mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより55 ヤマユリ

 絶滅せずに生きる 野草で最大の美しい花

 ヤマユリの花は、ユリ科ユリ属の中では最も美しく芳香もある花です。おそらく日本の野草の中では最大の大きさの花でしょう。この花が、もし希少種であったなら、すでに絶滅している運命にあったでしょうが、その逞しい生命力で残された生息環境を求めて生き残り、夏が来るたびにその美しい花を見せてくれます。

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  ヤマユリの花。幕末に外国から来た園芸家たちは山野に咲いているのに
  驚いたそうです。

 ヤマユリは東北地方や中部地方の山地、山野のまわりや草地に自生する日本固有種です。里山の半日かげの林のまわりや明るい林内、北や東向きの土手や路傍の、ときおり草刈りが行われるような草むらに生えています。

 ヤマユリは花が咲くと、遠くからでもよく見えます。しかも球根(鱗茎)を食べるととてもおいしいので、古くから知られていたとしても不思議はないでしょう。
 古事記にもすでに「基の河の辺に山由理草多に在りき」とあり、「山由理」(やまゆり)の名で現れています。万葉集には「草深百合」や「さ百合」の名で10首詠まれていますが、このユリはヤマユリか、西日本に分布するササユリのどちらかだろうといわれています。
 ヤマユリのほかに日本にはササユリ、オニユリ、ヒメユリなど数多くの野生のユリが自生しています。古代から、これらのユリは夏がくると華やかに花を咲かせて日本の山野を飾っていたと思われます。

 ユリ(百合)という場合、ヤマユリを指すこともありますが、普通はユリ科ユリ属の総称として使われます。ユリという名の由来は諸説ありますが、茎に比べて花が大きく、風にゆらゆら「ゆれ動く」ようすからきているという説が有力です。
 「ユリ」が「百合」と表記されたのは飛鳥時代の頃です。中国から渡来した「百合」という漢字に、日本の「ゆり」という呼び名(音声)が結びつき、そのまま日本語となったものです。
 漢方に「百合」(びゃくごう)という生薬がありますが、これはヤマユリオニユリなどの鱗茎を蒸して乾燥したものです。「百」は数が多くあることで、「合」はそれが合わさったという意味。地下のユリの球根が多数の鱗片の塊で出来ていることに由来する呼び名です。

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つぼみは下から上へと咲いていきます。 年数がたつほど、多くの花をつけます。

 ユリの花の仲間は、多雨と酸性土壌を好みます。日本列島の湿潤な気候と酸性の土壌は生育に適していて、国内には15種の野生のユリが自生し、そのうちの8種は日本の固有種です。
 現代、世界にはさまざまなユリの園芸品種がありますが、これらの多くは、日本の固有種のユリが輸出されて改良されたものです。園芸品種で人気のあるカサブランカヤマユリなどが原種です。ユリといえば西洋の花というイメージが強くありますが、多くの園芸品種のユリの故郷は日本なのです。

 日本のユリが欧州に紹介されたのは19世紀。たちまち評判になって、「なかでもジョン・ベイナが1862年に導入してロンドンのフラワーショーに出品したヤマユリは絶賛され、1873年オーストリア万国博で商談が進み、翌々年から球根の輸出が始まった。明治末にはその数が2000万球にも達し、外貨を稼いだ。」(「ニッポニカ」ヤマユリの文化史・湯浅浩史)とのこと。その当時山野に幾らでもあったヤマユリの球根は、次々と掘り出され、その数を急速に減らしていったということです。この時代にヤマユリはよく絶滅しなかったものと思います。

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 他の草より高い位置で花を咲かせるヤマユリ。風による種子の散布にも有利です。

 ヤマユリが生きのびられたのは、その逞しい生命力によるものでしょう。
 ヤマユリの種子が発芽してから花を咲かせるまでは5年以上かかります。それまで小さな葉を出して地下の球根に栄養を蓄えますが、開花できるまで育った球根が春に芽を出したあとは、その生長が驚くほど速いのです。
 地下の球根で蓄えられた栄養ですばやく根を広げ、養分を吸収して草丈を伸ばします。伸ばした茎に次々に葉をつけ光合成を行い、森でも草地でも常に他の草の高さを追い抜いて生長します。ヤマユリが芽を出してつぼみをつけるまで約 40 日。その間に他の草を圧倒して生長し、はるかに高い位置でつぼみをつけるのです。
 そのあとは、約2ケ月ほど、新しい葉を出すことも茎の生長も止めて、つぼみを充実させることにエネルギーを注ぎ、やがて大きな花を咲かせるのです。

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  つぼみは緑色です。    緑色から白に変化します。   開き始めました。

 ヤマユリの花は、外側の花びら(もとはガク片)と内側の花びらが3枚ずつ、合わせて6枚の花びらがあって、外側にそるように開きます。めしべが1本。おしべが6本で、花の開き始めは、どちらもまっすぐですが、やがておしべの先の葯が動いてT字形になり、めしべは柱頭の表面を上方に曲げて、訪花昆虫を待ち受けます。

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  四方に開く6枚の花びら   朱色はおしべの葯です。 虫を待ち受けるめしべの姿

