mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風8 ~私の遊歩手帖3~

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 ◆「夏」— ボナール

 もう既に10年以上前になる。
 僕は『いのちを生きる いのちと遊ぶ——the philosophy of life』(はるか書房,2007)という本を出したとき、そこに次のように書き入れていた。「僕はドイツ表現主義から2つのメッセージをもらった」と。つけくわえれば、それをもらったのは、そう書いたときからさらに10年遡り、つまり今から20年ほど前に8か月近くドイツで暮らしたことが切っ掛けだった。20世紀ドイツ絵画の開幕とはドイツ表現主義の出現であった。誇り高きドイツ人は、現代絵画の誕生をフランスが独占することを許さない。エコール・ド・パリ、フォーヴィズムキュービズムの同時代者として、まったく独立にドイツではドイツ表現主義が登場したことを、彼らは強調してやまない。

 「2つのメッセージ」とは何か? 僕はこう書いている。
 「1つは、色は徹底して君の魂の表現であれという意味で主観的であれ! かつ、色は他の色とのセッション・コレスポンデンス・レスポンスによってのみ決定されるという意味で、完全に対象から独立して自律的であれ! 色を決定するのは色なのだ! このメッセージ」。
 そして、こう続けていた。「もう1つは、漫画でオーケーである! というメッセージ」と。

 前回の「遊歩手帖2」で僕はムンクについていささか論じた。実はムンクの名は今紹介した言葉のすぐ後に登場する。僕はこう書いていたのだ。

ムンクは性愛というテーマをドイツ表現主義に与えたということもさることながら、人物は漫画でいいというインスピレーションをも与えたのだ。実際ムンクの人物たちは漫画ではないか。荒々しい、性急な、デフォルメされ誇張された、歪んで過剰な漫画的な表現! こっちのほうがずっと現代の人間の内面の焦燥や快楽や笑いや悲嘆を見事に表現する。内面は《世界》と相関だ。《世界》はリアリスティックに描かれることを拒否している。それはもはや退屈なことなのだ。それは、内面が現にある《世界》を拒否して、その彼方にあるもの、その地下にあるもの、起源にあるものを求めているからだ。もう一つの別な《世界》が現にある《世界》を拒否する力として、あるいはその隠れたより深いリアルを映し出す力として描き出されねばならないのだ。

 僕は恥じるべきだろうか? それとも誇るべきだろうか?
 自分がこの2つのメッセージを指針として絵を描きだして以来、その域を今も全然出ることがないことを。また、自分がいつもこのメッセージに再会するためだけに美術展に足を運ぶ案配であることを。耳元で囁く。——君は、君の見たいものを見る、聞きたいものだけを聞く、そこには何ら進歩というものがない!
 だが仕方がない。そうなってしまった以上。僕は居直るしかない。

 去年の暮れに、六本木で開催されているボナール展のなかに見いだしたもの、それもまさにこのメッセージであった。
 否、正確にいえば、この2つのメッセージの大いなる先駆者、ただしドイツならぬまさにフランスにおける先駆者を、僕は彼のなかに発見したのだ。
 しかも彼はムンクの同時代人であった。ボナールは1867年にパリで生まれ1947年に79歳で没する。ムンクはボナールの4歳年上で、1863年オスロ近郷で生まれ1944年に80歳で没する。ただし、その世界観は、だからまた描き出される宇宙はまったく異なるとはいえ。まるで昼と夜、光と闇、夏と冬、生と死、そのように異なっていたとはいえ。

 ボナールは画壇に登場したとき「日本かぶれのナビ」と呼ばれたそうだ。ナビとはユダヤ教の僧侶・導師を指すラビに由来する言葉だ。
 「日本かぶれ」とは、ボナールもまた当時印象派ゴッホを魅了した日本の浮世絵に体現された美学、かの「ジャポニズム」に魅了された青年画家の一人だったからだ。すなわち、浮世絵の立脚する単色化された各色彩の併存的な配置に基づく描写の脱遠近法的な平面的な展開、ならびに人物描写の戯画的手法のなかに、これまでの西欧絵画を当たり前のように支配してきた精密描写主義といわば王権的肖像画主義を一挙に投げ捨て、僕の言葉でいえば、いわば平民的な自我主義に支えられた「内面と《世界》との相関」のこれまでにない全く別な新しい在りようの追求に突進するに至るムーヴメント、その担い手の一人となったのだ。
 実は、僕の言う先の「2つのメッセージ」自体がこの「ジャポニズム」の衝撃の産物なのだ。しかし、その事情の詳細はここでは省略しよう。そして、前期と中期のボナールにおいて彼の「日本かぶれ」がどう展開したかの事情も。

