mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

門真さんを追いかけつづけ(4)

 退職した門真さんは、その翌年から、芳賀直義さんに乞われて「宮城親と子と教師の教育相談室」相談員の仕事に就いたが、既に、翌年どころか、“ 卒業授業 ” の準備がありながら、国語の授業に関する原稿を何本も書きつづけていたのである。

 宮教組発行「教育文化」誌には「国語の授業」というタイトルで、1988年12月の276号から、 ①「読み」のこと「言語」のこと ②イメージづくり ③イメージづくりと、単語・文・文脈 ④文脈のなかで単語の意味を考えさせる ⑤「書いてないけど、書いてある・・」 ⑥「気もち」「心情」の読み 1 低学年の場合 ⑦「気もち」「心情」の読み 2 高学年の場合 ⑧「気もち」「心情」の読み 3 ⑨分析して主題にせまる、と90年10月までの連載がある。

 また、89年の秋には、「夏の東北民教研集会だけが年1回の東北の集まりになっているが、せめて近隣県だけでも何回か集まりをもてないだろうかという話し合い」が宮城・岩手の有志(門真さんも)でもたれ、90年1月末に、その初めての集まりが「よみかた研究会」という名で仙台を会場にもたれた。宮城・岩手・福島・山形から約30名の参加者による1泊2日の集まりが実現したのだ。
 宿泊場所は、仙台駅近くの電力ビル裏に奇跡的(?)にあった木造の旅館「加茂川旅館」。他所からの行商の宿泊常連者が2~3人見えるだけで毎回貸し切り状態(私たちの集まりが終回になって間もなく旅館も姿を消したように記憶している)。

 その学習会の第1回テーマは「指導過程の理解の段階、主題の授業の具体化」。その中心の報告は、岩手の加藤光三さんの「女中ッ子」の主題の授業を考えるだった。
 第1回の集まりの後、東北の国語教育の広がりを願い、会の報告を中心にした資料集をつくることにして、加藤さんが編集を担当してつくったのが「よみかた東北」。この会の推進者のひとりであった門真さんは、この第1号から「読みと文法」の連載を始める。

 宮城民教連機関誌「カマラード」は第4次1号を84年1月に発刊。その88年8月発行の8号は、門真さんの ” 卒業授業 “ を特集した。そのなかで門真さんは、その授業報告の最後を次のように結んでいる。 

~~「生涯努力した全体を、すでに解決されて何らの検討を要しないものとして拠棄するようなことであってはならない。それは決して解決されているのではなく、真に疑いもなく検討を要する」(ペスタロッチ「白鳥の歌」)

「生涯努力した」かどうかは別として、また「真に検討を要する」価値はあるかどうかはわからないが、せい一ぱい考え、せい一ぱい書いて、教材研究から、授業案検討、そして授業の検討までいろいろ教えていただいたこと、貴重な時間をさいてわざわざ授業を見てくださった方へのおれいとしたいと考えた。

 みなさん、どうもありがとうございました。

 その後、私は、門真さんに、「これまで出会った子どもたち」をカマラードに書いてほしいと無理に頼み、90年1月の9号に「サキ」、91年1月の10号に「アキラ」、91年12月の11号に「トオルのこと」、92年9月の12号に「アキラとケンー巨視的にみる」とつづき、私は門真さんに無理強いして「子ども」を書いてもらったことの意味の大きさを内心誇らかに思いつづけていたが、連載は思わぬ入院のため12号が最後になってしまった。

 入院は91年12月。92年に復帰、仕事をつづけたのだが、その年再入院となったのだ。
 92年12月5日、宮崎先生の喜寿の祝賀会をもったのだが、入院中の門真さんが、「授業研究の現場の宮崎典男先生」というタイトルのB5版20ページの冊子をつくり、それを持って病院から会場に現われたのだ。そこに書かれていたものは、宮崎先生と一緒の会で、先生が長年にわたって話された「読みと授業」についてのメモをまとめたものだ。先生から学んだことの証ですという礼意をこめて病院のベッドでまとめたものだろう。いや、もしかすると、先生への礼意を表しながら、私たちへのメッセージだと私は思った。
 このように、文字として残されているだけをあげてみても、門真さんの仕事は入院前後にまでもハードな毎日であったことがわかる。
 病室を訪ねても、門真さんはいつもと変わらず、グチひとつ口にしなかった。そして、私たちに何も言うことなく、93年6月6日、私たちを置いてひとり遠い旅に出てしまった。

 いくら追いかけても、門真さんに仕事で少しも近づくことができずにいるなかで、「ひとりで生きてみろ」と突き放されたような私にも残された時間はそれほど残っていなかった。目標がなくなるということはどんなに辛いかは、その残された自分の過ごした日々を振り返ることでよくわかる。私が門真さんにサークルに誘ってもらわなかったらどうなっていたんだろうと考えるだけでゾッとし、長い間追いかけつづけさせていただいた感謝の言葉がみつからない。

 情けない私は、「よみかた東北」8号の「追悼 門真隆先生」の中に書いていただいた宮崎先生の文を以下に紹介させていただくことで、私の「門真さんを追いかけつづけ」を閉じることにする。( 春 )

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  りんごよ・・・・
   ーー暮鳥の詩にそえてー
                   宮崎 典男

 門真さんのことをおもうとわたしの目はうごかない。わたしの口はとじてしまう。門真さんについてかたることばはないのだ。かたることができないのだ。
 門真さんは、どんな人とも闊達にふるまい、親しく話しあえる人だった。わたしの口は、すきなもののたすけを借りないとすべらなかった。それなのに、わたしは、いつも、門真さんにわたしをみていた。わたしは安心だった。バイクで、わたしのすみかにかよってくるようになったときは、早く四輪車に乗りかえることを忠告した。そのときばかりはムキになって・・・。
 門真さんとの別れの日は、わたしが黒川サークルの合宿からの帰りであった。門真さんの唇はうごかなかった。ただ、わたしがにぎりしめた手は、それより強い力でにぎりかえされた。その夜、門真さんの計報に接した。
 その夜から、わたしの脳裏にはわすれかけていた暮鳥の、題名のない詩が、くりかえしうかんできた。それは昭和15年発行、暮鳥の未発表の遺稿詩集『万物節』のなかにある。

 りんごよ
 りんごよ
 だが、ほんたうのことは
 なんといってもたった一つだ
 一生は一つのねがひだ
 一生の一つのねがひだ
 ころりと
 こっそりわたしに
 ころげてみせてくれたらのう
 りんごよ 

 門真さんとわかれて以来、わたしの意識に古めかしいとも思われるこの詩がうかびあがってきたことには理由があると、わたしはいま思っている。たしかに、門真さんは「一つのねがい」をもちつづけて、あなたの一生を生きたのだ。「一生を一つのねがい」として燃えつきたのだ。これ以上の説明は不用である。
 ただ、もし、もう一度、門真さんと会うことが許されるなら、好きなものをたしなんだついでに、門真さんの前で、「一つのりんご」のように「こっそりころり」ところげてみたいという、へんな欲求にかられていることである。そして、そのとき、門真さんは、シラフで、どんなうごきをみせるだろうと思うと、門真さんの笑いにつられて、わたしの顔面の筋肉も動きはじめている姿も想像されてくるのである。

   ※

 どこかに自分を
 凝視てゐる目がある
 たった一つの
 その星のやうな目
 その星のやうな目

 この詩も、同じ詩集にある。その1つの発光体は、変わることなく、わたしたちの心に存在している。変わるとするなら、それは、わたしが変わるときでしかありえない。