mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風16(葦のそよぎ・一つの悲歌)

隠れん坊における「隠れる」という演技は、社会からはずれて密封されたところに「籠る」経験の小さな軽い形態なのであって、「幽閉」とも「眠り」とも、そして社会的形姿における「死」とも比喩的につながるものであった。要するにそれもまた、社会から一時的に隔離されている状態を象徴しているのであった。鬼の方が空漠たる荒野を彷徨するのに対して、こちらは狭い「穴」の中に籠らされているのであって、その形態の対極性のおかげで遊戯の競い合いが成り立っていたのである。しかしそこに潜んでいる経験の共通核は、いずれの側も同じく社会からの隔離であり、仲間はずれであり、日常社会の成員としての「死」なのであった。そして、鬼は隠れた者を発見することによって市民権を再び獲得して仲間の社会に復帰し、隠れた者の方は鬼に発見して貰うことによって、すなわち(妖精であれ動物であれ神様であれこの世のものならぬ)鬼に出遭うことを通して社会に再び戻ることができるのであった。
 こうしていずれも社会喪失の危機を経過することを通して相互的に回復と再生を獲得するという劇的過程をぼんやりと経験する。(鬼が)相手に勝つことは自分を救うだけでなく相手をも救うのであり、(隠れた方が)相手に敗れることは相手の勝利になるだけでなく自分の社会的勝利にもなるのであった。(藤田省三『精神史的考察』より)

 論理の生む詩というものがある。徹底をきわめた追求の果てに、一切の夾雑物を流し去り、認識と表現の怯懦を最後的に打ち倒してそこに確定された論理がおのずと醸し出す詩というものがある。いわばそれは論理の叙事詩である。

 久方振りにぼくはそういう詩に出会った。藤田省三の最近の本の中で。その本は精神としての「戦後」の死に寄せる生き残りし者の悲歌であった。
 いわば彼は根底から戦争によって作りあげられ社会復帰を不可能にさせられた前線兵士なのだ。彼の参加した戦闘は類い稀なものであり、それは余りにも栄光に満ちているとともに激烈であり、自己のすべてを投じるほかには闘うことのできないものであった。それ故に、戦闘が終結した時、しかもその終結とはたんにそれにおいて敗北したというよりは、戦闘それ自体の存在理由が突然宙に浮き雲散霧消してしまうがごとき根底的な敗北として終わったのだが、同時に彼はみずからの存在の基盤自体を失ったのである。彼は戦闘終結後の「平和」においてまるっきりの異邦人である。追放されたものである。あるいは、そこに住まうことが戦闘の姿勢を解き自分の根底を折りしだくことであるならば、いっそのことそこから離脱することを選ぶ者である。

 一方からいえば、戦闘によって作りあげられた彼の精神は「鬼」となって「空漠たる野を彷徨する」ほかなく、他方からいえば彼の存在は「平和」なる社会からの離脱において「狭い『穴』の中に籠らされている」のである。かつてぼくは『平家物語』を書いた石母田正についておおよそ次のように述べたことがある。——石母田たちの世代、つまり一九四五年の敗戦時三十代前半であった彼らの世代こそ戦後日本の最良の知的岩盤を築いた世代である。その彼らは見すえる人々であった。『平家物語』の終幕、今や壇之浦に入水せんとする平知盛の「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」との言葉、この一句ほどにこの世代にとって偏愛すべき言葉はない。それは一種の黙契のごときもの、この世代の知識人が互いの心をかよわす際の符牒のごときものだ。というのも、彼らは見すえる人々であったのだから。彼らの精神は深く批判的であったが、しかし彼らの青年時代と一致するファシズム期の日本においてその批判のエネルギーはいかなる社会的発揮の余地も与えられず、彼らはそれをいかなる仕方でも社会的運動のなかに実現化することができなかった。が、にもかかわらず死を欲しないとすれば精神はみずからを生きる術を見出さねばならない。かくて彼らは見すえる人々なった——と。

 藤田はこの世代をいわば兄と慕う世代の人間である。そして彼は「戦後」の精神史的な意味を論じて例えばこう書く。——かくて戦後の経験の第三の核心は「もう一つの戦前」、「隠された戦前」の発見であり、同時に「もう一つの世界史的文脈」の発見でもあった。私たちはとかく戦後の「価値転換」という表面に眼を奪われるあまり、戦後の思考の実質が実は「もう一つの戦前」によって形成されていたことを見失い易い。しかし戦後の経験は殆ど尽くと言っていいぐらい「もう一つの戦前」なのであった——と。いうまでもなくここにいう「もう一つの戦前」とはかの見すえる人々が代表したところのそれ、彼らがおのが眼を全身とすることによってなした経験のことである。

 今や、われわれが藤田において目撃するのはかかる見すえる人々の境涯を今度は彼がみずからの境涯と思い定めるに至るその決意である。精神の栄光、思想者たることの名誉は彼にあってはその社会的勝利において定義されるよりかむしろ敗北を持するその仕方において定義されるべきなのである。自己の勝利を気にかける精神はそのことによって絶えず自己の敗北を曖昧化し、糊塗し、かかる自己欺瞞によって真底敗北する。勝利の認知を求めてその実自己の根底を砕き敵方への追従に走り出すのだ。精神において生きられるべきは負けるが勝ちの逆説である。勝利者は酔い痴れる、自己の勝利に。そして盲となる。見すえるという位置、ただそれのみが精神の位置であるところのこの位置は、みずからの敗北を持することにおいて物事の根底にまで至る覚悟を決めたものにのみ訪れる。そして根底に至ることなしに「始まり」はない。

 その時、論理の詩が生まれる。ここに要請される凝視に賭けられたもの、それは死と再生のドラマだからだ。(清眞人)