mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

西からの風23 ~私の遊歩手帖9~

ゴッホの手紙』とやっと出会う2

  「ゴッホ」の画像検索結果

 印象主義の只中から、つまり外なる世界、自然と人間の色彩が画家の内なる世界・魂を光を放って刺激する、その色と光の様相の描写に専心するというベクトル、「イン・プレス」というベクトルの中から、その正反対の志向に担われた表現主義が立ち上がる。内なる魂の表現を託すその媒体として色と光に満てる外なる世界(自然と人物)を抱え込み、世界に己が魂を刻印するという「エクス・プレス」というベクトルが。

 だが、この志向ベクトルの反転は、既にして印象主義に内蔵されていたともいい得る。前回、私はゴッホの次の言葉を彼の弟テオへの手紙から抜きだし掲げた。
「僕は、眼の前にあるものを正確に描写するよりも、それを強く表現するためにもっと自由に色彩を使う」という言葉を。また次の言葉も紹介した。彼が自分のことを「いまだかつてないほどの色彩家」と呼び、色彩に「完全に歌う表現」を与える画家、色をして歌わせしめる画家と自己規定したことを。

 とはいえ、この「色彩」主義の最初の発見者はまさに印象派であったのだし、「眼の前にあるものを正確に描写するよりも、それを強く表現するためにもっと自由に色彩を使う」という立場もそもそもは印象派マニフェストにほかならなかった。そのことは、印象派とそれ以前の西欧絵画の連綿たる精密描写主義の伝統、しかも聖書世界か王と貴族らが織りなす宮廷世界を主たる舞台としたそれ、かくてまた重厚・荘重・悲劇という感情の主軸をなす暗色を基調とするそれが培ったいわゆる「自然主義リアリズム」の強固なる伝統を対比してみれば明らかであろう。

 この点において、ゴッホは一方ではいわば印象派の過激派として登場するのだ。つまり、印象派の開拓した色彩主義の内にそもそも潜んでいた表現主義的要素をさらに過激化することによって独立分派としての「表現主義」を立ち上げた画家、それがゴッホその人である。

 そこには次の問題の文脈が波打つ。
 「眼の前にあるものを正確に描写するよりも、それを強く表現する」ということは、実は、その対象を描こうとする画家をして自ずと己の魂へと送り返すことなのだ。画家が「それを強く表現する」ことを欲する、その対象に孕まれる要素(色彩であれ、描線・形であれ、他の対象とのあいだに取り結ぶ構図的関係・空間配置であれ)は同時に映し鏡なのだ。その画家の魂の在りようを映す、その画家の魂とその対象とが取り結んだ奇しき契りを暗示する、それ!
 「青は君の色だ」。「黄色はゴッホの色だ」。
 鑑賞者をしてそう言わしめるほどの世界表現、それが問題だ!
 前回、私はそう書いた。

 かくてまた、この対象・外的世界と己の魂とのあいだに成立する「映し鏡」・「契り」の関係性にいやがうえにも鋭敏である画家のみが、そういう鋭敏さを培う自己修練を積み、そこから自分の画法を生みだし得た画家のみが、「表現主義」の画家となり得る。ゴッホが言わんとすることはこのことだ。
 次の言葉も前回で紹介した。実はそれは、つい先ほど、この連載第二回の書き出しに引用したゴッホの言葉の直前に来る言葉なのだ。

印象派の人たちが、その人たちよりもむしろドラクロワの思考によって豊かにされた僕の手法に文句をつけるようになったとしても、僕はさして驚きはしないだろう。 

 上の言葉は、さらに次の言葉にそのままつながる。実にそれはゴッホの画法の核心を解き明かす言葉だ。 

ああ! クロード・モネが風景を描くように、肖像を描きたい。 他のことはさておき、印象派の中で厳密な意味でモネ一人だけが正しいと見る前に、どうしても人物画を完成させたい。ドラクロア、ミレー、何人かの彫刻家たちの方が、印象派の人々やJ・ブルトンより人物画がうまかった[1]

 まず私はこう言いたい。モネとドラクロア。風景画と人物画。一方と他方、この二つの「異種」の「交配化合」がゴッホを生みだすのだ、と。だから、上の一節の書き出しはこうも書き換えることができるはずだ。「ああ! ドラクロワが肖像を描くように、風景を描きたい」と。

