mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風10(葦のそよぎ・裸形と境界)

 葦のそよぎ ー裸形と境界ー 

ここではあらゆる習慣的カテゴリーが混乱しているが、それゆえにこの境界状況とは、既成の一切の構造的確言にたいするラディカルな否定であると同時にまたあらたな観念やあらたな社会関係が誕生してくる元になる純粋可能性の領域だという。修練者たちは、ここでは一切の身分差、年齢差、性差、財産所有を否定されて、完全な平等性、等質性、匿名性の状態に置かれる。彼らはすべての社会的に制度化された役柄から解放されて裸形にもどることによって、「真に自分自身である」ことができるようになるとみなされるが、また同時に、そのように真に自己自身となることによって真に社会的共生をとりもどし、「各人は万人のために、万人は各人のために」という、いわば共産主義の理想が実現化するとされる。この境界状況が・・・〈構造〉を批判し破壊する〈反=構造〉の契機であると同時に、また構造を産みだし更新してゆく創造的原点でもあるのだ。
                 (竹内芳郎『文化の理論のために』)

 歴史には時として或る類まれな特権的な瞬間が、サルトルが好んでアポカリプス(「黙示録的瞬間」)とよんだ〈原始的自由の時〉と名づけられる瞬間が訪れる。それに出会い、それを生きることができた者は、そのことによってその後たとえどのような苦痛を味わうことになるにせよ、結局は幸せである。それはまさに瞬間としてたちまちに過ぎゆく現実であるが、しかし、その瞬間こそは精神の原理としては強固な持続を生みだすものなのである。というのも、精神の原理が〈自由〉にあるとすれば、この瞬間こそが精神がその原理たる自由を全身全霊をもって生き、身に刻印する比類無き時だからだ。

 こんなことを言い出したのは他でもない。「戦後」という言葉が完全に博物館入りした今日の時点にたって我が身を振り返るとき、同時に僕たちは自分たちが「父母」という存在に分類される仕儀にあいなっているのを見出すのであるが、その想いが僕たちに僕たちの「父母」への或る想いをかきたてるのだ。僕たちの「父母」、それはあの、世に言う「焼け跡闇市」の時空をその青春において生きた僕たちの歴史的「父母」のことだ。あるいは精神の原理としての。

 藤田省三は「戦後」という経験の核心についてこう指摘したことがある。「戦後経験の第一は国家の没落が不思議にも明るさを含んでいるということの発見であった」と。そしてさらにこの「明るさ」をこう説明している。「住ま居が焼き払われた惨状の中にどこかアッケラカンとした原始的ながらんどうの自由が感じられたように、すべての面で悲惨が或る前向きの広がりを含み、欠乏が却て空想のリアリティーを促進し、不安定な混沌が逆にコスモス(秩序)の想像力を内に含んでいたのであった。かくて戦後の経験の第二の核心はすべてのものが両義性をふくらみを持っていることの自覚であった」と。

 今僕は、冒頭に掲げた竹内の「境界状況」を論じる言葉を振り返って、藤田と竹内の生きる精神世界の相貌の見事な一致に改めて心を打たれる。藤田の言う戦後の経験の構造的特質としての「両義性」とは竹内の言う「境界状況」の構造そのものではないだろうか。この両者の一致はたまたまの個人的な偶然的一致ではない。それは世代の共有する原世界の構造的同質性に由来する一致なのだ。

 ということは、いかなることを意味するのか。一言にして言えば、いわゆる「戦後民主主義」の最も真正な意味における主体とは、決していわゆる西欧市民社会の秩序を信奉し、模範と仰ぐ主体ではなく、竹内の言葉を借りれば「アッケラカンとした原始的自由」を生きる無国家的個人ということだ。いいかえれば、「戦後」とはその経験の真正な意味においては、この日本においてはなおさらのこと、精神の原理としての〈無政府主義〉の類まれな経験の時であったのだ。

 藤田の言うあの「明るさ」とは何であったのか。それは創造的自由の明るさであり、またそれ故にそれは〈普遍〉に連なることの明るさではなかったか。我は人類に連なるものであるという明るさ、人類の悲惨さの認識の果てに沸き起こるこの連帯意志、それこそがその明るさの保証ではなかったのか。そこに捉えられるべきは、真の普遍の立場に達するためには、人間はいったん自己が組み込まれてあった社会体のなかで、あるいはそこからの放逐のなかで、その孤独において自己をその裸形の個別性において見出さねばならないという逆説である。

