北海道で体調を崩し東北大学付属病院に入院された先生は2カ月で復調、翌年(1977年)1月末からの沖縄久茂地小での「開国」の授業に予定通り出かけるとのことだった。
お話を伺いながら、私も1月後半に沖縄で行われる日教組全国教研集会に参加することをお話しすると、先生は、集会の閉会行事に予定されている沖縄の作家・大城さんの講演を聴きたいと思っていたと言う。
閉会行事の日、大城さんの話を一緒に聴いてお会いすると、既に沖縄での資料探しをしておられた先生は、「開国に関する新しい資料を見つけたので、前よりは少し授業がうまくできそうです」と話された。その時のうれしそうな顔は、今も私にはっきりと残っている。授業が前よりうまくいきそうだと、あんなに喜ぶ教員の顔を目にしたことが私にはない。
その後、先生は、湊川・尼崎・南葛飾などでの授業がつづき、その報告書も書かれている。直接お話も伺った。
宮城では、東北6県で構成される民間教育団体協議会鳴子集会で講演をお願いしたり、教職員組合主催の「夏の学校」(県内の5・6年生を公募し4泊5日の模擬学校)で先生に授業をお願いしたりと、ずいぶん先生に頼りつづけた。
ある時、先生との話し合いのなかで、フッと「もう授業はやめる」と言われたことがあった。内心驚いたが、なぜですかとお聞きすることはしなかった。
その日の先生の話の多くは、須賀川養護学校のことで、須賀川で聞いた話、見た事実を聞かせていただいた。著書にも書いておられるが、教務主任の安藤先生は、五重苦の障害者の勝弘君を毎日訪ね、勝弘君のか細い手を自分のほほにつけ、安藤先生が自分の手を勝弘君のほおにつけて、身を乗り出してベッドに覆いかぶさるようにして「勝弘君、安藤先生だよ」と言う。そういうことを毎日、繰り返した。そして、なんと3か月目に、ほんとうに天使がほほ笑むような笑みを勝弘君が浮かべたという。林先生は、安藤先生の勝弘君とのかかわりあいの中に、教育の原点があるような気がしてならないと思ったと言う。この事実が、先生をして(もう授業行脚を止めよう)と思わせたのではないかと私は思った。先生と田中正造が一緒になったとも思った。
事実、70年代末からの先生の動きを年譜で見ると、猛烈な執筆活動と講演が目立つ。その執筆講演の内容は、これまでの授業で考えつづけた教育とは何かがその根底になっているように思う。それは、なんと「内申書裁判に関しての意見書」を「現在の学校教育への根元的な批判を通して、この裁判のもつ深い意義について述べてみたいと思います」として東京高等裁判第1民事部に提出することまでしている。この意見書のコピーを先生からいただき、今も手元にあるが、B4版で69ページにおよぶものである。この中で先生はつぎのようなことを述べている。
~~私は、授業は学問追及と同じものと考えています。問題のきびしい追及によって、子どもの内面にある厳しさを引き出すと、子どもは問題と厳しく対決する楽しさを知ります。教育的に意味のある厳しさというものは、外からワクをはめることによっては成り立ちません。まず教師の自己に対する厳しさがなければだめなのです。ところが、それが奇妙に教師に欠けているのです。外から縛る強制によっては教育はできません。~~
「授業は止めた」と言いながら、教育を問いつづけた “ 田中正造 ” にとって、中学で起きた内申書裁判をも黙視できなかったのであろう。
時はやや前後するが、私は、「授業は止めた」という先生に、「2年間一緒に暮らし卒業する子どもたちにぜひ授業をしてください。子どもたちへの私の最後のプレゼントにしたいのです」と、先生が困ることを承知でお願いした。1981年の年明け早々だった。
先生は、「プレゼントですか、できないとは言えませんね」と笑いながら受けてくださった。
年度末なので、とくに多忙になる学校行事などを考え、受けていただけた場合は、午後授業のない水曜日の、しかも行事が入っていない2月25日と考えていた。先生も「その日でよい」と言ってくださった。
時間がそれほどあるわけではないので、翌日、すぐ校長に林先生に授業をしていただく計画を話すと、校長は「一応、市教委に話をしてから正式に返事をする」とのこと。
結果は「教員免許をもっていない人に授業というのはダメだ」と言われたと言う。私は、「どうして仙台市はダメなのか。林先生は全国各地でこれまで300以上の教室で授業をし、その報告になる著書も何冊も書かれているんですよ。他所と仙台市はどうして違うのかを聞いてほしい」と言った。温厚なN校長を困らせたくなかったが、私にとっては「はい、わかりました」と引き下がるわけにはいかなかった。
