mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

小牛田農林T先生からの手紙に応えて ~小森さんの愛について想う~

 今、手元に小牛田農林のT先生から送られてきた封書がある。封筒の表には12月26日と日付が記されているから、受け取ったのは年の瀬も年の瀬。封を開けると、なかには昨年11月、東大の小森陽一さんが小牛田農林で行った授業・宮澤賢治「永訣の朝」の生徒たちの感想が入っていた。それではっと思い出した。

 昨年11月9日のDiary「東大教授の小森さん、小牛田農林に突然あらわる」に、生徒たちへの小森さんの愛が「ちょっと届かなかったようです」と書いたこと。そして後日のT先生との電話で「生徒たちの感想を見ると、小森さんの愛はちゃんと届いていたと思うわ」と言われたことを。
 そんなことを思い出しながら生徒たちの感想を読んだ。以下、そのなかで見えてきたことなどを思いつくままに・・・

◆黙っていても
 黙っていても/考えているのだ/俺が物言わぬからといって/壁と間違えるな

 授業中、生徒たちは静かだった。東大の先生だし、緊張しただろう。それに教室の後ろには、参観に来た他校の先生たちが大勢いる。小学生のようにハイハイとはなかなかいかない。そういう年頃だ。
 冒頭の詩は、壺井繁治の詩「黙っていても」。ちなみに繁治の妻は、『二十四の瞳』の作者の壺井栄だ。高校生たちの感想を読むと授業中は黙っていた、物言わなかったが、そうではないことが見えてくる。

今日の授業では途中までしかできなかったので、家に帰ってからもう一度読みたいなと思いました。
 授業では、まず初めに本文を読んでから、自分の『共感できること』『異和感を感じたところ』を印をつけて探しました。私は真っ先に『あめゆじゅとてちてけんじゃ』という言葉に目が行き、とてもどういった意味なのか気になってしまいました。また『Ora Orade Shitori egumo』となぜここだけがローマ字なのかも気になりました。そして、『共感』『異和感』を見つけた後にクラスの人たちで『共感したこと』『異和感を感じたところ』を発表しました。自分と同じ所に異和感を感じている人がたくさんいました。授業が進むにつれて自分が意味が分からなかったところがだんだんと分かってきておもしろかったです。」

 宮澤賢治の詩「永訣の朝」を読んで感じた自分の共感と異和感にこだわりながら、また小森さんや友だちの発言を聞きながら、それぞれに作品を理解し、自分の考えを深めようとしている感想がいくつも書かれている。はいはいと手が挙がって活発にやり取りされる授業が必ずしもよい授業とは限らない。小森さんの授業は、生徒たちの中で静かにじわじわぁ~と発光/発酵していったようだ。

◆受けとる愛の形はさまざま
 授業は、教育内容や教材に即してその内容を理解したり読解力や文章力、計算力に表現力などさまざまな能力を獲得したり身につけることが目的となるが、子どもたちが授業のなかで受け取るのはそれだけではない。
 例えば、感想には「最初は、グーグルで調べたら一発ででてくるような人だったから、とても緊張していた」とか、「想像ではすんごいガリ勉で20代くらいでおもしろくなさそうな人を想像していたけど全然ちがってびっくりした」とか、つまり生徒たちは東大から来る先生はどんな人なんだろうということを、授業前から調べ、思い巡らし、授業の始まりとともに全身全霊で、その一挙手一投足に目を光らせているのだ。その視線は、教材である「永訣の朝」に目を走らせるよりも、もっと鋭いものなのかもしれない。感想には「小森先生が近くを通ったときにとてもよい香りがした」と、臭覚さえも動員して目の前の小森さんを感知しようとする生徒も・・・まさに生徒、恐るべしである。

