mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと7 ご来光

 テレビで富士山山開きの様子を見ながら、ずいぶん様子が変わったなあと思った。というのは、勤めて2年目の夏休み、共済組合が募集した「富士登山」に参加したことを思い出したのだ。
 長期の休みは田舎に帰っていたが、長期のなかでしかできないことをと考え、よく出歩くようにもしていたので、富士登山の募集も目にするとすぐとびついた。確か、補助もあったように記憶している。これも背中を押してくれて、日本一の山に一度は登ってみようと、迷わず応募したのだった。

 登りは五合目の吉田口でバスを降り、それから歩き始める。これは今も変わりはない。大きく変わったのは登山客の多さと、その姿だ。テレビカメラはいろんな人を追う。サンダル履きから短パンまでいるのだ。77歳のおばあさんにも驚いた。75歳が富士では制限年齢だそうだが、事前に検査を受け、パス。ちゃんと頂上に立ち、涙を流していた。
 今も大きな変わりようはないと思うが、登山道はあっても、一面石ころだらけで、なんの風情もない。その道を、ひたすら頂上を目指して歩き続ける。私は歩きながら、(富士山って、遠くから眺める山なんだな)と思ったものだが、口に出すことなく、写真や絵とのあまりの違いに驚きながら歩きつづけた。
 夕方、八合目の山小屋に着いた。ここが宿泊場所。
 「明朝、ここでご来光を眺め、それから頂上に向かう」というので、早々と寝についた。

 夜明け前に起床。朝食をとり、歩く準備をして外に出る。まだ暗い。指示された場所に座り込む。しだいに山全体をすっぽりと埋めている雲が目に入ってくる。やがて、その雲の向こうが明るくなったと思うや、一直線の光が私に向かって雲の上をすべるように走ってくる。もちろん私にだけではない。それぞれの人が「私に向かって」と思ったはずだ。これが「ご来光」なのだ。頂上はまだ踏んでいないが、石ころだらけの不満は一気に吹っ飛び、十分満足できた。
 それから頂上に向かって歩き出し、下山は、御殿場口に須走を一気に走り降り、熱海泊で解散となった。

 10年後、私はN小にいて、6年生を担任、児童会の担当をしていた。その夏休み、児童会で学校での1泊2日の合宿行事を提案した。6クラスもある6年生全員は無理なので児童会の役員・地区の係などの参加によるとした。後で考えると、《あいつには何を言っても・・・》との諦めが同僚にあったのだと思うが、すんなりと決まった。

 なぜ、こんな提案をしたか。小学校最後の学年で、仲間同士でふだんできないことをさせたいと思ったのだ。しかし、これは表立って強調しなかったが、私の1番は、子どもたちに日の出を見せたかったのだ。そう、10年経ってもあの「ご来光」の瞬間は薄れないでいて、彼らのうち何人も富士の体験をする者はいないだろう。ここは、幸い、学校の近くの小高い丘に公園があり、その東方にかすかに海が見える。せめて、その日の出を子どもたちに見せたいと思ったのだ。富士のご来光だけでなく、海からの日の出すら見ないで終わる人間もいるだろうと。

 当日、夜明け前に起こし、暗い中を丘の公園まで歩かせ、公園の東側に座らせた。子どもたちは何が何だかわからないまま、言われたとおりに動いた。
 神は私(たち)に味方してくれた。上る太陽が私たちにその姿を見せてくれたのだ。子どもたちから声が上がり、半分眠りながら来た時と帰りの子どもらの姿はまるっきり違っていた。
 その時の満足した自分をだれにも話さなかったが、富士と同じぐらい、私には満足した夜明けの太陽だった。( 春 )