mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

季節のたより111 メグスリノキ

 日本のみ自生の民間薬の木 学名にみる日露の交流 

 「紅葉」と聞くと、真っ先にイメージするのは、モミジやカエデでしょう。そのモミジやカエデの紅葉が終わる晩秋に、紅葉のトリを飾っているのが、メグスリノキです。


  メグスリノキの紅葉。サーモンピンク色の独特の紅葉と表現されています。

 メグスリノキは、ムクロジ科(旧カエデ科)カエデ属に分類される落葉高木で、青森県秋田県を除く東北地方から九州までの山中に自生しています。
 古来より民間薬として親しまれ、樹皮や葉を煎じた汁で洗眼すると眼の病気に効果があるということから、誰言うとなくこの木を「目薬の木」と呼んでいました。それで和名もそのまま「メグスリノキ」と命名されています。
 メグスリノキは、日本国内にのみ自生する珍しい樹木です。それで漢名はありません。自生する地域によって、チョウジャノキ(長者の木)、センリガンノキ(千里眼の木)、ミツバハナ(三葉花)などとも呼ばれてきました。

 メグスリノキの学名は「Acer nikoense Maxim」です。この学名にはひとつのドラマがありました。
 属名「Acer」はカエデ科カエデ属を意味し、命名者の「Maxim」は、日本の植物学界に多大な貢献を果したロシアの植物学者、カール・ヨハン・マキシモビッチの省略表記です。Maximの表記は、日本を含めた東アジア産植物の学名にかなりの数がありますが、そのいずれもが彼が命名した植物です。
 種小名の「nikoense」は「日光の」の意味。これは、江戸時代の終わり頃にマキシモビッチが函館に滞在した際、岩手県出身の須川長之助を助手として、日本各地で植物採集を行い、栃木県日光でメグスリノキを採取したので、「日光」の地名が入っているのです。

 
    メグスリノキの黄葉          メグスリノキの紅葉

 岩手の貧しい小作人の長男として生まれた須川長之助は、マキシモビッチの有能な植物採取助手として働き、彼の研究を助けました。
 岩手大学ミュージアムに、須川長之助の採取した植物標本コーナーがあって、長之助とマキシモビッチの関係について、次のように紹介されています。

 (略)・・長之助は十二歳で奉公に出されたこともあって手習いの機会もなかったが、必要に迫られて独学独習し、ある程度の読み書きはできるようになっていた。今日残されている手帖などのたどたどしい筆跡からもそのことがうかがえる。
 年季奉公を終えて家に戻った長之助は、一家の働き手となった。しかし1860年(万延元)十九歳の時、故あって北海道箱館(現函館)に渡り、大工見習い、八幡宮別当の下僕そしてアメリカ人ホーターの馬丁など職を転々とした後、1861年(文久元)に来日中のロシアの植物学者マキシモビッチ(1827-1891)の掃除夫兼風呂番として雇われることになった。
 正直で働き者の長之助は、やがてマキシモビッチの信頼を得て、植物採集の方法やさく葉標本作製の手ほどきを受けて、採集助手としてマキシモビッチの採集旅行に同行するようになる。
 1864年(元治元)マキシモビッチが帰国の途に就くまでの三年余、採集助手として氏に同行して南は九州各地(彦山、阿蘇山、霧島、温泉岳等)にまで足跡を残している。・・・・(略)( homepage岩手大学 「須川長之助と植物採集」)

 2人の交流は、マキシモビッチの帰国後も長く続き、長之助はマキシモビッチの依頼により、全国各地に採集旅行に出かけては、標本を作製し送り続けたといいます。これらの資料をもとにマキシモビッチは「日本植物誌」を準備中、志なかばで1891年(明治24)病没。マキシモビッチの訃報に接した長之助は、以後農業に専念、本格的な採集旅行に出ることはなかったそうです。

