mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

妄想列車が行く ~ 戦後社会と、大人と傷と ~

 今年も残すところ2ヶ月を切った。歳を重ねると、これからのことも気になるけど、これまでのことも気になり始めるものなのだろう。すでに、これから生きていくだろう時間より、生きてきてしまった時間の方が確実に長くなりつつあるのだから。

 前回diary『「傷」つくことを許せた大人たち?』も、そんな中でなんとはなしに書いたにすぎない。すぎないものの、書き終えると、今度は「傷」つくことを許せる、許容できる、そういう大人がなぜいたのだろうと、そのことが気になり始める始末だ。そのうち奇想天外なれど一つの考えが閃き、いつものように頭のなかを妄想列車が走り出した。

 それは、次のような妄想。すなわち、あの頃の大人たちは、まだ何らかの形で敗戦による傷だらけの日本社会を知っていた、覚えていた。そして、その傷だらけの焼け野原を生き、新たな戦後を担ってきたということ。彼らは、時代のなかで初めから(子どもの時から)傷だらけ、満身創痍。誰もが被害であれ加害であれ、そういう傷を何らか背負いながら、隠しながら生きていたのかもしれない。それが私たちの父親、母親たちの世代。だから彼らにとって、僕ら子どもが遊びでつける傷など、大したことではなかったのかもしれないと。逆に、彼らは僕ら子どもたちが遊びに興じる姿に、自分たちは手に入れることのできなかった「平和」をみたかもしれない。そんな大人たちだったのかも。そして、その敗戦の傷だらけのなかで、人々が希求した一つが「平和」なのではないだろうか。
 こんな妄想をいたってまじめにした。そして、連想ゲームのように一つの詩が閃く。吉野弘さんの詩だ。今回は、ここまでということで。(キヨ)

     

  創造・創作・創業などの「創」
  「つくる」「はじめる」という意味だが
  元来の意味は「刃物によって受けた創(きず)」のこと。
  では、「創(きず)」と「創造」とは、どう関わるか。
  樹木の人為的繁殖法の一つ「挿し木」が
  その疑問に答えてくれる。
  枝の一部分を切り取って地中に挿しこむと
  下端の切り口から根が生えて新しい株に育つ。
  「創(きず)」が「創(はじ)まり」である。
  歴史に一時代を創(つく)った過去の英雄たちも
  自分の育った時代から
  何等かの「創(きず)」を受けた人たちではなかったか。
  創(きず)を超えようとして新しい生き方を創(はじ)めた
  という覚えは、あなたにもあるでしょう。
          (吉野弘「漢字喜遊曲・二つ」より)