mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

林先生とのこと(その1)

 大学時代、私は、林竹二先生の教育哲学「ソクラテス」の講義を早々と脱落してしまった。田中正造関係の本からだったろうか入学時から林先生の時間を楽しみにしていたのだが、ただその時間に顔を出すだけでソクラテスに近づくどころかどんどん遠のいていき、ついて行けなくなったのだ。ふりかえると、「学ぶこととは何か」が私にまったくなかったことによる。教育実習で中3のY子から「それでも先生になるのですか!」という抗議の手紙を突きつけられたのも、そこを見事に見抜かれたのかもしれない。
 その時、Y子の手紙を「ソクラテス脱落」に結びつけて私は考えることはなかったが、現場での仕事をつづけるなかで、Y子の手紙は、ことあるたびに私を叱咤し、「ソクラテス」を思い出させた。

 ソクラテスの脱落者でありながら、先生の動きについての関心は薄れなかった。林先生が遠く沖縄の小学校でまで授業をするようになったことなどまでも・・・。
 県教組教育文化部担当専従になっての2年目の1975年、学長を6月で任期満了になることを知り、秋の教育研究集会の記念講演を電話でお願いした。すると先生からは、「電話で返事はできない。あなたと直接会って話を聞き、そのうえで決めましょう。場所は授業分析センターで」とのことで、直接お会いすることになった。もちろんソクラテス以来だ。

 お会いしてどんなことを話したかの記憶は薄らいだ。ただ、先生は話のなかで、「去年の講演はM先生のようですが、M先生と私はずいぶん違うように思うのだが・・・」と言われ、(先生は、私たちの研究集会を調べたんだ)と思いドキッとしたことと、私は「教師・親の集まる場で授業を考え合いたい。そのために先生のお考えになる授業についてのお話をぜひお聞きしたい」と繰り返し述べたことは今も頭に残る。
 先生はその場で快諾してくださり、私は気が楽になり、しばらく雑談。当日の演題も話し合いの最後に「授業の可能性」と決まった。

 研究集会は10月31日から3日間、古川市民会館で全体集会、引き続き場を鳴子温泉に移して各分科会をもった。
 後日発行の宮教組新聞号外は集会を特集、その1面には「集会参加者は父母の参加を含めて総数約900名」。林先生の講演については「感銘を与えた記念講演」という見出しで要旨を紹介し、最後に参加者のひとりの感想「“子どもの表情の美しさ” と “きびしく授業を組織したときのみ質の良い集中が生まれる”、この二つのことが頭にやきついてはなれない。講演を聞きながら学級の子どもの表情がちらついてはなれなかった。私の学級にもあんな子はいたのではないかと。(後略)」で締めくくられていた。
 後日、『教育文化』(宮教組機関誌)を林先生の講演特集として組むことを編集会議に提案。林先生にお願いをし、すぐ快諾を得た。そのとき、先生の方から「講演で使った授業の中の子どもの写真も入れましょう」と言っていただいた。出来上がったのが「教育文化  第136号 特集  林竹二  授業の可能性」。

 刷り上がった『教育文化』を北山のお宅にお届けすると、先生はたいへん喜んでくださり、なんと、「今後講演依頼があれば、前もってこの『136号』を読んでおいてもらうことを依頼を受ける条件にしましょう」とまで言ってもらえたのだ(*当時「教育文化」の誌代は150円)。さっそくそれは先生のお考えのように運ばれ、その後、先生から「〇〇に◇◇冊送るように」という電話が何度も入り、「136号」はあわてて増刷という、『教育文化』にとって後にも先にもないことが起こった。
 そんなこともあり、先生ともしだいに『教育文化』のことに限らず、電話でいろいろな話をするようになっていった。

 翌年の1976年5月、『林竹二・授業の中の子どもたち』が小学館から出版され、贈っていただいた。先生はその「あとがき」を次のように書き始めている。

 私は1971年2月に、福島県郡山市の山間部にある小規模校白岩小学校で、6年生を相手にして、はじめて「人間について」の授業をしたが、それがきっかけになって、それから5年の間に、200回余りの授業をすることになった。授業の都度、私は子どもたちに感想を書いてもらうことにしているので、私の手元にある子どもの感想は、膨大な分量になる。私はその感想を通じて、子どものもつ感受性の鋭さ、ゆたかさ、ふかさにくりかえして驚かされている。子どもが贈ってくれる感想の尽きない新鮮さにはげまされるのでなかったら、授業がしらずしらず200回を越えるようなことは、到底ありえなかったであろう。(後略)

 先生が子どもの感想文を、「子どものもつ感受性の鋭さ、ゆたかさ、ふかさ、新鮮さ」と受け止めていることに、私は少なからず衝撃を受けた。子どもの側に立てば、感想文をそれほど苦労はせず思いのままに書いたはずだが、それを、このように読んでもらえる喜びの大きさははかりしれないだろうと思ったのだ。この「授業の中の子どもたち」は、子どもたちが林先生と向き合う姿を、小野成視さんが写真で子どもたちの心の内を見せてくれた。

 同年7月、林先生の永年の田中正造研究が『田中正造の生涯』としてまとめられ講談社から出版、毎日出版文化賞を受賞された。
 私は本を贈っていただき、「日向康さんたちが出版を祝ってくれるというので、あなたもおいでになりませんか」と先生から直接お誘いまで受け、当日、ほとんど知らない方々のなかに体を硬くして座りつづけていたことを思い出す。
 先生は、その著書の「まえがき」を次のように始めている。

 1962年に、「思想の科学」が、没後50年を記念して、田中正造を特集したときには、田中正造は一般にはほとんど忘れられた人であったが、今日では彼はひどく有名な人物にされてしまった。だが、それは公害問題がかまびすしくなったおかげで、けっして田中正造がよく知られるようになったわけではない。田中正造は今日でも知られざる人である。田中正造は、小説家や劇作家には好個の題材であるのに、その研究者は乏しい。これはどうしたことであろうか。
 14年前に、私ははじめて田中正造に関する論文を書いたが、完結できなかった。その後、島田宗三氏とその『余禄』に出会って、勇気づけられ、もう一度田中正造にいどむ気を起こして本著の執筆を思い立ったが、それから9年の歳月が経過してしまった。(後略) 

 その後間もない頃でなかったかと思うが、先生が講演先の北海道で体調を崩され、東北大の附属病院に入院されていることを知り、病室を訪ねたことがあった。先生は思ったよりもお元気で起きておられ、ニコニコと迎えていただいた。枕もとには、青色の小さい黒板が置いてあり、そこに目をやると、気づいた先生が笑顔のままで「授業のために字を書く練習をしているんです」と話されたのには少なからず驚いた。
 翌年の初めに、沖縄久茂地小学校での「開国」の授業が予定されていたことも、病室に黒板をもちこんだ理由のひとつであったろう。先生は2カ月程度で退院できた。ーつづくー( 春 )