mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風39(葦のそよぎ・命名行為)

話すということは、誰にとっても、ことばが一つの行為であるという意味で、無媒介的で自発的な、生体験なのだ。反対に、体験が言葉と無縁であることは絶対にあり得ず、それでしばしば、その体験とほんとうはそぐわないのに、それを目指す古くさい表現を復活させることも起る。こうして、言葉的行為はいかなる場合にも、一方の秩序から他方の秩序への移行として定義されることはできない。生きて且つ語る人間の現実が一瞬ごとに二つの秩序の混ざり合いによって成立つものである以上、どうしてそのようなことが可能であるはずがあるだろうか。語るとは、すでに自ら語るもの、つまりそれ自体表現的である行為、を適合させ且つ深化すること以外の何ものでもない。そしてこのことはつぎのようなことを意味する。——無媒介的おしゃべりを、それを生みだした情念をよりよく生きることによってふたたび取り上げて修正すること、素質的情念を、それを指示することによって明晰化する解放的努力を通じて、それを拘束するものを取り除き、いっそう根本的にそれを生きること、またときには、二重の誤りによって、情念の運動をゆがめて命名行為を偏向させ、命名行為の誤りによって衝動の調子を狂わせること。
                    (サルトル『家の馬鹿息子』より)
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 ああ、この一節を言葉をぼくは必要としていたのだと、そう思わせる本に出会うことは、ほんとうに心躍らせる経験である。そうした一節や言葉を読むということは、ある作家のよくする言葉づかいをまねていえば、自分がそれによって「自分に向かって励まされる」という経験をもつことなのである。

 ひとを読書に誘う根底の欲求とはなんであろうか。あるいは読書への根源的期待とは。やはりそれは、冒頭のサルトルの言葉を借りていえば、その本を通じて自分が「命名される」ことを、少なくとも命名に向けてのある本質的な手懸りを手にすることを、そのことで自分が自分にとってひとつの課題あるいはつとめに変わることを、経験したいということではないだろうか。くりかえし引けば、ことばがそれ自体でひとつの行為であることの最も真正な意味を、サルトルはこう提示していた。すなわち、「素質的情念を、それを指示することによって明晰化する解放的努力を通じて、それを拘束するものを取り除き、いっそう根本的にそれを生きること」と。そしてこの場合もとより「素質的情念」とは、ある一人の個人の生の原初的な自発的な表出それ自体の謂なのだから、それは、心理学風に個々バラバラに要素に分解された「喜怒哀楽」のことではない。それは、彼の全体的感情、感情的に生きられた彼の世界観、つまりは彼そのものであるところの彼の思想のことなのだ。先にぼくが「自分に向かって励まされる」と言ったのは、この自分の世界観・思想に向かってそれを根本的に生きるようにと励まされるということに他ならない。あるいは、更にしっかりそれを命名すべく君はつとめよと。

 ここでぼくは唐突ながらかの『エミール』におけるルソーの言葉を思いだす。「われわれはいわば二回生まれる。一回目はこの世に存在するために、二回目は生きるために」とそれは言うのだ。もとよりこの言葉自体はルソーにあって人生の第二の誕生期として青春の意義を規定するいわば発達心理学的命題を言いあらわすものなのだが、しかし今の場合それはぼくにはひとつの転用的価値をもっているように思えてくる。ということも、「われわれはいわば二回生まれる」ということは、あらゆる生の瞬間において、ないしは生の営み全体を貫いて妥当する人間的生の理法のように思えてくるからだ。生はそれ自体表現的な行為である。つまりそれは命名されることを求める。だが、そのことは、生は命名に先立ってそれを求めるものとして既に生まれ生きられつつあるということだ。しかしまた生は命名されることなしには自分を根本的に、いいかえれば浄化的に生きることができないものだ。つまり、一回目の誕生がなければもとより二回目もないのだが、しかし二回目がなければいわば一回目は自分をまっとうすることができず、自分を流産させてしまうのだ。

 生のこの最初の誕生、それはひとが支配できないものだ。物の製作において、製作に先立って設計図を引き、あらかじめ反省熟慮に基づいて設計図通りに物を作るというようには、それを誕生させることはできないのだ。この誕生、それはベルグソン風にいえば「元来・・・・・・から出発する躍動などでは決してなく、もっぱら・・・・・・への躍動」、「明確な表象をそこに投影することなどまったくなしに地平を探るところの、郷愁を帯びた強力な創造的躍動」(ミンコフスキイ)である。それは、あたかも芸術家がその創作において、自分が描いているのではなく、なにかが自分に描かせているのだと信じる、そうした意味でのひとつの宿命的な力ですらある。そしてこの場合、自由とはそうした芸術的創作における自由、つまり、芸術家がその創造的躍動を、いいかえれば宿命を「いっそう根本的に生きる」べく、それを命名しようとして、その命名を妨げる一切の不純なものから自分を解放する、その自由である。それ故に、ここでは自由は本質的に回復的なパースペクティブの下にとらえられる。つまり、その人自身に他ならないその「・・・への躍動」がそのものとして再把握され、主題化され、その人によって徹底的に生きられることが自由の名において要求される。こうして一回目の誕生は宿命として、二回目の誕生は自由として生きられるのである。

 ぼくたちが読書のなかに探り当てていこうとするのは、結局、こうした人間の誕生のドラマ、その作者が自分に対してなす命名行為に他なるまい。その本が真に書かれたものであるならば、それはまさにこの行為の遂行以外の何ものでもなく、そして、そのことが言葉にとらせる姿勢、緊張、躍動が、今度はぼくたち読者に還流してぼくたちのなかの命名への意思に火をつけ、励ますのだ。読書、それはひとつの連帯である。(清眞人)