mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

門真さんを追いかけつづけ(1)

 私が黒川から仙台に転勤したのは1969年4月だった。
 その前年から、門真さんに誘われて、教育会館(木造2階建て)でおこなわれるようになった月例の「文法学習会」に参加していた。研究者と現場教師たちの集まりである教育科学研究会(教科研)国語部会による「にっぽんごシリーズ」の研究作業が進み、全国数か所で現場教師を対象にその学習会が始まり、仙台会場もその一つだった。場所によって学習内容は違い、仙台会場は「文法」がその内容だった。それへの参加の声がけをしてくれたのが、黒川の実践検討会で初めて出会った門真さんだった。

 講師は当時中学教師で、まもなく大東文化大学に移った高木一彦さん。使用テキストは、「にっぽんごシリーズ」の通称「4の上」。月例会で5年間つづいた。2年目からは住まいが仙台に移った私の参加は楽になったが、その学習は、学校文法をただ鵜呑みにしていただけの私には、頭の中にあるものを壊して新しく作り変えなければならないたいへんきつい会だった。
 受講者は10人に満たなかったように記憶するが、参加者は大いに真面目だった。いま思うときわめてあたりまえのことだが、その時の私にとっては、ことばのきまりをベースに読み解いていく、そのために一つひとつの言葉があることを考えるなどは初めてといっていい。初めてということでは、門真さんも宮崎典男先生も、そして、英語サークルから参加した菅野富士雄さんもみな同じだったはずだが、この3人の理解度は、どうしたわけか、今思い出しても私とは段違いで、私はいつまでもヨロヨロしながら参加しつづけていた。

 教科研国語部会としての全国学習会は、そのほかにもいくつかあった。
 その一つは茨城県大子温泉を会場にした「言語学研究会」。これも数年つづいたろうか。4日目の午後に半日自由時間があったが、それ以外は缶詰の会だった。テーマごとに講師が変わり、前記「文法学習会」同様、不勉強な私にはいつまでも我慢会であった。門真さんたちがいたので毎回なんとか乗り切って帰仙していたと言っていい。
 また、年の暮れ、新潟の瀬波温泉を会場に2泊3日の集まりがしばらくつづいた。参加し始めの頃の夜の交流会は、常任(?)司会が無着成恭さんでいつも盛り上がり、国分一太郎さんのおもしろい話が加わったりで、参加するたびに世界が広がる感じがした。今も、その行き帰りに乗った米坂線が懐かしい。この会は現場の実践報告が中心になったので、他の学習会よりも気が楽だった。

 ある年の会が終わり、ホテルで電車の時間待ちをしているとき、1度もミヤヅカエをしたことがなかった奥田靖雄先生が、「来年度の4月から宮教大に行くことになりそうだ。でも、ぼくのような人間は3年ももたないだろうなあ」と言った。翌年からその通り奥田先生は宮教大教授として来仙、数年どころか定年までいることになる。
 奥田先生が仙台に来たことで、私たちが奥田先生に直接教わる機会が一気に増えることになり、同時に、瀬波温泉の改装もあり、年末の学習会場は白石の小原温泉に変わった。
 全国の国語部会の実践交流会もあった。宮城会場としては、門真さんの東仙台小時代の1971年、「あか」(幸田文さく)の1次読みを門真さんが、2次読みを船岡小にいた宮崎先生が授業者となり、貸し切りバスで移動して見学、小原温泉を会場に全国からの参加者が泊まり込みで検討会をもったこともあった。バスは大型2台全席を使ったと記憶している。
 その後、岡山の授業検討会に行ったことも記憶にある。

 肝心の仙台国語サークルだが、毎週火曜が定例日だった。会場は古い教育会館から、門真さんの学校木町通小がしばらくつづいた。その間、一時、槻木駅前の宮崎先生宅に通わせていただくことがあった。この時の例会日は金曜日になった。私は、長町駅から電車で通った。槻木サークルと呼び、新しいメンバーも加わり賑やかな会になった。
 塾長(?)である宮崎先生みずから機関誌をつくった。そのつづりが今も私の書棚に残る。第1号のアタマには、

