mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

『詩の誕生』を読む ~ 読むこと・考えることの面白さ ~

 少し前に、大岡信谷川俊太郎の対話で編まれた『詩の誕生』を読んだ。とてもおもしろかった。読みながら特に興味を惹いたのは、詩人としての二人の詩的原体験や自己の詩を特徴づける詩的イメージの相違だ。それはとても対照的で、様々なことを喚起させられた。
 以下では、谷川の発言を軸にして二人の詩に対する原体験、またそこから生じる詩的イメージについて思い巡らしたことを書こうと思う。

 谷川は自身の詩的原体験について、おおよそ次のように述べている。
 たぶん小学校一年生か二年生のとき。ある朝早く起きて庭へ出ると陽がちょうど昇りかけたところで、筋向いの家の敷地の角にニセアカシアの大きな木の向うから太陽が昇りつつある瞬間だった。それはとてもきれいで、まったく経験したことのない感情に襲われた。そのことを日記に「今朝生まれてはじめて朝を美しいと思った」と書きとめた。振りかえってみると、そのときの言葉によらず、自然のある状態によって喚起された感動というものが詩を考える上でのいちばんの核になっていると。

 この谷川の語りに応えるかたちで、大岡は自身の詩について次のように指摘した。
 一つは、谷川の詩的原体験に張り付いている朝の明るいイメージに対して、自身の詩は夜、あるいは夕暮れが張り付いていると。二つに、谷川の詩はある一瞬の世界の美しさに向けられているけれども、自分の詩には時間の流れがあると。

 大岡の指摘を受けた谷川は、改めて自身の詩について、また大岡さんの詩について次のように語った。

 大岡のなかにある時間的要素と人間関係は、たしかに僕の場合にはまったく欠落しているね。僕がある朝感じた感動というのは、人間関係とは別のところにあって、いわば自分を取りまく世界の認識なのよね。その世界に、いままで感じなかったある奥行を感じたということ。大岡の詩は人間の無意識の内面に入っていくところがあるけれども、僕の場合にはそういうものがほとんど問題にならなくて、いつでも自分から外へ外へといくようなところがあってさ。
 時間ということに関していうと、-(中略)-僕は子供が喧嘩している一瞬を見るということに感動する。それが非常に詩的に思えちゃう。これは時間をある面で切断して、その切り口を見たいというような発想だよね。それがあなたの場合には、喧嘩している子供の内面、内面の心象風景みたいなもののほうに、おそらく感情移入していくんだろうね。

 以上をもとにして、現代詩を代表する二人の詩人の詩的原体験、そして詩的イメージを整理すると、およそ次のようになる。

 ・詩的原体験における谷川の(朝)-大岡の(夜)
 ・ある一瞬を切りとる谷川の詩-時間的流れとしての大岡の詩
 ・外へ外へと向かう谷川の詩-内面へ内面へと向かう大岡の詩

 つまり谷川の詩は映像的(絵画的・写真的)であり、したがって視覚的なものに大いに影響を受け、それは視覚のはたらく朝へと結びつく。
 一方、大岡の詩は、夜ゆえに視覚は利かず外の世界は闇で見えない。ゆえに思い(意識)は外へではなく、内面へ内面へと降りていく。また谷川の映像的に対比していうなら、大岡の時間的流れは音楽的(ストーリー的)と言っていいかもしれないと。
 こんなふうに二人の対話に誘われ思い巡らすのは、自分ひとりだけの大事な宝物を発見したようで、気分もうきうきわくわくするものだ。

 ところがどっこい。物事とは思うようにいかないのが世の常である。実は、ここまで思い巡らしてきたことが的外れであるというような一つの事実を見つけてしまった。
 大岡信研究会の席で谷川が、大岡の詩と自身の詩について三浦雅士さんの分析に言及しながら次のように語ったという。

大量の散文を書ける人だから大岡を左脳的な人だと思っている人が多いが、実際は谷川氏の方が左脳的で大岡は右脳的だと三浦雅士氏からいわれたことに共感を覚えたという。大岡は底が抜けているようで野生的なところ、言葉と肉体的に一体化しているところがあり、「大岡の言葉っていうのは彼の体から出てきている」という興味深い指摘があった。視覚的な大岡と聴覚的な谷川、時間的な大岡と空間的な谷川、アタッチメントとしての大岡とデタッチメントとしての谷川という三浦氏の分析にも谷川氏は共感した。
【第16回大岡信研究会報告:「詩と世界の間で~大岡信と過ごした67年~」
 谷川俊太郎(詩人)・聞き手:赤田康和(朝日新聞記者)より】

 今まで書いてきたことと反対ではないか~!とへこみつつ、自分が『詩の誕生』から読み取ったことは、それはそれでいいと思う。逆に三浦さんは何にもとづきながら、こう言及したのか。それを読み解く新たな楽しみができたのだから。
 何を語りたかったのかって? それはまさに読書の面白さであり、それを通じて見たり考えたりする醍醐味です。(キヨ)