mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

本をまくらに2『チッソは私であった』

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 私の生地は、北上川北上山地に挟まれた盆地状の小さい部落で、一目で全体が見渡せ、その様子は、今になるもほとんど変わっていません。小学校6年間を分校生活、“ 儀式 ” があるときは、川の流れを見下ろす崖沿いの道を本校にいかねばなりませんでした。子どもの足で小一時間かかったでしょうか。それでも、私の部落は本校には一番近かったのですから、私たちの倍の時間も費やして本校まで歩いた人たちがいたのです。

 歳を重ねるにしたがって昔を思い出す頻度は多くなっています。そのほとんどは、自然とひとつになっている自分(たち)の四季のいろいろです。
 夏の暮らしは北上川になります。川はどこまでも澄んでいて、泳いでいる場所の底近くにはメダカの群も私たちにかまわず泳いでいるのでした。大雨の直後は一挙に増水し、濁り川になるのですが、それも少しの我慢で、すぐ元のきれいな川にもどります。
 石巻と岩手の間を蒸気船が上り下りし、ポンポンポンという音が聴こえてくると、家を飛び出し堤防に駆け上がり、手を振り、声をあげ、音が小さくなるまで見送るのもいつもの例でした。
 終戦の翌年から、これまでにない台風が来て、川の増水・流れの激しさはこれまでにないものになり、水かさが減ってくるまで震えて過ごしました。水量が元にもどっても、年々、川の水の濁りはひどくなって泳ぎもできない川になってしまいました。
 秋の学校帰りは、途中の山越えで、ランドセルを道端に置いて山に入り、キノコを採るのも楽しみの一つだったのですが、それも、年々、キノコが見つけにくくなってきました。山が荒れだしたためです。働き手が次々と戦地に行き、ほとんどは帰ってこない。川水が濁り川になっていったのも山の荒れとなんとなく無関係でないと思ったのでした。

 なんで突然こんなことを・・・。時々あることとは言え、先日、『チッソは私であった』(緒方正人著 河出文庫)を読みながら噴き出してきた私の思い出の断片です。
 著者の緒方さんは、1963年生まれで、不知火海で漁業を営む方です。父親を水俣病で亡くし、20歳の時から患者たちの運動に参加、先頭に立って動き、逮捕歴もあるようです。
 その緒方さんが、「自らが求めつづけていた患者としての認定申請を取り下げた」のです。なぜか。緒方さんは繰り返し次のように言います。
 「確かに水俣病事件のなかでは、チッソが加害企業であるし、国や県がそれを擁護して産業優先の政策を進めてきたのも事実です。その意味では、三者とも加害者であることは構造的な事実です。しかし、チッソや国や県にあると思っていた水俣病事件の責任が、本質的なものなのかという疑問がずっとありました。そういう構造的な責任の奥に、人間の責任という大変大きな問題があるという気がして仕方がなかったわけです。」と。
 そして、「水俣病事件は問われているのは加害者で、まさか自分が問われているなどとは一度も思ったことがなかった」とも言っています。
 その緒方さんが、事件の意味を考えつづけているうちに、「私自身ももう一人のチッソだった」と考えるようになったというわけです。「命のつながりから自分自身も遠ざかっているのではないかという危機感があった。水俣、芦北の方でも自然が壊されている。農業、漁業のあり方そのものが壊している面がある。でも、壊していることの痛み、自然の痛みをさまざまに感じとっていかなければいけないのに。自然の命に目覚めることが私たちの大きな課題ではないか」と自問をつづけます。それが「チッソは私であった」になったわけです。

 『チッソは私であった』を読むと、故郷を離れた地で暮らしているうちに自然を見る目が鈍感になったなあと自分が恥ずかしくなります。
 自問をつづけながら緒方さんは、「わたしは海山と繋がりたい。そして、人間だけでなく自然に対する信頼をもっていたいと思いつづけているんです。これははっきりしたわたし自身の意志です。なんちゅうかなあ、好きなんですね。・・」と言い切ります。不知火の海に浮かぶ舟の大半はプラスチック製。緒方さんは木の舟をつくります。その舟を石牟礼道子さんは「常世の舟」と言います。「常世」、なんといい言葉でしょう。これひとつとっても緒方さんの魂を感じます。

 ここにも別の魂が・・・。
 3・11後、福島県大熊町歌人・佐藤祐禎さんの歌集『青白き光』が知人から届き、以来、私は常に身近に置いています。その中で福島原発に関する歌を詠みつづけています。佐藤さんにとっては、「安全」でも「想定外」でもなかったのです。それらの歌に佐藤さんの魂を感じるのです。5首紹介します。

  小火災など告げられず原発の事故にも怠惰になりゆく町か(1989年)
  原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し(1990年)
  原発に縋りて無為の20年ぢり貧の町増設もとむ(1991年)
  反原発のわが歌に心寄せくるは大方力なき地区の人々(1991年)
  地震には絶対強しといふチラシ入る不安を見透かすごと原発は(1994年)

「青白き光」もまた「チッソは私であった」と同じ魂の書だとあらためて思ったのです。( 春 )