mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

門真さんを追いかけつづけ(2)

 門真さんは、1年間(1981年度)だけ仙台市職員組合執行委員長に就いたことがある。非専従だったから、木町通小勤務のままであった。サークルもそのままつづいた。
 門真さん自身からサークル・その他の場で「執行委員長になった」と聞いた記憶はない。私たちの方から問いかけた記憶もない。私は他から耳にした時、(この時期、仙教組には門真さんしかいないんだろうなあ)と思ったことは今も残っている。そして、組織を憂いた門真さんは断り切れなかったんだろうと思ったことも・・・。   
 たとえ、門真さんに受けたわけを聞いても答えることをためらい、「それはいいから、サークルやろう」と言われることは予測できた。それが門真さんなのだ。1年で解かれることができたので私はホッとしたが、もちろん、門真さんだって同じだったろう。

 教科研国語部会の研究者たちは、50年代以降、奥田靖雄さんを中心に、私たちの前に次々とその仕事の成果をつきつけた。『国語教育の理論』『文法教育 その内容と方法』『語彙教育 その内容と方法』などである。  
 私(たち)は、それを読むことなくこれからの仕事はできないと思い、繰り返し読んだものだった。
 研究者の仕事は止まることなく国語教育関係書が出しつづけられた。それと並行して、1965年5月には、季刊雑誌『教育国語』第1号が発刊。その原稿の充実した内容は目次を見ただけで、その内容の濃さに圧倒され、無知な私も、なんとかページをめくることをつづけた。
 その創刊号の目次をいくつかあげてみる。「文學と真実」(阿部知二)、「文学作品の登場人物について」(奥田靖雄)、「読み方指導における授業過程」(宮崎典男)、「形象の読みということ」(篠崎五六)、「かな文字指導の方法」(上村幸雄)、「語い指導の授業記録」(鈴木康之)などなどだった。

 この『教育国語』誌96号(1989年3月)の巻頭に門真さんの文が初めて掲載された。宮城の原稿は常連の宮崎先生をのぞいて初めてである。創刊から24年経っていたが、私はとても誇らかに思った。
 次はその原稿の最初の部分になる。
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文学作品の読みと文法
  ――論文に学んで――     門真 隆
                       
 私は最近、「文」に関する六つの論文に出会った。
 「手ぶくろを買いに」をやる中で、『条件づけを表現するつきそい・あわせ文--その体系性をめぐってーー』と『接続詞』、
 「ヒロシマのうた」を考えるとき、『モダリティ のだ、のである、のです』と『使役構造の文』、
 「ごんぎつね」「井戸」を検討する中で、『たずねる文』と『やりもらい構造の文』、
である。

 前の二つは、論文がむこうからやってきて、読みにおける文法の大切さと論文のすばらしさに目を開かせてくれたという感じである。後の四つは、そんな私が論文をさがし、その力をかりながら、それまで私がかかえていた読みの問題をつきあわせてみたものである。
 「論文、論文・・」といいながら、関係ありそうなところをかじったにすぎないし、自分の力に見合ってしかわからないと言われるように、かじったところさえ正しいかどうか、わからない。でも、その中でたくさんのことをわからせてもらって、何か " 感動した “ としか言いようのない思いでいる。以下はその記録である。

一、条件づけを表現するつきそい・あわせ文
   契機的なつきそい・あわせ文ー-「すると」

(1)『手ぶくろを買いに』の中には、条件づけのあわせ文がおおい
 新しく教科書に入るということで、この作品をサークルでとりあげたときのことである。一つのセンテンスが長いとか、複雑なあわせ文がおおいとか、話題になりだした。わたしたちの目が、おくればせながら、形態論から文論の方にも広がったということだったのだろうが、「するので」という形のあわせ文が多いということが指摘された。たしかに多い。

 ・その雪の上からお日様がきらきらとてらしていたので、雪はまぶしいほど反し
  ゃしていたのです。
 ・雪を知らなかった子どものきつねは、あまり強い反しゃを受けたので、目に何
  かささったと思ったのでした。
 ・ぼうし屋さんはそれを人さし指にのっけてかち合わせてみると、チンチンとよ
  い音がしましたので、これは木の葉じゃない、ほんとのお金だと思いましたの
  で、たなから子ども用の手ぶくろを・・・
 ・月が出たので、きつねの毛なみが銀色に光り……

など、短い作品の中に10例もあった。3番目にあげたものなど、一つの文に2回もつかわれている。
「ので」のほか、
 ・かわいいぼうやのおててにしもやけができてはかわいそうだから・・・
  毛糸の手ぶくろお買ってやろうと・・・
 ・雪にさわるとすぐあたたかくなるもんだよ。
など、「するから」「すると」の形もあった。この時ふと、「するので」と「するから」はどう違うのだろう。同じようなものじゃないか。「するので」と「すると」は少しちがうようだが、どうちがうのだろうと思ったことが、結果的には私を論文を読むことと結びつけてくれた。
 「するので」について何か書いてあるものはないかとさがしていくなかで――私は力においても姿勢においても、そんなところにいた――「条件付けを表現するつきそい・あわせ文」にぶつかった。言語学研究会・構文論グループの方々のものと奥田靖雄先生の「―—その体系性をめぐって――」と二つであった。「するので」と「するから」のちがいをしらべるのなら、体系的に考えてあるのがいいだろうなどとまことにいいかげんな、虎の巻でもみるような読み方だった。
 それまで、「するので」も「するから」も、「すれば」も「するなら」も、さらには「すると」や「したら」さえも、同じあるいは似たようなものと思っていた。(後略)
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 読んで私は、本当に門真さんらしい、いや、門真さんしか書けない学びの原稿だと思った。サークルの教材研究では話してもらうことはあったが、門真さんは、決して他を押しのけて自分から多くをしゃべらなかったことを考えると、「論文に学んで」とサブタイトルを付さないでおれないところなど、いかにも門真さんらしいと言えると思った。それゆえになおさら、この「文学作品の読みと文法」は、私のなかでは今になるも門真さんを考えるとき、浮かんでくる報告のひとつになっている。ーつづくー( 春 )