 マキシモビッチは生前に、長之助の献身的な貢献に感謝し、長之助の採集した日本産植物の学名に、ミヤマエンレイソウ(Trillium tschonoskii Maxim.)、ミネカエデ(Acer tschonoskii Maxim.)などの10種ほどにtschonoskii (長之助)の名前をつけています。
 また、マキシモビィッチを敬愛していた牧野富太郎が、長之助の控えの標本と採集ノートを見て、彼が立山で採集した高山植物に「チョウノスケソウ」と命名しました。こうして、植物学者でもなかった長之助の名前は、植物の学名として、永久に残ることになったのです。
 幕末の時代に、長之助を見る人々の目は冷たく、異人といつも一緒なので、スパイじゃないか、と疑念の目で見られたこともあったそうです。
 国が違っていても、花を通じて信頼関係を築き、植物研究に貢献していった二人の姿は、国と国とが争いの絶えない時代を生きる私たちにとって一つの希望のように思えます。

 
    柴波町「城山公園」の須川長之助の碑     切手図案のチョウノスケソウ:1985 

 秋の紅葉の美しいメグスリノキですが、春の芽吹きや若葉も美しい眺めです。
 メグスリノキの冬芽は、よく見ると四角錐です。円錐や球形ではありません。
 冬芽が開くと葉芽は赤ちゃんの産毛のような柔い毛に覆われ、芽を保護していた内側の芽鱗が赤色を帯びて彩りを添えています。

     
    冬芽       開く芽鱗      膨らむ幼芽      開く幼芽

 若葉の葉柄や葉の裏面にもやわらかい毛が密生しています。これらの毛は昆虫の食害から身を守ったり、乾燥しないよう水分の蒸散を防いだりしているのでしょう。
 葉は小さい葉が3枚一組となって枝に対生についています。カエデ科なのに、いわゆるカエルの手のような葉でない形をしています。

 
     葉にも葉柄にも軟毛が密生        カエデには珍しい3出複葉

 メグスリノキの花は、5月頃に葉の展開と一緒に開きます。雌雄異株で、雄花と雌花は別々の木に花を咲かせます。
 今年山林でたくさん花を咲かせている雄株を見つけました。雄花が3~5輪ずつまとまってぶら下がり、雄しべの先の黄色い葯が目立って見えます。
 雌株も探したのですが見つからず、雌花を図鑑で見ると、花の色は雄花と同じ若草色で、1~3輪ずつつき、雌しべの柱頭が2つに裂けてそり返っています。
 ところで、このメグスリノキは、花の咲く前の気候条件などの影響で成長が悪いと、雄株から雌株へ転換するというのです。その逆もあるようで、今年、メグスリノキの雌株から雄株への転換が、実際に起きたことを、「神代植物公園」(東京都)の「公園ニュース」(2022. 5.13号)が伝えています。
 今年見つけた雄株が、来年は雌花の咲く雌株になっているということもありうること、進化の過程で種を存続させるために生みだしたメグスリノキの知恵なのでしょう。調べてみると、テンナンショウ属、カエデ属をはじめその他の植物でも観察されていて、その研究が進められているということです。

 花は花粉が風にのって運ばれる風媒花です。虫たちをよびよせる必要がないので、花びらは目立たなくて小さくなっています。

 
   メグスリノキの雄花    雄株の雄花ですが、翌年は雌花に転換することも。

 カエデ属の果実は、プロペラのような形をしていて、種子は2枚の羽のそれぞれの先端にあります。果実が熟すと茶色に変わり、種子は高いところから回転しながら落ちていきます。滞空する原理は、飛翔するトンボの原理と同じです。回転するときに羽に発生する小さな空気の渦ができ、羽の上方の空気圧が下がり、羽を吸い上げます。浮揚力を得たカエデの種子は滞空時間を伸ばして、風に乗って遠くへ飛んでいくことができます。種子は着地する場所を選べません。安全な土地に落ちた種子のいくつかだけが、その地に芽生え育つことができるのです。