 №1 1977・10・21 編集・宮崎典男 つきの木通信 教育科学研究会
 宮城国語部会・代表・門真隆

とあり、その次に、門真さんの「単語指導ノート(1)“ 健康がすぐれず ”(光村4ノ上)」のレポートが冒頭におかれている。この第1号はB5版8ページで、次のような、編集者宮崎先生の「あとがき」がある。

 *つきの木での例会は百回になるのか、二百回になるのかわからないほどになっ
  たのに、その歴史をかたるものは、いたってとぼしい。何かを残さなくては、
  こんなことを考えるのはとしのせいかな。 
 *この創刊号は朝からはじめたが、とにかく一日でできた。原稿だけが心配。こ
  れからつづけていく意欲は十分ある。創刊をいわって1ぱいやってくれる人が
  あるだろうかと、あてにならないことをたのしみにしている。(以下略)

 私は、この「つきの木通信」の第1号が「つきの木サークル」の出発時と同時と思いこんでいたが、今度、この「あとがき」を読んで、私の記憶違いであったことに気づいた。第1号が発刊されるより前、既に「槻木サークル」は動いていたのだ。何回つづいたか記憶はないが、集まりがつづいても参加者のレポートが少なかったことを気にした宮崎先生は、「つきの木通信」をつくることで、参加者を刺激し、教室の報告をもちよることを参加者にうながすために通信を作ったことに気づいた。
 その宮崎先生に私たち参加者は期待に応えるように反応したか。否であった。私のもっている「つきの木通信」は、78年9月4日発行の9号で終わっている。1号から1年経っている。先生のこの号の「あとがき」は、

「実践もやはり社会的なものではないか! 民教研蔵王集会で学んだもの。ことしの実践報告はそろってよかったな! 集団のなかできたえられる実践。集団に学び、集団をぬけだす実践、集団をひきあげる実践。たしかな実践であった。」とある。
 これも、宮崎先生の私たちへのメッセージだったのだ。(それなのに、なんで、ここではできないのだ!)と。

 この前後、門真さんから「宮崎先生に、槻木サークルはそろそろ終わりにしたらどうかと言われたが、どうしよう」と相談を受けたことがあった。私はこれ以上宮崎先生を悩ませることはできないので止めにすることに賛成ですと言ったように記憶しているが、宮崎先生の本意は知らずに言ったのだった。
 後日、代表者の門真さんは、「槻木サークル」を終りにすることについての文書を参加者に配ることで「槻木サークル」は閉じることになった。私たちは、集まる意味を非常に安易に考えていたのだ。門真さんはたいへん無念だったろうと思う。宮崎先生もまた同様だったのではないか。
 私たち仙台サークルは、また、木町小の門真さんの教室での、こじんまりとした火曜例会のもとのサークルに戻ったのである。ーつづくー( 春 )

子どもを知りたい!

 先輩に誘ってもらったことをきっかけに、初任時代から今までたくさんの学習会やサークルに参加してきた。講師の方から直接話が聞けるし、参加した人たちと繋がることもできる。一人で本を読んで学ぶこともあるが、それよりも学習会やサークルに参加することで得られるものは大きい。なにより元気になる。コロナ禍で学ぶ場は減ってしまったが、先日久しぶりに対面での学習会に参加することができた。

 「何を書いてもいいんだよ」と題された作文の学習会。初任時代、一番最初に参加した学習会も作文の学習会だった。近年ますます学校が忙しくなり、果たして自分は子どもたちの一人ひとりにちゃんと目を向けることができているのか自問自答する日々が続いていた。だからこそ、初心に戻って学ぼうと思い、参加することにした。
 千葉早苗先生と堀籠智加枝先生の実践と子どもたちの作品を中心に進められたのだが、二人の実践の子どもたちへのまなざしがとてもあたたかく、話を聞いていた私も気持ちがあたたかくなった学習会だった。子どもたちが書いた日記や作文に赤ペンを入れ、学級文集を発行し、子どもたちと読み合う。この日々の営みを丁寧に行うことの大切さを改めて教えていただいた。

