mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

人との出会いが幸せを ~ オレは幸せ者 ~

 歳が重なり、家でボンヤリしている時間が増えるにつれ、(オレは、あのたくさんの子どもたちをふくめ、本当にたくさんの人に恵まれたなあ)と思い出すことが多くなった。(あの時、あの人に出会わなかったら)(あの時、あの子どもたちの担任にならなかったら)と。そして、いろいろなファイル・学級だよりやノートなどを引っ張り出しては繰り返し眺めている。
 それら、今も体に張り付いていること・書き残されてもののなかからいくつかのことを暇にまかせて書いてみようと思う。

 初任校の小学校3年間のあと、30代の前半までの8年間、中学校に務めた。その時の職員構成は校長が50代、教頭は40代、他は30代と20代が半々。活気があり、何でも自由に話し合えて職場は楽しかった。その雰囲気はやる気も起こさせ、自然切磋琢磨する場になっていた。私は、2年目、「ある高校から誘いがあるがどうする」と校長に言われたが、内心(このような学校を離れる? とんでもない!)と思い、すぐ断った。
 校長は校長で学校づくりを考えてのことだったろう、県の教育研究所(それから間もなく、県は改組して変身、「教育研修センター」にした)から所員2人を招いて、「学校づくり」「教育研究」についての校内研究会をもったりした。この時来校された所員のひとりが大村榮先生で、私は後日たいへんお世話になった。
 あるときは、就職指導担当の私が校長に、「授業終了後、塩釜職業安定所に行ってきます」と言うと、「今日は午後特別な予定がないから、私も一緒してみようかな」と言い、校長は自分のスクーター、私は学校のミニバイクで半日一緒したこともあった。オレはこのような学校が大好きでついつい長居をしてしまったのだ。

 話はまるっきり飛ぶが、年1回の指導主事訪問のときのことだ。オレは教師1年目から、この日を前にすると、職員室はいつもと違ってざわつくので、1年でもっとも嫌いな日になっていた。なにしろ、「春日君、明日だけはネクタイを締めてきてくれ」と、教頭に言われたこともあったのだ。
 中学ではそんなことはまったくなかったのだが、この「指導主事訪問」のよくない印象は体からなかなかはがれなかった。

 それは、中学3年目の指導主事訪問のときだったと思う。オレは、この訪問時もいつものように(どうせ、指導主事訪問だから)と、教科書のなかの「手紙文の書き方」という授業をした。短時間で指導主事は教室を出て行った。ヤレヤレと思っていたところに、入れ替わるように同じ町内の小学校の芳賀直義教頭が入ってきたのだ。オレはびっくりし、体中に汗がにじんできた。いまさらどうにもできないので、授業はそのままつづけたのだが、なかなかチャイムが鳴らない。
 やっと終わって芳賀さんに挨拶に行った。
 芳賀さんは、いつもの柔らかい口調で、「どうしてあの教材を選んだのか」と言う。オレは正直に「指導主事訪問だから」と答える以外なかった。
 すると、芳賀さんは、「生徒にとっては、指導主事訪問であろうとなかろうとまったく関係はなく、あなたとのかけがいのない1時間になる。あなたが指導主事訪問をどう思おうがそれについて私は何も言うつもりはない。何があろうと生徒にとってはあなたとの貴重な1時間であることはまちがいない。教師としてのあなたがどちらを大事にしなければならないのかについては大いに気になる。」と言うのだ。
 返す言葉がなかった。
 芳賀さんは、校長が町内小中10校に出した「指導主事訪問での授業参観案内」をもらい、私の授業をのぞきに来たのだと言う。私はそのような案内が出ていることを知らなかった。

 他校からの参観者は芳賀さんだけで、芳賀さんも立ち話だけで「じゃ、帰るから」と自転車を踏んだ。後ろ姿を見送りながら、これまでにない痛打を何度も反芻していた。もし、近隣校への案内を出してもらっていなければ、オレにとって、こんな衝撃的な言葉を受けることがなく、横着な自分がいつまでもつづいていたことだろうと考えると、案内を出した校長にも感謝をしなければならないと思った。
 私はまだまだヒヨコのままだったが、翌年から指導主事訪問時も本気で生徒と向き合った。たとえば、あるときは、教科書にあった芥川の作品「トロッコ」を取り上げたことがあった。当時は、どの教科書も平気(?)で改作しているものがあり、「トロッコ」もそうだった。私は、削ってある部分を補い原作にもどして授業をしていたので、訪問時もそのままつづけた。
 授業後の講評で指導主事は「それが問題だ」と指摘、「このように作品を削ったりしたら芥川の「トロッコ」ではない」と私は反論し、しばらく激論したことを思い出す。

 あの日、芳賀さんに言われることがなかったら・・・と思うと、今になるもゾッとする。( 春 )