   
 イロハモミジの果実     イタヤカエデの果実       メグスリノキの果実
                          出典:庭木図鑑植木ペディア

 メグスリノキが眼の病の特効薬として利用されてきた歴史はかなり古いようです。司馬遼太郎著「播磨灘物語(1)」(講談社文庫)には、戦国時代の名将、黒田如水(官兵衛孝高)の祖父にあたる重隆が、室町時代に姫路の御師(おし)の家に寄宿し、御師の勧めで一族に伝わるメグスリノキのエキスを抽出した目薬を売ったところ繁盛し、黒田家の礎を築く財をなしたという話が出てきます。
 戦国時代には、すでに北近江(滋賀県)や播州兵庫県)などではメグスリノキの薬は評判になっていたのでしょう。
 江戸時代にはメグスリノキのエキスを濃縮し、黒い飴のように固めて、絹の小袋に入れハマグリの貝殻に封じたものが販売されていたということです。
 その後、西洋医学が国内でも主流となるにつれ、その存在は少しずつ忘れ去られていったのですが、この木が再度注目を浴びたのは、1970年代から80年代にかけてのことです。
 星薬科大学(東京都)での研究成果として、樹皮を煎じて飲めば眼や特に肝臓に何かと効果があると報じられたり、出版物で紹介れたりしました。このときは、国有林でも自生するメグスリノキが次々と伐採されたり、鉢植えのメグスリノキが盗難に遭ったりするなどの事件も起きました。人間の都合でメグスリノキもずいぶん振り回されたようです。
 ブームの去った今もドラッグストアを見ると、数ある健康茶の一つとしてメグスリノキ茶もならんでいます。先日は秋保大滝(仙台)の駐車場わきの店先で、メグスリノキの枝をチップ化したものが売られているのを見ました。
 民間療法としてのメグスリノキの庶民的人気は、衰えることはないようです。

 
 メグスリノキの幹     枝をチップ化したものが売られていました。

 落葉広葉樹の葉が紅色に色づくことを「紅葉」、黄色に色づくことを「黄葉」とも呼んでいます。紅葉と黄葉の違いはなぜ起こるのでしょうか。
 木の葉の葉緑体の中には、クロロフィル葉緑素)という緑色の色素とカロチノイドという黄色の色素が含まれ、これらは協力して光合成を行っています。
 秋になって気温が下がると、葉の中の葉緑素が分解されて、今まで目立たなかった黄色い色素が浮き出してみえます。これが黄葉です。
 一方、葉に残っている糖分がさまざまな生成過程を経て、アントシアニンという赤い色素が合成されて葉の細胞内に広がります。これが紅葉です。
 イチョウのように赤い色素ができないうちに落葉してしまうものもあれば、モミジのように、黄色の状態が飛んですぐ紅葉するのもあります。黄色の色素と赤い色素が作られる微妙なさじ加減で、多様な色彩が作り出されているのでしょう。
 メグスリノキの葉を見ていると、この黄葉から紅葉までの過程をゆっくり進んでいて、さまざまな色の姿を見せてくれます。

     
       メグスリノキの葉の色。黄から橙、紅と変化します。


       多様な色合いが混在しているメグスリノキの紅葉

 日本で多様な紅葉の色が楽しめるのは、メグスリノキだけでなく、モミジ、カエデ、ガマズミ、イチョウ、ブナなどの落葉広葉樹の種類が多く育っているからです。
 もともと氷河期までは、地球全体に落葉広葉樹が分布していたのですが、欧米ではほとんどが死滅、日本では黒潮が流れていたおかげで多くの種類が生き残り、落葉広葉樹の森や山林の植生ができあがったのでした。
 日本では当たり前のように見られる紅葉ですが、地球規模で考えると大地と海がもたらした奇跡のようなできごとを、私たちは目にしていることになるようです。(千)

◇昨年11月の「季節のたより」紹介の草花