首詠んでいます。その歌は花だけでなく、芽生えや伸びゆく姿を詠んでいるのが特徴です。その歌を味わうと、幼い頃から春の芽生えとその成長をじっと見つめてきた茂吉少年のまなざしを感じます。

 くわん草は丈ややのびて湿りある土に戦(そよ)げりこのいのちはや(『赤光』)

 萱草を見ればうつくしはつはつに芽ぐみそめたるこの小草あはれ(『あらたま』)

 われの居る金瓶村を出はづれてやぶ萱草の萌えいづる野に     (『小園』)

 金瓶村(現上山市金瓶)は茂吉の生まれた故郷。この村で14才までの幼少期を過ごし、医師・歌人として大成した晩年、1945年(昭和20年)3月の東京大空襲の翌月に、茂吉は故郷の金瓶村に疎開終戦を迎えています。
 年譜によると「金瓶は蔵王連峰を東に仰ぐ仏教信仰の厚い養蚕の村で、その自然に親しみながら素朴な農家の子として育った茂吉は、菩提寺であった宝泉寺の住職や周囲の人々の影響で、宗教心や書画などへの関心を芽生えさせました。」(斎藤茂吉記念館・略年譜)とありました。
 茂吉の短歌に登場する自然の多くは蔵王山や最上山など故郷の山や川ですが、植物は187種で、動物が83種あり(HP「齋藤茂吉の植物・動物を詠む」)、茂吉が日頃から目にするいろいろな植物に興味を持っていたことがわかります。
 春が来ると山菜が芽吹く故郷の野原、夏が来るとみごとに花を咲かせるヤブカンゾウノカンゾウなどの花たちを、茂吉はいつも身近に感じていたのでしょう。
 故郷の自然と親しみ過ごした幼少期の体験とそこで培われた感性が、その後の茂吉の短歌創作の原点になっていることはまちがいないでしょう。(千)

◇昨年7月の「季節のたより」紹介の草花