mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風25(葦のそよぎ・祈願)

 ――著者は、なぜ、この詩人の認識を指して、「敬虔な祈りの声のようにもきこえます」というのだろう?
 ぼくは教室で学生達にこう問いかけた。それは、ぼくの授業で輪読を重ねている詩についての小さな本、そのなかで、著者が或る詩人の詩について述べた感想にかかわってのことだ。

『生命』と題された詩であった。そのなかにつぎの一節がある。

「生命は
 その中に欠如を抱き
 それを他者から満たしてもらうのだ」

 この生命についての詩人の認識を指して、同じく詩人である著者は「敬虔な祈りのような声」と述べたのだ。

 もし、生命が、この詩人の捉えるように、決して自分だけの力では充実させることのできぬ欠如をはらみ、それを満たすためには他者との幸福な出会いを必要としているなら、そしてこの出会いはまさに他者との出会いとして、決して自分の意のままにはならない、偶然という幸運になかば委ねられたものであるならば、そこにはその出会いを自分に祈願するという、そういうかかわりが、究極において祈るしかないという、そういう関係がありはしないか。そうぼくは学生達にそのとき話したのだ。

 そのときぼくはこの「祈り」という言葉に魅かれていたのだ。生命は欠如を抱いている。その、この生命にとって特有な欠如が、この生命を或る他者に関係づける。その他者は、誰であるか、何であるかいまだ知られざる他者なのだが、しかし、この生命の欠如が充足へと息づくことになるのはその他者を通してこそだという関係は既にそこにある。既に生命はそれ自身において他者に関係づけられている。だが、そうであるにしろ、この関係が関係としてはたらきだすのは、あくまで求められた他者の出現を待ってのことなのだ。そこにある偶然という契機、それにぼくの思いはそのとき引き寄せられていたのだ。

 ふとつぎのフロムの言葉が思い出された。

「もし母の愛がそこにあるならば、それは祝福のようなものである。またもしそれがそこにないならば、人生のあらゆるよいものは消え去ってしまったようなものだ」

 幼児のぼくたちを無条件の愛において見出す母という存在、ぼくたちの絶対必要性である母という存在は必然だろうか。必ず子の誕生とともにその誕生に随伴して存在することが約束されたものであろうか。決してそうではないことをぼくたちは知っている。母の存在すらが実は偶然の深淵に架けられた橋のごとき存在であるとしたら、なおのこと生命を満たす他のさまざまな他者の存在は偶然的なのだ。

 しかし、この偶然論は必然論としても語られうるのであった。欠如が欠如であることによって持つその渇望、充足への衝迫としてのその苦悩、ドイツ語の表現をもちいればこの受苦はNotであるが、「必然性Notwendigkeit」とはこの衝迫的苦悩によって絶対的に或る存在へと差し向けられてあること、なのだ。欠如が深く欠如であること、その深さが、その欠如を宿した生命に必然性を負わせるのだ。そして、ただこの必然性の土地のうえでのみ、偶然性は偶然性として姿をあらわす。偶然性にその偶然性としての切実さを与えるのはただこの必然性だけなのだ。

 ぼくがこのいわば裏面の真理に改めて気づいたのは、実は先の授業のあと別な授業でつぎのマルクスの言葉の解説を試みていたときにであった。マルクスはこういっている。

「もろもろの対象が彼にとって対象となってくるなり方は、対象の性質と、この性質にみあう本質力の性質のいかんによる。・・・ある対象の意味の範囲を私にとって(その対象にみあったセンスにとっての意味しかもたない)、ちょうど私のセンスのおよぶ範囲にほかならない。それゆえに音楽によってはじめて人間の音楽的センスが呼び起こされ、非音楽的な耳にとっては絶妙の音楽といえども何の意味をももたず、どんな対象でもない。」

 ぼくはこんな風に語ったのだ。世界は確かにそこに存在する。我々に依存することなく、そこにある。だが、そのようにして〈ある〉ということは、ただちにそれが同時に「われわれにとってある」ということまでも意味するわけではない。存在をして存在せしめる、世界をして世界たらしめる、対象をして対象たらしめる、という問題がそこにはある。マルクスの例示をそのまま借りれば、「非音楽的な耳にとっては絶妙の音楽といえども何の意味をももたず、どんな対象でもない」。いいかえれば、ぼくたちがすでに世界へ音楽的に関係づけられていないならば、世界は音楽としてぼくたちのまえに存在することはない。マルクスの指摘はぼくたちにひとつの反省を迫る。世界を世界たらしめるために、ぼくたちはそもそもどのような形で世界に関係づけられているのか。はたしてぼくたちは世界を十分に世界として存在せしめる、そのような関係づけにおいて世界に向って存在しているのか、と。

 そのように語りながら、ぼくは実は先の偶然論を頭の片隅で思い出していたのだ。生命の欠如を満たす他者の出現はなるほど究極的に偶然に依存するとはいえ、そもそもぼくたちが欠如的に深く世界に関係づけられているのでなかったら、たとえその他者が出現していたとしても、ぼくたちにとっては無に等しい存在なのだ、と。

 そのときぼくは理解できたと思った。なぜ、あのときぼくが「祈り」というかの著者の言葉に魅きつけられていたのか、を。祈りは満たされないかもしれぬ。だが、祈ることなしには決して満たされることはない。他者に出会うことはない。祈るとは、自己の必然性を生きる形にほかならない。それはひとつの、しかし、根底的な、生命が自己を世界へ関係づける仕方なのだ。(清眞人)

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 タイトルからすぐ思い浮かんだ言葉は、時節柄だろう「合格祈願」。《〇〇高校、〇〇大学に受かりますように》と、受験シーズンを前に多くの生徒たちが祈願したことだろう。合格することは、受験生たちにとって切迫した最も大事なことに違いないけれど、清さんの「祈願」を読んだ後では、合格はその第一歩に過ぎないように思えてくる。もしかしたら合格なんかしなくてもいいのかもしれないし、第2希望、第3希望の合格であってもいいのかもしれない。もっともっと大切なのは合格の先の先、そのまた先に見え隠れしている、いや未だ姿を見せない他者との出会いにあるのだろう。同時に、それは新たな自分との出会いの旅でもある。
 卒業して新たな生活を迎える多くの子どもたちに、素敵な他者との出会いがたくさんあるといい。そんなことを思った。(キヨ)