mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

猫のクリ、原発再稼働に吠えるニャ~!

 ぼくは猫のクリ。「コロナ」「コロナ」は、長い間、主人の数少ないことばのなかから少しも減っていない。「コロナ」はテレビからも頻繁に聞こえてくる。何のことかはわからないが、こんなに同じ言葉を長い間聞くことは珍しい。

 主人は、いつの間にか「マスク」というのを顔にはりつけるようになったようだ。その姿はほとんど見たことはないが、「留守番頼むぞ!」と出かけた主人が、たまに「マスク」「マスク」とあわててもどってくることがある。
 バスや地下鉄に乗るときや店や医者に行くときなど、外出時にマスクなるものを使うようだ。

 でも、ときどき、外で遊んでいる時、道を通る人のマスク姿は目にする。顔が半分以上も覆われているので見分けがつかずおもしろくない。主人はバスや地下鉄を使っているというが、一つの乗り物の全体がマスク姿であることを想像すると気の毒に思う。しかも、乗り物のなかでは、会話をしないようにとも言われているようで、これも同情するが、主人は、「あまり苦痛に感じている人はいないかもしれない。ほとんどの人はスマホとにらめっこしているから」と言っていた。「人間は言葉を持っている」と胸をはっているはずの人間があまり困っていないというのは、言葉をもっていることに誇りをもっていないのかもしれないな。

 僕にコロナは関係ないが、このごろの猛暑にはすっかり参ってしまっている。毎日ひどいものだ。主人は、着ているものを脱いでしのいでいるが、僕は暑いからと毛皮を剥ぐことはできない。しかも、主人は、扇風機とかエアコンなどというものを使っているが、これも僕は好きではないので、エアコン・扇風機のない少しでも涼しい場所を探しまわって過ごしている。十数年ここで暮らしているが、今までこんなことはないように思う。人間が自然に生かされていることを考えず勝手なことをしていることのツケなのだろうが、どのくらいの人がそのように思っているだろうか。 

 話はすっかり変わるが、主人は、しばらく前から「歌集 青白き光」という、とても小さい本を手元に置き、時々開きつづけている。以前にこの本のことを主人は何かに書いたような気がするが、今も片付けずに見ているので、主人が出かけた時にのぞいてみた。表紙をめくったら、表紙の裏に5つの歌が並んでいた。

  いつ爆ぜむ青白き光を深く秘め原子炉六基の白亜列なる

  小火災など告げられず原発の事故にも怠惰になりゆく町か

  原発が来りて富めるわが町に心貧しくなりたる多し

  原発に勤むる一人また逝きぬ病名今度も不明なるまま

  原発に怒りを持たぬ町に住む主張さへなき若者見つつ 

 ネコの僕にもなんとなくわかった。原子力発電所を心配している歌だ。福島県大熊村の斎藤祐禎さんという方の歌集。

 その後、ちょいちょいのぞいた。そこでわかったことは、この歌集は、1958年から2002年までのものが収められていて、書名「青白き光」、そして表紙裏の5首でわかるように、ほとんどは「原子力発電所」を危惧する斎藤さんの心の表現である。

 よく見ると、主人のもっているものは2011年12月に再販したものである。言うまでもなく、この年の3月11日が東日本大震災。反原発をうたいつづけた著者が、福島の事故後に再販したときの気持ちはどうだったのだろうと思っていたら、ある時、よほど暇だったのだろうか、主人が著者の「再販によせて」を声に出して読みはじめたのだ。こんなことも初めてだ。

あわてて耳を澄ました。

「~~~ 先の歌集が出た当時は、原発安全神話が罷り通っていた頃だから、原発反対を標榜しているこの歌集に違和感をもった人もおおかったのではなかったろうか。~~ 先師近藤芳美は『今歌わなければならないものを詠め』とつねに言われていたが、それは私にとっては反原発ただひとつであった。~~~ 世界中のどこかで必ず事故は起こると確信してはいたが、かく言う私の地元になろうとは夢にも思っていなかったのは不覚だった。~~~~」

 ほんの一部だけしか耳に残らなかった、一生懸命に聞いたつもりだが。主人は、僕が聞いていることなど気づかなかったのは、まあ幸いだった。 

 ところで、主人は何年も身近に置き、時々開いているわけだが、この頃、開く回数が増えている。どうも、女川原発再稼働の問題が出てきたからだなあと思っている。
 歌集を開いて、「いつ爆ぜむ~~~」と声に出し、主人のブツブツがまた始まるのだ。ぼくも主人を支持する。そう反原発だ。

 だって、福島はなにひとつ始末がついていないどころか、今になるも住民は帰宅できず、汚染土・汚染水の処理もできずにいる。処理のしようがないのだ。どこかに埋めようとしている。でも、その汚染は地下で何万年もつづくのだ。この頃は汚染水も処置に困り、とんでもない、海に流そうとしている。そんな恐ろしいものなのに、壁をより高くしたので「安全だ」という。事故は、津波に限ったものではないだろう。チエノブイリなども教訓にせず、隣県の福島に見向きもしない。まさに亡国に向かって自ら歩んでいるとしか言いようがない。人間って「考える動物だ」なんて、とんでもない。困った生き物だ。ネコにも呆れられていることにも気づいていない。僕まで、猛暑だけでなく、人間の身勝手さに身の置き場がないこの頃だ。( 春 )