 日記や作文、詩の中には、その子の人間らしさが見える。教師は、それが何によって生まれているかを知りたいと思って読むこと。そして、なぜそれを伝えたいと思っているか、わかってほしいと思っているかを考えながら読むことが大切だと教わった。子どもたちは、担任が自分をどう受けとめて、どう返してくれるかを期待している。いつも集団づくりをする中で、人の気持ちを理解しようとし、受けとめられるようになってほしいと思っているが、その前に私が子どもたちを丸ごと受けとめて、理解したいと思った。

 「私たちの一日と子どもたちの一日は全く違う。だからこそ、小学校時代の一日一日の生活に目を向けさせ、生活そのものを書かせることに価値がある。」という言葉が心に響いた。と同時にその言葉にはっとさせられた。とにかく毎日が忙しい。定員いっぱいの児童数。そんな状況の中で、子どもたち全員の話を全員が満足できるまで聞き取ることは非常に難しい。担任として丁寧に子どもたちと関わっているのだろうか。・・・。あのときもっと共感してあげられたらよかったな・・・。過去のいろいろなことが頭の中でぐるぐる巡った。
 子どもたちにとって貴重な小学校時代の一日一日を私も大切にしてあげたい。子どもたちと話すだけでなく、書くことでも自分の思いを表現させてあげられたら、もっと子どもたちを知れるのではないだろうか。これからじっせんしてみようかな。学習会が進むにつれて、少しずつわくわくしてきた。

 子どもと教師、子どもと子どもがつながる学級にしていくためにも、作文を書かせ、それを子どもたちと読み合い、意見や感想を交流する場を作ろうと思う。学級の子どもたちは、どんなことを書いてくれるのか今からとても楽しみだ。
 子ども一人ひとりに目を向け、深く理解し、温かく寄り添うことのできる教師になりたい。そのために先輩や仲間たちとこれからも学び続けていきたいと思う。
                                                                                                         (村元 鈴)
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 子どものことを知りたい、その思いは教師ならだれもが思う気持ちではないでしょうか。そして、この子にこんな力をつけてあげたい、こんなふうに育ってほしいとも。ところが、なかなかうまくは行かないのも現実。どうしてわかってくれないのだろう、なんで反抗するのだろう。私の何が悪いのだろう。だからもっと子どもを知りたい、分かりたい、子どもの思いに応えられる教師になりたいと。そして、だから学び続けるのでしょう。

 すでに作文教育の学習会の様子は感想を中心にDiaryで報告していますが、先日、所長の達郎さんが「この感想、とてもいいよね」と、生活指導サークルの会報に掲載された村元先生の感想を見せてくれました。教師として子どもたちの前に立つ今の自分を問いながら、学習会を通じて湧いてきたさまざまな思いをまっすぐ書いてくれています。とてもすてきな感想なので、Diaryでも紹介させていただくことにしました。
 読みながら、コロナ禍での不自由さは続きますが、先生たちの力になる学習会や企画をこれからもつくっていきたいと思いました。(キヨ)

『国語なやんでるた~る』も始動です!

