mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

映画『ワンダーウォール』の彼方に

 コロナウイルス感染拡大後、ずっと映画を観に行ってなかった。思えば、最後に行ったのは2月の「さよならテレビ」。いつ行けるようになるだろうとずっと思っていたが、先日4カ月ぶりにやっと足を運ぶことができた。観てきたのは映画「ワンダーウォール」。

 タイトルをどこかで聞いたことある・・・と、思われた方もあるだろう。実は2018年にNHK・BSで単発のドラマとして放送され、その後話題を呼び、今回未公開カットなどを追加した劇場版として上映されることとなったのだ。
 物語の舞台は、京都の片隅にある大学学生寮・近衛寮。100年以上の歴史を持つこの寮に、老朽化による建て替えの話が持ち上がる。新たに建て替えを打ち出す大学側と、補修しながら現在の建物を残したい寮側の意見は対立し、両者の間に壁が立つ。そんな寮と大学を舞台に4人(マサラ、キューピー、志村、三船、トレッドなど)の個性豊かな寮生たちの姿を通して描かれる青春群像劇だ。

 まず、目を惹くのは寮という空間のリアリティーさ。近衛寮は自治寮、それも寮の形式としては、もっとも古い形式のものだ。映画は冒頭、寮という異世界に迷い込んだ人間が、まるでその空間をなめまわし眺めるかのような映像が映し出される。それは寮という世界がもつ、独特の時間の流れや息づかいを私たちに伝える。
 寮の玄関を入るや目に飛び込んでくるのは、こたつの置かれた空間だ。すでにこたつには寮生が陣取りたむろしている。きっと、そこは来訪者を出迎える客間であるとともに、門限なし24時間出入り自由の寮にとって、いわば防犯の機能も兼ね備えた関所のような役割も果たしているにちがいない。
 玄関を少し入った廊下からはスチール製の事務机や本棚が雑然と置かれた部屋が見えてくる。寮生活のあらゆる問題や相談が持ち込まれ、そして徹底的に話し合われる、そこは寮自治の心臓部だ。寮生たちのくつろいだ映像に寄り添うようにニワトリの鳴き声やインベーダーゲームの懐かしいゲーム音などが聞こえてくる。それから戸口に腰を下ろし、すでに寮の主と思しき猫が私たちを出迎え、映画(寮)の世界へと誘ってくれる。

 寮という世界で人生のひとときを過ごし堪能した者たちは、この冒頭の映像のなかに自分の姿を見出し、また魅入られていくことだろう。同時に、その懐かしさとともに寮が、まさに大人へとなりゆく年代の若者たちを迎え・送り出す場として、どのような役割を担ってきたのか、いるのか。そのことをも改めて考えさせてくれる。

 では寮とは何だろう、何であったろうか? それを考えるとき、まずは生活の場だということ。でも、それだけなら寮である必要は必ずしもない。アパートでもマンションでも、シェアールームだっていいだろう。では、改めて寮の独自性とは? 映画の中では、大学1年のマサラが、次のように端的に語っている。

《寮は入ってみたら本当に変人だらけだった。好きな格好をし、好きな場所で寝、好きなものを買い、好きなものを食べていた。一見無秩序のようでありながら、ここには案外細かいルールが敷かれている。人はサル並みにマウンティングが好きな動物だけど、近衛寮では我慢しなくてはならない。退屈だったら、その代わり仲良くするしかない。でも、それは実は楽しいこと》

 かしこまった言い方をすれば、それは「自由と自治」、そして民主主義といったところだろう。そして、映画にはそんな言葉は一切登場しないが、全編を通しそのことの可笑しさと楽しさ、そして難しさを語っている。
 マサラの言葉に、アナーキスト革命家・大杉栄の言葉が反響して聞こえてくる。