 ヤマユリの花によくやってくるのは、アゲハチョウの仲間です。
 アゲハチョウは体が大きく飛翔能力が高いので、うまくチョウの体に花粉をつけることができれば、大量の花粉を一度に遠くまで運んでもらえます。ところが困ったことに、アゲハチョウはストローのような長い口を伸ばして花から蜜を吸うので、体に花粉をつけることなく蜜だけを奪っていくことがとても上手なのです。

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  花びらの根元近くで蜜が分泌されます。   蜜を求めるアゲハチョウ

 ヤマユリはそのことを知っているかのように工夫をめぐらします。
 ヤマユリは糖度 65%といわれる甘さの蜜を準備し、濃厚な香りを漂わせます。花びらの赤い斑点はアゲハチョウの好きな色、中央を走る黄色い帯は蜜のありかを教える道しるべ。アゲハチョウをうまく誘いながらも、じつは、花は下向きに咲かせているのです。しかも花びらを後ろに反り返させて、おしべやめしべを長く突き出し簡単に蜜を吸えないようにしています。花に誘われやってきたチョウは、おしべやめしべを足場にしてぶら下がり、羽をばたつかせて必死に蜜を吸おうともがく結果になるのです。
 おしべの花粉の出る葯もうまくできています。T字形の先の葯は自在に動いて掃除モップの先のよう、どんな角度でもチョウの体にフィットします。葯から出る花粉は、衣服につくと簡単にはとれないほどの粘り気があるので、チョウの体にすぐ着きます。アゲハチョウがやっと蜜を吸えたとき、チョウの体は花粉だらけ。めしべの先も粘液にぬれていて、すばやく花粉がつき受粉できるようになっています。
 ヤマユリは一枚上手のようです。アゲハチョウには蜜を盗まれることなく、花粉の運び手の役割をしっかりさせているのですから。

 ところで、研究者によると、ヤマユリが花粉を運ばせているのは、アゲハチョウだけではないということがわかってきました。
 ヤマユリの強い香りは夕方以降に強くなって、夜には夜行性のスズメガを呼び寄せているというのです。花びらの白さは闇夜でも浮き上がって見えてくるので花のありかがわかります。スズメガは、ホバリングしながら蜜を求めて長い口吻を花の奥に差し入れると、頭部に花粉をつけられ、そのまま花粉の運び屋になるのです。

 スズメガは飛翔範囲がアゲハチョウより広いので、ヤマユリは日中近距離を飛び回るアゲハチョウを呼び寄せ、おもに自家受粉を行い、夜には遠くに咲くヤマユリの花との他家受粉を行っていると考えられます。
 確実に受粉して多様な遺伝子を持つ種子を準備し、いのちをつなごうとするヤマユリの知恵がここにも見られます。

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   受粉のあとの果実      熟した果実       果実の中の種子

 花の後にできる果実は蒴果(さくか)といって、乾燥すると裂けて種子を放出するしくみになっています。長さ6 cmほどの円筒形で、3室に分かれた部屋に種子が約300個ほど入っています。熟すと果実が3裂し、風に揺らされ、種子は新天地へ飛び出すのです。

 ヤマユリは、球根(鱗茎)でも仲間を増やします。毎年栄養を蓄えた球根が大きくなると、一つだけでなく、いくつも芽を出します。寿命は7年から8年、中には20年以上のもあり、年数が多くなるほどたくさんの花をつけます。また、伸びた茎につく木子(きご)というむかごのような小さな鱗茎でも増えます。自然界で動物に食害されて、バラバラになって残った鱗片の一片からでも再生する力があるといいますからすごいものです。

 ヤマユリは「種子繁殖」だけでなく、自らの分身による「栄養繁殖」もするという、いのちのしくみを獲得し、どんな環境の変化があっても子孫を絶やすことなく野草の世界を生き抜いてきたのです。

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  無心に咲くヤマユリの花は、いのちの輝きを見せて、今を生きています。

 毎年夏に、田舎に帰省しようと、東北自動車道の南インターから北へ向かって走ると、高速道路ののり面に、たくさんのヤマユリの花が咲き続く光景が見られます。ヤマユリの花が咲く季節には、このような光景が栃木から岩手にかけての高速道路でも見られるそうです。(東日本高速道路㈱ 東北支社「技術報告・高速道路のり面のヤマユリの復元状況について」2012年)

 高速道路ののり面は、当初牧草などで緑化されていましたが、長い間に周囲から飛んできた種子で、まわりの山林に近い植生環境に遷移していき、走行の安全のため毎年草刈りも行なわれていたので、いつしか里山に似た半日かげの草むら環境になっていったといいます。(同「技術報告」)
 里山が荒れて、生育箇所を失いつつあったヤマユリの、その種子が絶好の生育環境に飛んできて、芽を出し花を咲かせて仲間を増やしていたのです。
 幾度か危機を乗り越えてきたヤマユリは、その生命力でこれからも生きのびていくにちがいありません。

 宮澤賢治は、嵐に抗して懸命に立つ百合の花を詠っています。

  いなびかりみなぎり来ればわが百合の花は動かずましろく怒れり
                     歌稿B最終敲(大正3年4月)

 この百合はヤマユリの花。賢治にとってヤマユリの花は特別の意味を象徴する存在でした。短編「ガドルフの百合」の一場面を想起させます。
 歌に詠まれたヤマユリは、その存在をかけて雷雨と対峙し、野に生きる花の強靭さと鮮烈な美しさを見せて魅了してくるようです。(千)

◇昨年7月の「季節のたより」紹介の草花