6年生教材『ヒロシマのうた』の授業報告と交流

 ええ~、この時期になんで『ヒロシマのうた』の学習会? そんなふうに感じている方も多いのではないでしょうか。確かに『ヒロシマのうた』は、6年生後半の教材ですからね。

 実は、昨年の「こくご講座」や、年末の「国語なやんでるた~る」を通して『ヒロシマのうた』の授業づくりをずっとしてきました。そして、その話し合いをもとに、学習会に参加していた6年生の先生たちが、それぞれのクラスの状況に応じて、それぞれの授業スタイルで授業に取り組みました。

 新年度を迎えれば、今の学年や子どもたちとのことで、苦労しながら取り組んだ『ヒロシマのうた』のことも忘れてしまいがち。やりっぱなしにしないで、授業の記憶が鮮明なうちに振りかえり、これからの取り組みにつなげよう。そんな思いで、この時期にあえて行うことにしました。

 学習会での学びを通して取り組んだ、それぞれの授業。授業したからこそわかった、みえてきた教材の魅力や難しさ、子どもたちからの期待していた反応や思ってもみなかった発言など、それらを持ち寄りながら『ヒロシマのうた』の授業について改めて交流し、考え合いたいと思います。これからの授業づくりの取り組みにも生かしていけたらと思っています。

 今年6年生担任の先生はもちろん、「国語の授業がなんかうまく行かない、どうしたらいいのだろう」「子どもたちと楽しい授業をつくりたい」、そんな思いや悩みを持っているみなさんも、ぜひご参加ください。

  ◆日 時:2021年6月19日(土)13:30~16:30
  ◆場 所:フォレスト仙台2F  第1会議室
   (仙台市青葉区柏木1-2-45 地下鉄北四番丁下車、徒歩7分) 
   
                  ※ 参加費は、無料
   【話題提供・報告】
   ・太田陽子さん(秋保小)
   ・小野寺博之さん(長町南小)
   ・渡邉浩一さん(七ヶ宿小) 

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盛会でした、作文教育の学習会!

 今年度、最初の学習会。コロナ禍だしなあ、運動会が終わって先生たち疲れているかなあなど、参加人数を心配しましたが、あけてビックリ! 若い先生から中堅・ベテランまで、たくさんの先生たちが学習会に来てくれました。
 コロナ禍だとオンラインでの学習会や集まりが多くなっていますが、やはり先生たちも、できればお互いに対面での学習会を望んでいるのだなあと感じました。学習会終了後も、会場のあちこちで先生方が久しぶりに会って、話に花を咲かせている光景がとても印象的でした。

 以下は、当日書いていただいた感想です。その一部を紹介します。これからも様々な学習会に取り組んでいきたいと思っています。ぜひ、参加ください。

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若い人たちがたくさんいてびっくりしました。「学びたい」「子どもの気持ちがわかりたい」という教師としての意欲は健在なのだと思いました。
 二人の先生の話は、子どもに寄り添ったすばらしい実践でした。忙しい中でも作文を通して子どもを知ろう、子どもと子どもを結びつけるその営みを続けている姿に私も力をいただきました。教師は、技術だけではだめで、まずは本気で子どもと向き合う気持ちがあるのか、そこが肝心なのですね。
 いつも学習をすると教育の原点に立ち返るような気がします。また、お話を聞きたいです。そして自分も実践してみたいです。

★2年生を担任しています。いい作文を書いてくる児童がいて、その子の力を伸ばしていきたい、作文の授業を充実させたいと思い参加しました。「小学校の一日一日の生活に目を向けさせ、生活そのものを書かせることに価値がある」という言葉が心に残りました。忙しい中ですが、子どもの作文を読む時間が好きです。早く実践したいと思いました。

★今回初めて参加しました。教員生活2年目で、わからないことだらけの中、作文について勉強したいと思い、参加しました。作文はとても奥が深いと思いました。子どもと向き合い、作文教育を通して人間らしさについても教えることができるよう、取り組んでいきたいと思いました。

★ハンディキャップのある子を持っています。5年生まで文章を書くことは困難でした。話すのも大変なのですが、話をして聞き取りながら文章にしています。出来上がったものを見て、お母さんはとても喜び、その子もほめられてとても嬉しそうでした。こうした積み重ねのなかで、この子は書き言葉という文化を獲得しようとしています。作文の会の実践は貴重だと思いました。

