mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風29(葦のそよぎ・泳ぐ快楽)

 少し間が空いてしまった。7月23日の朝日新聞「耕論」は、「水泳授業は不要不急か」と題し、「泳ぎを学ぶ機会は義務教育に必須なのか、泳がなくてもいいのか」と問いかけ、3人の識者がこれに応えた。そのなかの一人は、長く宮城の中学校で体育を教え、現在は和光大学で教える制野俊弘さんだ。今も様々な機会で私たちの取り組みに参加し力を貸してくれている。
 3人の文章を読みながら、清さんにも泳ぎについて書かれた興味深い文章があることを思い出した。このテーマを考える一つの新たな見方を付け加えてくれると思ったので、以下にその文章を掲載する。(キヨ)
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 軽く息を吸い込むや、膝をおって身を投げるようにして深々と体を水中に沈める。あたかも足をさらわれ溺れかかるような身振りで、水にむしろ体をからめとらせるような具合に。が、その一刹那両足は力をこめてプールの壁を蹴る。たちまち体は証明する。それがたんに身振りだったということを。全身に水の圧力を感じながら、しかし体はみずからのリズムを確実に刻みだす。そのリズムのうちでむしろ体は水を自分の下に抱きかかえる。

 泳ぎを覚えたので、泳ぐ自信をつけ始めた子供は、くりかえし水に潜ることを好むものだ。そこには一種の演技的な情熱がある。溺れる身振りをじぶんに与え、ついでそこから脱出してみせるという。そこには何度でも確認し、味わいたくなる快楽がひそんでいる。

 隣町のスイミングプールに通い出してから一年になる。この持続性はぼくとしては実に画期的なことである。なにしろ、ぼくはまず生まれてこのかたスポーツ音痴であり続けてきたし、またおよそ「習い事」の類にかけては常に三日坊主であったからだ。にもかかわらず、この持続性がぼくに可能になっているとすれば、そこにぼくがある快楽を見出しているからに違いないのだ。

 この「快楽」という言葉、これなぞもこれまでぼくにとっては「『わが辞書』にあり」とは言いかねた言葉であった。ぼくは自分を決して禁欲主義者とは思ったことはないが、「快楽」という言葉を自由自在に扱えるほどに解放された人間であったわけでは、もちろんなかった。そして今も、ない。が、この言葉をできれば〈濫用〉してみたいという欲求を感じだしているという点が、ぼくの生き方において、少し今までと違ってきている点だ。世界とぼくが(あるいは人間が)取り結ぶ関係を、その関係に宿されている「快楽」という観点から根掘り葉掘りできたらと、そんなふうに考えるようになってきた。

 泳ぐことに固有に宿っている快楽とはなにか、こうぼくは問題を立ててみる。ほかのスポーツなり、遊技と画然と違っているのは、あたりまえのことだが、泳ぎは水中という人間にとっては全くの別の世界のなかでおこなわれる遊戯だ、という点だ。そして、「全く別な世界」というのは、端的にいって、水中は本来的には人間がそこで生きることができない世界だということである。

 あらゆる遊戯が、あるいはあらゆる快楽がそうであるように、泳ぐ快楽は身体の享受と結びついている。いいかえればフォルムの獲得と。泳法の修得において、くりかえしぼくたちは熟達者によってぼくたちの身体のフォルムの歪みなりぎこちなさを指摘され、地上の日常においては忘れていた身体の別な運動の可能性に目覚めさせられ、状況と相呼応しうる身体の屈伸性の回復へと導かれる。またそのなかで、呼吸と身体の運動がいかに有機的なリズムを形作っているかについて再認識させられる。確かにこの点で、身体は一つの与えられた目的(例えば泳ぐという)のために手段として組織される。が、実はそこには目的―手段関係の一種の逆転が潜んでいる。与えられた目的は目的ではなく、かえって身体の自己享受を導き出すための一つの仕掛け・手段となるという逆転がそこにはある。身体の遊戯性が成立するのはこの逆転のうちにである。

 とはいえ、泳ぐ快楽はそうした遊戯一般に共通する快楽に決して括られてしまわない、ある独自な質をもつ。なぜなら、泳ぐことはさっきいった意味で人間にとっては異世界での行為となるからだ。

 この点でぼくはこう感じる。根本的にいって、泳ぐことを通してひとが戯れるその相手とは、「死」ではないかと。なぜなら、水中の「異世界」性は「死」に直結しているところにこそ成立しているからだ。泳ぐ快楽は、泳ぎを覚え始めた頃に自分を襲った死の恐怖の遠い記憶とどこかでつながっている。「泳ぎ切る」という感覚は、目標をやりとげるという点では「走り切る」とか「登り切る」という感覚と同じようでいて、実は異なり、常にそこに「泳ぎ切る」ことがなければ確実に「死」がそこに待ち構えているという感情を影のようにともなっているものではないか。薄明の、物みな形あるものはゆらめき、たちまち不透明な水の奥行きのなかにその形を没してゆく、その水中という世界をゆく快楽には、「死」のなかに紛れ込もうとする快楽や、あるいはそうして誘惑と戯れながら自分の身体の力を、つまり生を、自己享受するといった快楽が潜んではいないか。

 こう考えてくると、ぼくには、プールは、この泳ぐという快楽のなかに潜む「死」との戯れという要素をその遊戯性においていわば純粋化するというはたらきを秘めている、と思えてくる。というのも、プールという存在は、そこでひとは溺れ死ぬことの危険を絶対的に免れているという了解を基礎にして成り立っているからだ。だから、ひとはプールで安んじて泳ぐことができるのだが、その限り「死」との間に成立する遊戯性は希薄化しているように見えて、まさにそうした了解があるからこそ、遊戯性は遊戯性として純粋化されているようにも思えるのだ。

 死の恐怖があり、また死への誘惑があり、そしてまたその恐怖からの解放や克服の経験があり、常にそうした誘惑にさらされながら生を続行する不安定感がある。そうした人間の根本的な経験の一種の象徴的な具体的行為として「泳ぐ」ことがある。

 こういう問題の観点から都市のスイミングプールの存在を、そこにひそめられている快楽の構造を考察することはできぬものであろうか。川と海が、泳ぐことの快楽を享受しうる場としては壊滅するに応じて、「都市」にはスイミングプールが隆盛となった。この享受場の転移は、泳ぐ快楽の構造に更なる変化をもたらさなかったのかどうか。ぼくの「泳ぐ快楽」についての探究はようやくそのとば口にさしかかったところであるようだ。(清眞人)

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