mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

宮崎典男、ある戦後教師の歩み(1)

 宮崎典男先生と初めてお会いしたのは勤めて5年目の秋、黒川の吉岡中学校2年目の時になる。
 私が、吉岡中に赴任したとき、吉岡小中職員有志を中心に「黒川教育を語る会」という名のサークルがあり、すぐ誘われて参加するようになった。翌年、この「黒川教育を語る会」が母体となり、教科のサークルがいくつか生まれていった。最初は、国語と理科だったように思う。
 その国語サークルが、第1回の授業検討会をやることになった。授業者は大衡第二小の茄子川さん。2年生で、教材は「はな」(新美南吉さく)。
 授業検討会と言っても、何も知らない私にはどんな会になるのかわからないまま、みんなと一緒にその準備にあたった。もちろん、授業のための話し合いを何回かおこなった。

 その頃の交通手段はバスだったが、当日、仙台方面から門真隆さんたちが来て、その中に宮崎先生も一緒だったのだ。遠い鳴子の川渡小から伊藤清一校長も来た。授業者茄子川さんの前任校の校長であり、前の職員が授業を公開するというのでわざわざ足を運んでくれたことを思い、伊藤校長が輝いて見えた。
 黒川教育を語る会のメンバーも参加したので、第1回の授業検討会は賑やかな会になった。
 伊藤校長の話もよかったが、宮崎先生の、授業についての話の一つひとつに私は驚いた。すべてが私のなかになかったものであり、「教室で子どもたちと物語を読む」ということはどういうことなのかをいろいろと考えさせられた。静かな口調でゆっくりと話すその内容は、いい加減に過ごしてきた自分にはきわめて新鮮だった。
 会が終わって帰る時、門真さんが「仙台サークルも定例でやっているから、よかったら来てみて」と誘ってくれた。
 宮崎先生や門真さんたちと一緒にという喜びをもったが、その頃まだ野球に夢中になっていて、一緒させてもらうには、もう少し時間がかかった。

 話はとぶが、私が、亡くなられるまでお世話になった宮崎先生の歩みを知るにはずいぶん時間を要した。宮崎先生は、自分の過去などを語る人ではなかった。だから、黒川の授業検討会の時は、「福島から宮城にもどって2年目」などということを知ったのもしばらく経ってからだった。
 「宮城にもどる」という言葉に象徴される経緯を知る人はほとんどいない今を考えると、当時を知らない私だが、お会いするまでの宮崎先生の歩みの事実を述べることは大事なことだと思うので、いかにも知ったようなふりをして少し書いておきたいと思う。

 吉岡中に8年間いた私は、1969年、故あって仙台に転任することになった。仙台に来る以前からだが、仙台サークルが中心になって月1回の土日、5年間の予定で東京から講師に来てもらっての文法学習会をつづけており、吉岡から私も参加していた。その点では仙台に来たことで参加は楽になった。
 また、県教組教文部長の相沢庸郎さんから、「仙台に来たのだから『教育文化』(県教組の機関誌)の編集の手伝いをやってくれ」と言われ、毎週1回の編集会議に参加することになった。この頃の編集委員には大学の先生方が入れ替わりで現れ、会議は賑やかで、編集に直接かかわる以外の話が私にはことさらおもしろかった。仙台国語サークルの例会は毎週火曜日(ここに宮崎先生の参加はなかった)で、これにも私は参加した。後日、宮崎先生宅で毎週「金曜会」をもつようになり、私は汽車で槻木のお宅に通った。
 その後、相沢さんの後を継いだ八島正秋さんの後継として、1974年から教文部の仕事を3年間担当することになった。
 その最初の年になる2月の「教育文化」129号から宮崎先生に連載を始めていただいた。タイトルは「自伝的教育論」。その第1回は「出発」。宮崎先生の教師出発である。20歳。初任校は白石市斎川小学校。
 連載「自伝的教育論」は70回つづき、「教育文化」202号が最終回になり、1952年の「第1回教育科学研究東北地区研究協議会」宮城集会がその中心になり連載は終わる。
 その「自伝的教育論」については、あらためて次回にとりあげようと思う。なぜならば、現在の「日本学術会議問題」と根は妙に似ていると思われる事実などもあるからである。

 斎川小・姫松小・岩沼小とあるいた宮崎先生は、岩沼小3年目の1949年、「宮城県教育研究所」勤務となるが、なんとその年の9月30日付で、「宮城県仙台市公立学校教員 遠藤典男 願に依り本職を免する 宮城県教育委員会」、11月16日付で、「宮城県教育研究所研究員 遠藤典男 願に依り嘱託を解く 宮城県教育委員会」が渡され教職を離れることになる。先生自身の「願い」でなかったことはもちろんである。この時の自分を先生は、「わたしは、完全に教育公務員としての地位をはなれた。台風のすぎた地上に、泥にまみれた果実がごろりとひとつよこたわっている。それがわたしであった。」と書いている。
 その後、先生は学校生協に職を得て、4年間、この仕事をつづける。先生からこの間のことを一言もお聞きしたことはないが、先生を知れば知るほど、どんなに辛い日々だったろうと想像する。
 これも私にはまったくわからないことだが、1953年、福島県教育委員会に採用され、土湯小学校勤務になる。福島の方からの働きかけか、宮城のどなたかの見えない力技かは私にはわからない。このことに関して、ちょっと耳にしたことはあるが、不確かなので書くことは避ける。宮崎先生からもまったく聞いたことはない。
 土湯在職4年後の1957年、東北本線沿いの藤田小学校に転任、槻木の自宅からの通勤になった。
 同年、先生の実践記録「人間づくりの学級記録」が麦書房刊行され、日本作文の会から第6回小砂丘賞を受賞した。いつか先生は、「あの原稿のほとんどは、往復の汽車の中で書いた」と言ったことがあった。
 授業と子どものこと以外はほとんどしゃべらなかった先生だが、土湯のことはよくしゃべった。教職にもどれた思い出の場所であるから当然であろう。後年、土湯会場で東北民教研集会がもたれたことがあった。その夜の交流集会の主役は宮崎先生だった。会場の温泉旅館の従業員の方々までが舞台に登場、先生の歓迎と昔ばなしをかわるがわる語り、先生もいつもとまったく違う姿を見せてくれた。
 藤田に4年通い、1961年、「宮城にもどった」。船岡小学校教員として。

 その翌年の1962年が、初めに述べた黒川での授業検討会。先生との初めての出会いの場になる。ー つづくー( 春 )