 ついでにいえば、私のいわば信念とはこうだ。
 ——あらゆる創造はただ「異種交配化合」によってのみ引き起こされる。君がそ
 の創造の秘密を掴まえたいと思うなら、そこでは如何なる相異なる要素、これま
 で対立するか無関係か、とにかく「異種」と遇されるのが当たり前であった要素
 と要素とが、その創造者において如何に交配され化合されたかを探究せよ!
 君が創造者になりたかったのなら、君の自己分裂を、つまり君が互いに異種なる
 二つの要素に同時に惹きつけられ分裂していることを恐れるな、むしろチャンス
 と心得よ! 汝の自己分裂を化合へと駆動せよ。
 そして、この「異種交配化合」のみが創造を可能とするという命題は、《人間に
 とって「痛切な生の体験」とは、如何なるものであれ、それを生きる人間をして
 必ず「異種交配化合」の場に引きずりだし、そこへと立たせるものとなる》とい
 うもう一つの人生の命題に立脚するものなのだ。その体験の痛切さは、それまで
 その個人が、自分の経験を精神的に処理してきたやり方をはみ出し処理しきれぬ
 何物かに衝突したということ、そしてその衝撃を処理しきれぬ疼きを抱えながら
 今を生きているということ、そこからやって来る。創造の原動力はその疼きにこ
 そある。

 『ゴッホの手紙』を読むとよくわかる。そもそもゴッホの独創性の起点は、実に彼の次のきわめて強烈な自覚にあったことが。すなわち、いましがた言ったこと、画家の創造性の原点はまさにその画家が自身の「痛切なる生の経験」を絵として表現し得えているか否か、この一点にのみ懸かっているとの。

 何故、彼は風景画家たることに飽き足らず、再び印象派と出会う以前の自分、画家たることを目指す人生の旅の起点を定めたオランダ時代に再帰し、肖像画・人物画を描こうとしたのか? もとより、新しい方法、印象派、誰よりもモネとの出会いが自分にもたらした「色彩画家」としての方法に基づく試みとして、であれ。
 それは、一言でいえば、対象となるその人物を如何に描くかは、その人間の身体のフォルムなり顔つきなり眼差しが、この人物は如何なる生の経験を積み重ねてかかる身体のフォルムと表情を己のそれとしたのか、かかる問題の環に最大限の想像力と直観を働かせることなしには成り立たないからだ。かかる人物は如何なる人生経験の持ち主であるのか、その結果、如何なる生き方、人生感情、眼差し、身振り、身体の傾き方、等を得ることになった人物であるのか、これを如何に一挙に、その身体と顔つきのフォルム(=描線)と相手の存在に感じた色彩の両者を通して直観するか、またそう直観するが故にその直観を如何に強烈化する(誇張化する、デフォルメする)ことによって絵画化するか、この対象との緊張関係をもう一度自分に与える必要をゴッホは強く自覚したのだ。

 この相手は如何なる生の体験の持ち主か? という問いかけは、別な言い方をするなら、この相手は如何なる生命感情——苦悩の局面においてにせよ、喜びの局面においてにせよ、鎮静と安息の局面においてにせよ——の持ち主なのか? それを私は画家としてどう直観したのか? どう想像したのか? という問いである。
 ゴッホは、絵を描くにあたっての想像力の働きについて、たとえばこう言っている。(それは、風景画を描く場合を例にとっての発言だが、人物画に対しても拡張し得る、清)

 想像力だけが——変わりやすく、稲妻のように速い——現実をただ一瞥しただけ
 で自然をもっと激しいものにもし、また安らかなものにも出来るのだ[2]

 ところで、まさしく問題となっているのは相手の生きる生命感情の在りようであるが故に、それは、直に我の生きる生命感情に訴えかけてくるものとなる。そこには応答と共振の感情交換の絆が生まれる。相手のその生命感情を「これだ!」と感得すること、あるいは想像することは、己もまたかつて生きた、あるいは現在生きている、あるいは眠っている同種のそれに目覚め、それを引き出し、増幅し、強烈にすることである。そもそも想像力の元手は己の「痛切なる生の経験」以外に無い。この交換・共振・強烈化なしには《感得する》あるいは《想像する》ということは成立しない。相手への往路は同時に我への環路である。この往還こそが実は表現なのだ。かの「表現主義」の。
 たとえば、ゴッホはこう弟テオに書き送る。ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオらと同時代の詩人ジョットについて。 

 僕の心を一番強く打ったのはジョットだ。いつも悩んでいて、それでいていつも慈愛と烈しさにあふれていて、まるではじめからこの世界とは別の世界に生きてでもいたようだ。
 それにジョットには何か異様なものがある。僕はダンテやペトラルカやボッカチオのような詩人以上にそう感じる。
 絵画の方が詩よりも汚くて厄介だ。それにしても僕はいつも詩の方が絵画よりもすごいと思っている。で、結局絵は何も語らず、沈黙を守っているが、僕はやっぱりこの方がずっと好きだ。テオよ、君がここの糸杉や夾竹桃や太陽を見たら——その日は必ず来るから安心していたまえ——きっと君はもっとあのピュヴィス・ド・シャヴァンヌの『甘美な国』やその他の絵を想うことだろう[3]。(強調、ゴッホ

