mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

大人たちよ、「内なる子供」の声に耳を澄まして

 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
 遊ぶ子供の声きけば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。

 よく知られた平安時代末期の歌謡集『梁塵秘抄』(巻二)に出てくる「今様」。蛇足ですが、「今様」は平安時代の七五調の四句で詠うはやり歌です。
 勉強不足の私がこの歌を知ったのは、国土社から出版された現代教育101選の中の一冊、『母と子の詩集』(周郷博 著・国土者)を手にしたときです。以来、学級通信や学級懇談会の場などで、たびたび紹介してきました。そして保護者の方たちと『子どもと教育』『子どもと遊び』『遊びの意義』などを共に考える機会をつくりました。同時に、それは子ども期を忘れようとしている私自身への戒めでもありました。

 この春、コロナ禍の中で、少子化と高齢化が進む私の住む団地ですが、今まで以上に、子どもの姿をみること珍しい日々が続きました。そして今月になって、ようやく学校が再開。我が家の前を通る子どもの姿をみるようになってきました。
 そんな時、昨日、2ヶ月ぶりに現職の先生の話を聞く機会がありました。学校再開とはいっても、コロナ対策で、休み時間も友達とくっついたり、大声のおしゃべりは禁止。楽しい給食の時間も全員、前方の黒板の方をみて、会話はなし。校庭での遊びも学年割り当てがあって、自由に遊べないなど、学校の様子は一変しているとのことでした。

 ところが今日の午後、所用があって車ででかけると、下校時の子どもたちを発見。4人組の男の子集団です。どうやら追いかけっこをしているみたいです。そして捕まえると肩を抱き合って、大声で笑って、またじゃんけんをして、オニを決めているようです。その後ろには、手を繋ぎ、おしゃべりしながら歩く女の子が二人。いずれも3,4年生と思われる子どもたちでしたが、そこにはソーシャルディスタンスはありません。窮屈(?)な学校から解放された子どもの姿がありました。私の中で止まっていた時間が動きだすのを感じました。

 国立成育医療センターが実施した『コロナ×こどもアンケート』を読みました。その中の調査項目の一つに「こどもたちの困りごと」がありました。第1位は「お友だちと会えない」2位が「学校へ行きたい」3位「外で遊べない」4位「勉強が心配」5位「体を動かして遊べない」とありました。ようするに子どもたちは、<お友達に会いに学校へ行き、校庭で思い切り体を動かして遊び、そして勉強もしたい>ということになります。

 「遊びをせんとや~」でもう一冊。高田宏の『子供誌』(新潮社)の中でもこの歌を取り上げています。以下、少し長くなりますが引用です。 

「遊ぶ子供の声」とは、どんな声だろうか。もちろんこの歌はどの遊びと特定の遊びを指しているわけではなく、何歳の子供と決めているわけでもなく、当時でも人さまざまに、「遊ぶ子供の声」を思い浮かべていたことだろうし、八百年ばかり後生のぼくたちにしも、人それぞれに、遊ぶ子供の情景と子供らの声とをイメージする(~略~)ぼくには、百人一首やトランプや、ましてファミコンゲームで遊んでいる声は重ね合わせることができない。石蹴り、じゃんけん、お手玉、まりつきなどで遊んでいる子供たちの声なら、聞いていて『梁塵秘抄』の歌を思うことがあるけども、野球やサッカーのゲームであげている子供たちの声からは、あの歌は浮かんでこない。

 さらに、高田宏はこの本のあとがきに次の文を寄せている。

ぼくたちは、子供から大人へと上昇してきたのだろうか。それとも、子供から大人へと堕ちてきたのだろうか。答はむつかしい。ただ言えることは、大人になるほど、かつて子供であったことを忘れがちになるということだ。
ぼくたちは誰でも子供であった。その子供は死んでしまったのだろうか。ぼくには、そうは思えない。大人のなかに、「内なる子供」が眠っているはずだと思う。もし、そんなことはないと言われると、とまどう、どころかひどく不安だ。子供であった自分と大人になった自分とが、全く別人だとすると、ぼくはいったい何者なのか。(中略)
大人はしばしば、金銭や権力や名声にあこがれるものだが、子供のなかにあるのはそういうものではなく、生きることそのものへのあこがれではないだろうか。それはたぶん、すべての生きものと共通するものだ。「内なる子供」は、ぼくたちの「内なる自然」だろう。と結んでいるのだ。

 冒頭の『母と子の詩集』でも、周郷は、梁塵秘抄の項を、「遊ぶ子供」の声をきいて、大人になってしまった者が、そこに若芽のような、河の澄んだ流れのようなものを感じて、「我が身さえ動く」思いをしている。アメリカの詩人ロングフェローの詩『子供たち』も同じで、人類はその一点で一つだと思う、と結んでいます。

 コロナ禍の中で、学校とは何かが問われている今、この「内なる子供」を思い出しながら、みんなで考え直すチャンスにしてはと願うのは、お節介なのだろうか。
                                <仁>