mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

門真さんを追いかけつづけ(3)

 サークル内の退職予定者のなかから “ 卒業授業 ” を行う仲間が出てきていた。
 かつては、宮教組の教育文化運動のなかで全国にも誇れる「授業実践検討会」がすすめられ、授業を公開し、研究者や他県からの参加者まで含めて、その授業を検討し合うことが、各サークルで積極的にすすめられた。これは、授業者の力を高めるだけでなく、参加者の力をも高める場になっていたと思うが、どういうわけか、しだいにその場を学校が拒否するようになり、しだいに実践検討会はほとんどできなくなってしまった。それがどういう理由かは私にはいまだにわからない。

 その後私たちで話し合ったのが “ 卒業授業 ” だった。最後の授業を仲間に見てもらい、検討してもらうことで教師生活を終りにするというもの。実際は、授業者にとっては退職を前にしてたいへんきついものだったが、実際に授業検討会をもてるということは、あとに続く者にとってはたいへん貴重な場になった。それにしても、退職する者をその場に立たせようとするのだから、ずいぶん酷な企画である。私自身のその時を、今思い出すだけでも、相当時間が経つのにまだその時の冷や汗が体に染みついている感じなのだ。

 門真さんの退職は1988年3月。門真さんと相談し、3月初めごろを予定して、私が学校にお願いに行った。学校長からは、「大学などでは最終講義があるのですから、小学校にだって卒業授業があっていいですよね、どうぞおすすめください。私からのお願いですが、その時は、うちの職員もぜひ参観させてください」と快諾を得た。
 実は、この “ 卒業授業 ” もまた、前述の実践検討会と同様、なぜか気持ちよく受けていただいたことはそれまでなかった。組合主催でも後援でもないのに2度も通い、最後には、これが本音だったようだが、「組合に協力したと思われたくないから絶対ダメだ」と言われた。仕方なく私と友人の2人が所用ということで学校を尋ね、ついでに授業を見せてもらうことにして終わったり、話し合いの最後の最後に、「少ない人数であれば・・・」という条件付きでシブシブ受けてもらったりなど、なかなかたいへんだった。“ 卒業授業 ” がなぜこんなに難しかったのも未だに私はわからない。
 ということで、門真さんの授業は非常に気持ちよくその日を迎えることができた。
 
 その日は、1988年3月5日(土)。2年生で、新美南吉作「はな」の読みの授業。
 門真さんの授業は、私などのような気負いはまったくみられない。相手が何年生であろうと、立ち位置は同じだ。子どもたちが安心して授業に入っている。先生と子どもたちが一緒になって「はな」を読んでいることがよくわかる。いつもこうなのだろうなあと想像する。
 授業が中頃まで進んだ頃、Kが、突然、座席を離れて動き出した。なぜかはわからない。でも、他の子どもたちの様子に変わりがなかったところをみると、よくあることなのだろうと思った。門真さんはどうするだろうと私は一瞬思った。私ならどうするか・・・も。門真さんは何も言わずに、ウロウロするK男に近寄り、静かになだめて座席にもどし、何事もなかったように授業は進めた。短時間授業が止まったのだが、子どもたちのその後が変わったようには見えなかった。
 その後私は、自分が同じ場面におかれたらどうするだろうかが頭を離れなかった。Kにかまわず授業をすすめるのではなかろうか・・・。もしかすると、K の傍に歩み寄ることなくきつい声をかけて戻そうとするのではなかろうか・・・。いずれにしろ、嫌な自分の姿だけがしばらく頭の中をめぐった。
 授業が終わり、参加者での検討会に入った。だれひとりKに触れる人はいなかったように記憶する。

 後日、考えてもいなかった門真さんの追悼集をつくることになり、門真さんの仕事部屋に入らせていただいた。そこには、「はな」の授業に関する資料だけをひとつにした大きな紙袋があった。
 そこには、授業のための事前の読みのメモ、授業案をつくるためのさまざまなメモ、そして、授業後に考えたこと、検討会で考えたこと、発言のメモなど、たくさん入っていた。

 そのメモには
 ・授業のテープを聞いていられない。授業の態をなしていない。
 ・授業で思っていたこと―—授業案が私の理想のかたちと言えるだろうか。言語
  と読みを結びつけたいのに。

  ―—「はな」に関して言えば、イメージをつくる時も心情を考える時も。
 ・Kのことがなくてもだめだったにちがいない。教材研究が十分いっていないの
  だから。

 ・文、段落からのアプローチがさっぱりやれていなかった。やろうとしなかっ
  た。

 など細部にわたる自省。それに、検討会で出た意見なども聞き逃すことなく、そうとう踏み込んだメモがびっしり書きこまれていた。

 それらの貴重なメモの紹介は長くなるので止めるが、門真さんがその年の8月、宮城民教連機関誌第4次「カマラード」8号に、「卒業授業報告『はな』を授業して」を書いているので、それにふれて、門真さんの卒業授業報告を閉めることにする。
 その「はじめに」門真さんは、「あれから3か月経った。以下に書くのは授業を思い返し、みなさんの検討の記録を読み直し、もう一度学級の歩みをたどってのまとめである」と前置きし書かれているが、その全体が、授業直後の紙袋に入っていたメモとの違いを感じさせ、私はホッとし、同時にうれしくなった。

 門真さんをそうさせたのはなんだったのか。最後に書いた子どもたちの感想文にあるように思った。その子どもたちの感想を紹介し、「たとえばAちゃんのように読めば、けんぼうに対するひろしの気もちはもっと親しみのあるものになる。こういう読みや考えを授業の中に引き出すことができたら、授業は一瞬のうちに緊張し、深まったのではないか。いっとき、むつけて、建築現場で授業しているような思いをさせたK君にしろ、原因は授業にもっと参加したいのを私におさえられたからなのだ。~」「検討のなかで『ひびきあいがなかった』という感想があったが、それは、教師が響き合いをさせなかったのだろう。~~」などと。

 門真さんの「カマラード」の報告を読みながら私は、教師の仕事というのは、授業中発言する子だけに助けられつづけられているのではなく、一言もことばを発することのない子どもたちにも支えられていることを忘れてはならないんだと思った。門真さんは、「『組織する』ということの意味する内容と方法は何か、それは単に『のびのびと、なんでも言えるようにする』というようなレベルで終わるものでないことは確かである。」と書き、つづいて、「生涯努力した全体を、すでに解決されて何らの検討を要しないものとして拠棄するようなことであってはならない。それは決して解決されているのではなく、真に疑いもなく検討を要する。」というペスタロッチの言葉を添えている。

 すばらしいといわれた(る)教師はたくさんいる。でも、教師の仕事に「上がり」はないということは確かのようだ。教室は、子どもひとりの出入りによってもその場は違ってくるのだ(無礼な言い方になるが、ただ教師だけが何事もなく日を過ごしているだけで・・・)。
 カマラードの門真さんの文は、私たちに、子どもと教師の関係を考えるための大きな財産と言える。それが門真さんの卒業授業であったのだ。
 そちこちで授業をつづけていた林竹二先生にお会いした時、「S養護学校で、眠るように動かない子どもに何日も声をかけつづけるひとりの教師の姿を目にしてきたが、その先生の様子を目にして、ぼくはもう授業を止めることにした」と言われたことを思い出した。ーつづくー( 春 )