mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

本をまくらに ~『日本の水はよみがえるか』~

  福島原発・処理水の海洋放出方針にふれて

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 コロナを恐れて、お利口に家に籠っていますが、ごくたまに、紀伊国屋ジュンクをのぞきます。最近読んだ本を紹介しようと思っていた矢先の13日、福島第1原発の処理水の海洋放出処分方針が報道され、びっくりしました。

 処理水から出る放射線は弱く、それを基準の40分の1まで薄めて海に流すから大丈夫だというのです。何が大丈夫かよくわかりませんが「人体に」ということだけで、海に生息するさまざまな生物は含まれているのでしょうか。漁協は強硬に反対しているようです。処理水だけの問題でないはずなのに、「原発は止めよう」ということなどについては一言も触れていないのも大いに気になりました。

 私は、かつて授業づくりのために読んだ「水」に関する本1冊を急いでひっぱりだして読みました。

 書名は『日本の水はよみがえるか』(NHK出版)。著者は宇井純さんです。25年も前(1996年版)のものですが、私にとっては急を要するものなので、最近のものは後日にし、まずはこの本についてちょっと書こうと思いました。宇井さんは世界的に有名な公害研究者で広く知られています。

 この本の表紙には、書名の他に、「時を止め、考える」「水と生命の危機」「市民のための環境原論」という文字が小さく散っています。裏表紙には「『水』は地球上でもっとも不思議な性質をもち、また多くの生命をはぐくんできた。しかし、我々はあまりにも乱暴に水を扱ってきたのではないか。そして今や、人類の生存基盤そのものが危機に瀕している。~~~」とあります。それらからだけでも書かずにはおれないという著者の思いが伝わります。本文は13章で構成され、「私の仕事」「水の不思議な性質」から始まって「海洋汚染と市民の環境科学」でしめくくられています。

 ここでは、福島原発との関連から、最後の章「海洋汚染」の初めの部分を抜いてみます。

 四方を海にかこまれた島国として、日本は海からさまざまなめぐみを受けてきた。おそらく日本人は世界でいちばん多種多様な水産物を食べている民族ではないかと思われる。そして生活の結果生じた廃棄物を川に流すという風習も、国際河川をもたないためにごくふつうの習慣として定着し、自然に海を物質の捨て場として利用する結果をうんでいる。
 一方向に流れている有限の川の水とくらべると、海水のひろがりは無限に近いようにみえる。なにを流してもうすまって見えなくなるだろう。そういう考え方で、海に排水を流す場合には河川よりはるかにゆるい基準で流してきた。そのうえ、現在海上保安庁が認めている海岸への直接排出は、汚泥・鉱滓等の産業廃棄物が約四四〇トン、し尿等の一般廃棄物が約三三〇トンにのぼる。潮の干満や海流により、たしかに流したものはどこかに行ってしまう。しかし、それがなくなったわけではなく、うすまって見えなくなったと思ったものが、実はとんでもないところに集まってくる例に私たちはぶつかることになる。~

 宇井さんは、その例として、ビキニ原爆マグロにたまっていた放射能の量をあげ、次に、水俣病をあげています。
 そして、「東洋思想のもとに自然をおそれ、自然を愛し、自然のうつりかわりに敏感であることを文化の中心において誇ってきた日本が、なぜこれほど自然を壊してしまったのかという手痛い質問にも、私たちは反省をこめて答なければならない」と言っています。

 福島の処理水の問題は、広くこれからの日本全体の問題として考えるべきと思います。しかも、処理水の処理に限った問題でないことはもちろんです。女川原発の稼働をすすめている宮城が、隣県の海洋放出を聞いてあわてるのもなんか変な感じのするのは私だけでしょうか・・・。

 かつて、私は、4年生と授業で「土・水・森林・海・人間」を考えましたが、「森林」の授業が終わったとき、N子が次のような感想を書きました。最後にそれを紹介します。 ( 春 )
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 「土」「水」「森林」、これらには、すべてに「命の水の流れ」がある。それぞれの仲間と助け合い、おたがいに生きている。命の水の中に人間はいるか。どの流れの中にも人はいない。むしろ流れをたち切る石のようなもの。
 私たち人間は自然のあたえてくれた道を、なぜ自分たちでこわすのだろう。生きるのは、それにたよって生きていくしかないのに、それをこわせば生きていけなくなるのはわかるようなものなのに。なぜ自分で死ぬような道をえらぶのだろう。生きる自然をこわしていく人間はこわくないのだろうか。
 自分たちで死へせまっているという事実がわかっているならば、なんとかしなければいけないと思う。こわすことができるのなら、もどすことも人にできないだろうか。
 木をうえたり、まちがった考えで自然をこわしている人びとに、自然がどれだけ自分たちをひつようとしているかを伝えることはできないだろうか。
 「土」「水」「森林」は、みんなで、自然のものたちで、手をつなぎ、自分たちで生きている。
 人も、その「わ」の中に入れないだろうか、自然を大切に守るものとして。