 だからだろうか生徒たちの感想は、作品の内容に関わってのものだけでなく、それ以上に目を惹くのは小森さんの授業の進め方についての感想、そして評価とも言えるような記述だ。
 生徒たちは、小森さんの「共感」と「異和感」にもとづき進める授業スタイルについて「普段の授業スタイルとは、まったく異なった授業スタイルですごく新鮮だった」「変わった教え方」「新しい授業のやり方」「独特な授業」などと口々に述べ、「どんどん引き込まれていく感じ」がしたとも言う。と同時に、そういう授業のあり方を普段の授業と比較しながら、
「いつもの授業は、先生が大事な言葉などの説明をするけど、小森先生は、みんなの意見の中に含まれている言葉の中で大事なところを抜き出していた。」
「私達が意見を言ったら、先生達は、黒板にまとめて、短く書いたりするのに小森先生は、その意見の深いところまで私たちに、説明させようとしていたので、あてられた人がいつもより長く話すようになっていたから、みんなの意見について、考える時間がいつもより長かったので、いつもより深く理解できた。」
と、その違いを述べている。

 また「どうしてそう思った?」「それはなぜ?」「その心は?」と生徒に次から次へと問いを向けることについても、
「一つの答えに対してズバズバと質問を投げかけてくる感じで、その授業にお話にどんどん引き込まれていく感じがして、すごく頭を使って考えた授業だったなと思った。たくさんたくさん『永訣の朝』、宮沢賢治、トシのことを考えたなと思った。」
「ただ淡々と授業をこなしていくのではなく生徒の意見や考えをよく聞いていて、その考えも質問を重ねることによって、その生徒自身も、周りの人にも考えを深めさせていて、1つの題からとても広く深いところまで学べてとてもよい体験をさせて頂いてとても勉強になりました。」
「生徒が意見を言うと、先生は『その心は?』と問いかけ、答えるとさらに『それはなぜ?』と問いかけて。私たちをより考えさえようとしてると思いました。」
と言う。小森さんの生徒への問いかけが、作品や友だちの意見について多くのことを考えさせ、自分の考えを問いなおし深める契機になっている。同様なことは他の多くの生徒の感想でも見られる。さらに、ある生徒は感想の最後にこのようなことも書く。
「今回、小森先生のお話を聞くことができて、自分の考え方が大きく変わりました。なぜなら、今まで自分が感じたことはなぜそう思ったのか深く考えずに、これが答えだと断定してしまっていたけど、小森先生のお話を聞いて、なぜそう思ったのかを考えていくことで答えは見えてくるのだと感じました。」

 生徒は何を言おうとしているのだろう。たぶん次のようなことだ。これまでの授業では自分が作品から何を感じたか、感じるかは大切なことではなかった。授業で求められること大切なこと(答え)は、常に自分が感じたこととは別に(客観的に)存在する何か。だから「今まで自分が感じたことはなぜそう思ったのか深く考え」なくてよかったし、そうしてこなかった。自分が感じたこととは関係ない別の何か、それこそを見つけ出さなくてはならない。そしてその答えは、大抵先生の手中にあるのだ。そうずっと思ってきた。しかし小森さんはそうじゃないという。自分の感じたことを手放すなという。そして「なぜそう思ったのかを考えていくことで答えは見えてくる」と。

 小森さんは、生徒を励ます。お前たちが感じたことは決してくだらないものではないと訴えてくる。だからこそ小森さんは生徒に「どうしてそう思った?」「それはなぜ?」「その心は?」と迫っていくのだ・・・きっと。そのことを生徒も感じたのだ。

 生徒たちは、宮澤賢治の詩「永訣の朝」についてだけでなく、この1時間の授業のなかで多くのことを学び、発見したのではないだろうか。そしてそれは、確かに小森さんから生徒への愛であり、生徒たちはその愛をそれぞれに受け止めていたといえないだろうか。T先生から送られた感想を読みながら、そう思った。

 思い起こせば、明日に迫った高校生公開授業の第1回(2006年)を快く引き受けてくれたのは小森さんだった。その時の授業は、宮澤賢治の『烏の北斗七星』。それからもう13年が経つ。その間に小牛田農林の先生たちから小森さんへラブコールがあり、それに応えての小森さんの特別授業や授業づくりがなされてきた。そして、そのような取り組みが、さらに県内で広がろうともしていると聞く。点として始まった取り組みが、線になりつながっていこうとしている。
 高校生たちに魅力的な学びの世界を経験してほしいと思って取り組んできた。その取り組みがこうして人と人を結び、新たな出会いと学びの場がつくられることがうれしい。(キヨ)