★今までの自分の作文指導をはずかしく感じました。❝ 生活そのものを書かせることに価値がある ❞ という言葉が心に響きました。表面上だけではなく、本当の心のやりとり、それは教師対子どもだったり、子ども対子どもだったり、大切なことを学ぶ、知るきっかけとなるのだなと思いました。教師が教えるのは簡単ですが、子どもたち同士で気づき知っていく方が価値は大きく、本当の意味で子どもの成長を助けるのではないかと思いました。人間らしさを人間(同世代同士の)と育んでいくことっていいなと感じました。

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季節のたより77 ニッコウキスゲ(ゼンテイカ)

  初夏を知らせる橙黄色の花  山野の湿原に群生

 「星の並び方を音符に見立てて、星座のメロディーを作った人がいるそうである。」そんな図鑑らしくない書き出しで「ニッコウキスゲ」を紹介している植物図鑑がありました。
「・・・ラッパのような花をのぞくと、6個のおしべの先の黒い葯がメロディーを奏でているように見える。夕方になると葯の色や形もぼやけて、花はやがてしぼんでしまうが、翌日には新しい花がまた橙黄色の譜面にすっきりとした形の黒い音符を並べる。高原や湿原を飾る花として人気があるが、海岸や低地にも生え、意外に身近にある植物である。」(『宮城の高山植物』宮城植物の会編・河北新報社発行)

 季節が訪れニッコウキスゲの花が咲き出すと、ふとこの文章が浮かんできて、橙黄色の花びらの譜面に黒い音符を探してしまうのです。

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           初夏を知らせるニッコウキスゲの花

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    おしべは音符  橙黄色の譜面に並ぶ    メロディーを奏でるのは  虫の音

 現在、一般には「ニッコウキスゲ」という名前で知られていますが、標準和名は「ゼンテイカ」といいます。キスゲ亜科のワスレグサ属の多年草で、漢字で「禅庭花」と書きますが、その由来は不明のようです。
 ニッコウキスゲの名は、栃木県の日光に大きな群生地があって、橙黄色の花の葉がカサスゲ(笠萓)に似ているのでそう呼ばれるようになったものです。
 多くの図鑑では標準和名のゼンテイカの名で掲載され、ニッコウキスゲはその別名と記載されていますが、一般にはゼンテイカの名前を知る人は少なく、ニッコウキスゲの方が多くの人に親しまれています。別名が標準和名よりもこれほど知名度が高いという花も珍しく、最近では「ニッコウキスゲゼンテイカ)」の名で掲載する図鑑も出てきました。

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      花の季節、群生地は一面華やかな橙黄色の世界になります。

 ニッコウキスゲは、「日光」の地名がついているので、日光に行かなければ見られない日光地方固有の高山植物のように思っている人も多いようです。それほど特別の花ではなく、本州の高原に普通に見られる花です。東北地方や北海道では低地の湿原や海岸近くにも自生しています。
 県内でも高山にいかなくても身近なところで見られます。仙台市青葉山では散策路の所々に小さな群落をつくっています。気仙沼や唐桑半島の海岸沿いの遊歩道を歩くと、青い海を背景に美しく咲き誇る群落をながめることができます。もし、湿原に群れて咲くニッコウキスゲの花に出会いたいと思ったら、栗駒山の中腹に位置する「世界谷地」を訪れてみてはどうでしょう。

 私が世界谷地を訪れたのは6月末、梅雨のさなかで、湿原は霧に覆われていました。時々太陽が顔を出しては隠れ、湿原は幻想的な雰囲気を醸し出していました。
 世界谷地というのは、「広い湿地」ということから名づけられた地名です。栗駒山の南麓の標高669から707m地帯に広がる細長い湿原は、比較的花の多い第1湿原と樹木が茂る第2湿原に木道が整備されていて、誰もが気軽に散策できるようになっています。

 第1湿原に入ると霧の中にニッコウキスゲの群落が広がっていました。朝露にしっとりとぬれて、黄色や橙色の花が浮き立つようにして揺れています。咲き終えた花もまだ色鮮やかで、表面には小さな水玉が光っていました。

