私が黒川から仙台に転勤したのは1969年4月だった。
その前年から、門真さんに誘われて、教育会館(木造2階建て)でおこなわれるようになった月例の「文法学習会」に参加していた。研究者と現場教師たちの集まりである教育科学研究会(教科研)国語部会による「にっぽんごシリーズ」の研究作業が進み、全国数か所で現場教師を対象にその学習会が始まり、仙台会場もその一つだった。場所によって学習内容は違い、仙台会場は「文法」がその内容だった。それへの参加の声がけをしてくれたのが、黒川の実践検討会で初めて出会った門真さんだった。
講師は当時中学教師で、まもなく大東文化大学に移った高木一彦さん。使用テキストは、「にっぽんごシリーズ」の通称「4の上」。月例会で5年間つづいた。2年目からは住まいが仙台に移った私の参加は楽になったが、その学習は、学校文法をただ鵜呑みにしていただけの私には、頭の中にあるものを壊して新しく作り変えなければならないたいへんきつい会だった。
受講者は10人に満たなかったように記憶するが、参加者は大いに真面目だった。いま思うときわめてあたりまえのことだが、その時の私にとっては、ことばのきまりをベースに読み解いていく、そのために一つひとつの言葉があることを考えるなどは初めてといっていい。初めてということでは、門真さんも宮崎典男先生も、そして、英語サークルから参加した菅野富士雄さんもみな同じだったはずだが、この3人の理解度は、どうしたわけか、今思い出しても私とは段違いで、私はいつまでもヨロヨロしながら参加しつづけていた。
教科研国語部会としての全国学習会は、そのほかにもいくつかあった。
その一つは茨城県大子温泉を会場にした「言語学研究会」。これも数年つづいたろうか。4日目の午後に半日自由時間があったが、それ以外は缶詰の会だった。テーマごとに講師が変わり、前記「文法学習会」同様、不勉強な私にはいつまでも我慢会であった。門真さんたちがいたので毎回なんとか乗り切って帰仙していたと言っていい。
また、年の暮れ、新潟の瀬波温泉を会場に2泊3日の集まりがしばらくつづいた。参加し始めの頃の夜の交流会は、常任(?)司会が無着成恭さんでいつも盛り上がり、国分一太郎さんのおもしろい話が加わったりで、参加するたびに世界が広がる感じがした。今も、その行き帰りに乗った米坂線が懐かしい。この会は現場の実践報告が中心になったので、他の学習会よりも気が楽だった。
ある年の会が終わり、ホテルで電車の時間待ちをしているとき、1度もミヤヅカエをしたことがなかった奥田靖雄先生が、「来年度の4月から宮教大に行くことになりそうだ。でも、ぼくのような人間は3年ももたないだろうなあ」と言った。翌年からその通り奥田先生は宮教大教授として来仙、数年どころか定年までいることになる。
奥田先生が仙台に来たことで、私たちが奥田先生に直接教わる機会が一気に増えることになり、同時に、瀬波温泉の改装もあり、年末の学習会場は白石の小原温泉に変わった。
全国の国語部会の実践交流会もあった。宮城会場としては、門真さんの東仙台小時代の1971年、「あか」(幸田文さく)の1次読みを門真さんが、2次読みを船岡小にいた宮崎先生が授業者となり、貸し切りバスで移動して見学、小原温泉を会場に全国からの参加者が泊まり込みで検討会をもったこともあった。バスは大型2台全席を使ったと記憶している。
その後、岡山の授業検討会に行ったことも記憶にある。
肝心の仙台国語サークルだが、毎週火曜が定例日だった。会場は古い教育会館から、門真さんの学校木町通小がしばらくつづいた。その間、一時、槻木駅前の宮崎先生宅に通わせていただくことがあった。この時の例会日は金曜日になった。私は、長町駅から電車で通った。槻木サークルと呼び、新しいメンバーも加わり賑やかな会になった。
塾長(?)である宮崎先生みずから機関誌をつくった。そのつづりが今も私の書棚に残る。第1号のアタマには、
№1 1977・10・21 編集・宮崎典男 つきの木通信 教育科学研究会
宮城国語部会・代表・門真隆
とあり、その次に、門真さんの「単語指導ノート(1)“ 健康がすぐれず ”(光村4ノ上)」のレポートが冒頭におかれている。この第1号はB5版8ページで、次のような、編集者宮崎先生の「あとがき」がある。
*つきの木での例会は百回になるのか、二百回になるのかわからないほどになっ
たのに、その歴史をかたるものは、いたってとぼしい。何かを残さなくては、
こんなことを考えるのはとしのせいかな。
*この創刊号は朝からはじめたが、とにかく一日でできた。原稿だけが心配。こ
れからつづけていく意欲は十分ある。創刊をいわって1ぱいやってくれる人が
あるだろうかと、あてにならないことをたのしみにしている。(以下略)
私は、この「つきの木通信」の第1号が「つきの木サークル」の出発時と同時と思いこんでいたが、今度、この「あとがき」を読んで、私の記憶違いであったことに気づいた。第1号が発刊されるより前、既に「槻木サークル」は動いていたのだ。何回つづいたか記憶はないが、集まりがつづいても参加者のレポートが少なかったことを気にした宮崎先生は、「つきの木通信」をつくることで、参加者を刺激し、教室の報告をもちよることを参加者にうながすために通信を作ったことに気づいた。
その宮崎先生に私たち参加者は期待に応えるように反応したか。否であった。私のもっている「つきの木通信」は、78年9月4日発行の9号で終わっている。1号から1年経っている。先生のこの号の「あとがき」は、
「実践もやはり社会的なものではないか! 民教研蔵王集会で学んだもの。ことしの実践報告はそろってよかったな! 集団のなかできたえられる実践。集団に学び、集団をぬけだす実践、集団をひきあげる実践。たしかな実践であった。」とある。
これも、宮崎先生の私たちへのメッセージだったのだ。(それなのに、なんで、ここではできないのだ!)と。
この前後、門真さんから「宮崎先生に、槻木サークルはそろそろ終わりにしたらどうかと言われたが、どうしよう」と相談を受けたことがあった。私はこれ以上宮崎先生を悩ませることはできないので止めにすることに賛成ですと言ったように記憶しているが、宮崎先生の本意は知らずに言ったのだった。
後日、代表者の門真さんは、「槻木サークル」を終りにすることについての文書を参加者に配ることで「槻木サークル」は閉じることになった。私たちは、集まる意味を非常に安易に考えていたのだ。門真さんはたいへん無念だったろうと思う。宮崎先生もまた同様だったのではないか。
私たち仙台サークルは、また、木町小の門真さんの教室での、こじんまりとした火曜例会のもとのサークルに戻ったのである。ーつづくー( 春 )