mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

子どもは、いつ「大人」になるんだろう・・・

 仁さんのDiary「大人たちよ、『内なる子供』の声に耳を澄まして」を読みながら、この話の前提の「大人」とは、これ如何に? そんな思いが湧いてきて本棚から取り出したのは、野矢茂樹さんが編者となっている『子どもの難問』(中央公論新社)だ。
 哲学者が、子どもからの問いに応える形式で編まれている。その最初の質問が「ぼくはいつ大人になるの?」で、応えたのは熊野純彦さんと野矢さん本人。

 熊野さんは、「大人」とは何かについて「じぶんとおなじくらい大切なもの、かけがえのないこと、置きかえのできないひと、そうしたなにかを知ることが、おそらくは『大人』になる入口になるのでしょう」と語りはじめる。そして「ほんとうに『大人』になるためには、その大切ななにか、かけがえのない或るものを失うこと、大きななにかを諦めることが必要な気がします」と言う。
 皆さんどうですか、じぶんとおなじくらい大切なものやこと、かけがえのないひと、思い当たります? 熊野さんは同時に、そういうものを失ったとき諦めたときに、ひとは「切なさ」とか「懐かしさ」を覚えるのだとも。どうですかね? 胸に手を当ててみますか・・・。

 私は《熊野さん、うまいこと言うな!》と思う一方で、同時に、実はちょっとドキッとした。というのは「教育」について思ったから。一般に教育は学習を通じて知識や技術を獲得したり身につけたりすること(失うとか諦めるということとはベクトルが逆)。そしてまた、そうした学習を通じて大人になっていくと考えているから。親が「勉強しないと(立派な)大人になれないぞ」なんて言ったりするのも、そうだからでしょ。だけど熊野さんは、大人になることは、必ずしも学習することとイコールだなんて言ってない。確かにその通りと思うけど、しからば現実の教育や学校は、子どもたちに教育することを通じて何になることを強いている、求めていることになるのだろうか? 学習と大人になることとの関係は? それを教育と言っていいのかどうか? なんて多くの問いや疑問が浮かんでくる。

 ところで今の政治の世界は失うこと、諦めることのできないひとばかりのような気がする。そう思うのは私だけだろうか。政治的不祥事が起きるたびに責任は痛感するけどそれだけの首相とか、最近だと選挙でお金をばらまいて国会議員になったご夫婦とか。どちらも今の職を失いたくない、諦めない。諦めたら、大人になれるかもしれないのに。そもそもじぶんとおなじぐらいに大切ななにかが実はないのかも。大切なのはどこまでいっても自分自身なのかもしれない。そうだとしたら、やっぱり「子ども」のままなのかな・・・。そういう人たちは政治の世界だけでなく、実は身近にもいたりするけど。

 ちなみに私は、熊野さんの言われるような経験、ちゃんとありますよ。でも、どういうわけか「お前は子どもだ」と、未だによく言われます。それはどうしてですかね? あまり考えると頭が痛くなりそうなので、今日はこのへんで。野矢さんについては、またの機会に。(キヨ)