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      朝霧のなかに咲くニッコウキスゲの群れ(世界谷地湿原)     

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       開いた花              咲き終えた花

 湿原の地面をうめつくしているニッコウキスゲの葉は、細長く根元から2列に出ています。葉の間からは長い花茎が伸びて、その2つに分かれた枝の先には、今咲いたと思われる花が2,3個、どの株にも申し合わせたように一斉に咲いていました。

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         湿原をうめる細長い葉、花茎の長さが目立ちます。

 開いた花はやや横向きで、6枚の花びらが根元でつながり、先端がそり返っているので金管楽器のようです。おしべは6個で花筒の上端につき、花びらより短く、葯は紫黒色。めしべはおしべより長く突き出ています。おしべもめしべも上方に曲がって、やって来るチョウやハナバチたちを待ち構えているようです。
 開いた花の脇にはつぼみが2個から4個、花開く準備をしていました。ニッコウキスゲの1つの株には5個から7個ほど花を咲かせるようです。

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    つぼみ、開き始めた花        開いた花は金管楽器のよう

 ニッコウキスゲの花は、朝咲いて夕方にはしぼんでしまう「一日花」といわれています。学名のHemerocallis(ヘメロカリス)は、ギリシャ語のhemera(1日)とcallos(美しい)を語源とし、ニッコウキスゲが1日だけ美しい花を咲かせることに由来しています。英名でもday lily(1日ゆり)と呼ばれています。

 ところが、実際に観察した人によると、意外な事実が語られていました。
「さてニッコウキスゲはよく『朝咲いて夕方には閉じる1日花』といわれる。私もその話しを鵜呑みにして、過去に何度かそう書いたこともあるが、以前ある自生地でひとつの花を観察したところ、朝咲いて翌日の夕方閉じることが判明。調べてみると、確かにそのように書いてある本もある。ただすべての花がそうなのかはわからない。ひょっとすると1日花と2日花、両方あって何らかの条件で変わるとか、株によって変わるとか、そんな可能性もないとはいえない。一方で1日花説というのが、完全な間違いの可能性も否定できない。」(Nature Log植物記 日野東)
 さらに、「花おりおり」(湯浅浩史著・朝日新聞社刊)の「ニッコウキスゲ」では、「花は一日だけ開くといわれていたが、実際は二日花で、朝咲いてそのまま夜を越し、翌日の夕方しぼむ。」と解説しています。

 さて、どうなのでしょうか。多くの図鑑やブログの花の紹介では、「花は1日でしぼんでしまう」と解説しています。どうも一般に言われていることを鵜呑みにしてはいけないようです。もしニッコウキスゲを身近で観察できる環境がありましたら確かめてみませんか。もしかすると、日本だけでなく世界での「一日花」という思い込みを覆す結果が出てくるかもしれません。

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   「一日花」といわれていますが・・・      咲いている花  咲き終えた花

 はるか遠くまで広がるニッコウキスゲのお花畑は、静かでした。花の群れは、湿原を渡る風にかすかに揺れ、時折カッコウの鳴く声が聞こえてきます。せわしい人の日常とは異なる自然の生きものたちの時間がゆっくりと流れていきます。
 人も自然の生きもの。自然のなかに身をおくことで、それぞれが何か忘れていた大切なものに気づかせてもらうことができるようです。
 ふと足元を見たらふだん見ることのない湿原に咲く花たちが顔を見せていました。

   咲き終えたもの、これから咲き出すもの 湿原を彩る高山植物たち

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  ワタスゲ       サワラン      トキソウ     キンコウカ