 藤田は吉田松陰における最大の価値をなすものとしての彼の「孤独」を論じてかくいう。「その孤独はただの感傷的な孤独とは全く逆に、全社会の崩壊を宿したものであった・・・・・・その崩壊の状況において、社会関係の分解を彼自らの諸関係(君臣・上下)の分解として経験し、観念形態や意識形態の骨片化を彼自らの思想的形態の瓦解としての経験しながら生きて来た者の孤独は、他人からの孤独といった単純なそれではなくて、社会的な自己からも自分の意識形態からも孤独であるところの、深く痛烈なものであった」と。だが、藤田によれば、この孤独にしてはじめて松陰は歴史の劇的な転回を誘発するあらゆる意味での「越境的」行動者になりえたのである。そしてその松陰は、決して門人を門人とみなさず、常に若い友人として対したのであり、「そこに彼の『餓鬼大将』としての真めん目があった」。

 自由・平等・友愛、これを西欧ブルジョア社会の出自のものとみなすのは根本的に誤っている。それは歴史の或る特権的な瞬間が凝集し爆発させる、人間における根源的な無政府主義的な夢にその根底をおいているのだ。僕たちの歴史的「父母」が垣間見たもの、それはこの夢であり精神だったのだ。そして僕たちは彼らの息子たちであり、また我々の子どもたちの「父母」なのである。(清眞人)

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 Diaryに「西からの風」を寄せていただいている清さんを知ったのは学生時代だった。寮の上級生に「おもしろいから読んでみろ」と『喫茶店ソクラテス』を紹介された。清さんが論じたのは「友愛主義宣言―自由と悪の名において友愛を論ず」だ。読み終えて「どんな人なんだろう?」という関心が湧いた。それからは続編の『公園通りのソクラテス』『言葉さえ見つけることができれば』など、清さんの書いたものを一気に読んだ。書かれている内容に魅せられたのはもちろんだが、それだけではなかった。それ以上にぼくを捉えて離さなかったのは、その独特のリズムと文体だ。そのリズムと文体が僕に憑依して離さないのだ。そして、その背後につねに清さんという一人の人間の存在を感じてきた。それは変わらない。

 今でも事あるごとに開いて読む一冊に、『言葉さえ見つけることができれば』がある。清さんの単著としては最初の本となる。その「あとがき」に次のように書かれている。
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 ここに一冊の本として編まれるに至ったわたしの文章、それは1981年5月から書き始められ、毎月、実生出版という小さな出版社の発行する小雑誌『私教育』に「葦のそよぎ」と題して連載されてきたものである。この連載は今も続いているが、これまで発表したもののなかからわたしは53編を選び、9つの章に配置しなおして、このような形の本とした。
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 本書は言葉に対するわたしのひとつの信仰告白なのだといえば、あまりにも臆面なく気恥ずかしいが、そのことをご理解いただけたらと思う。わたしは、わたしのなかで他者の言葉がわたしによって生きられるその瞬間を、わたしの言葉で定着できたならと思った。深く真実な言葉は自立する。それは、他者がそれを自らのものとして生きることを許す寛大さに溢れている。わたしはそう確信している。それは他者に自由な参入の空間を開くものであって、その空間のなかで参入した人間はその起源からすれば他者の言葉を自己のものとして生きる権利を得るのだ。その時、そこには触発という契機が、いいかえれば解放と自由、豊饒化という契機が宿りくる。「わたしが考えるのではなく、言葉がわたしに考えさせるのだ」という言葉があるが、私はそのことの真正な意味を右の意味において了解したい。

 「あとがき」で述べた清さんの思いと企ては、少なくともぼくをとらえ、生きさせた。しかし掲載したのは「葦のそよぎ」すべてではない。その一部だ。清さんの手元には出版の時点で掲載しなかったものを含め、その後に書いたものも多数あるという。今回、それらのコピーを送ってもらった。ぼくひとりが楽しむのもよいが、一方でそれはもったいないことだとも思った。

 そこで清さんにその旨を伝え、その時々に応じてdiaryに紹介させていただくことにした。もちろん、これまでどおり清さんが日々の生活のなかで感じたこと考えたこと、また取り組んでいることなども自由に書いていただく予定だ。今回がその1回目となる。(キヨ)