 ここで急いで付言しておきたい。
 『ゴッホの手紙』を読むと、如何に彼が文学好きであったか、その読書範囲は古代ギリシャから始まり、今見たように中世ならびにルネッサンス期のイタリアを通過し、彼の同時代のフランスの諸作家、バルザックモーパッサン、ゾラ(誰よりもゾラを愛したと思われる)を熱く抱え、しかもその関心は後に触れるように同時代のロシアの作家、トルストイドストエフスキーに及んでいることが痛いほどよくわかる。そして、このゴッホにおける文学熱は彼の宗教的関心の強烈さと一体のものであることが。
 彼は画家であるが、文学的精神を、またそれと一体となった宗教的精神を己に波打たせた画家なのだ。だから、文学の鋭く分析でかつ総合的な思索力に富んだ人間観察を指して、「詩の方が絵画よりもすごい」と述べ、文字言語を使うことでその観察結果を端的に集中的に表現できる詩の方が絵画よりも夾雑物がなく曖昧さがない点を称え、「絵画の方が詩よりも汚くて厄介だ」とさえ言うのだ。

 ただし、そう述べる彼はあくまでも画家なのだ。だから、そう述べながらも、「何も語らず、沈黙を守っている」ところの、文字言語の代わりに、フォルムと色彩を通して語ろうとする絵画の方が「ずっと好きだ」とも告白するのだ。
 そして、絵画の使命は、ゴッホによれば、ジョットの詩のように、人間が「いつも悩んでいる」しかないこの世にあって、しかし、同時にそれを超える、「まるではじめからこの世界とは別の世界に生きてでもいた」ような二重世界感覚・感情を、文字言語によってではなく、フォルムと色彩によって鑑賞者の魂のなかに喚起することにあるのだ。

 彼は、テオに、自分の心身の不調を訴える手紙のなかで最近自分が取り憑かれた狂気について語りながら、きわめて興味深い自己分析を披歴している。
 すなわち、自分は「修道僧的でもあり画家的でもあるというような二重人格的要素」を抱えている人間であり、この二重人格的要素がなければ、自分の狂気はもっと酷いものとなったはずだ」と。そして、自分が陥っている狂気というものもまた、この二重人格的要素に規定されて、「被害妄想的なもの」ではなく、「むしろ永遠とか永遠の生命とかを考える方向」に感情が以上に昂ぶり極度の興奮状態に陥るという狂気性を意味すると注釈を加えている[4]。いうならば、まさにその方向へと修行僧的側面と画家的側面とがいわば手に手を取って彼を駆り立てるというわけだ。そして、ここで「永遠」・「永遠の生命」あるいは「無限」という場合、それは時間的な垂直軸と空間的な水平軸とが交差し融合するところに成立する永遠性・無限性を意味する。

 私は推測する。——ゴッホ的狂気は「被害妄想」が生む怨恨的復讐欲望の暴力的狂気とはついぞ無縁であった。 まさに修行僧的でもあり、画家的でもある狂気、宇宙の全体性と自我との融合的一致の裡に自我を失おうとする美的狂気、あるいはヨーガ的な瞑想的狂気であった、と。

 では、この「永遠」あるいは「無限」の概念をキーワードとする彼の「修行僧」的側面、まさにそれは彼が己の「痛切なる生の経験」を究めようとするときのガイドの役割を果たすものなのだが、それはさらにいってどういう内容を持つのか?
 一言でいうならば、それは彼のイエス主義——キリスト教の核心を何よりもイエスの言動それ自体のなかに見る——と汎神論的救済主義との独創的結合が生む彼の独創的な救済思想なのだ。だから彼は「イエス主義者」たる自分自身を[5]、同時に「永遠の仏陀の素朴な崇拝者である或る坊主」とさえ呼ぶのである[6]

 次回、私は『ゴッホの手紙』を通して語るであろう。この問題の環について。(清眞人)
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[1]ゴッホの手紙』下、岩波文庫、157頁。
[2]ゴッホの手紙』上、94頁。
[3]ゴッホの手紙』中、251~252頁。
[4]  『ゴッホの手紙』下、50頁。
[5]ゴッホの手紙』上、118頁。
[6]ゴッホの手紙』中、295~296頁。