 植物はふつう枯れると腐って土に帰ります。枯れた植物が腐るのは、土の中にいる微生物によって分解されるからです。寒くて水浸しで酸素の少ない場所では、微生物は働けず、枯れた植物は分解されないまま残ります。これが「泥炭」で、その泥炭が積み重なって凝縮してできたものが湿原です。
 湿原の表面が地下水位より低く、おもにヨシやスゲの泥炭でできている湿原は「低層湿原」といい、泥炭がさらに多量に蓄積されて地下水位より高く盛り上がって、ミズゴケを主とした泥炭でできた湿原は「高層湿原」と呼ばれています。
 世界谷地は深さ1.3メートルの泥炭層の上をミズゴケ類の厚い層が覆っていて、一部は高層湿原化している、低層湿原から高層湿原への中間湿原の状態にあるということです。湿原は今も遷移し続けています。

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     静かな静寂の時間、ときおり  カッコウの鳴き声が聞こえました。

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     ニッコウキスゲは太古からの湿原に花を咲かせて湿原に還ります。    

 観光スポットや公園などで見られるポピーやネモフィラのようなお花畑は、人手によって作られた土地に栽培された1年限りのもの。高山や平原に咲くお花畑は、自然の草花たちが季節のめぐりを待ちかねて毎年花を咲かせ続けているものです。
 人工的に作られた「自然」はいっときの満足を与えてくれますが、本物の自然が織りなす多様ないのちの輝きを感じさせてはくれないでしょう。
 お花畑の舞台となる湿原の泥炭の形成は、1年にわずか1〜3mmほどといわれています。太古からの湿原に花を咲かせているニッコウキスゲの花たちは、やがて枯れて湿原に還っていきます。気が遠くなるような長い自然の営みの、今という一瞬に立ち会っている思いがするのでした。(千)

◇昨年6月の「季節のたより」紹介の草花

バトンゾーン ~ ❝できない❞ 子どもの辛さに思いを寄せる ~

 2月の地震で私の部屋の本棚等が倒れ、先日片づけをしました。古いビデオなどを処分しようとしたとき、カセットテープが出てきました。私が担任した博紀君のために録音したものです。

 5年生を担任したとき、博紀くんという子が家庭の事情で母親の実家に転校してきました。
 家庭訪問でおばあちゃんが言いました。「おらいの博紀、勉強、全く駄目だから、先生頼むない。」
 博紀くんは、「掛け算九九」をまだ覚えていません。3年4年生のとき、どんな思いで算数の時間を過ごしてきたのでしょうか。5年生の少数の掛け算・割り算には、全くついていけないでしょう。私は2年生の先生から九九のカードと表をもらい、「お助け九九」と呼んでそれを渡しました。本人と相談し、給食の準備の時間に九九を一緒に練習。グループ会議で事情を話し、それぞれの段の担当者を募りました。そして掃除後の時間に練習時間をとりました。帰りの会で担当者と共に覚えた九九を発表。みんな拍手! 笑顔の博紀くん。

 博紀くんは、笛も全くできませんでした。当時、その学校では運動会で鼓笛隊パレードがありました。親や地域の人が見ているとき、適当に指を動かし吹いているふりをして地域の人たちの前を歩く。こんな辛いことはないでしょう。私は時間を見つけて一緒に一音一音練習しました。笛の練習は一人ではできません。班の子どもに呼び掛けて教えてくれる子どもを募りました。家での練習は期待できません。それで私は、家でも練習できるように学校で練習するときと同じように「いいかい、博紀君、始めるよ、・・・」私の声をテープに吹き込みました。小型のテープレコーダーも貸しました。そして、とうとう一曲吹けるようになり、運動会でもにこにこ顔でパレードしました。運動会後、おばあちゃんは「先生、ありがとうない」と涙を見せました。

 「できない」子どものつらい気持ちにどれだけ思いが及ぶか、それが教師にとって最も大切なことだと私は思います。そこから、教師としての学びが始まり、教師としての専門性が育っていくのだと思います。そうした教師の姿・思いが他の子どもに伝わり、教え合い学び合うクラスを創っていくのだと思うのです。

