mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

力不足だから、みんなの力を借りて ~ オレは幸せ者9 ~

 狭い玄関の壁面に、ザオ・ウーキーの絵をかけている。とは言っても、それはカレンダーの写真で、月ごとに切り取って飾っているもの。以前、東京に行くと、その帰りは決まってブリヂストン美術館をのぞいた。2004年の暮れは「ザオ・ウーキー」の企画展だった。その時買ったのがザオ・ウーキーの12種の抽象画で構成した2005年度用のカレンダー。

 仙台に降りるとすぐ青葉画荘で額装してもらった。出来上がると、薄い小さい文字で1列に記されている月の数字は消え、立派なザオ・ウーキーの絵の額に変身した。大いに満足したオレは、以来、月初めに取り換えつづけ、17年になる。月初めの朝、絵の交換によってオレのその月が始まる。今のところ、一度も忘れたことがない。
 今日は8月1日、「ザオ・ウーキー」は8月の絵に変わった。その絵に背中を押され、(さあ、しばらくさぼっていた仕事をしなくちゃ)とパソコンに向かった。

 オレは、若いころ、いろんな刺激を受ける環境に置かれながらも、やるべきことを吹っ飛ばして、子どもたちと遊ぶことで明け暮れた。その頃を思い出すとなんとも恥ずかしい。
 しかも、何もろくにできないくせに授業で悩んだ記憶もほとんどない。どうごまかしていたのだろう・・・。子どもたちは、親は、どう思っていたのだろうか。
 国語サークルの集まりに行って先輩たちの話を聞くうちに、次第にオレのいい加減さにやっと気づくようになりあわてるようになった。
 どうすればいいのか。サークルで国語を考えるだけでも精一杯で、その他は教えるに足る力をまったく持ち合わせていないことにも慌てた。
 どうすればいいか・・・。と言って、すぐ変われるものではない。子どもたちはいつも目の前にいる。
 いろんな人の仕事に直接学ぶことしかない、それも、毎日のことゆえ、「まずは同僚に学ぶことだ」と思った。

 たとえば、かつて、卒業式の式場装飾係になったとき、その係主任のKさんが「演壇に国旗を置くことになっているが、私は、せっかくの演壇、バックの幕に運動会で使う万国旗を飾ることで国旗も含めた装飾はどうだろう」と提案。万国旗は、背面の幕の左下隅から右上に向かって扇状に広がるのだ。私はそのアイデアに大いに驚き、しばらくの間、感じ入った。しかし、その後、そのようなKさんに教えを乞うことをしなかった。考えれば、そんなチャンスはいろいろあったはず。機会を見つけては他所には足を運ぶようになっていたが、もっとも身近な仲間の仕事に学ぶことを大事にしなければならないと気づくには、しばらく時間を要した。

 遅すぎたが、とにかくクラスと自分をオープンにして仲間の力を借りるよりない。その後の例を2~3あげてみる。
 理科専攻だったという若いYさんと一緒になった。時間を見つけてはいろんな話し合いをした。そんな話し合いから、オレのクラスの子どもらのために、Yさんに授業をしてもらおうと思った。5年担任のときだった。Yさんは受けてくれた。私は、「あなたが5年生にやってみたい授業を何でもいいからやってみてほしい。教科書にあるなしにかかわらず」「時間は何時間でもいい」「その間、オレにあなたのクラスの授業をさせてほしい」ということで、Yさんに理科の授業を頼んだことがある。オレはクラスの子どもたちのためになったと思った。

 また、市の書写研究部の部会長だったT校長と一緒のときは、T校長に書初め指導をお願いしたことがある。「私の悪筆はご承知の通りです。時間の取れるときで結構ですから、ぜひ、クラスの子どもたちに書を教えてください。また、私も指導法を学びたいので同席させてください」と頼んだ。T校長は受けてくれた。1時間の授業が終わった時、校長の方から「もう1時間使っていいか」ということで、なんと2時間も教えてもらった。その時間の様子は今になるも記憶に残っている。子どもたちが喜んだことは言うまでもない。

 それ以前の3年生担任だったときのこと。家庭訪問でM子の家を訪ねた時、通された茶の間に、たくさんの折り紙細工がつるされていた。聞くと、母親の趣味とのこと。その場では黙っていたが、(子どもたちに教えてもらったら喜ぶだろうな)と思った。後日、無理にお願いして教室に来ていただき折鶴づくりを教えていただいた。子どもたちは大いに喜んだ。

 6年生担任のときの3学期の初め、「小学校最後の学級懇談会のおり、いま練習している マット・跳び箱をお母さん方に披露するのはどうだろう。その内容は、自分が自分の力でつくれる最高の演技内容を自分でつくること。もしやるというなら、体育館を使えるのは週1回なので、希望者がいるならば、始業前30分ぐらい、オレも早出をして体育館を開けてもいい」と言った。初め男子は全員、女子は半数だったが、すぐにほぼ全員になった。しだいに子どもたちの張り切りにオレの力は応えられなくなった。このままだと緊張感がなくなると思った。どうするか。「それぞれの目的を明確に意識させ伸ばすためには外部の専門家に頼むこと以外ない」と思い、 宮城教育大学の中森先生にわけを話し指導をお願いした。先生は快諾してくださり、希望者を土曜の午後、大学に連れていくことにした。子どもらに話すと、全員「行く」と言う。
 大学では、休みなしで3時間ぐらい教えていただいた。子どもたちは熱心に食いついていった。帰りのバス内で、「教える先生が違うと、ずいぶん違うね」と子どもたちに笑われたが、「だから連れてきたんじゃない」と言い返し、オレは子どもたち以上に満足した。

 他の力を素直に借りるようになると、自分の努力の仕方もいろいろ違ってきた。本屋をのぞいても、子どもの本のコーナーはもちろん、数学とか科学などの専門書コーナーも見逃さなくなった。自分で言うも変だが、少し違う自分を感じるようになった。
 若かったころの子どもたちには詫びなければならないが、後半は多くの方に助けられ、自分としては大きく悔いを感じることなく取り組むことができたように思っている。( 春 )