mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

林先生とのこと(その3)

 先生の授業後、1か月も経たないうちに卒業式を終え、子どもたちは中学に行った。私との2年の暮らしでできたさまざまなほころびを最後に先生に繕っていただき、私は救われた思いになることができた。

 4月の中頃ではなかったかと記憶しているが、先生から「授業の写真ができたので、太郎次郎社から刊行予定の本に授業の報告を入れたいので、そこで使う写真についての話し合いをしたい」との電話をいただき、指定の日、先生がよく使っているという、電力ホール向かいの「こけし旅館」に行った。太郎次郎社の社長浅川さんと3人での話し合いだった。

 小野さんから届いた写真はB5版大のもので、143枚だった。写真展の話を聞いていて、そのまま使えるように大きくしてくれたのだ。
 先生は授業時の子どもたちをよく覚えていて、「これを使いたいがどうだろう」と写真選びにとても積極的だった。
 浅川さんは、「予定の本には、授業記録を起こしてそのまま載せたい。しかし、記録そのままではなく、担任のあなたが、授業の流れに沿ってその時々の子どもの様子を書き添えてほしい」という難題を押し付けてきた。私は大いにあわてたが先生は黙って笑っておられ、「それとは別に、授業について担任であるあなたの文は入れたいので書いてください」と言われ、拙い文を入れさせていただくことになった。
 結局、授業記録には、子どもたちの書いた感想から拾い出して、授業の展開に合わせて書くことでごまかし、「授業と子どもたち」と題する短い文を添えさせていただいた。これらは、『いま授業を変えなければ子どもは救われない』というタイトルでこの年(1981年)の11月20日に出版された。
 また、予定の写真展は、「旧6年4組のみなさん、お父さんお母さん」宛に、7月4日(土)2時~4時、新しい私の教室に展示する案内を出して行い、先生にもその報告をした。これで、授業「人間について」に関する一切が終わった。

 先生はその後も相変わらず多忙だった。
 お会いしたあるとき、「私はこれまで、教育の問題を教師の責任と言いつづけてきた。しかし、それは片手落ちだ。学校という教育の場から教育を追い出し、子どもを生きにくくさせているもののことも書かなければと思っている」と話された。そう話された時は既にその仕事が進められており、終章を「日本の学校水俣の海になってしまった」とする『教育亡国』が案内チラシに「緊急書下ろし」が付されて1983年8月出版された。
 1983年11月13日、東京のクレヨンハウスで「教育の根底にあるもの」と題して講演を行い、それをグループ現代が記録映画化し、径書房が同名の書籍を出した。この第2部のなかに「子どもの発言を吟味する」という章名で、公民館での授業も入った。
 私たち「宮城民間教育研究団体協議会」は「『教育の根底にあるもの』を観る会」をつくり、84年の3月23日(日)の1時~4時まで電力ホールを会場に映画会をもち、多くの方に観ていただくことができた。

 先生とはしばらくお会いしなかったが、「林です。いま、伊豆にいます」という電話を時々いただいた。著作集出版の作業で忙殺されておられるようだった。これまで書かれたものを全10巻にまとめ、それぞれに「巻末に」という文を添える。第1回配本『運命としての学校』が1983年9月に刊行。「巻末にー生命への畏敬の欠けたところに教育はない」を読んで、多忙を意ともせず、ご自分の書かれたものに対するていねいな思いを伝えようとされていることに驚いてしまったことを今も覚えている。

 先生のご多忙をよく知っていながら、私たち宮城民間教育研究協議会主催の「冬の学習会」(1984年1月5日)の講演をお願いした。この年の会に合わせて、戦前から切れ切れにつづいてきた会の機関誌『カマラード』の第4次1号を発刊する運びになったので、この記念すべき学習会の講演をぜひ林先生にお願いしようということになったのだ。
 先生はいつものように受けてくださった。そのとき、「これまで出した私の本で手元にあるものを持っていき当日並べ、売れた分をあなたたちの会の活動資金にしたら」と言っていただいた。
 先生のお話は、後日の機関誌『カマラード』で多くの人に読んでもらおうと思っていた。芳賀雅子さんがテープの文字化を引き受けてくれた。しかし、残念ながら、記録が出来上がる直前の3月、先生は、急に、また入院されることになったので、先生に目を通していただくのは復調されてからということにし、先生にも伝えることなく、講演記録は先生に目を通していただくことなく私の手元にある。先生の講演の最初の部分だけ紹介すると、