そう言いつつ、同時に、最悪の場合を想定する必要もありそうに思い、すぐ、近くのN公民館の借用手続きをとった。
その後、校長からは、「市教委から当日の指導案を提出してもらい、それを見て決める」と言われたと話があった。私はその場で「林先生に授業案を書いてください。それを読んで諾否を決めるそうですなど、そんな無礼なことはとてもできない」と校長との話を切った。話をしながら、校長をこれ以上困らせたくないし、進展は無理かもしれない。何よりも時間がないと考え、公民館でやろうと決めた。
林先生には簡単に経過をお話し、公民館に場所を移してになることの了解を得た。
家庭には、「2月25日(水)午後2時から、場所を公民館に移して林先生に授業をしていただくこと」「林先生の紹介」「その日の放課後のことになるわけなので、その時間子どもたちを私に貸していただきたい」「まとめて連れていきたいので、参加が無理な場合は連絡をしてほしい」ことなどを伝えた。
また、内心の悔しさもあり、市の教育長と各教育委員へも当日のご案内を郵送した。
当日、子どもたちは全員参加した。多くの親も集まった。事前の先生との話し合いで、せっかくの機会だから、子どもたち個々の写真を全員撮ってもらっておき、後日見せたらどうだろうとの林先生の提案で、カメラマンの小野さんに頼み、ひとりももれなく写してもらえた。
子どもたちは翌日感想を書いた。参加したたくさんの親も後日、感想を寄せてくれた。以下はそのなかのSさんの感想である。
永年、大学生を相手にしてこられた元学長の林先生が、小学生を相手に授業をしてくださる、と聞いたとき、恐縮に存じながらも、どんな内容で、どんな言葉を使って子どもたちに授業をなさるんだろう。しかも、教室をやむなく公民館に移し、春日先生が年次休暇をとってまで実現させようとするプレゼントは、いったいどのようなものなのかと、胸のときめく想いで、興味津々出かけて行きました。
「こんにちは、わたし林です。今日は、人間って何だろう、人間について考えてみましょう。」という授業の入り方に、まず驚きました。
哲学的な内容を、子どもたちに45分間だけの授業で、どのようにまとめるだろうか、と思っていたら、私の方が授業参観をしているというよりは、いつしか、授業を受けている立場になっていました。次元が低いといわれればそれまでですが、マジックにでもかけられたように、まじめに考えなければならないような雰囲気をつくっていく。
特にハッタリをきかすでもなく、声高にお話しなさるでもなく、終始笑顔を絶やすことなく、やさしく静かに問いかけてくる。
答が活発にはね返らなくても、穏やかな笑顔で待っていらっしゃる。途中でなげ出さないで、考える時間を十分与えているように思いました。
先日、ある中学校のPTAから、非行問題に関するアンケート用紙が配られました。その中に「今、マスコミをにぎわしている中学校の非行問題をどう思うか」「中学校の非行問題の現状を打開するための対策を具体的に書いてください」というような内容のものでした。
人間が人間として生きていく最低の基本的な義務教育ですら、十分に学びとることもできず、受験生活に追われ、中学校を卒業していく生徒が多い昨今、義務教育とはいったいどういうものなのだろう。親として、子どもをどう導いていかなければならないのかなど、考えさせられていた矢先の林先生の授業参観でした。
親として反省することが多々ありました。相手を信頼して語りかける、語りかける時の心の穏やかさ、そして、待つことの大切さなどを強く感じました。
小学校卒業を目の前にして、中学校への希望と不安の入り乱れた落ち着かない日々を過ごしている時に、「人間としてどう生きて行かなければならないか」という最後の締めくくりで、とても充実したものを感じました。
気ぜわしく、渇いた心に潤いを与えられ、気持ちの整理ができた思いのする一時でした。
短期間にいろいろなことがあり、先生にもいろいろご迷惑をおかけしてしまったが、たくさんの親からまで、このような感想をもらい、私自身はやや疲労を感じながらも、それを超える “ やってよかった ” という充足感を得て終えることができた。ーつづくー( 春 )