《「できない子」に関わる5つのポイント》
① まず、教師が関わる。子どもの話に耳を傾け相談し、本人との合意とやる気を
 引き出す。
② 次に「できない子」への援助・関わり方をグループの子どもたちと相談し、子
 ども同士の援助を引き出していく。
③ 教え合うグループはいいことだ、みんなで伸びていこう!というトーンをつく
 りだしていく。
④ 学習の伸びは、他人や他のグループと比べるのではなく、「昨日の自分」「昨
 日のグループ」と比べ、評価する。
⑤ 「できた!」「のびた!」という事実を創り出し、やればできるという自信を
 もたせていく。(高橋達郎)

観たあとに語り合いたい、映画「あこがれの空の下」

 上映期間は1週間あるので大丈夫と思っていたら、急な用事が入ったり仕事が伸びたりで、あれよあれよという間に日が過ぎて、結局最終日の上映に滑り込むことになってしまいました。

 映画をみての感想を言うと、和光小学校の日々の取り組みが淡々と、しかも、これまで観てきた教育や学校をテーマにした作品とは、どれとも似ているようでどこか似ていない、ある種の不思議さを感じました。ここでは他の作品と比べてこの映画のどこに、その不思議さを感じたのか。少しばかり話してみたいと思います。

 私がこれまで見てきた教育や学校をテーマにした作品の多くは、例えるなら、強力なリーダーシップを発揮する名物校長や個性的で力ある教師を中心に描かれていたり、あるいは豚を飼ったり牛を飼ったりというような、ユニークであったり独創的な教育内容を追っかけたりというものです。でも、この映画は、ちょっと違うのです。

 この作品も、「教科書のない小学校の一年」とサブタイトルにあるように和光の独自性や、代表的な取り組みである総合学習「沖縄」や民舞などを取り上げています。でも、それらが中心的な主題として特別に描かれてはいません(そもそも総合学習も民舞は、それなりに公立学校でも行われています)。映画は、そのような和光の特色ある取り組みも取り上げつつ、国語や算数などの教科の授業場面を取り上げ、授業のなかでの先生と子どもたちの生き生きとした楽しそうなやり取りや、先生たちの授業への思いや考えなどが映し出され、語られます。

 印象的に感じた場面の一つに、物語作品「ちいちゃんのかげおくり」を授業でどう取り組むか、学年の先生たちが集まって話し合っている場面がありました。ベテランの先生も若い先生も一緒になって考え合っています。なんとも言えない懐かしさを感じました。しばらく前には、どこの学校でも見られた光景だったように思いますが、今ではなかなか見られなくなっているように思います。けっして特別なことを描いているわけではありません。

 そう言えば、この映画をDiaryで紹介した中で、和光小を退職した藤田先生は、「和光小学校は今では『変わった学校』と珍しがられることもあります。しかし、私たちが続けてきた学校づくりは何も変わったことをしているつもりはなく、当たり前のことをしてきたまでです。むしろ変わってしまったのはその他の学校の方ではないかと感じています。」と言っていました。その通りだなと、映画を観て感じます。

 それから学校でのリーダーと言えば、一般的には校長先生ということになるでしょうか。この映画では、その校長先生がほとんど顔を出しません。その代わりと言っては何ですが、1年生担任の山下先生、3年生担任の藤田先生、6年生担任の増田先生を中心にしながらも、多くの先生たちが登場します。和光の教育が教職員みんなの力でつくられていることを表わしているように思いました。

 和光の教育は、良くも悪くも ❝ 私立だからできること、和光だからやれること ❞ と言われたりすることがあります。しかし映画は、和光の独自性を描きつつ、同時にどこの学校でもありえた、あり得る学校の日常を描いています。見終わったあとに改めて「教育って何だろう? 学校って何だろう?」、そして「私たちにできること、学校でできることって何だろう?」という問いを私たちに投げかけているように思いました。

 上映期間は1週間と短く残念でしたが、多くの方に映画を見ていただき子どものこと、学校のこと、そして教育について交流できたらいいなあと思いました。
(キヨ)