mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

子どもは、いつ「大人」になるんだろう・・・Part2

 子どもは、いつ「大人」になるのか?第2弾。今回は、『子どもの難問』を企画した張本人である野矢茂樹さんです。

 野矢さんは、本書の《はじめに》で、自分は「子どもの口を借りて、大人の哲学者たちを困らせてやろう。そう思ったのです」と言っています。本人も自覚しているようですが少々意地悪なのです。でも、そういう意地悪さやへそ曲がり、アマノジャクさは哲学者の特権の一つである気もします。いつも社会やまわりの人たちの意見や常識に《そうだ、そうだ》と同調しているようでは哲学的な問いは立ち上がらないでしょうから。話が「大人」とは何かではなく、「哲学者」とは何かへと横道にそれてしまいそうです。本題に戻ります。

 野矢さんは、大人を問う前に「子ども」とは何かを問います。そして子どもに特徴的なのは「遊び」だと言い、次のように述べます。

もちろん大人も遊ぶけれど、子どもはもっと遊ぶ。遊びは、子どもの生活の中でもっともだいじなものだ。遊びの中では失敗も笑ってすますことができる。現実の厳しさから守られたところで、いろんなことを試して失敗して、でもそんな失敗も笑い飛ばして、何回でも挑戦できる。それが、遊びだ。

 要するに、子どもとは厳しい現実世界から守られたところで、自分がしたいこと(遊び)をいろいろ試み、何度も飽きずに繰り返し、何度も失敗し、何度もやりなおし挑戦する、ときにはそっぽを向くこともあるかもしれない。そういう世界を生きることのできる存在だと。そして、そのような子どもにとって大事な遊びは、

いわば社会に出る予行演習になる。子どものうちに遊んで、いろいろ失敗を経験して、やがて社会に出ていく。社会に出ると、仕事に責任を持たされるようになって、もう遊びではすまされなくなるだろう。その時、君は大人になる。

 つまりは、いろんなことを試して失敗して、でもそんな失敗も笑い飛ばして、何回でも挑戦できる、そういう遊びを失うことこそ、大人になるということだと。

 前回の熊野さんは、大人になることは「じぶんとおなじくらい大切なもの、かけがえのないこと、置きかえのできないひと」、そうした何かを失う・諦めることだと言っていました。この言に絡めて言うなら、野矢さんの場合、それは「遊び」ということになるかもしれません。
 他方で、失うことになる大切な何かについて、熊野さんの場合は、大切な何かを知ることが大人の入り口に立つことと言っていたことを考えると、大切な何かは失う・諦める前に、すでに「知っている」ことが前提になっていると言えそうです。でも「遊び」の場合はどうでしょうか? それは失った後で、そのことの大事さがわかってくる、そういう違いがあるようにも、ふと思いました。

 ところで、子どもについて語るとき、「遊び」をキーワードにして語ることはそう珍しいことではないでしょう。仁さんのdiary「大人たちよ、『内なる子供』の声に耳を澄ましても」も、遊びをキーワードの一つに展開しています。ですが、野矢さんの文章を読みながら、大人の一人として改めてはっとさせられるのは、そういう子ども存在は「現実の厳しさから守られたところ」にあってこそ、可能なのだと言っていることです。つまり、そういう環境・条件がなければ、子どもは子どもではいられないし、またそういう遊びの世界を持つことはできないということなのです。そしてそこに、現実社会を生きる私たち大人の子どもに対する責任、あるいは大人の役割があるとも言えるように思うからです。

 でも、どうですかね? しばしば私たち大人は「子どもたちを甘やかしてはいけない。現実は厳しいのだから」などとよく言います。今の大人たちは、子ども世界(遊び)を保障し守ることが大切とは、必ずしも思っていないかもしれません。その可能性は大のような気もしてきます。だって今のこのコロナ禍のなか、もっとも子どもの成長に責任を持つべき公的機関の教育委員会の大人たちですら、まず口にするのは「学力」保証、「学力」保証の大合唱ですし、そのための「学力テスト」の実施、さらには夏休みの縮小や授業時間の確保という名目による7時間授業など、そこで犠牲になっているのは、まさに子どもたちの遊びと、その遊びを保障する余暇の時間なのですから。

 さてさて、これで終わりにと言いたいところですが、最初に申した通り一筋縄でいかないのが哲学者。野矢さんは、最後の最後に「一人前の子ども」という大人論を、以下のように述べて文章を閉じます。

(「一人前の子ども」とは、)人生全体を遊びと見切る態度を身につけた人のことだ。その人たちはどこかさめた目で社会を見ている。でも、君たちが真剣に遊ぶように、真剣に生きている。
 子どもは、遊びから社会へと出ていき、大人になる。だけど、生き方として、また大人から子どもになるということもある。その意味では、子どもでもいいんだ。でも、そうだな、一人前の子どもになるには、一度は大人にならなくちゃいけないだろうね。

 野矢さんは「一人前の子ども」から、具体的にはどんな大人たちをイメージしているのでしょうか。もうちょっと語ってほしい気もしますが。みなさんは、どんな大人をイメージしますか。きっと野矢さんの目論見の一つには、読者の人たちにも大いに議論し語り合ってほしいという思いがあるように思います。それぞれに考える「子どもとは・・・」「大人とは・・・」を語り合うのも楽しい気がします。コロナ下ではありますが、こういう時だからこそ、そういう時間が本当は大切なように思います。(キヨ)

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 キャラメル一つ
 ポケット入れて
 この町ともおさらばさ。

 お母も、お父も、もういねえ 
 秘密をポケットつめたまま
 あの世におさらばしちまった。

 も少しいろいろ聞きたいが、
 それも、今ではかなわない。

 だけど、おいらは知っている
 二人の言えない秘密がなにか。
 だからおいらもキャラメル一つ
 ポケット入れて家を出る。

 二人がくれた甘い夢
 溶けて、とろけて、固まって
 おいらもきっちり持っていく。