 去年の暮れのボナールとの出会いにおいて、何より、僕を打ったのは、彼の40代後半から始まり、死に至るまでくりかえし描き続けられたテーマ、すなわち南仏の、「終わることなき夏」と呼ばれる色彩と光に満ちた風景、それに包まれて遊び生きる女や子供、昼寝する男、ニンフ、小動物などを描いた作品群であった。誰もが、それを「燃え立つ風景」と形容する。その風景は、同時に「そこでは幻想的な効果と画家自身のユーモアが相まって、現実が夢幻となり変わっている」ところの、彼の「アルカディア(理想郷)」の幻出態であった。

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 たとえば、これら作品群を導いたいわばその「初期衝動」を体現する「夏」と題された作品(1917年)を取り上げよう。
 カタログの解説に「前景の木陰には男性が寝転び、3人の子どもたちが犬と戯れている」と書かれるが、男も子供たちも犬も、ほとんどその形は子供が描きなぐったような稚拙なそれである。僕の言う「漫画でオーケー」である。しかも輪郭はボケ、薄紫がかった水色の横帯のような「前景」のなかに溶出している。だから、寝転ぶ男の後姿といっても、むしろそれは水色の帯のなかに投じられた濃青のアクセントにほかならない。左手の森、右手の森、中央の奥にはまた幾重にも森が重なりあう。だが、森もまた木々と幹と枝葉が精密に描出されたそれではない。むしろそれは濃淡を異にした青と緑と茶の色のブロックの重なりあいとしてそこにある。さらにその向こうに水色の山の、しかしこれもシルエットとして。そしてその上に薄緑と薄紫と黄色の3色からなる雲と空が、これまた色のブロックとして。そしてこれらの色ブロック群の手前中央、前述の青い横帯の前景を底辺とし、左右の森に挟まれた淡いオレンジ色と黄色からなる草むらの三角形、それが中景となる。そこにはニンフのような裸婦が2人横たわる。とはいえ、この裸婦もいわばかすかな鉛筆書きの大まかな輪郭によってそれと識別されるだけで、まさにその裸体の色自体が草むらの色と溶け合い一つになっている。

 当時のボナールの手帖にこうあるという。
「生きた自然を描き出そうというのではない。絵の方を生きているようにするのだ」。
 彼は、風景であれ、人物であれ、生物であれ、「決して対象を前にして絵を描くことはなかった」という。彼のキャンバスは、すべて、或る光景なり対象との出会いが彼のなかに生んだ「最初のヴィジョン」を、その「記憶」を絶え間なく「想起」し、その「想起」が促す或る世界の想像画を描く場となったという。彼はこの「最初のヴィジョン」を汚すまいと、それを得るやすぐさま対象から身をほどき、ひたすらに自分を「記憶」の再生に集中したという。彼はこうも書いている。「芸術では反応だけが重要だ」と。ここでいう「反応」とは、色と色、光と光、光と色との反応のことであり、先の僕の言い方に直すと、「色は他の色とのセッション・コレスポンデンス・レスポンスによってのみ決定される」その「自律性」こそが注視されねばならないということだ。ボナールいわく。「目を離すな、色が意味あるものに変容する瞬間から」、「表面を色彩で覆うときには、その効果を果てしなく新しいものにすることができなくてはならない」。

 最晩年の彼は、自分は後期印象派の価値を、彼らの試みの本質を再発見したとくりかえし周囲に語ったという。
 「日本かぶれのナビ」は「後期印象派かぶれのナビ」に変貌したというわけだ。
 とはいえ、くりかえしいえば、彼の「風景」はいかなる自然主義も超越している。「自然は芸術ではない」し、また「芸術は自然ではない」。たとえ、最初のインスピレーションは自然から来ようとも。(清眞人)