僕等は今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭なのじゃない。音頭取りその者、犬その者が厭なんだ。そしていっさいそんなものはなしにみんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。
それにはやはり、なによりもまず、いつでもまたどこでも、みんなが勝手に踊るけいこをしなくちゃならない。むづかしく言えば、自由発意と、自由合意とのけいこだ。
この発意と合意との自由のない所になんの自由がある。なんの正義がある。

 マサラ曰く《好きな格好をし、好きな場所で寝、好きなものを買い、好きなものを食べていた。一見無秩序のようでありながら、ここには案外細かいルールが敷かれている》寮という場は、まさに自由発意と自由合意に基づく自治の場であり、そこでのルールは強制として誰かに与えられ強いられたものではなく、議論を通じて見出し、自分たちが自由に生きるために獲得したもの。だからそれは楽しいし、だからときには我慢しなくてはならない。

 映画は、大学と寮との間の話し合いを通じて一旦は補修による寮の存続という合意に至るかにみえるが、一転大学側は一方的に話し合いを打ち切り寮の建て替えへと進んでいく。それは曲がりなりにも学生とともに歩み築いてきた大学《自治》を大学が放棄したことを意味している。実は、それは映画の世界だけのことではない。多くの日本の大学が、すでに大学自治を放棄している。大学自治という言葉は、すでに死語だろう。映画は、その現実を映し出し、伝えている。というのも、この「ワンダーウォール」そのものが京都大学吉田寮廃寮問題を取材し、そこから多くの着想を得てつくられているのだから。すなわち映画「ワンダーウォール」は寮の世界を描きながら、実は現在の大学のあり方をも問うている映画と言える。

 映画の最後は、暁の茶事の場面で終わる。寮の存続に尽力してきた4回生の三船は、大学との交渉が行き詰まり暗礁に乗り上げてしまった今の心境を《こんなおんぼろ寮一つに何をそこまで騒ぐ必要があるのか。むしろ俺が教えてほしい、一体、俺は何故これほどまでに悩まずにいられないのか。言葉にならなくて苦しい。まるで恋のように》とつぶやき、エンディングへと向かう。

 三船の言葉は、映画の始まりで《その時、恋が始まった、のかと思った。けど勘違いだった。それでも、これはラブストーリーだ》というキューピーの語りと対になっている。きっと三船(たち)は、寮での生活を通じて単なる衣食住を満たす以上のものを見つけ、それに魅入られ、また恋してしまったのだろう。

 映画は、このあと寮がどうなったのかについては描いていない。三船たち寮生が、寮を守ることができたのかはわからない。ただ言えることは、たとえ寮生たちが寮を失うことになったとしても、そのことによって寮生たちはまさにすでに生きた一つの世界(自由)が失われることで、その失われた世界が、まさに今度は一つのユートピアとして寮生たちに生きられることになるだろうということだ。
 またそれは一人の若者が、一人の大人になるということでもあるかもしれない。

 最後に、余談になるが三船のつぶやきを聞いたとき、一つの言葉を思い出した。それは「憧れを知る者のみ、我が悩みを知らめ」というゲーテの言葉だ。この言葉は、同じ学生寮を舞台に、戦後最後となる旧制高校生たちの世界を描いた映画「ダウンタウン・ヒーローズ」のなかで語られる言葉でもある。2つの映画は、戦後民主主義の始まりと終わり(になってほしくはないが)を、寮という舞台を通じて描いた2つの映画と言えるかもしれない。
 ぜひ機会があれば、どちらの映画もご覧ください。おすすめです。

 それにしても3密はダメ、「新しい生活様式」が当然のごとく喧伝されるこの時期に、映画は典型的な3密世界である寮を舞台に、その世界を(自由を生き、自由を求める)世界として描き切ってしまった。何という皮肉、何という大胆さ。そして私たちは未来に何を求めるのだろうか。(キヨ)

「現在(いま)とは、まだ過ぎ去っていない過去ともうすでにやってきている未来とのたたかいの場だ」

画像1