mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

高橋源一郎さん高校生公開授業、あっという間の2時間!

◆高校生公開授業は、いつも産みの苦しみ
 高校生公開授業が終わって2週間近く経つ。心底ホッとしている。そしてじんわりと、その余韻とうれしさが広がっている。その思いを叫びたい気もするけれど、そんなことをしたら周りはドン引きだろう・・・だから心の中で叫んでみる。

 コロナ禍で4年近く開催してこなかった高校生公開授業を、今回再始動。センターの企画では、もっとも大変な企画。なぜ?って、高校生の参加がなければ成立しないのだから。教育委員会や行政が主催なら、《各学校から生徒〇名の参加を》と声をかければ、すぐ集まるだろうけど・・・、私たちのような民間は、そうはいかない。まさに企画内容と自力で高校生に参加してもらわなくてはならない。産みの苦しみだ。これまでも大変だったけど、今回ほど大変だと感じたことはなかった。

 それには幾つか理由があった。一つは、県内の高校の多くが、ちょうど定期テストや修学旅行の時期とぶつかって、多くの生徒たちの意識はそちらに向いていただろうし、先生たちもこんな状況だから積極的に参加の声がけがしにくかったようなのだ。二つに、コロナ禍での4年近くのブランクで、私たちの企画の趣旨を理解してくれていた先生たちが転勤していたり退職していたり。そのため学校の状況や先生自身の立場が変わって、これまでのようには協力してもらえなかったりした。

 それでも、やっぱりこの企画を支えてくれていたのは、学校現場の先生たち。今回も、上記のようなとても厳しい学校現場の状況にもかかわらず、生徒たちに声がけをしてくれた先生たちが何人もいた。そういう先生たちの理解と好意によって、この企画は成り立っている。本当にありがたい。だからまた、そういう先生たちの、そして参加してくれた高校生たちの期待に応えらえるような企画にしなければとも思っている。

  

◆事件は、起きたか?
 高校生公開授業を始めたときのセンター所長は、このDiaryにもちょくちょく登場する〈春〉さんこと春日さん。春さんは、この企画について《学校だけが学びの場ではない。学校以外にも学びの場はあっていい。学校とは違う学びの場をつくりたい。一期一会の出会いのなかで生徒たちの心のなかに事件を起こしたい》とよく言っていた。その思いは、今も変わらず生きている。さらに付け加えるなら、参観に来てくれた教員や保護者、市民のみなさんにも「事件」が起きたらいいなと、欲張りだが思っている。今まで疑うことのなかった、問うことのなかった日常や世界(人と人の関係や社会と自分、あるいは自分自身など)が揺らいだり違って見えたり、楽しくてわくわくしたりドキドキしたり、そういう「事件」が「経験」が起きたらすてきだ。

 授業後の、高校生をはじめ参観者のみなさんが書いてくれたたくさんの感想をみるかぎり、それぞれにそれぞれの「事件」が起きていたんだなあと思った。それらについて、ここでは具体には取り上げないが、以下に、翌日19日の河北新報の記事を書いてくれた記者さんとのちょっとした「事件」?を紹介する。

 こんな新聞記事になること自体、私にとっては十分「事件」ですが、記事を書いてくれた記者さんは、授業が始まるすこし前に控室にやってきた。高橋源一郎さんに簡単なあいさつを済ますと、私に《今日は他の用もあるので、最初の1時間だけ授業を見せてもらいたいと思っています。後でわからない事とか、聞きたい事があったら連絡させてもらいます》と告げて、会場に戻って行った。控室を出ていく後ろ姿を追いながら《えっ、1時間だけで帰っちゃうんだ》と思った。ところがところがである。実は上の記事の内容は、1時間目のものではない。いないはずの2時間目のもの。あれ?、2時間目はいなかったんじゃ??? 何はともあれ、記事にしてくれたことがうれしくて、早速お礼の電話をした。
 すると話のなかで記者さんは《実は、私自身は高橋源一郎さんをよく存じ上げていなくて、取材に行くと言ったら同僚からは羨ましがられました。2時間目は参観する予定ではなかったんですけどね、1時間目の授業を参観して、これは2時間目も参観しなくてはと思ったんです。授業後の高校生の感想も聞きたかったですし、とてもいい会でした》と話してくれた。当初予定していなかった2時間目の参観という事実のなかに、記者さんは、記者さんとしての「事件」を目撃したのだろうと感じた。その「事件」について具体に語ることはなかったけれど。

 あっという間の2時間だった。その中で永遠が秋のように色づくといい、そして時間(とき)が満ちるといい、と思った。(キヨ)