 お話をいたします。
 わたしは、ずっと、どのような組織とも関係をもたないで、ひとりだけでやってきました。
 教育について言えば、わたしは、小学校や中学校や高等学校(ほとんど定時制)で授業をして、そこでわたしが実際に経験した事実にもとづいて発言をつづけてきました。 
 それは、普通の生徒のなかで行われている教育、学校という組織の中で教育の仕事に従わなければならない先生方とは非常に違った角度から問題を考えることになっております。わたしなりに、一番根本的な事実をふまえて考えてきたつもりです。

 と、先生はお話を始められた。

 「わたしは、ずっと、どのような組織とも関係をもたないで、ひとりだけでやってきました」と話されたとき、私は前に立つ先生が、また田中正造と重なって見えてきた。同時に、1981年、「林竹二の授業論をめぐって」を特集した雑誌『現代教育科学』10月号が、なぜか浮かんでしまった。その多くの書き手のタイトルには、たとえば「おりてきたヌエ的研究者」「人間知らずのニンゲンについて」などが並ぶ林先生批判を目的とするとしか考えようのない特集で、(どうして?)(なぜ!)と腹を立てたものだった。先生はこの書を知らなかったわけはないと思うが、一言も口にすることはなかった。「ひとりだけで」にこの特集が浮かんだと思うが、私はこの雑誌を必死に振り払いながらお話を聞きつづけた。

 先生が再入院されたのは、その2か月半後であり、前回と違って長い入院生活になった。『カマラード』再刊に合わせてなどと、超多忙を知りながら講演をお願いしたことを私はたいへん悔やんだ。
 私は、先生のおられる東北大学付属病院の603号室(?)を毎月一度は伺った。先生はそのたびに喜んでくださった。今回は青い小さな黒板は枕もとにはなかった。7月にお邪魔したおりには、著作集第4回配本の『明治的人間』が病室に届いた日だった。その場でご本をいただいた。
 『明治的人間』の「巻末に」には「『人道のひとであったからラジカルであった』三人のこと」と付してあった。森有礼・新井奥邃・田中正造の三人である。その最後を先生は、「人道の人であったから森はラジカルであった。何故ならば、ただラジカルになるものだけが、世界をただすことだけができるからだ」(エドウインマーカム)を置いて結んでいた。「ラジカル」は、先生のお話では、後半よく使われたことを思い出した。
 残念ながら第5回配本から「巻末に」は付かなくなった。さぞ先生は無念であったろう。その後の配本のたびに、「冬の学習会」でご無理をおかけした自分を私は叱りつづけた。

 1985年4月1日の早朝。奥様からお電話をいただいた。なんと、今朝早く先生が亡くなられたという。「林は、間もなく家を出ることになりますが、できれば、家を出る前に顔を見てやっていただけませんか」というお電話だった。私は急いで北山のお宅に向かった。
 先生は、いつもと少しも変わらない柔和なお顔で目を閉じておられた。私は長い間のご指導に対する感謝を心の中で申し上げた。
4月3日、密葬。送る会は14日、東北大学川内記念講堂で行われた。「人間について」の授業を受けた子どもたちは高校1年になっており、K男の知らせで8人が私と同行した。先生も喜んでくださっただろうと、私は子どもたちに言った。

 雑誌『思想の科学』69号は11月、臨時増刊号「林竹二研究のために」を出した。その締めくくりの文を鶴見俊輔さんが書いておられる。
 それは、「前代の人の智恵を今にうけつぐ、とくにその失敗にためされた智恵をうけついで未来にいかすことが、教育の理想であろう。林竹二は、その理想を自分の前において、教育者の道を歩みつづけた。」と書きだし、「林先生は、業績をのこすことを第一義とした人ではなく、目標にむかって歩きつづけることを主に心をおいた。その道を歩くものは、もはや自分というものではないということを感じつつ、歩いていた人ではないか。」と締めくくっていた。

 林竹二先生は北山霊園に眠る。墓碑銘は「無根樹」。自然石に彫られている。
 私は年に一度はその前に立ち、1年間の報告をつづけている。今もなお変わらず、先生の大きな応援を得ていると思っている。ーおわりー( 春 )