mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

思い出すこと4 初任地で

  人事異動への不信

 勤務地はどこでもよかった。どこがいいとかよくないとかの物差しが私にはなかった。
 卒業を間近にした2月の末頃だったと思う。仙台教育事務所に来るようにとの連絡でお会いしたT校の校長さんから、「純農村で分校もある1学年2クラスの小さな小学校だがどうか、初任者を分校にということはない」という話を受けた。私はどこでもいいのだから、「お願いします」と言い、私の初任の学校が決まった。

 指定された赴任日に登校、先生方にお会いする。他に転入はなく、私一人だけ迎えていただいた。すぐ、既に決まっていた下宿に案内してもらう。学校のチャイムが聞こえる場所で、家の木の香や畳の匂いがまだ残る新築して間もないお宅だった。
 職員は私だけが20代。校長さんは仙台の方だが下宿。他の方たちは自宅からの通いだった。
 初めての給料日に、「君の給料はT中学校から出るから、中学校に受け取りに行くように」と言われ、月1回、高台にある中学校に受け取りに行った。免許状の関係とか言っていたが、私はどうでもいいことなので何も聞かなかった。それが1年間つづいて、2年目になってT小学校から受け取るようになった。

 3年間在籍したが、担任は4年・5年・4年。3年目は「6年生」と言われたのだが固辞した。理由は、子どもたちとただ遊ぶだけとしか言えない毎日を送っている私に小学校時代の半分を過ごす子どものことを想像すると、その罪深さを感じ、3年間持ち上がりを喜んで受けることができなかった。ならば、「仕事をちゃんとやればいいじゃない」と思われそうだが、何をどうやればいいかがまったくわからず、こんなことでいいはずはないと思いながら、ただただ教科書にそって進める毎日なのだった。職員室でも、子どもの話、授業の話はまったくなかった。私もまた、尋ねることもしなかった。問題がなかったのではない、これが教室の当たり前の姿と思っていたのだ。本当に罪深い3年間だったと今になるも思う。

 職員異動もほとんどなかったが、教頭は2年目、Kさんに変わった。Kさんは、海近くからバイクで山越えをして通い、冬季間だけは私の下宿で一緒した。頑強な体格は、職員の中ではひときわ目立ったが、温厚で、分け隔てなく、誰にも優しかった。
 趣味は囲碁で、下宿が一緒の時は、ずいぶん教えていただいた。学生時代はもっぱら麻雀だった私の碁は “石ならべ” としか言えないので、2人の間のルールは、私が井目を置き、2連勝すると一目はずすことからスタートしたが、最初は喜ばせてもらっても、それがいつまでもつづくわけはない。すぐ先しか読んでいない私に碁の力がつくわけはない。Kさんが自宅に帰ったときなど、少し勉強するようになったが、そうそう力がつくわけがなかった。それでも、Kさんはつきあってくれた。

 3年目の年明け早々だったと記憶するが、Kさんが、「県教委に明日の午後来るようにという連絡が入ったので行ってくる。用件については何も言われていない。何だろうなあ。」と言い、翌日の午後出かけ、夕食には帰ってきた。
 食後、いつものように碁盤を囲み始めると、「今日の県教委の用事というのは、オレに、『保健体育課の指導主事を』という話だった。オレは驚いた。そんな仕事をオレにできるか、と。オレは困ってしまって、正直に、『そんな大役はとても私には』と言った。すると、『大丈夫です』と言う。そんなやりとりをし、オレは、『もう少し考えさせてください。明日の朝に返事をします』と言って帰ってきた」と言うのだった。   
 この学校のことしかまったくわからない私には、「ちゃんと見ている人がいるんですね」と言うことしかできなかった。Kさんの様子では、明日の朝、断るような感じに私にはみえた。

 ところが、なんと、翌日の朝の河北新報に、「県教委人事 保健体育課指導主事 〇〇〇〇」と載っていたのだ。〇〇〇〇はKさんではない。まだどこも動いていない時間だ。
 私は驚いた。Kさんは「もう少し考えさせてほしい。明日返事をする」と言って帰ってきている。朝刊に載ると言うことは前日に決まったということであり、Kさんはそのつもりでいたが、県教委の担当者は、Kさんとの約束は無視してすぐ別の人選をしたということになる。すぐ決めなければならないとすれば、Kさんが「明日」と言った時、即答を要求すべきではなかったか。私は、今までになく腹がたった。自分がそのようなことを平気でやる組織の中で働いていると思うと非常に悔しくなった。
 Kさんに新聞を見せた。Kさんは笑っていた。あとで、「こんなことがあったということを後々に娘たちにだけは話そうな」とポツリと言った。

 私は、とにかく悔しかった。新聞に載った、このまったく知らない人の名前を覚えておこうと思い、翌年からの教員異動の記事はよく見つづけた。なんと、その方の名は2年後、新任校長として載っているのを発見した。
 一方、Kさんは翌年、これまでの倍以上も遠い学校に教頭のままスライド異動した。(より遠いということは、その学校がKさんの力を必要としたのか、それとも、あの時素直に受けることをせず悩んだことかの、どちらかではないか。後者のような気がする)と私は思った。その後Kさんは、定年まで残り2年という年に、自宅近くの校長になって戻った。
 このことは、もちろん、だれにも口にしたことはなかったが、私にとっては初任地での最大の出来事であり、これまでと違って、素直でない人間への私の第1歩になったように思っている。